この記事のテーマ
神との関係は最も重要
神は私たちに神を敬い、礼拝するように求められますが、それは神が私たちの造り主であって、私たちがその存在を神に依存しているという事実にもとづいています。どのように神を敬い、どのように聖なる恐れと愛をもって神に仕えるべきかを理解することは、私たちの人生で最も重要なことです。
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして
イエスは「律法全体と預言者」(マタイ22:40)の基礎となっている二つの原則についてお語りになりました。その第一の原則は申命記(6:5)から、また第二の原則はレビ記(19:18)から取られています。申命記には次のように書かれています。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」。レビ記にはこれと同じ言葉はありませんが、そこにはやはり同じ原則が教えられています。
神と神に属する物を敬うことの大切さは、出エジプトのときに起こった二つの経験によってはっきりと教えられています。そのうちの一つは、アロンの息子で高い地位にあった祭司、ナダブとアビウの経験です。彼らは、神が十戒をお語りになったあとで、モーセ、アロン、それに70人の長老たちと共に、ンナイ山に登りました。彼らはそこで神の栄光を見、神の臨在の下で契約の食事をしました(出エジプト記24:1、8-11参照)。しかし、二人はのちに聖所での誤った行為のゆえに死ぬことになります。神は人々を平等に扱われます。
二つ目は雑婚によって生まれたイスラエル人の経験です。その人の名はわかりませんが、父親はエジプト人で、母親はイスラエル人でした。彼は争いの中で公然と主の御名をのろい、汚しました。神は彼を石で打ち殺すように命じられました。
神は愛のおかたであると同時に、聖なるおかたです。被造物は神のみまえで恐れと敵意をあらわすべきです。神は聖なるおかたなので、神に関連のあるものもすべて(安息日、教会、礼拝)は聖です。今回は、神と神に聖なる物を敬うべきことについて学びます。
聖なる務め(レビ記10:1-11)
レビ記には、前半と後半に一つずつ、歴史的な出来事が記録されています。最初の記録は、新たに献身した祭司の家族がその聖なる務めの第一日目に経験した悲劇です。
質問1
アロンの息子のナダブとアビウは、神の怒りを招くようなどんなことをしましたか。このさばきはなぜこれほど突然で、厳しいものでしたか。レビ記10:1、2
ナダブとアビウは、二人の兄弟およびアロンと共に、イスラエルで最高の霊的職務を担っていました。彼らは聖なる神とその民とのあいだの仲介者でした。彼らはイスラエルの前に模範的な神の民となるべき人物でした。しかし、彼らはカインと同様に神の教えにそむきました。彼らは、燔祭の祭壇の上の聖なる火からでなく、普通の火から取った炭火で香をたきました(レビ記16:12参照)。彼らはまた至聖所にも入ろうとしたようです(レビ記16:1、2参照)。
質問2
モーセは神の代弁者として、これらの祭司に下った神のさばきをとのように説明していますか。このことは今日、聖なる務めに携わる者たちにどんなことを教えていますか。レビ記10:3
神の選民はもっとよく知るべき
「モーセの言葉をだいたい次のように言い換えることができる。『神により近い者は神の聖潔と栄光に関してより深い注意を払わなければならない』。この言葉の裏には、大祭司の息子はこのように尊大に振る舞うべきでないという意味が隠されている。……イスラエルで最大の指導者であったモーセは、神の命令からわずかにそれたために、その生涯の望みをかなえてもらえなかった(民数記20章)。『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから」である(民数記20:12)」(G・J・ウェナム『レビ記』156ページ)。
「真理の教師として働く者たちのうちに、キリストの学校で重要な教訓を学ぶ必要のある者たちがいる。牧師たちは神の回心の力を体験していなければならない。そうでなければ、彼らはほかの働きを求めるべきである。もしキリストの使者たちが人々に真理を伝えることの厳粛さに気づいているなら、彼らはまじめで、思慮深い者、神と共に働く者となるであろう。もしキリストが弟子たちに与えられた使命の真の意味を理解しているなら、彼らは敬虔な心でみことばを開き、主の教えに耳を傾けるであろう。生ける者と死せる者とのあいだに立つとき、自分たちの手のわざに関して神に申し開きをしなければならないということを理解できるよう、彼らは天よりの知恵を求めるのである」(『牧師へのあかし』142ページ)。
質問3
これら二人の祭司たちはどんな肉体的状態のもとで、不注意にも礼拝の務めに携わりましたか。レビ記10:8-11
ラビの伝承によれば、ナダブとアビウは酒に酔って冒とくの罪を犯しました。
「もしもナダブとアビウが、初めから酒をほしいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。彼らは神の臨在のあらわれる聖所にはいる前には、細心の注意を払って、厳粛に準備することが必要であることを承知していた。だが、彼らは不節制によって、清い職務にたずさわる資格を失ってしまった。彼らの心は混乱し、道徳的感覚は鈍り、神聖なものと世俗のものとの区別ができなくなってしまった」(『人類のあけぼの』上巻427、428ページ)。
質問4
自分の過ちのゆえに懲らしめや叱責を受ける人々にむやみに同情することは、かえって彼らにどんな害を与えますか。
「自分の罪の言い訳をしようとする罪人に対して、まちがった同情を示す者を、神は責められる。罪には道徳的な感覚を失わせる作用があり、そのために悪を行なう者は、その罪の大きさを自覚しない。そして、それを悟らせる聖霊の力がないので、彼は自分の罪に対してなかば盲目的な状態に陥っている。このような罪に陥っている者に、その危険を教えるのは、キリストのしもべたちの務めである。罪の本性と罪から生ずる結果に対して、罪人の目を盲目にさせて警告の効力を失わせる者は、そうすることが自分たちの愛の証拠であるとうぬばれがちである。しかし、実は、彼らは神の聖霊のわざに正面から対立して、これを妨げるために働いている。彼らは、罪人を欺いて、滅亡の断崖にいこわせている。彼らは、自分たちでその罪にあずかり、罪人が悔い改めないことの恐るべき責任を背負っている。このまちがった同情の結果、実に多くの人々が滅びに陥ってしまった」(『人類のあけぼの』上巻427ページ)。
霊的礼拝(レビ記20:1-5、26:2)
質問5
イスラエルはカナンで、たえずどんな誘惑にさらされていましたか。現代のクリスチャンはとうでしょうか。レビ記18:21、20:1-5 (ヨハネ第I 5:21比較)
偶像礼拝はときには非常に残忍で堕落的な形態をとりましたが、イスラエルはシナイからバビロン捕囚の終了まで絶えず偶像礼拝の誘惑にさらされてきました。心の中の偶像礼拝(エゼキエル書14:3)はアダムの時代から今日まで、すべての信者の誘惑となっています。十戒の第1条はすべての信者にたえず献身と再確認を求めています。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20:3)。
第ーとすべきもの
「永遠に自存し、創造されたおかたでなく、自らすべてのものの根源であって維持者であられる主だけが、最高の尊敬と礼拝をお受けになる資格がある。人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたけるようなものを心にいだくときに、われわれはそれを自分の神としているのである」(『人類のあけぼの』上巻356ページ)。
質問6
偶像礼拝は繰り返し禁じられていますが、これに加えて、神は現代にもあてはまるどんな二つの命令を与えておられますか。レビ記26:1、2(19:30比較)
安息日は信者の心をたえず創造主なる神に向けさせるものです。今日の教会での福音の説教と同じく、聖所も信者の心をたえずあがない主なる神に向けさせてくれます。安息日を守らず、教会に出席しないでいると、次第に神を忘れるようになります。
質問7
主は出エジプト記31:13-17で、霊的イスラエル(教会)にとっても真理である安息日に関するどんな三つの重要な真理を強調しておられますか。
印としての安息日の戒め第4条の戒めである安息日の戒めは、十戒の最初の板をしめくくるものです。最初の4条は創造主に対する私たちの義務を規定しています。第4条は、いわば十戒を封印する働きをしています。それが十戒を与えた天地の創造主を指し示しているからです。
出エジプト記31章は安息日の三つの面を強調しています。安息日は次の事実のしるしです。(1)罪から清め、あがなう神の力。(2)創造する神の力。(3)神と神の民とのあいだの契約関係。罪人を清める(罪人を罪から離す)ためには、新しい生命を再創造する神の力が必要です(詩篇51:10、コリント第II 5:17参照)。
「安息日は創造と救済の力のしるしである。それは生命と知識の源として神をさし示している。それはまた世の初めに人に与えられていた栄光を思い出させ、このようにしてご自身のかたちにかたどってふたたびわれわれを創造される神のみこころをあかししている。安息日と家庭は同じようにエデンにおいて定められ、神の目的の中にあって切っても切れない密接なつながりを持っている。…… 神の愛によって、労働の必要は制限されている。安息日の上に神は慈愛のみ手を置かれている。神は、ご自身の日に、家族の者が神と交わり、自然と交わり、またお互いに交わる機会を保存されている」(『教育』296、297ページ)。
質問8
イスラエルは聖所に対してどんな態度をとるべきでしたか。レビ記26:2。
私たちは教会でどのように振舞うべきですか(伝道の書5:1、2参照)。
「へりくだって、信じる魂にとって、地上の神の家は天の門である。キリストの代表者たちによって語られる賛美の歌、祈り、言葉は、人々を天の教会、つまり汚れた者の人ることのできないあの高い礼拝に備えさせるための、神の定められた方法である。……神の家を尊ぶ気持ちはほとんどなくなってしまっている。聖なる物や場所が見分けられなくなっている。聖なるもの、崇高なものが認識されていない。……輝かしい真理の光が与えられている私たちは神の家に対するヘブル人の敬虔さを学ぶためにも、神ご自身によってヘブル人に与えられた教えをしばしば読むべきである。……私たちはユダヤ人以上に、その礼拝において注意深く、敬虔でなければならない」(『教会へのあかし』第5巻491、492、495、496ページ)。
敬虔な言葉(レビ記24:10-16、23)
レビ記に記されているもう一つの出来事は、宿営で二人の男たちのあいだで起こった争いです。一人は純粋なイスラエル人で、もう一人は出エジプトのときイスラエルと運命を共にした「多くの入り混じった群衆」の一人でした(出エジプト記12:38)。この入り混じった群衆の中にはエジプト人だけでなく、イスラエル人と結婚したエジプト人もいたわけです。この男の場合は、父親がエジプト人で、母親がダン族のイスラエル人でした。
質問9
争いが頂点に達したとき、混血の男はどうしましたか。神からの直接的指示を求めることになったこの罪は、どれほど重大なものでしたか。レビ記24:10-12
質問10
神はどんな指示をお与えになりましたか。このさばきはなぜこれほど厳しいものだったのでしょうか。証人が被告人の頭に手を置いたのはなぜでしょうか。レビ記24:14-16、23、5:1
自分の両親に反逆して、彼らをのろった者の扱い方は、すでに明示されていました(出エジプト記21:17)。しかし、神の御名を冒記、のろうことによって神に背いた者に対する指示は与えられていませんでした。冒とくとは神を中傷し、侮る行為です。怒りから出た不適切な言葉は、その男の本性を表していました。このさばきは現代の、寛容な社会に生きている私たちにとっては厳しいように思われます。しかし、この男が罰せられることによって、ほかの人々は反逆と不従順におちいることを免れたのでした。
愛と正義は報復を求める
「このようなきびしい刑罰が、興奮のあまり口にした言葉に課せられるなら、果たして神は愛と正義の神であろうかという疑問をもつ人々もあろう。しかし、神に敵意をいだいて発した言葉は大罪であることを示すことは、愛も正義もともに要求するところである。最初の違反者に与えられた罰は、他の者に対して、神のみ名を敬わなければならないという警告であった。しかし、もしこの人の罪が罰せられずにすんだならば、他の者たちは、規律を乱し、そのために多くの人の命が犠牲にされたことであろう」(『人類のあけぼの』下巻4ページ)。
冒とくは第3条の戒めを犯す
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20:7)。聖書では、「名」は人格、品性を表します。
質問11
神に従う者たちはとのように神の「名」を敬い、またそれを汚しますか。イエスの祈りに答えて、神の御名はどのように「あがめられ」ますか。マタイ6:9(テモテ第1 6:1)
主の御名をみだりに唱えることは言葉についてばかりでなく、生活全般についても言えます。クリスチャンは父と子と聖霊との「名によって」バプテスマを受けています(マタイ28:19参照)。したがって、私たちはその生き方によって聖なる神の御名をあがめ、また汚すのです。それは、両親が子供の行いによって「知られる」のと似ています。神の御名によって呼ばれること、神の家族の一員となることは特権です。それはまた軽々しく扱ってはならない重大な責任です。
「神はあなたがたを神の代表者として世におつかわしになる(ヤコプ2:7参照)。生活のあらゆる行ないのうちに、あなたがたは神のみ名をあらわすべきである。この願いは、神のご品性を持つことを要求する。生活と品性において神のいのちとご品性そのものをあらわさないならば、神のみ名をあがめることも、世に神をあらわすこともできない。このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみなされるのである」(『祝福の山』134ページ)。
質問12
不遜な人も回心して敬虔な生活を送ることができますか。テモテ第I・1:12-15
「神のみまえに出る者はみな、謙遜で敬虔な態度を身につけるべきである。私たちはイエスの御名によって確信をもってみまえに出ることができる。しかし、イエスが私たちと同じ地位にいるかのように、大胆にうぬほれをもって近づいてはならない。近づきがたい光の中に住んでおられる大いなる、全能の、聖なる神に対して、あたかも同等の、いやそれ以下の者に対して呼びかけるかのように呼びかける者たちがいる。この世の支配者の謁見室では考えられないような振る舞いを、神の家でする者たちがいる。セラピムもあがめ、御使いたちもそのみまえで顔をおおうおかたの前に、自分たちがいるということを、覚えるべきである。神は大いにあがめられるべきおかたである。神の臨在を本当に認める者たちはみな、神のみまえに謙虚にひれ伏す」(『今日のいのち』281ページ)。
まとめ
十戒の第1条から第4条までは、神に対する私たちの義務を規定しています。レビ記に記されてある数々の経験と勧告は、私たちの仕える神の聖潔と威厳について教えることによって、十戒のこの面を明らかにしています。安息日を楽しく守ることによって、また教会の礼拝に忠実に出席することによって、私たちは神を中心とした生活を送ることができます。神を私たちの生活の中心とするとき、私たちは敬虔に神に仕えることができます。
*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。