*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。
父と子と聖霊の、永遠に共存する3つの位格から成るひとりの神がおられる。神は朽ちることなく、全知全能で、すべてのものを越え、常に変わることなく存在される。神は人間の理解を越える無限のお方であるにもかかわらず、ご自身を啓示されることによって、人間に知られるお方である。愛であられる神は、すべての造られたものの礼拝と尊崇と奉仕を永遠に受けるにふさわしいお方である。(信仰の大要2)
カルバリーにおいてほとんどすべての人がイエスを拒否しました。イエスが実際にだれであったかを認めたのはごくわずかにすぎませんでした。そしてそのわずかな人々の中にいたのが、イエスを主と呼んだ盗人(ルカ23:42)であり、「まことに、この人は神の子であった」(マルコ15:39)と言ったローマの兵士でした。
ヨハネが、「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)と書いたとき、彼は、単に十字架のところにいた群衆やあるいはイスラエルの民のことを考えていたのではありませんでした。彼の念頭にあったのは、すべての時代に生きた人々でした。ひと握りの人々を除いて、すべての人間はカルバリーの十字架の傍らにいた騒がしい群衆と同様、イエスのうちに神と救い主を認めることに失敗してしまいました。人間の最も大きなそして最も悲劇的なこの失敗は、神についての人間の知識は根本的に欠陥のあるものであることを示しています。
神についての知識
神を説明しようとする多くの理論や、神の存在を証明あるいは否定しようとする多くの論議は、人間の知恵は、神の世界を見通すことはできないことを示しています。神について学ぶために人間の知恵だけに頼ることは、星座を研究するために虫めがねを用いるようなものです。それゆえ多くの人にとって、神の知恵は「隠された奥義」(1コリント2:7)なのです。彼らにとって神は神秘です。パウロはこう書いています。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(1コリント2:8)。
聖書のもっとも基本的な戒めの一つは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37。申命記6:5参照)ということです。わたしたちは、その人についてなにも知らない人を愛することはできません。そしてわたしたちはどんなに尋ね求めてみても、「神の深い事」(ヨブ11:7)を窮めることはできません。それではわたしたちはどのようにして創造者を知り、愛することができるのでしょうか。
神は知られ得る
人間の救いのない状況をご存知の神は、愛とあわれみをもって聖書を通してわたしたちのところに手をさしのべられました。このことは次のようなことを示しています。「キリスト教は人間の神探求の記録ではありません。キリスト教は、神ご自身と人間に対するご自身の目的についての神の啓示の所産です。」[1]この神の自己啓示の目的は、反逆している世界と、その世界を気遣われる神との間の裂け目の橋渡しをすることです。
神のもっとも偉大な愛のあらわれは、神の最高の啓示であるみ子イエス・キリストをとおして明らかとなりました。イエスをとおしてわたしたちは父なる神を知ることができます。ヨハネが、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」(1ヨハネ5:20)と言っているとおりです。
またイエスはこう言われました。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。
これが良いおとずれです。神を完全に知ることはできなくても、聖書は、わたしたちが神との救いの関係に入るに充分な、神についての実践的な知識を与えてくれます。
神についての知識を得る
他の知識と違って、神についての知識は頭の問題であるとともに心の問題です。それは単に知性に関係するだけでなく人格全体に関係します。そこには聖霊に対して心を開くことが必要であり、神のみ旨を実行に移そうとする意志がなければなりません(ヨハネ7:17。マタイ11:27参照)。イエスは言われました。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)。
それゆえ不信仰者は神を理解することはできません。パウロはこのように説明しています。「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(1コリント1:20、21)。
わたしたちが聖書から神を知ることを学ぶ方法は、知識を獲得する他のすべての方法とは異なるものです。わたしたちは自分を神の上に置き、神を一つの対象として分析したり計ったりすることはできません。神についての知識を尋ね求めるとき、わたしたちは神の自己啓示である聖書の権威に自らを委ねなければなりません。聖書が聖書自身の解釈者であるゆえに、わたしたちは聖書が提供している原則と方法に自らを従わせなければなりません。こうした聖書の指導原則なしに、わたしたちは神を知ることはできません。
なぜそれほどまでに多くのイエスの時代の人々が、イエスの中に神の自己啓示を見ることに失敗したのでしょうか。彼らは、聖書をとおして聖霊の導きに自らを従わせることを拒否したため、神の使信を誤解し、彼らの救い主を十字架につけてしまったのです。彼らの問題は知性にあったのではありません。彼らの心を暗くし、その結果永遠の滅びへと至らざるを得なくさせたものは彼らの閉鎖的な心でした。
神の存在
神の存在の証拠として二つの主要な資料があります。自然という書物と聖書です。
造られたものからの証拠
すべての人は自然と人間の経験をとおして神を知ることができます。ダビデは、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)と書いています。ヨハネは、自然を含めて神の啓示は「すべての人を照す」(ヨハネ1:9)と述べています。またパウロは次のように主張しています。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)。
人間の行動もまた神の存在の証拠となっています。アテネの人々が「知られない神」を拝していたことの中に、パウロは神への信仰の証拠を見ました。そしてこう言っています。「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒17:23)。
パウロはまたクリスチャンでない人々の行動も「彼らの良心」を証ししており、神の律法が「その心」に書かれていることを示していると言っています(ローマ2:14,15)。神が存在するというこの直観は、聖書に接する機会のなかった人々の間にさえ見いだされます。神についてのこのような一般的な啓示は、神の存在をめぐる多くの古典的合理的な証明方法を生み出すことになりました[2]。
聖書からの証拠
聖書は神の存在を証明していません。聖書は神の存在を前提としています。聖書の冒頭の句はこう宣言しています。「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。聖書は、神を、すべての造られたものの創造者、保持者、支配者として描写しています。造られたものをとおしての啓示は非常に強力であるので、無神論を弁護する余地はありません。無神論は、神の真理を抑圧することから、あるいは神が存在するという証拠を認めることを拒否する精神から生じるものです(詩篇14:1、ローマ1:18-22,28)。神についての真理を真剣に尋ね求めようとするものを確信させるに充分な神の存在の証拠があります。しかし信仰がその前提条件となります。次のように書かれているからです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。
神への信仰はしかしながら、わけが分からないようなものではありません。それは、聖書と自然による神の啓示に見いだされる充分な証拠に基づくものです。
聖書の神
聖書は、神の本質的な性質を神の名、行為、属性をとおして明らかにしています。
神の名
聖書が書かれたころ、名は大切なものでした。中東や東洋では今でも、名は、それを持っているものの性質、すなわちその本質と特徴を表すものであると考えられています。神の性質や特質や資質を明らかにする神の名の重要性は、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)という神の戒めに表れています。ダビデは次のように歌っています。「いと高き者なる主の名をほめ歌う」(詩篇7:17)。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111:9)。「彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである」(詩篇148:13)。
ヘブル語の名エルとエロヒム(「神」)は、神の力を示しています。これらの語は、神を力強い方、創造の神として描いています(創世記1:1、出エジプト20:2、ダニエル9:4)。エルヨン(「いと高きもの」)とエルエルヨン(「いと高き神」)は神の高い地位に焦点を当てています(創世記14:18-20、イザヤ14:14)。アドナイ(「主」)は神を全能の支配者として描写しています(イザヤ6:1、詩篇35:23)。これらの名は神の威厳のある超越的な性格を強調しています。
その他の名は、人々との関係に喜んで入ろうとする神の熱意を表しています。シャダイ(「全能」)とエルシャダイ(「全能の神」)は、祝福と慰めの源である全能の神を表しています(出エジプト6:3、詩篇91:1)。ヤハウェという名はエホバもしくは主と訳されて、契約に対する神の真実と恵みを強調しています(出エジプト15:2,3、ホセア12:5,6)[3]。出エジプト記3章14節では、ヤハウェはご自身を「有って有る者」と説明され、それは民に対して神の変わらない関係を示しています。ときに神はご自身をさらに親しく「父」(申命記32:6、イザヤ63:16、エレミヤ31:9、マラキ2:10)として表され、イスラエルの民を「わたしの子、わたしの長子」(出エジプト4:22。申命記32:19参照)と呼んでおられます。
「父」を別にすれば、新約聖書は神の名を旧約聖書のそれとほぼ同じ意味に用いています。新約聖書において、イエスは「父」という呼称(マタイ6:9、マルコ14:36。ローマ8:15、ガラテヤ4:6参照)を用いて、わたしたちを神との親しい個人的な関係へと導いておられます。
神の行為
聖書記者たちは、神の存在を説明するよりも神の行為を説明することに多くを費やしています。神は、創造者として(創世記1:1、詩篇24:1,2)、世界の保持者として(ヘブル1:3)、またあがない主、救い主として(申命記5:6、2コリント5:19)、人間の究極的な運命のために重荷を負われる方として紹介されています。神は、事を計り(イザヤ46:11)、預言し(イザヤ46:10)、約束されます(申命記15:6、2ペテロ3:9)。神は罪をゆるされる方であり(出エジプト34:7)、そのゆえにわたしたちが礼拝するにふさわしい方です(黙示録14:6,7)。最後に聖書は、神を、「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神」(1テモテ1:17)として明らかにしています。神の行為は、神が人格的な方であることを強調しています。
神の属性
聖書記者たちは、神の属性についての証しをとおして、神がどのような方であるかについて、さらに詳しく教えております。
神の絶対的な属性は、造られたものには与えられていない神の性質を示しています。神は何者にも頼らずに存在しておられる方です。神は「ご自分のうちに生命をお持ちになっている」(ヨハネ5:26)からです。神は、意志においても(エペソ1:5)、それを実行する力においても(詩篇115:3)、他からまったく影響を受けずに独立しておられます。神は、全知の方で、すべてをご存じです(ヨブ37:16、詩篇139:1-18、147:5、1ヨハネ3:20)。なぜなら神は、アルパでありオメガである方として(黙示録1:8)、始めから終りをご存じだからです(イザヤ46:9-11)。
神は遍在され(詩篇139:7-12、ヘブル4:13)、すべての空間を超越しておられます。しかし神は、同時にどの空間にも完全に存在されます。神は時間の限界を越える永遠の方です(詩篇90:2、黙示録1:8)が、それにもかかわらずどの瞬間にも完全に存在されます。
神は全能の方です。神に不可能なことはないということは、神はご自身が望むことは成遂げられる方であるということを確信させてくれるものです(ダニエル4:17,25,35、マタイ19:26、黙示録19:6)。神は不変です。神は完全な方だからです。神は、「主なるわたしは変ることがない」(マラキ3:6。詩篇33:11、ヤコブ1:17参照)と仰せられます。以上のような属性は、ある意味で神がどのような存在であるかを決めるものであるゆえに、絶対的なものです。
神の相対的な属性は、人間に対する神の愛の関心から明らかになります。そのような属性には、愛(ローマ5:8)、恵み(ローマ3:24)、あわれみ(詩篇145:9)、忍耐(2ペテロ3:15)、聖(詩篇99:9)、正しさ(エズラ9:15、ヨハネ17:25)、義(黙示録22:12)、真実(1ヨハネ5:20)などがあります。これらの賜物は、それを与えてくださる神ご自身からだけくるものです。
神の主権
聖書は神の主権を明白に教えております。「彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえ……る者はない」(ダニエル4:35)。「あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」(黙示録4:11)。「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる」(詩篇135:6)。ソロモンもこのように言っています。「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」(箴言21:1)。パウロは神の主権を意識して、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」(使徒18:21、ローマ15:32参照)と書いています。一方ヤコブは、「あなたがたは、『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである」(ヤコブ4:15)と警告しています。
予定と人間の自由
聖書は神が世界を完全に支配しておられることを明らかにしています。神は、「御子のかたちに似たものとしようとして」人々を「あらかじめ定め」(ローマ8:29,30)られたが、それは、彼らが「神の子たる身分」(エペソ1:4,5,11)を受け、嗣業を受け継ぐためでした。このような神の主権は人間の自由にとってどのような意味を持っているのでしょうか。
あらかじめ定めるとは「予定」ということです。これらの聖句は、神が勝手にある者を救いにある者を滅びに、彼らの選択に関係なく選ばれたということを教えていると考える人がいます。しかしこれらの聖句を研究してみると、パウロは、神が気まぐれにある者を除外するということについて語っているのではないことが明らかになります。
これらの聖句を考えるときに基本的な考えとして覚えておくべきことは、救いの対象はすべての人であるということです。聖書は、神が「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ2:4)と明白に教えています。神は、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望」(2ペテロ3:9)んでおられます。神がある者を滅びに定められたという証拠はありません。そのような定めは、イエスがすべての者のために死なれたカルバリーを否定するものです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という聖句におけるひとりもは、どのような人でも救われることができるということを意味しています。
「人間の自由意志が個人の運命を決める要素であるということは、神が絶えず従順と不従順の結果を明らかにされ、罪人に従順と命を選ぶように勧めておられると言う事実(申命記30:19、ヨシュア24:15、イザヤ1:16,20、黙示録22:17)から、また信仰者が、恵みをいったん受け入れておきながら、後にそれから離れ失われていくということもありうるという事実(1コリント9:27、ガラテヤ5:4、ヘブル6:4-6、10:29)から明らかです……神は各人がする選択をあらかじめ知っておられます。しかし神の予知は、その選択の結果を決定することはありません……聖書が述べている予定は、キリストを信じるものはすべて救われる(ヨハネ1:12、エペソ1:4-10)という神の目的の結果なのです。」[4]
それでは聖書が、神はヤコブを愛しエサウを憎んだと言っている(ローマ9:13)のはどのようなことを意味しているのでしょうか。また神がパロの心をかたくなにされた(同9:17,18、9:15,16、出エジプト9:16、4:21参照)というのはどのようなことを意味しているのでしょうか。これらの聖句の文脈は、ここでのパウロの関心が救いにではなく伝道にあるということを示しています。あがないはどのような人にも提供されています。しかし神は特別の働きのために特定の人を選ばれます。救いはヤコブにもエサウにも同じように提供されていました。しかし神は、救いの使信を世界にもたらすために神が用いられる一族の家長としてはエサウではなくヤコブを選ばれました。神はご自身の伝道戦略において主権を行使されたのでした。
神がパロの心をかたくなにされたと聖書が言うとき、それは単に、神はご自身が許されることをなされるということを示しているにすぎないのであって、それを定められるということを意昧しているのではありません。神の召しに対してパロが否定的な応答をしたということは、神がパロの選択の自由を尊重されたということを明らかにしています。
予知と人間の自由
神は、人々の選択がなされるまでは、彼らが何を選択するかを知ることなく人々にかかわられると信じている者があります。また、神は未来に起る再臨や千年期や地の回復などのような特定のできごとをご存じであるが、だれが救われるかはご存知ではないと信じている者もいます。彼らは、もし神がすべてを永遠から永遠にわたって見通しておられるとしたら、神と人間の力動的な関係が危険にさらされることになると感じています。神が物事の最初の時点において最後をご存知であったとしたら、神は退屈してしまわれるであろうと言う人もいます。
しかし人間が未来にすることを神がご存じであるからといって、それが、人間が実際にしようとすることを妨害することになるということではありません。それは、歴史家が過去に人々がしたことを知っているとしても、それが人々の行動を妨害するものではないのと同じです。ちょうどカメラがその光景を記録するがそれを変えるものではないように、予知は未来を変えることなしに未来を見通します。神の予知は決して人間の自由を侵すものではありません。
神の内部における力動性
一人の神だけが存在されるのでしょうか。キリストはどのようなお方でしょうか。聖霊はどのような存在でしょうか。
唯一の神
周辺の国々の異邦人とは対照的に、イスラエルは唯一神のみがいますと信じていました(申命記4:35、6:4、イザヤ45:5、ゼカリヤ14:9)。新約聖書も同じく神は一人であることを強調しています(マルコ12:29-32、ヨハネ17:3、1コリント8:4-6、エペソ4:4-6、1テモテ2:5)。この一神教的な強調は、父、子、聖霊からなる三位一体の神というキリスト教的な教えに矛盾するものではありません。むしろそれは、キリスト教には多神教的な神々はいないことを示しています。
神における複数性
旧約聖書は神が三位一体の方であると明白に教えてはいませんが、神のうちに見られる複数性については暗示しています。神についてしばしば複数形の代名詞が用いられています。たとえば次のような聖句にその例がみられます。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1:26)。「見よ、人はわれわれのひとりのように……なった」(創世記3:22)。「さあ、われわれは下って」(創世記11:7)。またときに、主の使が神と同一視されています。モーセにあらわれた主の使はこう言っています。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
神の霊が神と区別されている場合もあります。創造の叙述では、「神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記1:2)とあります。ある聖句は、ただ単に霊に言及しているだけでなく、神のあがないの働きにおける第三位の神にも言及しています。「いま主なる神[父]は、わたし[神の御子]とその霊[聖霊〕とをつかわされた」(イザヤ48:16)。「わたし[父]はわが霊を彼[メシア〕に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす」(イザヤ42:1)。
神の内部における関係
キリストの初臨によって、わたしたちは、三位一体の神についてより明白な洞察をえることになりました。ヨハネによる福音書は、神が、父(本書第3章参照)と子(本書第4章参照)と聖霊(本書第5章参照)からなり、ユニークな神秘的な関係を持つ三つの永遠の位格が統一された存在であることを明らかにしています。
1 愛の関係
キリストは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれたとき、罪が引き起した父なる神との断絶に苦しんでおられました。罪は、人間が本来持っていた神との関係を破綻させてしまいました(創世記3:6-10、イザヤ59:2)。罪を知らない方であるイエスはその生涯の最後のときに、わたしたちのために罪となられました。わたしたちの罪の立場を取られることによって、イエスは、わたしたちの運命である神との断絶を経験され、その結果滅ぼされたのでした。
罪人たちは、イエスの死が三位一体の神にとってどのようなことを意味しているかについて決して理解することはないでしょう。永遠の昔からイエスは父なる神と聖霊とともにおられました。この三位の神は、互いにまったき無私の愛の関係にあっていずれも永遠から存在しておられました。ご一緒にそれほどに長い間存在しておられるということは、三位一体の神の内部に完全で絶対的な愛があることを示しています。「神は愛である」(1ヨハネ4:8)ということは、三位の神が互いのために生きておられるゆえに、そこには愛の完全な成就と幸福とがあることを意味しています。
愛は、コリント人への第一の手紙13章に定義されています。すべてを忍びすべてを耐えるという愛の資質が、完全な愛の関係にある三位一体の神のうちにどのように当てはまるのかについていぶかる者もいます。忍耐はまず反逆した天使たちに対して必要とされ、後には自分勝手な生き方を選んだ人間たちに対して必要とされました。
三位一体の神の各位格の間に距離はありません。すべての位格が神であるとともに、その神の力や資質を共有しておられます。人間の機構においては、最終的な権威は大統領や王や首相のような一人の人に集中します。三位一体の神においては、最終的な権威は三位の位格すべてに等しく与えられています。
三位一体の神は、位格において一つではありませんが、目的や精神や特質においては一つです。この一つである性質は、父、子、聖霊それぞれの特質を抹殺するものではありません。また神の内部において位格が区別されているということは、父と子と聖霊は一人の神であるという聖書の一神教的主張を破壊するものでもありません。
2 働かれる関係
三位一体の神は、それぞれ機能を分担して働かれます。神は不必要に重複して働かれることはありません。秩序は天の第一の法則です。神は秩序にしたがって働かれます。この秩序ある働きは、三位一体の神の一致に発し、またその一致を保ちます。父なる神はすべての源として働かれ、み子は媒介者として、また聖霊は神の恵みを具体的なものにしそれを適用するものとして働かれます。
キリストの受肉には、神の三位格の働きの関係が見事に表れています。父は子を与え、キリストはご自身を与え、聖霊はイエスを誕生させられました(ヨハネ3:16、マタイ1:18,20)。み使がマリアに言った証しには、神が人間になられるという奥義における三位一体の神の働きが明白に示されています。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」(ルカ1:35)。
三位一体の神の各位格は、キリストがバプテスマを受けられたときに表れました。父なる神は励ましを与え(マタイ3:17)、キリストはわたしたちの模範としてバプテスマを受け(マタイ3:13-15)、聖霊はイエスの働きを強化するためにご自身をイエスに与えられました(ルカ3:21,22)。
その生涯が終りに近づいたとき、イエスは助け主として聖霊を送る約束をされました(ヨハネ14:16)。その約束がなされた数時間後、十字架につけられたイエスは父に向かって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。救いの歴史の頂点であるこの瞬間において、父と子と聖霊はすべてそれぞれの働きをしておられました。
今日、父なる神とみ子は、聖霊をとおしてわたしたちにみ手を延ばしておられます。イエスは言われました。
「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)。父と子はわたしたちにキリストを明らかにするために聖霊を遣わされます。三位一体の神が負われている大きな重荷は、神とキリストの知識をすべての人に伝え(ヨハネ17:3)、イエスを今も生きておられる現実の方として示すことです(マタイ28:20、ヘブル13:5参照)。ペテロによれば、信じる者たちは、「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」(1ペテロ1:2)です。
「使徒祝祈禱」と呼ばれる祈りにも三位一体の神が明らかです。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(2コリント13:14)。この祈りでは、三位のうちキリストが最初にきています。神の人間との接触点は、人間となられた神であるイエス・キリストでしたし、神が今も人間と接触されるのは、イエス・キリストをとおしてです。三位一体の神のすべての位格が人間の救いのために協力して働かれるとはいえ、人間として生き、人間として死に、わたしたちの救い主となられたのはイエスだけでした(ヨハネ6:47、マタイ1:21、使徒4:12)。しかし、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」(2コリント5:19)られたゆえに、神はわたしたちの救い主であるとも言われます(テトス3:4参照)。というのは、神は救い主キリストをとおして、わたしたちを救って下さったからです(エペソ5:23、ピリピ3:20、テトス3:6参照)。
役割を分担することによって、三位一体の神の各位格は、人間を救うことにおいてそれぞれ異なった責任を全うされました。聖霊の働きは、キリストが十字架でなされた完全な犠牲に何かを付け加えることではありません。聖霊をとおして、十字架における客観的な贖罪が主体的に適用されて、贖罪のキリストとして心の中にもたらされるのです。パウロが、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(コロサイ1:27)と語っているとおりです。
救いの焦点
初代教会は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施しました(マタイ28:19)。しかし神の愛と目的が啓示されたのはイエスをとおしてであったため、聖書はイエスに焦点を当てております。イエス・キリストは旧約聖書の犠牲制度やさまざまな祭儀に予表されていた希望です。キリストはまた福音書の中心部分を占めているお方です。イエス・キリストは弟子たちの説教や書き物の中で「祝福に満ちた望み」として明らかにされている「良きおとずれ」です。旧約聖書はキリストがこられることを待ち望み、新約聖書はイエス・キリストの初臨について報告するとともに再臨を待ち望んでいます。
神と人間の仲保者であるキリストは、このようにしてわたしたちを神に結びつけられました。イエスは「道であり、真理であり、命」(ヨハネ14:6)です。良きおとずれの中心は単なる行為ではなく人格にあります。それは単に法則にだけではなく関係にかかわっています。キリスト教はキリストであるからです。わたしたちは、キリストのうちにすべての真理と命の中核と内実と背景とを見いだします。
十字架を見るとき、わたしたちは神の心を深く見ます。拷問の道具である十字架の上で、キリストはわたしたちに対する神の愛を注ぎ出されました。キリストをとおして三位一体の神の愛がわたしたちの傷ついた空しい心を満たしました。イエスは神の賜物としてまたわたしたちの身代りとして十字架につけられました。カルバリーにおいて神はわたしたちと会うために地の最も低いところへと下ってくださいました。しかしそこはわたしたちが行くことのできる最も高いところです。わたしたちがカルバリーのもとに行くとき、わたしたちは神のもとに行くことができる高みに上っているのです。
十字架において、三位一体の神は無私の心を完全にあらわされました。そこには、神についての最も完全な啓示がありました。キリストは人間になられ、人類のために命を失われました。キリストは何者にも頼らないで存在することのできる力よりも無私の精神の方を大事にされました。十字架において、キリストはわたしたちの「義と聖とあがない」(1コリント1:30)とになられました。わたしたちが持っているあるいはこれからもずっと持ち続けるであろうものが何であれ、それは十字架におけるキリストの犠牲に発するものです。
唯一の真の神は十字架の神です。キリストは、三位一体の神の無限の愛と救いの力を、宇宙に明らかにされました。キリストは、反逆した惑星を無条件に愛したもうゆえに、断絶の苦しみを喜んで経験される三位一体の神を明らかにされました。この十字架から神はご自身の愛を宣言され、わたしたちを次のように招かれるのです。和解を受けなさい。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:7)。
[1]ゴードン・R・ルイス『あなた自身の決断―神学的研究』(Gordon R.Lewis,Decide for Yourself:A Theological Workbook(Downers Grove,IL:Inter Varsity Press,1978))15ページ。
[2]神の存在についての合理的な証明には、宇宙論的証明、目的論的証明、存在論的証明、人類学的証明、宗教学的証明などがあります。これらについては次の文献を参照のこと。T・H・ジェミソン『キリスト教信仰』(T.H.Jemison,Christian Beliefs(Mountain View,CA:Pacific Press,1959))72ページ。
リチャード・ライス『神の支配』(Richard Rice,The Reign of God(Berrien Springs,MI:Anderws University Press,1985))53-56ページ。証明と言われるこれらの論議は、神の存在を証明するものではなく、神が存在するという強い可能性を示すものにすぎません。究極的には、神の存在は信仰に基づくものです。
[3]ヤハウェは旧約聖書における聖なる神の名(出エジプト3:14,15,6:3)の「推測される音訳」です。これは原語のヘブライ語では4つの子音YHWHからなる言葉です。後に神の名を汚すことを恐れることからユダヤ人たちはこの名を声に出して発音することを拒否しました。そしてそのかわりに、YHWHをアドナイと呼びました。7、8世紀になって、ヘブル語に母音がつけられるようになったとき、マソラ学者たち[heburu語旧約聖書の本文確定に努力した学者たち]は、子音のYHWHにアドナイの母音をつけました。そこでできた語がエホバという語で、やがて英語欽定訳で用いられることになりました。他の訳はヤハウェもしくは主という語を当てています。「ヤハウェ」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』改訂版(Siegfried H.Horn,Seventh-day Adventist Bible Dictionary,Don F.Neufeld,ed.,rev.ed.,(Washington,D.C.:Review and Herald,1979))1192,1193ページ参照。
[4]「予定」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』(Don F.Neufeld,ed.,rev,ed,(Washington,D.C.:Review and Herald,1976))244ページ。
*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。