【ゼカリヤ書解説】勝利の幻#8 〜真の断食〜

目次

真の宗教と断食

真の宗教は儀式や外見を超えたものです。愛の神は私たちに対して、みことばに耳を傾け、みこころに従い、新しい生き方をするように求めておられます。

今回の課は、神と神の民との深い交わりとその結果生じる生き方について学びます。真の宗教は、形式、儀式、あるいは表面的な律法の順守以上のものです。それは神との心の関係であり、律法の精神を受け入れることです。それは真の動機を重要視します。真の宗教は自発的な服従をもたらします。神の愛に心から応答するとき、生活に変化が生じます。

断食は神の民の儀式的隠れみのになっていました。断食は心を神に向けさせるためのものでした。しかし、それは神と人との好意を得るための自己中心的な儀式となっていました。

ベテルの代表団の質問(ゼカリヤ書7章1節~3節)

質問1 ベテルの代表団がエルサレムに送られたのはなぜですか。ゼカリヤ書7:2、3

ゼカリヤ書7:2は、へブル語では、「そしてベテルはつかわした」となっています。これはベテルの人々のことを言っています。ベテルはエルサレムの北、約20キロのところにありました。ベテルからの代表団がエルサレムに来たのは、神殿の再建がかなり進んでからでした。彼らに対する神の応答を見れば、彼らの誠実さが疑われます。彼らは真の宗教をあまりよく理解していなかったようです。

質問2 ゼカリヤ書7:3の5月という言葉には、どんな深い意味がありますか。

悲劇的な事件を記念するために、捕囚期にいくつかの断食が4月、5月、7月、10月に定められました。それらをまとめると次のようになります。

断食月記念する出来事聖句
4月エルサレム城壁の陥落列王記下25:3、エレミヤ書39:2〜4
5月紀元前586年のエルサレム滅亡列王記下25:8、9、エレミヤ書52:12、13、ゼカリヤ書8:19
7月ゲダリヤの殺害列王記下25:25、エレミヤ書41:1、2
10月包囲攻撃の開始列王記下25:1、エレミヤ書39:1

神の応答—利己的動機を指摘する三つの質問(ゼカリヤ書7章4節~7節)

神は自ら三つの質問をすることによって、ベテルの代表団の質問に答えられました。これらの質問は、真理に焦点をあてることによって問題点を明らかにし、人間の虚飾をばくろするためのものでした。真の問題点は断食ではなく道徳の問題でした。すなわち、悲しみ・外面的見せかけではなく神に従う回心した心、といった点にありました。神の質問は、神の民に自分の行動を反省させ、その宗教的態度に対する真の動機を吟味させるためのものでした。

質問3 神の第1の質問は何でしたか。それはだれに対してなされていますか。ゼカリヤ書7:5

第1の質問から明らかなことは、この問題がベテルの人々だけでなく、祭司を含む「地のすべての民」にかかわるものであるということです。神はすべての国民に関心を持っておられました。人々は神によってでなく人によって考え出された断食、伝統、儀式に心を奪われていました。人間の考え出したこれらの儀式は自己中心的なものだったので、災いのもとである罪に対する真の悔い改めをもたらすことがありませんでした。

すべての礼拝行為はつねに神に向けられていなければなりません。このことは、「はたして、わたしのために」という言葉によって強調されています。断食であれ、礼典であれ、説教であれ、すべての宗教行為は神を中心としたものであって、かつ人々を神とのより深い関係に導くものでなければなりません。そうでない礼拝はすべてむなしいものです。

真の宗教はキリストの犠牲に中心を置く

「冷淡で律法的な宗教は決して魂をキリストに導くことがない。なぜなら、それは愛のない、キリストのない宗教だからである。断食と祈りが独善的な精神からなされるとき、それらは神に忌まわしいものとなる。儀礼的な礼拝の集まり、形式的な宗教儀式、外面的な謙虚さ、強制された犠牲—これらはみな、それを行う者が自分を義とみなしていることを世に証明するものである。それらは厳格な義務の順守者に注意をひきつけ、この人は天国に入る権利を持っていると思わせる。だが、それはすべて偽りである。行為は私たちに天国への市民権を与えてくれない。ささげられた一つの大いなる犠牲は、信じる者すべてにとって十分である」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンドヘラルド』1894年3月20日)。

質問4 神の第2の質問はどんな二つの行為にふれていますか。ゼカリヤ書7:6(コリント第Ⅰ・11:20~22比較)

人々は神のためではなく自分自身のために、食べ、飲み、断食していました。イザヤは捕囚のずっと前に、イスラエルの同じ問題について記しています。「彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる」(イザヤ書58:3、傍点付加)。イスラエルはイザヤの時代とゼカリヤの時代とのあいだに教訓を学ばなかったようです。

真の断食は心のわざ

「砕けた、悔い改めた精神がないなら、断食や祈りは、神の前に何の価値も持たない。恵みの内なるわざが必要である。魂の謙虚さが不可欠である。神はそれを重視される。神の前にへりくだる者たちを、神は慈悲をもって受け入れられる」(『SDA聖書注解』第4巻1150ページ、エレン・G・ホワイト注)。

質問5 神の第3の質問は断食とどんな関係がありますか。

捕囚前、つまり「昔エルサレムがその周囲の町々と共に、人が住み、栄えていた」とき、あわれみの神は警告と勧告の言葉を送られました。のちに起こる災害から彼らを守るためでした。神はご自分の預言者を通して、貧しい人々、無力な人々に対してあわれみと正義と親切を示すように命じられました。イスラエルの子らはこれらの勧告を無視したために災いに会ったのでした。彼らの嘆き、断食の時はこれらの災いを記念するためのものでした。神が彼らに望まれることは、彼らが自分自身とその苦難にではなく神と神の力に心を向けること、また神のみことばに聞き従うことでした。

霊的な意味における真の断食は、自己中心的な考えを捨てて、神のみことばに耳を傾け、それを受け入れることです。エレミヤはみことばを食べる経験について次のように述べています。「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」(エレミヤ書15:16——エゼキエル書3:1~3参照)。

キリストに信頼することは断食にまさる

「世界のすべての断食も、神のみことばに対する素直な信頼に代わることはできない。神は言われる。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう』」(『食事と食物に関する勧告』189ページ)。

「神のみことばが命じている断食は、単なる形式ではありません。この断食は、食物をとらずに荒布をまとい、頭に灰をふりかけるだけのことではありません。真心から罪を悲しんで断食する者は、決してこれを誇示しようとはしないのです。

神がわたしたちに求めておられる断食の目的は、魂の罪のためにからだを苦しめることではなく、わたしたちが罪の嘆かわしい性質を十分に理解し、神の前に心を低くしてその寛大な恵みを受けられるようになる助けとなるためです」(『思いわずらってはいけません』113ページ)。

神の勧告(ゼカリヤ書7章8節〜10節、8章16節〜19節)

質問6 神はゼカリヤ書7章8章でどんな勧告を与えておられますか。

神の勧告
すべきことすべきでないこと
真実のさばきを行う(7:9)やもめ、みなしご、寄留の他国人、貧しい人をしえたげる(7:10)
互に相いつくしみ、相あわれむ(7:9)互に人を害することを、心に図る(7:10)
互に真実を語る(8:16)互に人を害することを、心にはかる(8:17)
真実と平和のさばきとを行う(8:16)偽りの誓いを好む(8:17)

質問7 真実のさばきを行うとはどういう意味ですか。ゼカリヤ書7:9、8:16

相手の地位に関係なく、公平に正義を行う道徳的勇気を、私たちは持つ必要があります。正しいさばきは真実、事実、その場の状況にもとづいてなされます。そのようなさばきは平和をもたらします。

真実は神から来る

「クリスチャンのすることはすべて、日光のように透明でなければなりません。真実は神からのものです。欺瞞はその無数の形のどの一つをとっても、みなサタンからのものです。そしてだれもいかなる点においても公正な真実から離れる者は、悪魔の手中に自分を売り渡しているのです。……わたしたちは、真理なるおかたによってたえず心が導かれないかぎり、真実を語ることはできません」(『思いわずらってはいけません』89ページ)。

質問8 ゼカリヤ書7:9、10、8:16、17の神の勧告をイエスの山上の説教(マタイ5章)と比較してください。共通しているおもな点はどんなことですか。

私たちの品性は人に対する態度にあらわれます。心に悪いことを考えていると、殺人や姦淫を犯します。しかし、心が神の愛で満ちていると、神への献身、人へのゆるし・奉仕が生まれてきます。

質問9 神はどんなことを憎まれますか。それはなぜですか。ゼカリヤ書8:17

神は罪人を深く愛しておられるので、ご自分の憎まれる性質を彼らから取り除くために御子をおつかわしになりました。神はとくに、人々が自分の悪行をごまかして、義人をよそおい、宗教活動によってそれを隠そうとすることを嫌われます。神はイザヤ書1:14でこう宣言しておられます。「あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた」。

質問10 神が断食を喜びの祝宴とされるということには、どんな霊的な意味がありますか。それは真実と平和を愛することとどんな関係がありますか。ゼカリヤ書8:19

神はご自分の民に、神殿とエルサレムを回復される神のあわれみについて考えるように望まれました。彼らがいつまでも自分たちの失敗や神の怒りにこだわっていることは、神のみこころではありませんでした。神は彼らと共におられ、神殿とエルサレムはやがて完全に再建されようとしていました。それなのになぜ、破滅のことばかり考えるのでしょうか。今は主のみことばに従い、主の慈愛を祝うべきときでした。

最も重要な健康の要素

「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂うつ、不満な気持や思想に抵抗することは祈ることと同じように積極的な義務である。もしわたしたちが天に向かって歩いて行っているなら、わたしたちの父の家に行く道すがらをどうして会葬者の一隊のように嘆き、つぶやきながら歩いたりできよう。

口に出すときに思想や感情が助長され、強められるのは自然の法則である」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』228、229ページ)。

民の応答(ゼカリヤ書7章12節)

質問11 神に対する民の応答はどんな三つの態度にあらわれていますか。ゼカリヤ書7:11、12

「金剛石」という言葉は、この上なく堅い石をさすヘブル語から訳されています。人々は故意に神を無視しました。彼らは神に対してあまりにも無関心だったので、神のどんな訴えも彼らの石のような心を和らげることができませんでした。彼らは次第に神から離れていきました。

質問12  石の心を解決するものは何ですか。エゼキエル書11:19、20、18:31、36:26、27

神のこらしめ(ゼカリヤ書7章12節~14節)

真の断食は神の民を神との親しい交わりに入らせます。しかし、自己中心的な断食はその交わりを破ります。

人間の危機は神の機会

「主は虚偽が真理よりも高められることによって、現代の諸問題が危機に直面するのをお許しになる。それは、イスラエルの神が、虚偽の高められるのに応じて、ご自分の真理を大いに高めるために力強く働かれるためである。

教会に目をとめながらも、主は何度も問題が危機に直面するのをお許しになった。それは、神の民が危機において神の助けを求めるようになるためであった。彼らが祈りと信仰と不動の真実をもって神の助けを求めたとき、神はその約束を成就された。『あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、「わたしはここにおる」と言われる』(イザヤ書58:9)」(『セレクテッド・メッセージズ』第2巻372ページ)。

まとめ

神に受けいれられる断食、神との関係を深める断食は、自己中心ではなく神中心であり、私たちの衣ではなく心を裂くことであり、私たちを神の声に聞き従わせる断食です。

*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。

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