泣きわめけ!【ヤコブの手紙】#10

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テレビ番組「百万長者になりたい人は?」(日本版「クイズ$ミリオネア」)は、世界的に人気があります。そのことは、多くの人が無一文から大金持ちになるという空想をわが身に置き換えて楽しみ、恐らくは、いつの日か自分がそうなるのを望んでいることを示しています。

しかし、富というのは、多くの人が思っているほどのものではありません。さまざまな研究によれば、収入の増加は収穫逓減の法則に従います。つまり、より多くのお金が手に入れば、快適に暮らすことはできますが、財産が増えるほどに、ますます多くの幸福が買えるわけではない、ということです。有意義な人間関係、仕事に対する満足感、生きがいのある生活といったもののほうが、大抵、富よりも人の幸福に大きく貢献します。また、愛情のこもった言葉、笑顔、人の話をよく聞く耳、さりげない親切、受容、尊敬、真の友情など、最上のものは無償で与えられます。

さらに貴重なのは、神から与えられる賜物です。信仰、希望、知恵、忍耐、愛、満足や、そのほかの多くの祝福のことで、これらは、神の霊が私たちの生活に内在されることによってもたらされます。しかし皮肉なことに、多くのクリスチャンがこのような意見に同意する一方で、彼らの日常生活は、しばしば身勝手さが優勢であることを示唆しています。今回、これから見ていくように、強欲は大きな過ちであり、それは悲惨な結果を伴う過ちです。

正しい裁きがなされる!

ヤコブの手紙5章は、出し抜けに始まっています。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(ヤコ5:1)。この言葉は、きっと読者の注意を引いたことでしょう。

ヤコブ1:10、11においてヤコブは、富んでいる者たちに富のはかなさを思い出させました。そしてこの5章では、かたくなに富にしがみつく者たちに、「泣きわめきなさい」と勧めています。あたかも、やがてなされる彼らの裁きが、今下されているかのようです。今回研究する聖句の始めから終わりまで、生き生きとした描写が続いており、その描写は、キリストの再臨前の時代を特徴づける過度の邪悪な行為に対する神の裁きを思い起こさせます(ルカ17:27~29、IIテモ3:1、2、黙18:3、7参照)。同様の態度が、最終時代の神の教会の中にもあふれています(黙3:17)。興味深いことに、ヤコブ5:1で「不幸」と訳されているギリシア語は、黙示録3:17においてラオディキア教会を「惨めな者」と表現している言葉と同じ語源から派生したものです。

問1

この世には多くの不公正、とりわけ経済的な不公正が存在します。なぜ貧しい者たちを搾取して裕福になる人がいるのか、さらに悪いことに、なぜ彼らは罰を受けずに済んでいるのか、ときとして理解に苦しみます。詩編73:3~19を読んでください。この長年にわたる問題に関して、どのような希望がこれらの聖句の中にありますか。

私たちは旧約聖書の預言書の至る所に、正義に対する関心や懸念と、神が物事を正すために動かれるであろうという約束を見ることができます。しかし、この永続的で変化しない期待感が、神の介入を待っている、不安で厄介な時代を楽にしたようには思えません。例えば、預言者ハバククは、誇りで膨れ上がったバビロンが自らの権力と繁栄に浮かれ、背教が神の民の間に蔓延していた時代に記したので、神に鋭い質問を浴びせています(ハバ1:2~4、13、14参照)。神の短い答えは、神を信頼し、もう少し待ちなさい、というものでした(同2:2~4)。そして、ハバククは言われたとおりにしました(同3:17、18参照)。

富が価値を失うとき

ヤコブ5:2、3を読んでください。朽ち果てた富、虫の付いた服、さびた金銀——これらは、私たちがまじめに考えるためのたとえであり、その間にも、地球は終焉に向かってスピードを速めながら穏やかに回り続けています。

この世の経済状況は、危機から危機へと常に移行しているように見えます。「好景気」がやって来ても、それはめったに長続きせず、そのあとには景気の低迷がいつも続きます。世界市場が提供できるかもしれないうわべだけの経済的安定は、つかの間のものであり、ほとんど幻想にすぎません。富んでいる者と貧しい者との格差が広がるにつれて、不満と不安定が増しています。ヤコブが書いているのは、貧しい者たちがますます絶望的になり、富んでいる者たちが貧困者の窮状をますます気にかけなくなっている、そのような状況下でのことでした。

問2

ナバル(サム上25:2~11)のことを考え、富が彼に及ぼした影響を記してください。

遅かれ早かれ、この世の富は、私たちすべての者にとってその輝きを失い、私たちはその限界と、たぶんその影の部分を知ります。お金にはお金の役割がありますが、問題は、人々がそれに誤った役割を与えるときです。

ヤコブは、お金はそれを悪用する者の「罪の証拠」(ヤコ5:3)になるだろう、と言っています。彼はこの警告を終末時代という文脈の中で与えていますが、その要点は明らかでしょう。お金をどのように使うかが重要だ、ということです。肉を食い尽くす火というたとえは、お金を用いて行う選択の重大さに私たちが気づくように意図されています。私たちは、最終的に燃え尽きてしまう宝を積み上げているのでしょうか。それとも、永遠のために蓄えているのでしょうか(ルカ12:33、34参照)。

貧しい者たちの叫び

ヤコブの手紙を一読すると、富んでいる人たちにいくつかの種類があることに気づきます。例えば、富を追い求めている最中に消えうせるであろう金持ちの商人(ヤコ1:11)、自分の投資金を守るために訴訟を起こす実業家(同2:6)、労働者に賃金を支払ってこなかった農園の主人(同5:4)などです。これらの聖句は、富んでいる人たちの過去の行い、現在の態度、未来の刑罰に基づいて、彼らを否定的に描いています。これらの人たちは、基本的に貧しい者たちを犠牲にして「宝を蓄えた」(ヤコ5:3)のでした。

問3

「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」(ヤコ5:4、レビ19:13、申24:14、エレ22:13と比較)。直近の文脈においてではなく、一般的な意味で、私たちが他者をいかに扱うかということに関して、どんな重要な原則がここに見られますか。

聖書の時代のイスラエルでは、ほとんどではないにしても多くの労働者は、賃金が支払われるや否や、家族を養うための食べ物を買うためにその収入を使いました。給料が支払われないというのは、家族が飢えなければならないことをしばしば意味していたのです。それゆえ、ヤコブがここで述べているのは、深刻な問題でした。

ですから、自分のために働いた人たちに給料を支払わない雇い主たちをヤコブが強く非難しているのも、無理はありません。だれかから何かをだまし取ることはそれだけで悪ですが、すでに富んでいる人が貧しい人から盗むことによって富を蓄えることは罪です。単に、その貧しい人に対してだけでなく、天に対しても罪なのです。そしてヤコブが書いているように、そのことはいずれ時が来れば対処されるでしょう!

「富は彼らに大きな責任をもたらす。不正な取引によって、商売上人をだますことによって、やもめや父親のいない人を虐げることによって、あるいは貧しい人の欠乏を無視しつつ富をため込むことによって富を手に入れることは、最終的に、霊感を受けた使徒が述べている公正な罰を招くであろう。『富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい』」(『教会へのあかし』第2巻682ページ、英文)。

(差し当たっての)満足

「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ(た)」(ヤコ5:5)。

古代世界では、富の量は一定である、という考えが広く行き渡っていました。つまり、ある人の富が増えれば、ほかの人の富は減るというわけです。言い換えれば、富んでいる人は、貧しい人を一層貧しくすることによってしか、さらに富むことができないということです。ほかの人の富に悪影響を及ぼさずに富を「創出する」という考え方は、比較的最近のものであるように思えます。中には、富んでいる人がさらに富むことで、彼らは貧しい人を富ませる手助けもできる、と主張する人たちさえいます。

その一方で、先進国と途上国とが、ますます減りつつある資源を巡って競争していることを考えるとき、富の創出の限界は差し迫っているように思えます。それゆえ、富の不平等の問題は、今日でも熱く続いています。

イエスが不平等の問題を扱われた最も有名な話の一つは、金持ちとラザロのたとえ話です(ルカ16:19~31参照)。イエスの在世当時、大抵の人は服を(1着でなく、)2着持っていたら御の字であり、ごちそうを年1回楽しむことができれば幸運でした。それに対して、この物語の中の金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布[最も高価な種類の服]を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)のでした。そして貧しいラザロは、その金持ちの家の門まで運ばれたにもかかわらず、パンくずを乞わなければなりませんでした。

一般的な意見に反して、このたとえ話の真の焦点は、来世でなく、現世に合わせられています。それどころか、原語のギリシア語は、「天」にも「陰府」にもまったく触れていません。金持ちもラザロも、同じ場所(23節)——「墓」(ギリシア語で「ハデース」)——で描かれています。2人を隔てている深い淵は、人が死んだあとに、彼や彼女の永遠の運命が確定した事実を象徴するものです。それゆえ、私たちが現世において人々をいかに(「モーセと預言者」(29、31節)に記されているように)扱うかが、極めて重要です。私たちが現世でやりそこねたことを埋め合わせることのできる来世は、存在しないからです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Iヨハ4:20)。

被害者を非難する

だれかが悪事を働いたとき、人間の生来の傾向は責任を逃れようとします。人はしばしば、自分の責任を(被害者を含む)だれかに転嫁することによって、そうしようとします。殺人者は、正当防衛を主張したり、自分の育ちのせいにしたりすることで言い訳をします。性的虐待者は、自分が誘惑されたと被害者を非難し、離婚した元夫婦は、破綻した結婚生活の責任を相手に押しつけるのが常です。クリスチャンを殺すという罪を犯した人たちは、殉教者を異端者と非難することによって被害(殉教)者を非難しました。確かにイエスは、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(ヨハ16:2)と御自分の弟子たちに警告なさっています。実際、ヤコブも信仰のゆえに殺されたと、私たちは信じています。このことを踏まえると、ヤコブ5:6の言葉は一層重みを持ってきます。

問4

「正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません」(ヤコ5:6)。あなたはだれかを非難したあとで、間違っていたのは自分だと気づいたことがありますか。一方で、あなたが抵抗しなければ、起こらなかったであろう口論をしたことがありますか。「左の頬をも向けなさい」(マタ5:39)という言葉で、イエスはどのようなことを意味されたのでしょうか。私たちはどの程度、実際的なレベルにおいてこれを実行していますか。

すでに触れたように、ヤコブには富んでいる人と貧しい人に関して言いたいことがたくさんありました。しかし、ヤコブが富んでいる人を非難しているのは、単に彼らが富んでいるという理由からではないという点は、心に留めておかなければなりません。神にとって重要なのは、彼らの態度であり、行動です。同様に、経済的に貧しいという事実だけで、人が神に好かれるわけでもありません。「御国を受け継ぐ者」(マタ5:3、ヤコ2:5参照)になるのは、「心の貧しい」、「信仰に富む」人たちです。このような内面的資質は、私たちの特定の経済状況とは関係がないのかもしれません。とは言うものの、関係しているのかもしれません。「わたしは金持ちだ。満ち足りている」(黙3:17)と思っている人は、彼らが自覚しているよりも霊的に貧しいかもしれないからです。神はイスラエルに、[約束の]地に入って繁栄したのち、彼らの享受したあらゆる良いものが、(「富を築く力」も含めて)神から与えられたものであることを忘れてはならない、と警告なさいました(申8:11~18)。

さらなる研究

「金銭は、大いなる善をすることができるから、大きな価値がある。それが神の子供たちの手にあれば、貧しい人の食事、かわいた人の水、裸の人の着物となり、圧迫されている人々の防御となり、病人を助ける手段にもなる。金銭は、困っている人々を助け、他を祝福し、キリストの働きを前進させるために用いてこそ、価値があるのであって、もしそうでないならば、金銭は砂と同様でなんの価値もないのである。死蔵された富は、価値がないばかりでなくて、のろいである。それは、天の宝から人の心を遠ざけてしまうこの世のわなである。……

金銭が神から与えられたタラントであることを認める者は、だれでも、それを節約して用い、他に与えるために、蓄えておくことを義務と感じることであろう」(『希望への光』1324ページ、『キリストの実物教訓』327、328ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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