
内村鑑三とは何をした人?
内村鑑三とは、日本のキリスト教思想家・教育者であり、無教会主義を提唱し、不敬事件を通して国家と信仰の関係を問い続けた人物です。
1877年に札幌農学校入学。「Boys, be ambitious !」で有名なクラーク博士とは入れ違いでしたが、彼の影響が色濃く残り、半ば強制的にキリスト教徒となります。
1884年には、私費で留学。その後、各地で教鞭をとりますが、1891年、第一高等中学校での教育勅語奉戴式で、不敬事件を引き起こします。
執筆活動に従事し、『代表的日本人』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』、『基督信徒のなぐさめ』といった著作を執筆します。
この記事では、内村鑑三とは何をした人なのか、不敬事件の背景や無教会主義の思想、生涯と代表作を通して、内村鑑三の考え方と歴史的意義をわかりやすく解説します。

この記事はこんな人におすすめ!
・内村鑑三がどんな人だったのか、その人生を知りたい
・内村鑑三の不敬事件の背景を知りたい
・無教会主義とは何かを学びたい
この記事は約12分で読むことができます。
内村鑑三の生涯を年表で簡単に整理
- 誕生
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内村は江戸の武士階級の家に生まれます。内村の父は儒学を重んじていましたが、後に内村の影響でクリスチャンとなります。また、母や弟妹も感化されてクリスチャンとなりました。
- 札幌農学校へ入学
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クラークは、内村が入学する直前にアメリカへ帰国しましたが、その影響は校内に強く残っていました。そのような空気の中で、先輩からの熱心な勧誘により、半ば強制的に「イエスを信ずる者の誓約」に署名することになるのでした。
- キリスト教の洗礼を受ける
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署名をしてから半年後、宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けます。ほぼ同時期に、内村の親友であった新渡戸稲造も受洗します。
学友の宮部金吾、新渡戸稲造と内村鑑三は特に親しく、のちに「札幌三人組」と名付けられました。


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- 教会堂の設立を巡る資金トラブル
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M.C.ハリスの属するメソジスト教会から寄付を受け、教会堂を建設します。
しかし、内村らは教派を超えていかなる干渉制約を受けないキリスト教会を建てようとし、この寄付を借用と考え、返済を前提として建設計画に移りました。
しかしメソジスト教会側は、こうした内村らの姿勢に対して、寄付金の返却を至急行うようにと通達してきたのでした。その後、彼らは資金の返済を行い、独立した教会組織の設立を行います。
この出来事は、外国宣教に対する問題意識と、教派間の対立を内村に意識させ、後年の彼の態度にも影響を及ぼしたと考えられています。
二年間の倹約と勤労の結果、ついにぼくらは教会の借金から解放されたのだ。喜びと感謝で跳びあがるのは当然だった。ここにぼくらの「大憲章」がある。……これで誰にも借りがなくなり、ぼくらはうれしかった。とはいえ、そうしてメソジスト教会から支援の手が差し伸べられ、二年間、現金を利しなしで使わせてもらえたのは、ありがたかった。
内村鑑三(河野純治・訳)『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』光文社古典新訳文庫,p.128~129 - リバイバル運動に同調できない内村
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当時、プロテスタント・キリスト教は破竹の勢いで国内に広まっていました。そのため、集会を行えば、5,000〜6,000人集まり、大きな熱気を生みました。
このとき、わが国にキリスト教が初めて伝えられてからおよそ二十年が過ぎていた。信者数は全人口四千万のうち五千人だった。――たしかに小さな集団だが、無知と迷信にとらわれた周囲の人々全て四半世紀以内に改宗させようという聖なる野心に燃えていた!
註 この場合のキリスト教とはプロテスタントのこと。
内村鑑三(河野純治・訳)『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』光文社古典新訳文庫,p.136ところが、内村はこのリバイバル運動に同調できませんでした。彼はこの運動を感傷的であり、一種の興奮状態にあると見て、不安視します。
- キリスト教国アメリカでの幻滅
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内村はキリスト教国であるアメリカに行けば、より深い真理の理解を得ることができると思い、渡米します。
しかし、そこで内村は以下のようなアメリカ社会の現実を見て幻滅するのでした。
- 神の名をみだらに唱える文化
- 窃盗や強盗などの犯罪が多く、鍵をかけなければいけない治安の悪さ
- 金銭主義
- 人種差別の風潮
- 様々な影響を受ける内村
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このアメリカ滞在中に、彼はスウェーデンボルグ、ユニテリアン、クエーカー、福音主義など様々な価値観に触れていきます。
- 神学校を4ヶ月で去る
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内村は新島襄に勧められたアマースト大学を卒業し、その後、ハートフォード神学校へ進学しますが、4ヶ月で去ることになりました。
理由としては、神学校の空気が合わなかったことや、精神的に病んでしまい、慢性的な不眠症で悩まされたことが挙げられます。
加えて、伝道が一つの職業として金銭と結びついていることが一番内村にとって堪えられなかったようです。
当時の彼の失望がその日記に綴られています。
10月12日
内村鑑三(河野純治・訳)『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』光文社古典新訳文庫,p.279~280
大教室での授業に少しうんざりする。新約聖書の解釈における地獄と煉獄について、および護教論における似たりよったりの中身のない問題について議論した。魂のない神学は、あらゆる学問の中で最も無味乾燥で、最も無価値なものである。学生たちが笑ったり冗談を言ったりしながら、真面目な問題の議論をしているのを目にして、ほとんどあきれ果てた。
11月3日
ぼくは今、「せねばならない」よりも高い道徳を求めている。神の恵みから来る道徳を渇望している。……ここの神学生たちが卒業して異教徒に教えようとしていることの大部分は、孔子や仏陀からも学べることばかりだ。
- 第一高等中学校での教育勅語奉戴式
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帰国後、同志社の新島襄から声をかけられますが、それを断り、キリスト教主義の学校であった新潟市北越学館の教頭となります。
学生たちにキリスト教を押し付けようとはせず、かえって幅広い理解を学生に持たせる意図で他宗教を尊重したり、学校行政の問題で対立を生み、辞職します。
その後、第一高等中学校講師となった内村でしたが、その時に「不敬事件」が起こります。
彼の教育勅語奉戴式での態度が、不敬とされたのです。
内村自身は皇室への尊敬を持ち、再度敬意を表そうと考えていましたが、報道によって誇張され、最終的に辞職に至ります。
この事件の背景には、国家主義の高まりと反キリスト的世論があり、内村はそれらに利用された側面がありました。
これを機に、著述家としての道を選びます。
教育界を去るべく決心したかれに残された職業は、筆一本で生きる評論家としての仕事以外になかった。この仕事に自信満々で就いたのではない。「最後の手段に追い込まれ」、「著述することを余儀なくせられ」たのである。当時の読書人口は多くなく、とくに「純粋なるキリスト教文学の方面にて最も成功せる書物より期待し得る最大限度は1000部」に過ぎなかった。しかし、一冊の書物は少なくとも10人の読者に回覧されている(と内村は考えた)から1000部出た書物は1万人に感化を与えることができる。そうだとすれば著述の仕事は金銭的に引き合わなくても真理の伝播という点では引き合う仕事だ。このように考えて内村は「神の祐助により恐る恐る」評論家として出発したのである。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.74

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- 『万朝報』と非戦の訴え
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内村鑑三は1897年、当時日本で唯一英文欄を設けていた新聞『万朝報』に入り、英文欄主筆(英文記者)を務めました。
しかし翌1898年、同紙を退社し、同年に自ら『東京独立雑誌』を創刊します。この雑誌において内村は、キリスト教の立場から社会や思想の問題について自由に論じましたが、雑誌は長くは続かず廃刊となりました。
その後、内村は再び『万朝報』と関わるようになります。日露戦争をめぐって日本の世論が開戦へと傾いていく中、内村は非戦論を強く訴えました。
かつて日清戦争の際には戦争を支持した経験を持つ内村でしたが、それを後に大きな誤りであったと自己批判し、戦争に反対する立場を明確にしていったのです。
『万朝報』の論調とは異なる立場をとった内村は、最終的に再び退社します。
また内村は、この頃、足尾銅山鉱毒事件に強い関心を示し、国家の利益よりも社会的正義を重んじる立場から、この問題を言論によって訴えました。その中で内村は、社会問題の解決は制度改革だけではなく、まず個人としての人間の内面が問われるところから始まると考えていました。
- 『聖書之研究』創刊
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その頃、日本で初めてとなる聖書の専門的研究雑誌である『聖書之研究』を発刊することとなりました。
これを通して、内村は日本人の実際的な人生に適用しながら、平易にキリスト教を述べようと試みます。
この雑誌の発刊は、……内村にとって『生涯の一大転機』をもたらすものであった。……かれは、これまで、対社会の眼を大にして、社会悪を正義の剣を持って打破刷新しようとし、ひたすら焦慮没頭した。しかしいまやかれはむしろ重点は、人心の刷新にありとした。
砂川萬里『内村鑑三・新渡戸稲造ー日本の代表的キリスト者(3)』東海大学出版会,p.80-81

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- 集会の始まり
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内村の親友であった新渡戸稲造は、一高の校長兼東京大学農科教授となります。新渡戸は多くの学生に感化を与えましたが、彼の紹介で内村の下にも人々が集まるようになり、集会が行われるようになりました。
- 第一次世界大戦開戦
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1914年、第一次世界大戦が開戦します。
この頃になると、内村は「キリストの再臨」に希望を見出すようになりました。
しかし、この当時、日本のキリスト教会内ではキリスト再臨信仰に反対する考えが主流でした。そのために、主流派の圧迫を受け、神田青年会館における内村の講演会も中断せざるを得ない事態も起こります。
- 排日移民法案への反対運動
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1924年、アメリカにおいて排日移民法案が発布されます。この背景には、差別意識があり、それゆえに多くの反発を生みました。これに対し、内村や新渡戸は激しく抗議していきます。
- 晩年と集会の解散
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内村の晩年に興した集会は、発展し、彼の唱えた無教会主義の賛同者は増え、約900名に達していました。
この状況を見て、内村は無教会主義そのものが、教派化することを恐れ、また後継者問題が起こるのではないかと憂慮します。
そのために、彼はこれらの活動を自分の一代で終わらせることを決意するのでした。
彼の没後、遺言通り、彼の聖書研究会と『聖書之研究』は完全に解散し、廃止されました。


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内村鑑三の著作・代表作
内村鑑三の代表作(代表的日本人・後世への最大遺物・余は如何にして基督信徒となりし乎)
『代表的日本人』
日本の果たすべき役割は、西洋文化を東洋へ、東洋の文化を西洋に紹介する役割であると内村は考え、『代表的日本人』を執筆します。
西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮を取り上げ、権力や成功ではなく、人格・道徳・良心を基準に「真の偉大さ」を示す人物評伝集です。
『後世への最大遺物』
『後世への最大遺物』は、内村鑑三が1894年(明治27年)に行った講演をもとに著された講演録です。
人が後世に残すべき最大の遺産は、富や業績ではなく、「高尚な生涯」「信仰と良心に基づく生き方」であると説いたこの本は、立身出世とそのためのハウツーのみが求められた時代において、まるで正反対の内容の書物でした。
そのような時代にあって、この本は人生の挫折を味わった人々に読み継がれ、そのような人々にとって、第二のバイブルとなりました。
『余は如何にして基督信徒となりし乎』
札幌農学校での出会いに加え、挫折・葛藤、留学体験や帰国後の試練を含め、キリストを人生の中心とするに至る過程を描いた著作です。
英文の著作である『余は如何にして基督信徒となりし乎』”How I became a christian”は、アメリカで最初に出版を試みますが、失敗します。
一説には、キリスト教国に対する批判本であったためではないかとも言われています。
その後、日本語版が発行されてから、シカゴで発行され、その後ヨーロッパでドイツ語、フランス語、フィンランド語、スウェーデン語、デンマーク語などに訳されました。
内村鑑三の思想
内村の人生の指針となったのは言うまでもなく、聖書です。
彼の聖書解釈の特徴は以下のようなものがありました。
- 生活の実験(体験)を通して聖書のメッセージを身をもって理解しようとした
- 聖書の一つの句を理解する際に、それに関連する他の箇所も参照し、聖書全体の文脈の中で解釈した
- 神学者や聖書学者による学問的な聖書解釈にも目を通し、それを参考にした
- 旧約聖書を重んじ、特に預言者の姿勢に学びながら、現実の社会問題と向き合おうとした
また、もうひとつ彼の人生において大きな指針となったものが儒教的思想である「武士道」です。
後年、彼は「武士道に接木されたキリスト教」を標榜し、キリスト教の日本化を意図しました。
内村鑑三不敬事件|愛国心と「二つのJ」


事の起こりは、同校で教育勅語奉戴式が行われた際に内村の態度に対して、不敬であると誤解されたことにあります。
実際には、内村のお辞儀が足りなかったというだけであり、後に天皇に対するお辞儀は礼拝を意味するものではなく、単に尊敬の意を表明するだけであるという校長の説得を受け、再び敬礼することを決意します。
また内村自身、自身の信仰と教育勅語の道徳的内容そのものとの間に必ずしも矛盾があるとは考えていませんでした。神格化には抵抗したものの、皇室に対する尊敬の念を失うことはありませんでした。
しかし、これは針小棒大に伝えられ、保守的な新聞雑誌に書き立てられ、結局は講師を辞するところまでに至ります。
この事件の背景には、国家主義が盛んになり、欧米化への忌避感が生まれ、またキリスト教が勢いをもって拡大するのを恐れた仏教側が、キリスト教の勢いを削ぐ機会を狙っていたためとも一説では言われています。
いずれにせよ、この内村の事件は、保守派の反キリスト勢力から利用されたのでした。
しかし、内村は愛国者でした。
この事件後、著述家となった内村は雑誌『聖書之研究』を発行します。この雑誌を通して、彼は社会問題に対して、二つの「J」すなわちイエスと日本への愛を持って取り組みます。
その表紙(雑誌『聖書之研究』)には「基督の為め国の為め」と銘打たれてあり、かれの二つの「J」への愛が、ここに凝結したのである。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.104(括弧は著者注)
参考文献
内村鑑三の不敬事件について
内村が天皇への尊敬や国家への愛をきわめて無邪気で素朴な形でみとめていることである。もしそれをみとめないならばその人は日本人でなくなるのであり、またこれをむりに喧伝し人為的に教育することもかえって偽善的、病的愛国心を産むことになるというのである。かくして内村はこのような自然の発露としての天皇への尊敬や愛国心を利用し、これをもって家族的な絶対主義国家体制をつくり出そうとする国家の巧妙な政策に対して批判的であった。彼は天皇や国家がその地上的権威を神格化して愛を要求し崇拝を強制するときにはキリスト教信仰と良心の自由によってたたかった。
土肥昭夫『人と思想シリーズ 内村鑑三』日本基督教団出版局,p.88
内村が不敬事件において言い表したものは、天皇の神格化や直後の宗教的儀文化に対してキリスト教的良心にもとづく拒否であった。
土肥昭夫『人と思想シリーズ 内村鑑三』日本基督教団出版局,p.82
義戦・非戦論と再臨信仰
内村は日清戦争の際には一種の社会進化論的な思想を持ち、世界の進歩の先駆けを行く代表としての責務を日本は果たそうとしていると論じていました。
当時、彼はダーウィンの『種の起源』に強い関心を持ち、その考え方に発想を求め、さらにヘーゲルの絶対観念論の歴史観の影響を受けていたとされています。
しかし、戦争の終わりには懐疑的になります。
支那との紛争は終り候。……《義戦》は変じて幾分海賊的の戦争となりその《正義》を書きし一預言者は今や恥辱の中に有之候。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.88
この日清戦争から10年後の日露戦争の際には、内村は「戦争絶対的廃止論者」となり、強く非戦を訴えました。
非戦を訴えるに至った理由として、内村は次の4つを挙げています。
- キリストの十字架
- 無抵抗主義を実践した自身の経験
- 過去10年間の世界の動向(戦勝国における道徳的腐敗)
- 「スプリングフィールド・リパブリカン」誌の影響
余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やうはずはない。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.98


1914年、第一次世界大戦が始まりました。
内村鑑三は、これに先立つ明治41年(1908年)ごろから、雑誌『聖書之研究』において、戦争に反対する立場をはっきりと示していました。
第一次世界大戦が続く中で、内村はアメリカが中立を保つことに期待していましたが、1917年にアメリカも戦争に加わります。
この出来事によって、内村は人間の力や歴史の進歩によって平和が実現できるという考えへの信頼を決定的に放棄します。その代わりに、彼は神の介入を望む、再臨信仰に燃え上がりました。
またこの頃、教派を超えた全国協同伝道が行われます(1915〜1917)。この3年間のムーブメントの延べ参加者は、777,000人以上であり、求道者・バプテスマ数は27,000人にも及びました。
さらに、その頃活躍した伝道者である中田重治は、1917年に再臨が来ると予想していきます。
このように各地でリバイバルが起こり、再臨への切望が高まっていた大正7年(1918年)1月ごろから約1年半にわたり、内村を中心とした再臨運動が展開されます。内村自身も、この出来事を自らの生涯における大きな転機の一つであったと後に振り返っています。
内村は他教派と共に、連続講演会を何十回と行い、その講演会では、1,000人を超える聴衆が毎回のように集まってきたとされています。
この運動は、北海道から東京、関西、岡山に至るまで展開され、各地でリバイバルを起こします。
内村が様々な社会問題、特に戦争という現実を目の前に、その解決策として選んだものは伝道だったのです。
参考文献
内村鑑三と戦争
日本が朝鮮政治に干渉するのは――と内村は弁明する――「世界の最大退歩国」(清国)が朝鮮を独占しようとして文明諸国の影響が朝鮮に入るのを妨害しており、そのため朝鮮人民は暴政と無知の中に苦しんでいる、その苦しみから朝鮮を救い出さんがためである。それゆえ「吾人は信ず、日清戦争は吾人に取りては更に義戦なりと」。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.86〜87
日清戦争において日本は進歩的勢力の代表として退歩国、清と対決するのである。そのような対決として日清戦争は歴史的意義をもっている。日清戦争義認論の根拠には、したがって、ある歴史観(一種の社会進化論と称すべきもの)が存在する。……しかし戦争が終わりに近づくに従って、日清戦争の義しさについて内村はだんだん懐疑的になった。
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院,p.87〜88
「世界の平和が畢竟するにキリストの再臨を待て始めて世に行はるるものである」という終末論的希望を内村はすでに明治44年(1911) 9月の「聖書之研究」に発表している。このゆえに彼はローマ書12・18〜21を引用して、神の経綸また摂理を信じて悪に抵抗することなく神の怒りにゆだねるべきことをすすめ、自らはキリストの福音によって生まれる平和をこの世にのべつたえるキリスト教伝道を自らの使命だと確信した。このような悪への無抵抗は、けっして消極的で無気力な行為ではなく、神の摂理を信じるがゆえに騒乱の中で主の静粛に住む沈着さと大胆さを持つことであり、また抑えがたい憤怒を自らの中に抑制するのみならずすすんで敵を愛する勇気、正義に味方する勇気を必要とする。キリスト教はこのような高尚な道徳を行なう勇気と能力を信仰者に与えるものである。
土肥昭夫『人と思想シリーズ 内村鑑三』日本基督教団出版局,p.128
無教会主義とは
内村鑑三の思想で最も有名な「無教会主義」は、明治34年(1901年)に彼が発行した『無教会』によって明確に主張され始めました。
……「無教会」は教会の無い者の教会であります。すなわち家の無い者の合宿所とも言うべきものであります。すなわち心霊上の養育院か孤児院のようなものであります、「無教会」の無の字は、「ナイ」と訓むべきでありまして、「無にする」とか「無視する」とかいう意味ではありません。
内村鑑三『無教会』118ページ、引用元、内村鑑三(山本泰次郎・編)『内村鑑三信仰著作全集18』教文館、86ページ
内村がこれを主張しはじめた動機として次のようなものがあると考えられています。
- 教会に受け入れられない者や教会に入らない者を合理的に根拠づけようとした
- 形式主義・儀式主義・組織化の教会主義、また職業的伝道師を極度に嫌った
- 日本のよさ(武士道等)を認め、アメリカナイズされた教会ではなく、「日本人のみの手による自主独立の日本的教会」を生涯の理想とした
内村は、教会は建物や組織ではなく、主にある共同体であるとします。
彼は特に、「制度・組織化されたキリスト教会」を嫌いました。
無教会主義とは、教会は有ってはならぬということでない。有るも可なり無きも可なりということである。神の生命たるキリスト教が制度でありオルガニゼーション(組織体)であるはずがない。……ルーテルも新信仰唱道当時は純然たる無教会主義者であった。……組合教会、バプティスト教会、その他すべて自由と生命とを新たに世に注ぎ込みし教会は、熱烈なる無教会主義をもって始まったものである。生ける信仰が硬化する時に教会に化するのである。
内村鑑三『聖書之研究』1927年10月、引用元、内村鑑三(山本泰次郎・編)『内村鑑三信仰著作全集18』教文館、88〜89ページ
彼の日曜日の聖書講義は、単なる講義ではなく、その目的は家庭的で聖書的な共同体の形成にありました。
これらは自然に、人為的な方法によらずに、聖書的な共同体の形成へと発展します。こうして、『聖書之研究』の読者を中核して、「教友会」が設立されていきます。
無教会主義は、特に大学教授、学者、学生などの知識人層に強い支持を得て広まり、影響は社会の他の層にも及んだとされています。


これらの集会は、現代の家庭集会(ホームチャーチ)と非常に似ており、以下のような特徴を持っていました。
無教会主義の主な特徴
- 大切にしていること
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大きな組織を作ることより、一人ひとりの信仰を深めることを重視する。
- 礼拝や活動の中心
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聖書を学ぶ集まりを軸に、聖書の話、祈り、賛美などを行う。
- 集まり方
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教会の建物を持たず、自宅や会議室など身近な場所で集まる。
- 伝道の考え方
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特定の立場の人に任せず、各自の信仰の実践を大切にする。
参考文献
教会なきキリスト教
キリスト教がきらわるる主なる理由はその教会においてある。多くの人は教会をきららがゆえにキリスト教を捨てた。しかして今なお捨てつつある。彼らは袈裟をきらうがゆえに坊主を憎むのである。されども坊主と袈裟とは同一の物でない。袈裟をはぎ取るも坊主は残る。キリスト教より教会を引き去りて、残るは完全なる道である。われは道なり真理なり生命なりとイエスが言いたまいしその道である。教会という制度的衣裳がどろにまみれて見にくしとて、キリストとその福音を捨つる理由となすに足りない。教会なきキリスト教が未来のキリスト教である。パトモスの島に、改造されし世界のさまを示されし預言者ヨハネは言うた、
われ、都の中に聖所あるを見ず。そは主たる全能の神および小羊、その聖所なればなり(黙示録21・22)
と。すなわち天よりくだる聖き新しきエルサレムの都に、聖所すなわち教会あるを見ずとのことである。
内村鑑三『聖書之研究』1929年3月、引用元、内村鑑三(山本泰次郎・編)『内村鑑三信仰著作全集18』教文館、99ページ
よくある質問
著者|高橋 徹
1996年、横浜生まれ。三育学院カレッジ神学科卒業後、セブンスデー・アドベンチスト教団メディアセンターに勤務、現在はセブンスデー・アドベンチスト教団牧師。
- セブンスデー・アドベンチスト教団牧師
- 光風台三育小学校チャプレン・聖書科講師、三育学院中等教育学校聖書科講師
- 著書『天界のリベリオン』
監修|伊能 忠嗣(Ino, Tadashi)
1962年、東京生まれ。慶應義塾大学理工学部を卒業後、旭化成工業株式会社で勤務。その後、セブンスデー・アドベンチスト四ツ谷教会等複数の教会で牧師として奉仕。またチャプレンとして東京衛生病院(現在の東京衛生アドベンチスト病院)、シャローム東久留米で勤務。三育学院カレッジ神学科、聖学院大学で非常勤講師を務めた。
- アンドリュース大学大学院博士課程修了
哲学博士(Ph.D. 新約聖書学専攻)
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- 日本スピリチュアルケア学会員
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参考文献
内村鑑三(河野純治・訳)『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』光文社古典新訳文庫
砂川萬里『内村鑑三・新渡戸稲造ー日本の代表的キリスト者(3)』東海大学出版会
関根正雄『人と思想 内村鑑三』清水書院
土肥昭夫『人と思想シリーズ 内村鑑三』日本基督教団出版局
黒川知文『内村鑑三と再臨運動』新教出版社