

この記事はこんな人におすすめ!
・カトリックやローマ教皇について、基本から知りたい
・ニュースや社会問題で注目されるローマ教皇について、調べたい!
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ローマ教皇とは、どのような存在なのでしょうか。
カトリック教会の最高指導者としての役割や権限、教会内での地位と歴代の有名な教皇の働きをわかりやすく解説します。
カトリック教会の最高指導者|ローマ教皇とは?
ローマ教皇の役割と権限
ローマ教皇(Pontifex Romanus)はカトリック教会の最高指導者であり、以下のような称号と役割を担っています。
- イエス・キリストの代理者
- 使徒たちのかしらの後継者
- ローマ・カトリック教会の最高司教
- イタリア首座司教・ローマ管区首都大司教
- バチカン市国の元首
教皇は、キリストの代理者であり、完全・最高・普遍の権限を有し、これを常に自由に行使できます。また、教義の不謬性を保持し、信仰と道徳に関する教えについては最終的な決定権を持つとされます。



つまり、カトリックの教えを宣言することができるんだね!
ローマ教皇とローマ法王の違い
日本ではかつて「ローマ法王」という表記も使われていましたが、1981年2月、ヨハネ・パウロ二世の訪日に際して日本のカトリック司教団は「ローマ教皇」に表記を統一しました。
この変更は、「教える」という字の方が教皇の職務をより的確に表していると判断されたためです。
プロテスタントがローマ教皇を受け入れない理由
聖書についての価値観の違い
プロテスタントは、カトリック教会に対する宗教改革により生まれた教派であり、教皇の権威を認めていません。
特に、プロテスタントは「聖書こそが信仰の土台」と考え、誰でも聖書を読み、自分で解釈できるとします。特定の聖職者の言葉に権威があるとは考えていないのです。
そしてその頂点に立つのがローマ教皇であり、教皇の言葉には特別な教導権があるとされています。
このように、「聖書を誰がどう読み、どう解釈するのか」という点が、両者の信仰姿勢の大きな違いのひとつです。
891 司教団体の頭であるローマ教皇は、その職務の権能により、この不謬性を持つのであって、それは自分の兄弟たちを信仰に固める任を持つすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときです。教会に約束された不謬性は、司教団体がペトロの後継者とともにその最高の教職を行使するとき、 司教団体の中にも存在します」425)。 それはとくに公会議において行使されます。 教会が、 その最高の教導職によって、あることがらを「信ずべき神の啓示として」 426)、 またキリストの教えとして宣言するとき、それらの決定については「信仰の従順による同意が要求されます」427。 この不謬性は、「神の啓示の遺産の広がりと同じ広がりを有します」 428)


教会・教皇についての価値観の違い
ローマ・カトリックはマタイによる福音書16章18ー19節を根拠に、カトリックは教皇はペトロの後継者であるとしています。これは、ペトロが岩という意味を持つからです。また、これはペトロがローマの地で亡くなったことも関係しています。
しかし、プロテスタントはこれを否定しています。
私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」
マタイによる福音書16章18ー19節
イエスはペトロに「あなたはペトロ(岩)」と言いましたが、これはペトロが教会の土台になるという意味ではありません。ペトロ自身が、教会の土台はキリストだけだと教えています(使徒言行録4章8–12節、ペトロの手紙一・2章4–8節)。
また、イエスは「捨てられた石が、隅のかしら石になった」と語り(マタイによる福音書21章42節)、ご自身が教会の基礎であることをはっきり示しました。
旧約聖書でも「岩」という言葉はいつも神を指して使われています(申命記32章4節、詩編18編2節)。
つまり、この聖書の言葉における「岩」はペトロではなく、キリストのことです。
ローマ教皇の選び方 ― コンクラーベとは?
コンクラーベの流れと手順
教皇はコンクラーベという選挙によって選ばれます。「コンクラーベ」とは、ラテン語で「鍵と共に」を意味し、教皇選挙の場所と選挙者の集団を指します。
選挙はシスティーナ礼拝堂で行われ、80歳未満の枢機卿(最大120名)が参加します。
選挙は、前教皇の死去または退位から15日以上経過後に行われます。
選出には3分の2以上の得票が必要で、選挙が長引く場合は祈りと熟慮の期間を挟みつつ繰り返され、選挙は、被選出者が同意した時点で終了します。
歴代の有名なローマ教皇
グレゴリウス7世と叙任権闘争|教会改革の転機となった教皇
教皇グレゴリウス7世は、聖職者の叙任に世俗の権力者が介入すべきではないとし、1075年に『教皇令』を発布します。
- ローマ教会は神によって建てられた教会である
- 教皇のみが正統で普遍的な存在である
- 教皇は無謬(過ちを犯さない)である
- 教皇のみが司教たちを廃位し、皇帝たちを罷免できる
これによりグレゴリウス7世は、教皇は世俗の権力者より上位にあるとしたのです。
帝国の中心的な存在である司教の任命権を手放すわけにはいかない、皇帝ハインリヒ4世が反応し、大論争が始まります。
ハインリヒ4世は教皇の廃位を決め、それに対して教皇グレゴリウス7世は皇帝を廃位し、破門すると言って対抗します。
当時の教会の教えでは、破門は地獄に落ちることを意味していました。
加えて、帝国内の諸侯は教皇に従わなければ新しい皇帝を選ぶという立場をとったために、ハインリヒ4世は1077年1月、グレゴリウス7世のいる北イタリアのカノッサ城に行き、許しを求めたのです。
この出来事はカノッサの屈辱といわれ、教皇の権威を示した出来事でした。


ウルバヌス2世と第一回十字軍|教皇が呼びかけた聖戦の背景


この頃、人気があった巡礼地の一つであるエルサレムが、セルジューク・トルコの手に落ち、巡礼が困難になりました。
加えて、セルジューク・トルコの進出に脅威を覚えた東ローマ帝国は、教皇を通じて西ヨーロッパ諸国に助けを求めていたのです。
これにより、教皇ウルバヌス2世は聖戦を決議し、十字軍が結成されます。
ウルバヌス2世は、参加者には贖宥(罪の償いの免除)が与えられる(贖宥の特権)と説いていきます。これは、当時の人々にとって重要な意味を持っていました。
カトリック教会の教えでは、死後、煉獄へ行き、さまざまな苦しみを経て、天国に行くと教えていたからです。
人々は、贖宥を受けることで天国に近づけると信じていました。
ボニファティウス8世と教皇権の頂点|王権との対立の歴史
教皇ボニファティウス8世(在位1294〜1303年)は、ローマ教皇の権威を絶対的なものとするために尽力し、同時に世俗の王たちとの激しい対立に身を投じた人物です。彼は以下のような課題に取り組みました。
- 教皇権威の高揚
- ヨーロッパの平和維持
- 聖地奪還(十字軍)の推進
ボニファティウス8世は、フランス国王フィリップ4世と激しく対立します。特に大きな出来事が以下の通りです。
1302年|教書『ウナム・サンクタム』を発布
- 教皇権は俗権(国王など)より上にあると明言。
- すべての人間は教皇に従わなければ救われないと宣言。
これに対し、フィリップ4世は翌年、和解を拒否し、先手を打ちます。
1303年|アナーニ事件の勃発
- フランス王の顧問官ノガレとローマ貴族のコロンナ家の私兵が、教皇をアナーニで急襲・監禁。
- 3日後に市民によって救出されるが、その後、屈辱と心労が原因でローマに戻り、約1か月後に死去。
この事件を境に、教皇権は急速に衰退していきます。


ヨハネ・パウロ2世|世界を駆け巡った「空飛ぶ教皇」
第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(在位1978年10月16日〜2005年4月2日)は、20世紀後半のカトリック教会を象徴する存在で、455年ぶりの非イタリア人教皇(前任は1522年のハドリアヌス6世)でした。
- ナチス占領とその後の共産党政権に苦悩したポーランドの教会出身。
- 1978年に教皇に就任し、26年超の在位中に世界中を歴訪。その積極的な外交姿勢から「空飛ぶ教皇」と呼ばれました。
- 1981年2月には日本を訪問し、教皇として初めて来日したことでも知られています。
その功績をたたえ、教皇フランシスコは2013年7月5日、彼を列聖(聖人認定)する教令を承認しました。これにより、聖ヨハネ・パウロ2世として正式にカトリック教会の聖人の列に加えられました。
ベネディクト16世の退位とその衝撃|600年ぶりの決断が教会に残したもの
第265代ローマ教皇ベネディクト16世(在位:2005年4月19日〜2013年2月28日)は、本名ヨゼフ・ラッツィンガー。
1927年4月16日、ドイツ・バイエルン地方のマルクトル・アム・インに生まれました。
神学者としての道と公会議顧問
- 戦後、ミュンヘン大学とフライジング大学で哲学と神学を学び、1951年6月29日に司祭に叙階。
- 1953年に「聖アウグスチヌスの教会論」で神学博士号を取得。その後ドイツ各地の大学で教義・基礎神学を教える。
- 1962年、35歳でケルン大司教ヨセフ・フリングスに同行し、第2バチカン公会議の顧問に任命。
- 神学的知見と整然とした論理で評価され、現代カトリック神学を代表する人物となる。
教皇としての在位と退位
- 教皇ヨハネ・パウロ2世の死後、2005年に教皇に選出。
- 教皇庁教理省長官としても長く務めていたことから、「信仰と教義の番人」とも呼ばれた。
- 2013年2月、前例のない辞任を表明。高齢を理由に、通常は終身制である教皇職から自ら退いたこの決断は、世界に衝撃を与えました。約600年ぶり(前例は1415年のグレゴリウス12世)の教皇退位となります。
フランシスコ|環境に向き合った南米出身の教皇
第266代ローマ教皇フランシスコ(本名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は、1936年12月17日、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれです。イエズス会士として司祭となり、2001年に枢機卿に叙任されました。
2013年3月13日、南米出身としては初めての教皇に選出されました。公邸には住まず、質素な宿泊施設で生活し、「貧しい人々のための教会」を掲げました。
移民・貧困・環境問題など、社会的弱者への支援と地球規模の課題に力を注ぎ、他宗教との対話や教会改革も進めました。また、回勅『ラウダート・シ』を発表し、環境保護の重要性を訴えます。2025年4月21日、88歳で逝去しました。
教皇レオ14世|新時代の教皇
教皇レオ14世(ロバート・フランシス・プレヴォスト)は、2025年5月8日に第267代ローマ教皇として選出されました。アメリカ・シカゴ出身で、カトリック教会史上初のアメリカ生まれの教皇です。彼はアウグスチノ会修道士であり、ペルーでの長年の宣教活動を通じて、米国とペルーの二重国籍を取得しています。
教皇名「レオ」は、社会正義を重視した教皇レオ13世への敬意を表しています。選出後の最初の演説では、「すべての人に平和を」と述べ、ウクライナやガザでの戦争終結を呼びかけました。
まとめ
カトリックとプロテスタントの大きな違いは、「聖書の解釈権」と「信仰の拠り所」にあります。カトリックでは、教会が聖書を正しく解釈する権威を持ち、その中心にいるのがローマ教皇です。
一方プロテスタントは、聖書こそが唯一の基準と考え、誰もが自由に読み、理解できるとします。この立場の違いが、信仰の姿勢や教会のあり方に大きな影響を与えています。
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参考文献
- カトリック中央協議会ホームページ、https://www.cbcj.catholic.jp/faq/popeofrome/、閲覧日: 2025年05月12日.
- コトバンク『改訂新版 世界大百科事典』閲覧日: 2025年05月14日.
- Francis D. Nichol, ed., The Seventh-Day Adventist Bible Commentary, vol. 5 (Review and Herald Publishing Association, 1980), 430–432.