神の特別な民【ミカ書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:最悪の背信の中にあってさえ、主は御自分の民を喜んで赦し、癒されました。

目次

この記事のテーマ

預言者ミカが仕えたのは、イスラエルの歴史の中で最も暗い時代の一つでした。イスラエルは長い間、二つの王国に分裂してきました。ついに、アッシリアは北王国を滅ぼし、罪悪と暴虐が南のユダにも入り込んでいるのを、ミカは見ました。彼は偽りと不法、賄賂と不信という重大な罪に対して警告しました。ミカはエルサレムの滅びを預言した最初の聖書の預言者でした(ミカ3:12)。

しかし、神の霊感を通して、預言者はこの暗黒の時代にも光明を見ました。彼は神の視点に立って、来るべき刑罰の彼方を眺めました。ミカは励ましに満ちた言葉によって、主の油注がれた指導者がベツレヘムから出ると告げました。メシアこそ、イスラエルを救い、「剣を打ち直して鋤」とするように教えることによって諸国民に平和を説く指導者でした(ミカ4:3)。神の叱責は回復と究極の祝福をもたらす手段となるのでした。

預言者の心の痛み

ミカ書1:1~9において、全地に向かって、預言者は、罪深い民に対する神の裁きの証人となるように言っています。首都のサマリアとエルサレムが特に選ばれているのは、これらの町の指導者たちが真心から神に従うことの意味を身をもって示さなかったからです。これら二つの町は最初に滅ぼされることになっていました。

裁きによって滅ぼされるという思想は、ミカの生き方に真の緊張をもたらしました。彼は預言者としての召命によって神の目的と一つに結ばれていたので、近い将来に臨もうとしている出来事を告げ知らせる以外に選択肢はありませんでした。しかし、預言者はまた自分の属する民を愛していたので、彼らが捕囚になることを思って心から嘆きました。多くの場合、悪い知らせは預言者の心と身体に破壊的な結果をもたらしました。

問1

次の聖句は預言者の苛酷な運命についてどんなことを教えていますか。民11:10~15、王上19:14、エレ8:21~9:2、エゼ24:15~18、IIコリ11:23~27

神の預言者たちは自分たちの宣布するメッセージに深くかかわっていました。彼らは起ころうとしている恐ろしい出来事について語ることを喜んだわけではありません。彼らはしばしば嘆くことによって、来るべき災いに対する自らの態度を表明しました。彼らの苦しみは現実のものでした。彼らの聴衆からすると、メッセージは預言者の言葉の中に、またしばしば内面の深い苦しみを現す外面的な徴の中に含まれていました。神の裁きに対するミカの応答はイザヤのそれを思い起こさせます。イザヤは、捕囚がもたらす屈辱の目に見える徴として、3年間、裸、はだしで歩き回りました。資料が手に入る人は、エレン・G・ホワイトがその働きの中で味わった大きな苦しみについて読んでみてください。このことは、神の僕たちが経験しなければならない苦しみを理解する上で助けになります。

悪をたくらむ者たち

問2

ミカ書2:1~11、同3章を読んでください。これらの人々に裁きをもたらすのはどんな罪ですか。

「アハズが王位につくことによって、イザヤとその仲間たちは、ユダ国内において、これまで当面したこともない恐るべき事態に直面することになった。これまで偶像礼拝の習慣の魅力に抵抗してきた人々の多くが、異教の神々の礼拝に参加するように説き伏せられていたのである。イスラエルの君たちは、彼らに負わせられた信任にそむいていた。偽りの預言者が起こって、人々を背信に導く言葉を語った。祭司の中には、価をとって教える者さえあった。それにもかかわらず、背信の指導者たちは、なお、神の礼拝の形式を保持して、自分たちは神の民に属すると主張していた。

こうした騒然とした時代にあかしを立てた預言者ミカは、次のように宣言した。すなわち、シオンの罪人たちは、『主に寄り頼んで』いると主張し、また『主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない』と冒的に自慢する一方で、『血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建て』続けたのである、と(ミカ書3:11、10)」(『希望への光』510、511ページ、『国と指導者』上巻287ページ、一部改訳)。

ヘブライ民族が絶えず直面した問題の一つは、神の民としての彼らの特別な地位—愚かな異教の偶像崇拝とは対照的なまことの神についての知識(詩編115:4~9参照)—が自分たちに神の報復を免れさせているという誤った観念でした。しかし、真実はその逆でした。彼らが神の前に特別な地位を与えられているという、まさにそのことのゆえに、彼らは自分の罪の責任をより厳しく問われるのでした。申命記の次の言葉にもあるように、彼らのすべての祝福と保護、繁栄は神の命令に対する服従を条件として与えられるものであると、主は繰り返し彼らに警告されました。「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」(申4:9)。

ベツレヘムから出る新しい指導者

ミカ書においては、調子が憂うつな気分から崇高な希望へと大きく変わることがしばしばあります。この希望はあらゆるメシア預言の中でも最も有名な預言の中に現れます。

問3

ミカ書5:1〔口語訳5:2〕を読んでください。それはだれの、どんなことについて述べていますか。ヨハ1:1~3、8:58、コロ1:16、17参照

ユダの小さな町から、永遠なる方がイスラエルの支配者となるために来られます。ミカ書5:1は人々に強い望みを抱かせるために書かれた最も重要な聖句の一つです。人々は預言者によって約束された理想の指導者を熱望していました。この方の支配は力と正義と平和の時代をもたらすのでした〔ミカ5:3~5—口語訳5:4~6〕。

ダビデはエフラタとも呼ばれていたベツレヘムの住民でした(創35:19)。エフラタの名があげられているのは、ダビデと、彼の将来の後継者、つまりこの民のまことの牧者〔イエス〕の卑しい出自を強調するためです(ミカ5:3—口語訳5:4)。ベツレヘムの貧しい町で、預言者サムエルはイスラエルの王となる、エッサイの末息子ダビデに油を注ぎました(サム上16:1~13、17:12)。学者たちが新しく生まれた「ユダヤ人の王」を探しに来たとき、ヘロデ王は聖書の専門家たちに探すべき場所を問いただしました(マタ2:4~6)。専門家たちが王に示したのが、メシアがベツレヘムの小さな町から来ると予告しているこの聖句でした。

有限で堕落した私たちの理性には理解できないことですが、お生まれになったその子は永遠の神、天と地の創造者でした。「永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた」(『希望への光』675ページ、『各時代の希望』上巻1ページ)。いかに理解し難い思想であるとはいえ、それはキリスト教の最も根本的な真理の一つです。創造主なる神は人性を取り、その人性において御自身を私たちの罪の犠牲としておささげになりました。このことが私たちの人生の価値について、また神の前における私たち個人の意味について何を教えているのかをじっくりと考えるとき、私たちの生き方は変わってきます。多くの人々は自らの存在の目的と意味を求めて格闘していますが、私たちには十字架という基礎があります。それは私たちに人生の意味を明示すると同時に、世が与えることのできない最高の希望を与えます。

善とは何か

ミカ書6章の冒頭において、神は御自分の民と対話をし、その中で、神が御自分の民のために行ったすべてのことを列挙しておられます。その応答として、神殿に来る礼拝者は神を喜ばせるために何をなすべきかと尋ねています。神に受け入れられるささげものは何でしょうか。当歳の子牛ですか、幾千の雄羊ですか、油の流れですか、それとも礼拝者の長子ですか。この聖句にあげられている供えものは次第にその量と価値を増していきます。

問4

ミカ書6:1~8を読んでください。ここに、どんな重要な真理が教えられていますか。それが私たちセブンスデー・アドベンチストにとって特に重要であるのはなぜですか。真理が単なる正しい教理や詳細な預言の理解以上のものであることについて、それは何を教えていますか。マタ23:23参照

神はすでに御自分の望むことを啓示しておられると、預言者は宣言しています。人々はモーセの教えを通して、神が、恵み深くも彼らのためになさったことを知っていました(申10:12、13)。ミカの答えは、神の要求に変更が生じたことを示す新たな啓示ではありませんでした。犠牲や祭司の奉仕は神の第一の関心事ではありませんでした。神の最大の願いは、隣人に対する正義と、主に対する一貫した献身と愛をもって行動する民を持つことでした。人が神にささげることのできる最も豪華な献げ物は服従です。

ミカ書6:8は、御自分の民に対する神の御心についての最も簡潔な表明です。それは真の宗教に関するすべての預言者の教えを要約するものです。正義と慈しみを実践する生き方、神のそば近く歩む生き方です。正義とは、人が神の霊に促されるときに行う行為です。それはすべての人、特に搾取されている弱い人々や力のない人々を公平かつ平等に扱うことです。親切とは、快く、進んで人々に愛と忠誠、真実を示すことです。神と共に歩むとは、神を第一にし、神の御心に従った生き方をすることです。

海の深みに

ミカ書は裁きの描写をもって始まりますが、希望の言葉をもって終わります。神の裁きの現実を言い逃れたり、否定したりする人たちがいます。そうする人たちはミカの時代の人たちと同じように罠に陥ることになります。彼らは、神が選民に裁きを下すことは決してないと信じていました。

神の正義は神の愛と関心の裏側です。ミカの伝えた福音は、裁きが決して神の最終的な決定ではないということです。聖書における神の行為は一貫して、裁きから赦しへ、刑罰から恵みへ、苦しみから希望へと移行しています。

問5

ミカ書7:18~20を読んでください。これらの聖句の中に、福音がどのように啓示されていますか。ここに、私たちのためのどんな希望が与えられていますか。私たちがそれを切実に必要としているのはなぜですか。

ミカの結びの聖句は賛美と希望で満ちています。「だれが神のようであるか」という問いかけは、「だれが主のようであるか」を意味するミカの名前に対応しています。それは、神が独特の方であることを思い起こさせるもの、また神のような方がだれもいないという真理を確認するものです。結局のところ、神だけが創造主です。ほかのすべてのものは造られたものです。それ以上に、私たちの創造主は恵みと赦しの神であって、想像を絶する非常手段によって私たちを当然受けるべき滅びからお救いになった神です。それはヘブライ民族のためであり、同時に私たちのためでした。

私たちは今日、困難な状況や苦しい経験に直面することがあります。そのようなとき、神はなぜこのような苦しみをお許しになるのかと疑問を抱きます。その意味を理解することができないこともあります。そのようなとき、私たちは自分たちの罪を海の深みに投げ込むと約束しておられる主にのみ希望を抱くことができます。神が過去になさったことを覚えるとき、将来に希望を抱くことができます。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次