叱責と懲罰【エレミヤ書】#4

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「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:9)。

太陽の下には新しいものが一つもないでしょうか。このことは、神の預言者たちの人生と働きに関して、特に当てはまります。彼らは警告や叱責の言葉を、もっと分別を持っているべきであった人々に伝えるために、しばしば召されました。預言者たちは召しに忠実であろうとしましたが、たいていの場合、彼らは激しい反対に遭い、懲罰を受けることさえありました。しかも、率先して預言者の言葉に耳を傾けるべきだった霊的指導者たちから、しばしばそうされたのです。イエスが次のようにおっしゃったのも無理からぬことです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う」(マタ23:29、30)。

私たちは今回から、その働きが叱責と懲罰だけで成り立っていたように思えるエレミヤの試練に目を向け始めます。彼は叱責を与え、指導者たちは彼に懲罰を与えたのです。

二つの道

創世記の最初の章から黙示録の最後の章に至るまで、聖書は私たちの生き方に関して二つの選択肢しか与えていません。すなわち、心から主に従うか、それとも従わないかです。イエスは多くの人を戸惑わせる言葉をおっしゃいました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(ルカ11:23)。これは、肉眼で見えるものや、常識が私たちに告げることよりも大きな霊的現実についての強烈で、明瞭な発言です。それは最も基本的なレベルでの大争闘を話題にしていました。しかしある意味において、イエスは何か新しいことや極端なことを言っておられるのではありません。常にこうでした。

問1

エレミヤ17:5~10を読んでください。特にキリストとサタンとの大争闘を踏まえるとき、私たちはどんな重要な霊的原則をここに見いだすことができますか。

これらの言葉は、おそらくユダの他国との政治的つながりを反映しています。主は彼らに、唯一の助けは主にのみあり、政治的あるいは軍事的力にあるのではないことを理解してほしいと望まれました。彼らはその点をのちに学びますが、それはあまりにも遅すぎました。主はほかの人を用いて私たちを助けることがおできになりますが、詰まるところ、私たちは主だけを信頼しなければなりません。私たちは他者の動機を正確に知ることはできませんが、私たちに対する神の動機なら常に知ることができるからです。

正当な理由があって、エレミヤ17:9は人間の心の欺瞞性を警告しています。ヘブライ語の聖句は、心は「あらゆるもの」より欺瞞的である、と述べています。罪の恐ろしい肉体的影響は悪いものですが、倫理的、霊的影響ほどではありません。問題なのは、私たちの心がすでに欺瞞的であるために、自分の心が実際にどれほど悪いかを私たちが十分にわからないということです。エレミヤは間もなく、人間の意図がいかに悪くなりうるかを自ら目にすることになりました。

ユダの罪

確かに、エレミヤの任務は一筋縄ではいきそうにありませんでした。ある人たちは、人々の罪を指摘することに屈折した喜びを見いだすかもしれませんが、たいていの人は、とりわけ彼らの言葉が引き起こす反応のゆえに、非常に不愉快な仕事だと思うでしょう。叱責の言葉を聞いて悔い改め、改心する人もいるかもしれませんが、とりわけその叱責が辛辣で強烈なときは、たいていそうはなりません。そして実際に、すべての預言者と同様、エレミヤの言葉はまさに辛辣で強烈だったのです!

問2

エレミヤ17:1~4を読んでください。エレミヤが民に与えた警告には、どのようなものがありましたか。

罪が心に刻み込まれるという比喩は、特に強烈です。それは堕落の深刻さをあらわしています。単にペンでそこに書かれているのではなく、道具を用いて「刻み込まれて」います。この比喩は、ユダの先祖たちに対する主の言葉を思い出すとき、一層強烈なものとなります。「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである」(申30:10、詩編40:9[口語訳40:8]、エレ31:33と比較)。彼らは心から神を愛し、神の律法に従わなければならなかったのに、今や、彼らの罪—律法に背くこと(Iヨハ3:4)—が彼らの心に刻み込まれています。

「神の律法の保管者であると主張している者は、自分たちが外面的に戒めを尊重しているからといって、神の正義が行われる時に彼らが守られると考えてはならない。また、誰1人として、悪に対する譴責を拒んだり、また、神のしもべたちが、陣営の中から悪行を清めるのに、あまりにも熱心すぎると非難してはならない。罪を憎まれる神は、神の律法を守ると主張する人々が、すべての悪から離れるように呼びかけておられる」(『希望への光』544ページ、『国と指導者』下巻37ページ)。

エレミヤへの警告

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハ3:19)。

エレミヤの悲劇は、彼に反対したのが、彼を通して神が救おうとしておられた人たちであったことです。主は、必ずやって来る大惨事から彼らを救いたいと願われました。しかし問題は、耳を傾けるべきことに彼らがしばしば耳を傾けないことでした。なぜなら、それが彼らの罪深く、堕落した欲望に逆らうものであったからです。

エレミヤ11:18~23を読んでください。古代イスラエルでは、主の名によって偽りの預言をした者たちは殺される可能性がありましたが、ここでの場合、エレミヤが偽りを語っているとアナトトの人々が考えたとは指摘されていません。そうではなく、彼らはただエレミヤを黙らせたかったようです。彼らは、エレミヤが語らねばならなかったことを聞きたくなかったのです。先の聖句は、アナトトの人々がエレミヤをどのように殺そうとしていたのかを記していませんが、ある学者たちは、彼らが毒殺を検討していたのかもしれないと考えてきました。

すでに触れたように、アナトトはエレミヤの出身地であり、町の人々は、彼を殺したいと思うほどに彼のメッセージを拒絶していました。しかしこれは、「残った人々」を除くすべての同胞による、はるかに大規模な拒絶の始まりにすぎませんでした。

言うまでもなく、「屠り場に引かれて行く(小羊)」という比喩を含む先の聖句は、イエスの犠牲を思い起こさせます。ある意味で、エレミヤはキリストを予表していましたが、それは(いけにえの動物のような)予型としてではなく、彼がイエスのように、助けようとしている人々から激しく反対されたことにおいてでした。エレミヤの人生におけるこのような状況は、公生涯の初期にイエスも体験されたこと(ルカ4:14~30)を思い出させます。

嘆きの言葉

エレミヤ書の最初の数章において、主は御自分の僕に、預言者としての彼の働きが一筋縄ではいかないと警告しておられました。エレミヤは召されたときに、ユダの王や高官、祭司や民が「あなたに戦いを挑む」(エレ1:19)と告げられました。エレミヤは、主が彼を支えられ、彼の敵は「勝つことはできない」(同)と言われましたが、間違いなく、同胞のほとんどが彼に戦いを挑むだろうという警告は、喜ばしい知らせではありませんでした。エレミヤはそのことの半分もまだわかっておらず、試練が襲ってきたとき、当然のことながら怒り、傷つきました。

問3

エレミヤ12:1~4において、エレミヤは彼自身の状況について述べていますが、この預言者が格闘している普遍的な問題は何ですか。エレミヤを傷つけた人々に対する彼の態度は、どのようなものですか。

[新国際版英訳聖書の]エレミヤ12:1には、旧約聖書の律法用語が詰まっています。「正しい」「裁き」「正義」に相当するヘブライ語は、いずれも法が関係する場で用いられるものです。この預言者は、彼が直面していることにとても腹を立てており、主に向かって訴訟を起こそうとしています(申25:1参照)。言うまでもなく、彼の不満はよくある不満です。悪い者たちが栄えているように見える一方で、神の御旨をひたすら行おうとしているエレミヤが、なぜこのような試練に遭うのか、ということです。

私たちはエレミヤの人間らしさも見ることができます。エレミヤは、彼に悪事を働いた者たちを罰してほしいと望んでいます。彼はここで神学者として語っているのではありません。恵みを必要とする1人の罪深い人間—ヨブや神に忠実だった多くの人と同様に、なぜこのようなことが自分の身に起こるのかを理解できない人間—として語っています。神の真理を反抗的な人々に告げるために召された神の僕エレミヤは、なぜ自分の出身地の裏切りの策略にさらされなければならないのでしょうか。エレミヤは主を信頼していましたが、なぜこのような事態が生じているのか、本当に理解できませんでした。

絶望的な状況

エレミヤ14:1~10を読んでください。干ばつが全土を襲い、どこの町も村も苦しみました。裕福な者も貧しい者も、ともに苦しみました。野生の動物たちでさえ、水不足を耐えていたのです。貴族たちは、召し使いたちが水を見つけて帰ることを期待しながら、町の城門で待ちましたが、どこの泉も干上がっていました。水がありません。水がなければ、命を保つことはできません。彼らの悲惨な状況は、日に日にひどくなっていきました。人々は喪服を身にまとい、伏し目がちに歩き、やがて突然ひざまずくと、絶望的な祈りを叫びました。

このような自然災害のときには、断食をし、特別な献げ物を神にささげるため、エルサレムの神殿に詣でるのが習慣でした(ヨエ1:13、14、2:15~17)。エレミヤは人々の熱意を目にしましたが、彼らが求めているのは主でなく、水だけであることを、彼はよくわかっていたのです。そのことはこの預言者をさらに悲しませました。エレミヤは、水のためではなく、神の憐れみと御臨在を求めて祈ってもいました。

エレミヤは、これがこれからやって来る試練の始まりにすぎないことも理解していました。神は民の心をご覧になり、もし干ばつを終わらせたなら、悔い改めも消え去ることを知っておられました。人々は現状を変えるために、エルサレムに詣で、祈り、断食し、荒布を身にまとい、献げ物をささげるなど、あらゆることをしました。しかし、彼らは一つのことを忘れていました。真の改心、真の悔い改めです。彼らは問題の結果を取り除くことだけに目を向け、問題そのもの、つまり彼らの罪と不従順には目を向けていませんでした。

エレミヤ14:11~16を読んでください。「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください」(エレ14:7)と、エレミヤが執り成しの祈りの偉大な手本を先に示していたのに、神は彼に、「この民のために祈(っ)てはならない」とおっしゃいました。私たちは「絶えず祈りなさい」(Iテサ5:17)と言われていますが、ここでの場合、一部始終をご存じの神は、これらの人々がいかに堕落し、罪深いかということだけをエレミヤに示しておられます。言うまでもなく、神は人々の心をわかっておられますし、未来を知っておられます。しかし、私たちにはわかりません。それゆえ、敵のためにさえ祈りなさい、という新約聖書の勧告は、ここでもその効力を失うことは一切ありません。

さらなる研究

エレミヤは、私たちもみな思い悩む疑問、つまり、悪というものをいかに理解したらよいのかという疑問に悩んでいました。しかしそれは、不合理なものや「無意味」とみなされるものに意味を見いだそうとするようなことなのかもしれません。この点に関して、エレン・G・ホワイトは次のように書いています。「罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし罪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや罪ではなくなる」(『希望への光』1836ページ、『各時代の大争闘』下巻228ページ)。「罪」という言葉を「悪」に置き換えても、この文章は意味をなします。「悪の存在を理由づけようとして悪の起源を説明することは、不可能である。……悪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし悪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや悪ではなくなる」

悲劇が襲うとき、私たちは、人々が次のように言うのを耳にしたり、あるいは自ら口にしたりします。「こんなことは理解できない。道理にかなわないじゃないか」。そうなのです。私たちはそのことを理解できない、それは理解不能だという、もっともな理由があります。もし私たちがそれを理解でき、それが道理にかない、それが何らかの論理的、合理的計画に当てはまるのであれば、それは悪ではないでしょうし、悲劇でもないでしょう。なぜなら、それは合理的な目的を持っているからです。罪と同様、悪というものがしばしば説明されえないということを覚えることは、なんと重要でしょうか。しかし、私たちにはキリストの十字架という現実があります。罪に起因する悪は説明できないにしても、十字架が神の愛と慈しみを私たちに示しています。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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