*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。
教会は、あらゆる種族、言葉の違う民、民族、国民の中から召し出された多くの肢体を持つ1つのからだである。われわれはキリストにあって新しく造られたものである。それゆえ、人種、教育、国籍の区別や、階級、貧富の差や性の違いは、われわれの間に不和を生じさせるものであってはならない。すべての者はキリストにあって平等である。そのキリストは1つのみ霊によって、われわれを主との交わりと仲間との交わりに結び入れられた。それゆえ、われわれは偏見や分派心をいだかずに、互いに仕え合うべきである。聖書におけるイエス・キリストの啓示を通して、われわれは同じ信仰と希望にあずかり、同じ宣教の働きに加わってすべての人々に福音を宣べ伝える。この一致の源は、われわれをその子としてくださった三位一体の神の1つなるご性質にある。(信仰の大要14)
地上でのわざを成し遂げられた(ヨハネ17:4)イエスは、死の前夜でさえ、弟子たちの状態を思って嘆き続けられました。
彼らの間のねたみは、キリストの王国では、だれが一番偉いのか、まただれが一番高い地位に選ばれるのかといった論争をもたらしました。謙遜こそが王国の特質であり、イエスに真に従う人は僕であって、感謝されることさえ期待せずに、心から自分自身を捧げなければならないというイエスの教えは顧みられなかったようでした(ルカ17:10)。弟子たちのだれもが、わだかまりのゆえに動こうとしなかったとき、彼らの足を洗うため腰をかがめて示されたイエスの模範でさえ、むだであったようにみえました(本書第15章参照)。
イエスは愛です。群衆をイエスについて行かせたものは、そのあわれみでした。この無我の愛を理解せずに、弟子たちは、いわゆる異邦人、女性、「罪人」、貧しい者といった人々に対し、強い偏見を持っていました。偏見が、これらのきらわれた人々をも含めたすべてのものを愛されるキリストの愛に対し、弟子たちを盲目にしました。評判の悪いサマリヤの女と話しておられるキリストを見たときも弟子たちは、畑がすでに熟し、あらゆる種類の穀物が、刈り取られるべき用意ができていることに気付きませんでした。
しかしキリストは、慣習や世評、さらには家族の圧力にさえ左右されることはありませんでした。キリストの制しきれない愛は、破滅の人類に達し、彼らを回復へと向かわせました。このような愛こそが、無関心な世間から彼らを分かち、真の弟子であることの証拠となるはずでした。キリストが愛されたので、彼らも愛する者となるべきでした。世はクリスチャンを、その言葉によってではなく、彼らのうちにあるキリストの愛の現れによって、見分けることができるようになるべきでした(ヨハネ13:34,35参照)。
それゆえに、ゲッセマネの園においてさえ、キリストの心を占めた主なことがらは、キリストの教会、すなわち「世から」(ヨハネ17:6)選び出された人々の一致でした。キリストは、三位一体の神が経験しておられるのと同じ一致が教会にもあるように、み父に嘆願されました。「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」(ヨハネ17:21)。
このような一致は教会の最も力ある証しの手段となるものです。それは人類に対するキリストの無我の愛の証拠となるからです。キリストは、「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」(ヨハネ17:23)と言われました。
聖書における一致と教会
今日の目に見える教会に対し、キリストはどのような一致を願われたでしょうか。そのような愛や一致はどのようにしたら可能になるのでしょうか。その土台はいったい何でしょうか。それはどのようなもので構成されているのでしょうか。それは画一性を要求するのでしょうか、それとも相違を認めるのでしょうか。教会の一致はどのような形で機能するのでしょうか。
霊の一致
聖霊は、教会の一致の背後にあって動かす力です。聖霊をとおし、信徒は教会へ導かれます。聖霊によって、彼らは「一つのからだとなるようにバプテスマを受け」(1コリント12:13)ます。バプテスマを受けた教会員は、パウロが「聖霊による一致」(エペソ4:3)と表現した一致を持つべきです。
使徒は、霊の一致の基本的要素を列挙しました、「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:4-6)。一つという語が七回用いられていることは、パウロが意図した完全な一致を強調しています。
聖霊は、あらゆる国民や民族から人々を呼び出し、バプテスマを授けて、一つの体、すなわちキリストの体、教会へと加えられます。彼らがキリストに似る者として成長するとき、文化的相違はもはや差別とはなりません。さらに、聖霊は、身分、貧富、男女のへだてを打ちくだかれます。彼らは、神の目には皆等しいことを認め、互いに尊重し合います。
この一致はまた、共同体のレベルでも機能します。これは、どの教会も――たとえ資金や宣教師を他の国から受ける教会であっても――同じ立場にあるという意味です。このような霊的一致は階級組織を知りません。現地の働き人と宣教師は神の前に平等です。
一致した教会は、一つの望み、すなわち、「大いなる神、わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現」のときに実現する救いの「祝福に満ちた望み」を持ちます(テトス2:13)。この望みは平和と喜びの源であり、一致の証しの力強い動機づけとなります(マタイ24:14)。それは品性の変化をもたらします。なぜなら「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」(1ヨハネ3:3)からです。
すべての者が体の一部分になるのは、共通の信仰、すなわち、イエス・キリストの贖いの犠牲に対する個人的な信仰をとおしてです。キリストの死とよみがえりを象徴する一つのバプテスマ(ローマ6:3-6)は、キリストの体との一致を証しするこの信仰を完全に表します。
聖書は一人の聖霊、一人の主、そして一人の神がおられると教えています。教会の一致のすべての局面は、三位一体の神という一致の中にその土台が見られます。「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである」(1コリント12:4-6)。
一致の範囲
信徒は心と思いの一致を経験します。次の勧告に注目してください。「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」(ローマ15:5,6)。
「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい」(1コリント1:10)。「互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」(2コリント13:11)。
神の教会は、感情・思考・行為の一致を表さなければなりません。これは、信徒は皆同じ感じ方、考え方、行動をすべきだという意味でしょうか。聖書の一致とは単一性を言うのでしょうか。
多様性における一致
聖書的一致とは単一性を意味しません。人間の体に関する聖書の比喩は、教会の一致は多様性の中で存在することを示しています。
体はたくさんの器官を持っており、そのすべてが体の自由な営みに貢献しています。それぞれ異なった、しかし重要な役目を果しており、どれも無用なものはありません。
この同じ原則は教会の中でも機能します。神は賜物を「思いのままに…各自に分け与えられ」(1コリント12:11)、信徒全体を益するために健全な多様性をつくりだされます。すべての信徒が同じように考えませんし、同じ仕事をするように資格を与えられてもいません。しかし、すべての人が、神の与えられた能力の最高を目ざして教会を築き上げ、同じ聖霊の指導のもとに職分を果します。
教会がその使命を遂行するためには、すべての賜物の貢献が必要です。すべての賜物が一緒になって、伝道の完全な推進力となります。教会の成功は、各々の信徒が他の人と同じであったり同じことをすることによるのではなく、神がそれぞれに割り当てられた務めを行うことによるのです。
自然界におけるぶどうの木とその枝は、多様性の中の一致を例証しています。イエスは、信徒とイエスの結合を説明するために、ぶどうの木のたとえを用いられました(ヨハネ15:1-6)。枝、すなわち信徒は、真のぶどうの木であられるキリストの延長です。それぞれの枝や葉のように、個々のクリスチャンは他の人とは異なりますが、しかし皆が同じ源である「ぶどうの木」から栄養を受けるので、同一性があります。ぶどうの枝は個々に分かれており、互いに解け合いませんが、もし同じ親幹に結合されるならば、枝は他の枝と交わりを持つようになるでしょう。彼らは皆同じ源から栄養を受け、生命を与える同じ物質を消化します。
そのようにクリスチャンの一致は、教会員がキリストに接ぎ木されることによります。クリスチャン生活に生命を与える力はキリストから来ます。キリストは、教会の務めを遂行するのに必要な能力と力の源です。キリストにつながっていることが、すべてのクリスチャンの好み、習慣、ライフスタイルを形づくります。キリストをとおして、すべての教会員が互いに結びつけられ、共通の使命に結合されます。教会員がキリストと一緒にいるときに、利己心は捨て去られ、クリスチャンの一致が確立され、使命の遂行が可能にされます。
教会には気質の相違はありますが、皆ひとつの頭のもとで働きます。多くの賜物がありますが、ただひとつの霊があります。賜物は異なりますが、行動には調和があります。「すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである」(1コリント12:6)。
信仰の一致
賜物の多様性は、教理の多様性を意味しません。最終時代の神の教会は、永遠の福音という教えを共にする人々で構成されるでしょう。彼らの生活は、神のいましめとイエスの信仰を守ることが特徴です(黙示録14:12)。彼らは、神の救いへの招きをともに世に伝えます。
教会の一致はいかに重要か
一致は教会にとって必須条件です。一致がなければ、教会は聖なる使命を遂行することができないでしょう。
一致は教会の働きを効果的にする
意見の対立や紛争で分裂した世界にあって、異なった個性、気質、性格の教会員相互の愛と一致は、教会のメッセージに対して、他の何よりも力強く証しをすることができます。この一致は、天国との関係、またキリストの弟子であることの信任状の妥当性を、疑う余地なく証明するものです(ヨハネ13:35)。それは神の言葉の力を証明します。
自称クリスチャンたちの争いは、未信徒にあいそを尽かさせ、信仰を受け入れるための、おそらく一番大きい障害でした。信徒間の真の一致は、この姿勢を変えます。キリストが彼らの救い主であられることが、世界への大きな証拠であると、キリストは言われました(ヨハネ17:23)。
一致は神の国の真実性を表す
地上で真に一致した教会は、教会員が天国で共に生きることを真剣に期待していることを表します。地上での一致は、神の永遠の王国の真実性を表します。このように生きる人々によって、聖書の言葉は成就します、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」(詩篇133:1)。
一致は教会の強さを示す
一致は強さを、不一致は弱さを生みます。教会員がキリストと、またお互いと一致し、世の救いのために調和して働くときに、教会は真に繁栄し強くなります。そのようなときにのみ、彼らはほんとうの意味で「神の同労者」(1コリント3:9)なのです。
クリスチャンの一致は、愛のない利己主義で引きさかれ、分裂の傾向が強まっていく世界に挑戦します。一致した教会は、文化・民族・性・国籍などによって分裂した社会に答えを提供します。一致した教会は、悪魔の攻撃に抵抗するでしょう。実際に、暗黒の力は、キリストが愛されたように教会員どうしが愛し合う教会に対して無力です。
一致した教会の積極的で美しい光景は、オーケストラの演奏にたとえることができます。指揮者が現れる前に、音楽家たちがそれぞれの楽器の調子を合わせてウォーミングアップするときは、彼らは不協和音を出します。しかし、指揮者が現れるや無秩序な音はやみ、すべての目は彼に集中します。すべてのメンバーが身を構えて、彼が指揮するように演奏する用意をします。指揮者の指揮にそって、そのオーケストラは美しい調和のとれた音楽を演奏します。
「キリストの体の一致は、天の指揮者の指揮棒のもとで、呼び出された者たちからなる大きなオーケストラに、わたしの人生という楽器を和合させることを意味します。彼の指揮で、天地創造の総譜に従い、わたしたちは神の愛の交響楽を人類のために演奏する特権を持っているのです」[1]。
一致の達成
教会が一致を経験しようとするならば、その成就には神と信徒、双方の参加が必要とされます。一致の源は何でしょうか。はたして一致は得られるのでしょうか。信徒はどんな役割を果すのでしょうか。
一致の源
聖書は、一致の源として(1)み父の守りの力(ヨハネ17:11)、(2)キリストが弟子たちに与えられたみ父の栄光(ヨハネ17:22)、(3)キリストの内住(ヨハネ17:23)を指摘しています。聖霊、すなわち、キリストの体のただ中におられる「キリストの霊」は、各部分を結び合わせる力であり存在です。
車輪の中心とスポークのように、教会員(スポーク)がキリスト(中心)に近づくにしたがってお互いどうしも近くなります。「教会や家庭における真の一致の秘訣は、折衝の仕方や運営の方法、また困難を打開しようとする超人間的な努力にではなく(これらのことも大いになされなければならないが)キリストとの結合にあります」[2]。
一致をもたらす聖霊
「キリストの霊」「真理の霊」として、聖霊は一致をもたらします。
1一致の焦点
聖霊の内住により、信徒は文化、人権、性、皮膚の色、国籍、社会的地位などの人間的偏見をのりこえることができます(ガラテヤ3:26-28参照)。聖霊は、ひとりびとりの心にキリストを導くことによってこのことを可能にされます。聖霊の内住によって、人々は自分自身ではなくイエスに目を注ぎます。彼らのイエスとの一致は、自分たちの一致のきずなをもたらします。これが内住の聖霊の実です。彼らは相違を最少限にして、イエスの栄光のための使命に結束するでしょう。
2一致達成における聖霊の賜物の役割
教会一致の目標はどのようにして達成できるでしょうか。キリストが天のみ父のもとで仲保のわざを始められたとき、信徒たちを一致させるという目標が幻想でないことを明らかにされました。キリストは、信徒たちに「信仰の一致」を確立するために、聖霊をとおして特別な賜物を与えられました。
パウロはこれらの賜物を論じて、イエスは「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった」(エペソ4:11)と言われました。これらの賜物は、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」(エペソ4:12,13)に教会に与えられています。
それぞれに独特な賜物は、「聖霊による一致」から「信仰の一致」へと発展するように意図されています(エペソ4:3,13)。こうして信徒は円熟し、しっかりと立ち、「もはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペソ4:14、本書第16章参照)なるのです。
これらの賜物をとおして、信徒は愛にあって真理を語り、教会のかしら、キリストへと成長し、愛のダイナミックな一致に達するのです。パウロはキリストにあって、「キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(エペソ4:16)と言いました。
3一致の基礎
聖霊がキリストの約束を満たすために働かれるのは、「真理の御霊」(ヨハネ15:26)としてです。聖霊の務めは信徒をあらゆる真理に導くことです(ヨハネ16:13)。明らかに、キリスト中心の真理が一致の基礎です。
聖霊の働きは、「イエスのうちにある真理」に信徒を導くことです。そのような学びは一致をもたらす効果を持っています。しかし研究だけでは真の一致をもたらすのに充分ではありません。真理がイエスのうちにあるように、それを信じ、生き、教えることのみが、ほんとうの一致を生みます。交わり、霊の賜物、そして愛などはすべて非常に重要ですが、それらの価値が充分に発揮されるのは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われた方をとおしてなのです。キリストは「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ17:17)と祈られました。それゆえ、一致を経験するためには、信徒はみ言葉から輝き出る光を受けなければなりません。
真理が、イエスのうちにあるように、心のうちにとどまるとき、それは生活を洗練し、高め、清め、あらゆる偏見や不和を取り除くようになります。
キリストの新しい戒め
人がそうであるように、教会も神のかたちに造られました。三位一体の神が互いに愛し合うように、教会のメンバーも互いに愛し合います。キリストは信徒に、自分自身のように他人を愛することによって愛を表すように命じられました(マタイ22:39)。
イエス自身はこの愛の原則を、最終的にはカルバリーで実践されました。キリストは死の直前に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ15:12、同13:34参照)という新しい戒めを弟子たちに与えて、以前に言われた命令を拡大されました。これはあたかも次のように言われたのです。「わたしは、あなたがたが自分の権利を弁護し、自分の報いを求め、もし得られなければ訴える、というようなことがないようにと願っている。またわたしは、あなたがたが、背を鞭打たれるのに耐え、他の頬を向けてやり、まちがって責められ、あざけられ、ばかにされ、傷つけられ、砕かれ、十字架に釘づけられ、葬られるようにと願っている。なぜなら、それが、わたしがあなたがたを愛するように、他の人を愛することだからである」。
1不可能な可能性
わたしたちはどうしたらキリストが愛されたように愛することができるでしょうか。そのようなことは不可能に思われます。しかし、キリストは不可能なことを求められます。キリストは不可能を実現されます。キリストは「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)と約束されます。なぜなら、キリストの体における一致は受肉的(incarnational)であり、肉体となられた言をとおしてなされる信徒と神との一致だからです。それはまた関係的なものであり、ぶどうの木の根を共有することをとおしての信徒の一致です。そして最後に、それは十字架、すなわち、信徒の中に始まっているカルバリーの愛に根ざしています。
2十字架での一致
教会の一致は十字架において達成されます。わたしたちがイエスの永続的な臨在の必要を認め、また「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」(ヨハネ15:5)と言われたイエスを信じるのは、わたしたちが、イエスのようには愛することができず、また愛さないということを悟るときだけです。十字架において、わたしたちは、イエスがわたしたちのためだけでなく、地上のすべての人々のために死なれたことを悟ります。これは、イエスはすべての国民、民族、人種、階級を愛されるという意味です。イエスは人々のどのような違いにもかかわらず、彼らを愛されます。これが、一致が神に根ざしているとされる理由です。人間の狭い視野は人間を分けへだてる傾向があります。十字架は人間的盲目を打ちこわし、神の価格札を人類につけます。このことは、誰も無価値な人はいないことを示しています。すべての人が必要とされています。もし神が彼らを愛されるのなら、わたしたちもそうすべきです。
キリストが、十字架がすべての者をキリストのもとに引きよせると預言されたとき、最大の受難者であられたキリスト自身の引きよせる力が、キリストの体である教会に一致をもたらすということを意味されたのです。天とわたしたちの間に大きなへだたりがあり、キリストがそのへだたりを越えられたという事実は、わたしたちがいと小さき兄弟に近づくための一歩を可能にします。
カルバリーは「互に重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)ということを意味します。キリストは人類のすべての重荷を負われました。その重荷がキリストの死をもたらし、その死が、わたしたちに命を与え、互いに助け合う自由を備えたのでした。
一致への段階
一致は自動的には起りません。信徒はこれを得るために段階を経なければなりません。
1家庭での一致
教会の一致の理想的な訓練の場は家庭です(本書第22章参照)。もしわたしたちが、賢い管理、親切、柔和、忍耐、そしてその中心である十字架の愛を、家庭で学ぶならば、教会でもこれらの原則を実行できるでしょう。
2一致の目的
わたしたちが意識して努力しない限り、一致を得ることはできません。また、すでにこれを得ていると、自分自身に満足することもできません。わたしたちは一致のために日毎に祈り、注意深くそれを育てなければなりません。
わたしたちは違いを最少限にとどめ、本質的でない事柄についての論争をさけるべきです。わたしたちを分けるものに目をやる代りに、わたしたちが同意できる多くのすばらしい真理について話すべきです。キリストの祈りが成就するように、一致について語り祈りなさい。そうすることにより、神がわたしたちに望まれた一致と和合を実現できるのです。
3共通の目標に向かって一緒に働く
教会は一つのまとまりとして行動しない限り、一致を経験しないでしょう。その行動とはイエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。そのような働きは、和合を学ぶのに理想的な訓練を提供します。それは信徒に、彼らが神の大家族の一員であり、全体の幸福はひとりびとりの信徒の幸福によることを教えます。キリストはその奉仕において、魂の回復と体の回復とを結合されました。そして弟子たちを宣教に遣わされたとき、キリストはそのこと――宣べ伝えることと癒すこと(ルカ9:2、10:9)――を強調されました。
したがって、キリストの教会はみ言葉の宣教と医療伝道の両方を実践しなければなりません。この両面の働きのどちらも独立して行われたり、互いに他に吸収されたりしてはいけません。キリストの時代のようにバランス、すなわち、両者の調和がわたしたちの働きの特徴であるべきです。
教会の働きの様々な分野に参加する人々は、もし強力な方法で福音の招きを世に与えたいと望むのならば、近密に協力しなければなりません。ある人々は、一致は効率のための統合を示唆すると感じています。しかし、体の比喩は、器官の一つ一つは大きいものも小さいものも重要であることを示します。協力(競争ではありません)は、神の世界的な働きのための神の計画です。こうしてキリストの体のうちにある一致は、見事にも十字架において現されたキリストの無我の愛の証明になるのです。
4世界的展望を発揮する
教会は地上のすべての場所で神の働きを確立しない限り、真の一致を示しているとは言えません。教会は、国家的・文化的・地域的孤立をさけるために、できることは何でもすべきです。意見や目的や行動の一致をはかるために、異なる国々の信者が一緒に交わり仕え合わなければなりません。
教会は、統一ある世界的前進をはばむような、分離した国独自の興味を助長しないように注意しなければなりません。教会の指導者たちは、世界の他の地域で行われる働きに必要な資金を調達して、一か所にプログラムや施設を集中させないように気をつけ、平等と一致を保つことに留意しなければなりません。
5分裂の態度をさける
利己主義、自尊心、自信、自己満足、優越感、偏見、批判、非難、あらさがしなどの信徒の態度が、教会に不一致を生じさせます。しばしば、クリスチャンの初めの愛の欠落が、このような態度の背後に存在しています。カルバリーのキリストにある神の賜物を新たに見ることで、互いの愛を新たにさせることができます(1ヨハネ4:9-11)。聖霊によって取りつがれた神の恵みが、このような生来の心にある不一致の源を征服します。
新約聖書のある教会で不一致の問題が起ったとき、パウロは「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)と助言しました。絶えざる祈りを通して、わたしたちは聖霊の導きを求めるべきです。聖霊はわたしたちを一致へと導いて下さいます。聖霊による歩みは聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)を生み出しますが、これらは不一致に対する効果的な矯正手段です(ガラテヤ5:22,23)。
ヤコブは、わたしたちが財産や身分によって人をどのように扱うかということに基づいて、不一致のもう一つの根にたいして警告しました。彼はこのようなえこひいきを強い語調で非難しました。「もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される」(ヤコブ2:9)。神は公平であられるので(使徒10:34)、わたしたちは、地位や富や能力のゆえに、ある教会員に他の教会員より敬意をはらうべきではありません。彼らを尊敬はしても、天父にとって彼らが、最も低い立場にある神の子よりすばらしいとみなしてはいけません。キリストの言葉はわたしたちの見方を訂正します。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。キリストは最も祝福された教会員と同じく、最も小さな存在である者によっても代表されております。すべての人がキリストの子供であり、それでキリストにとっては等しく大切なのです。
ちょうどわたしたちの主、人の子が、アダムのすべての息子娘の兄弟となられたように、キリストに従う者であるわたしたちも、「あらゆる国民、部族、国語、民族」(黙示録14:6)の兄弟姉妹の贖いにおいて、心と使命の一致に到達するよう呼び出されているのです。
[1]ベンジャミン・F・リーブズ「わたしにとって一致とは何を意味するか」『アドベンチスト・レビュー』(Benjamin F. Reaves,“What Unity Means to Me”. Adventist Review)、1986年12月4日号、20ページ。
[2]ホワイト『アドベンチスト・ホーム』(福音社、1968年)、191ページ。
*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。