神の葛藤【ホセア書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:ホセア書は、強情な神の民に対する神の愛についてさらに多くのことを啓示しています。

目次

この記事のテーマ

御自分の民に対する神の愛の関係について語るときに、聖書記者がよく用いる方法は比喩を使うことです。比喩は、すでに知られていることや身近なものを通して、あまり知られていない主題について深い内容を伝えます。比喩は象徴であって、そのもの以外の何かを説明するために用いられます。

御自分の民と神の関係に関して、最も一般的に用いられる聖書の二つの比喩は、夫と妻、親と子についての比喩です。前回は、夫と妻の比喩について学びました。今回は、もう少しホセアの比喩について学びます。最も多く用いられているのが親と子についての比喩です。

ホセアが比喩を用いたのは、イエスがたとえによって教えられたのと同じ理由からでした。第一に、生活の中の身近なものを通して神についての真理を説明するためであり、第二に、毎日の生活の中で実践することのできる重要な霊的原則を人々の心に印象づけるためでした。

愚かで、悟りがない

問1

「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求めあるいは、アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするときわたしはその上に網を張り網にかかった音を聞くと空の鳥のように、引き落として捕らえる」(ホセ7:11、12)。前後関係を念頭において、これらの聖句を読んでください。ここに、どんな警告が与えられていますか。これらの聖句から、どんな原則を学ぶことができますか。

エフライムはヨセフの第2子の名前でした。エフライムはイスラエルの北王国の主要な氏族の名前だったので、この名前が王国全体に適用されています。ユダという名前が南王国に適用されたのと同じです。上記の聖句において、イスラエルは容易に鳥猟者の網にかかる、悟りのない鳥にたとえられています(エレ5:21比較)。この意味において、イスラエルが他国の援助に頼ることは神に対する反逆行為でした。

なぜでしょうか。強力なアッシリア帝国や野心的なエジプトと同盟することは、これら二つの超大国によって崇められている神々の優越性を認めるようにイスラエルに要求することになるからです(イザ52:4、哀5:1~6参照)。彼らに従うことは、必然的に、主から離れることを意味します。彼らに必要なのは、主に立ち帰り、悔い改め、主の戒めに従い、偽りの神々と決別することでした。これが彼らの唯一の希望でした。異教徒と政治的な同盟を結ぶことではありませんでした。

「パレスチナという位置そのもののゆえに、イスラエルはこれら二つの古代帝国の侵略にさらされていた。……これら強大な帝国が争っていた魅力的な獲物はナイルの肥沃な流域とユーフラテスとを結ぶこの交通路であった。イスラエルとユダの両王国はこの国際的な紛争に巻き込まれ、二つの敵対国に挟まれていた。絶望のうちに、神に対する霊的な信頼のないままに、イスラエルはまず一方に、次に他方に支援を求めた。それはイスラエル自身の国家的安泰に対する罠となるにすぎなかった」(『SDA聖書注解』第4巻908ページ、英文)。

飼い馴らされた雌の子牛

問2

ホセア書10:11~13を読んでください。主はここで御自分の民に何と教えておられますか。「主が来て、あなたがたに義を注いでくださるまで」とは、どんな意味ですか(ホセ10:12、新国際訳)。

ホセア書10章で、神の子エフライムは、穀物を脱穀するのを好む飼い馴らされた雌の子牛にたとえられています。脱穀しながら、穀物を食べることができるからです。このように、イスラエルは有用な存在になる代わりに、自己中心的になっていました。本来あるべき姿として野外で働かせるために、神がイスラエルに軛をかけるとき、正義と慈しみが増し加わるのでした。

聖書の時代には、軛は奉仕の手段でした。運搬用の若い動物はまず、打穀場で働くことによって飼い馴らされました(エレ50:11)。これらの動物は軛につながれて、ひたすら足で穀物を脱穀しました。次の段階になると、彼らは穀物の上に打穀機を引きました(サム下24:22)。この種の仕事は、畑の畝を耕すという、より困難な仕事への備えとなりました(王上19:19、エレ4:3)。神はイスラエルを訓練するための同じ計画を持っておられました。神はエフライムの美しい首に軛をかけ、懸命に土を起こし、耕させようとしておられました。

預言者はホセア10:12で、主がイスラエルを御言葉への服従を通してどのような者にしようとしておられるのかを明らかにしています。正義と公平は、契約が更新されるときに、神が御自分の妻に約束しておられる賜物です(ホセ2:21)。もし民が正義を蒔くなら、彼らは代わりに慈愛を刈り取るのでした。主と主の御心を求めることによってのみ、イスラエルは来るべき裁きから救われるのでした。神の選民が悔い改めるまで、憐れみの戸は開かれています。

正義を蒔くようにという勧告は、人と人との関係をさしています。神を求めることは、神と神の民との関係をさします。土を耕すことは霊的、社会的な改革と再生を表します。主と主の民は互いに協力して、再び地に祝福をもたらすために働きます。その結果、全地は美しい花々で満ちるようになります(ホセ14:5~7)。

よちよち歩きの子ども

「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。……エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった(ホセ11:1、3)。

ホセアはこれらの聖句の中で、主の導きは新米の親の優しい心遣いに似ていると言っています。親が子どもを倒れないように両手で支え、優しく、忍耐強く、歩くのを教えるように、主は初めからイスラエルを見守られました。愛し、赦される神はホセアのメッセージの中心です。訓練されるときにも、神は深く憐れまれます。神の怒りは恐ろしいものですが、神の憐れみは私たちの理解を超えています。

問3

申命記8:5、箴言13:24、ヘブライ12:6、黙示録3:19を読んでください。これらの聖句に共通していることは何ですか。これらの聖句は私たちにどんな慰めを与えますか。

神はモーセを通してエジプトの王に、イスラエルが御自分の特別な子であると言われました(出4:22、23)。エジプトを含めて、地のすべての民族は神の息子・娘ですが、ヘブライ民族は特別な特権を持った神の長子として選ばれました。しかし、これらの特権には責任が伴っていました。「父が子を背負うように」(申1:31)、主は荒れ野において御自分の民を背負われました。「人が自分の子を訓練するように」(申8:5)、主はときどき彼らを訓練されました。

「この世において、神や人類のために真の奉仕をなす者はすべて苦難という学校にあって準備の訓練を受ける。責任が重ければ重いほど、高い奉仕であればあるほど、その試練は激しく、鍛練はきびしい」(『教育』170ページ)。

当たり前のことですが、自分の子どもを愛する親はだれでも彼らを訓練します。どんな場合でも、子どもたち自身の幸福のためです。もし欠点だらけの、堕落した人間でもそうするのであれば、私たちは、たとえ試練の時であっても、はるかに神の愛に信頼することができるのではないでしょうか。

怒りよりも強い憐れみ

「ああ、エフライムよお前を見捨てることができようか。イスラエルよお前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(ホセ11:8、9)。

これらの聖句は神の御心を知る手がかりとなります。神は御自身の反抗する息子を律法に要求されている通りに石で撃ち殺すために引き渡されるでしょうか(申21:18~21—創19:17~23参照)。これらの聖句は、神御自身が私たちの罪のゆえに苦しまれること、また私たちを救おうと望んでおられることについての驚くべき洞察を与えてくれます。

罪深いイスラエルは完全な滅びに値するものでしたが、主は忍耐強い憐れみのうちに彼らに悔い改めを促す一方で、御自分の民を愛し続けられます。

アブラハムの時代に、死海の南東ヨルダンの低地に、五つの町がありました(創14:8)。「低地の町々」として知られていたこれらの町は、ソドム、ゴモラ、アドマ、シェボイム、ツォアルでした。これらのうち、ツォアルだけが滅ぼされませんでした。ほかの四つの町々の名は、邪悪な生き方のために、また悔い改めないために自らの上に全面的な滅びを招くことのたとえとなりました(申29:23)。ホセアが上記の聖句の中で言及しているのは、これらの町々のことでした。

ホセア書11章は、神の思いが罪深い人間の思いを超えていることを教えています。神は怒りに任せて物事を決定される方ではありません。神の愛は御自分の民に癒しと健康、回復をもたらそうとするのです。神の鍛練の目的は矯正すること、修正すること、和解することであって、滅ぼすこと、復讐することではありません。多くの人たちは、クリスチャンを自認する人たちでさえ、神のこの側面を理解していません。彼らは、神が復讐と怒りに満ちた方、自分たちの罪を罰するためにつねにあら探しをされる方と考えています。それどころか、神が失われた者たちを永遠にわたって地獄の火で焼かれると信じている人たちもいます。しかし、ここに描かれている神はそのような方ではありません。

癒され、愛され、育まれる

問4

学者の中には、旧約聖書に啓示された主は、新約聖書に啓示されたイエスとは対照的に、厳格で、人を赦さない方であると考える人たちがいます。これが全く誤った結論であるのはなぜですか。ホセア書14章のメッセージは、この結論が誤りであることをどのように教えていますか。この章は神の品性と神の民に対する愛についてどんなことを啓示していますか。

ホセア書の最終章は預言者によって宣言されたメッセージにふさわしい結びになっています。それは、神の救いが空しく終わることがないという約束を再確認するものです。本章は、あらゆる罪から離れるようにという再度の招きをもって始まります。預言者は神に立ち帰るように人々に訴えるにあたって、彼らが礼拝で語るべき実際の言葉を用いています。彼らが求めるべきことは、神が自分たちをつまずかせた罪をお取り去りになることでした。彼らはまた、ほかの国民に信頼することをやめ、偶像礼拝を完全に拒否すべきでした。聖書時代においては、人は何も持たずに主の前に出てはなりませんでした(出23:15)。動物の犠牲を携えることに加えて、人々は感謝の献げ物として、真心からの悔い改めの言葉を携えて来るように教えられていました。

人々が悔い改めの告白をするとき、神は一連の約束をもって答えられます。その中で最も重要な約束は、天の医師なる神が人々の病をお癒しになることです。イスラエルに対する神の新たな関係は、長く、乾燥したパレスチナの夏に花や木に注ぐただ一つの水分である露にたとえられています。それはまた、特に貴重で、果樹の中で最高のものとされるオリーブの木にたとえられています。オリーブの葉は日陰と憩いを提供し、その油は食物や化粧水、灯油として用いられました。レバノンの大杉は聖書の国々で最も有用な大木とされています。その高価な材木は神殿や宮殿の建築に用いられました(王上6:9、10)。神によって植えられた根は、青々とした草木を豊かに生い茂らせ、イスラエルは全世界への祝福で満ちた園となるのでした。

さらなる研究

次の二つの引用文をホセア書7~14章のメッセージと比較してください。

「自然を通し、型と象徴とを通し、また父祖たちと預言者たちとを通して、神は世の人々に語っておられた。教訓は人間のことばで人間に与えられねばならない。……神の統治とあがないの計画の原則が明示されねばならない。旧約の教えが十分に人々の前に示されねばならない」(『希望への光』683ページ、『各時代の希望』上巻24ページ)。

「王たちが次々と天の神に大胆に反逆してイスラエルをさらに邪悪な偶像礼拝におとしいれていた長い暗黒時代を通じて、神は、背信した人々に、次々と使命をお送りになった。神は、預言者たちによって、背信の潮流を止め、神に立ち返るようにあらゆる機会を彼らにお与えになった。……罪から人々を救う神の大いなる力についての気高い証言を与えることなくして、イスラエル王国は放棄されてしまうのではなかった。最も暗黒の時代においてさえ、天の支配者に忠実な人々がいくらか残っていて、偶像礼拝のさなかにあってさえ、聖なる神の前に潔白な生活を送ったのである。これらの忠実な人々は、主の永遠のみこころが、ついに成就される多くの残りの民の中に数えられるのであった」(『希望への光』433ページ、『国と指導者』上巻79ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

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