エジプトへ戻る【エレミヤ書】#12

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今回の研究は、預言者エレミヤの物語の結末へと私たちを導きます。しかしそれは、「そして、みんなずっと幸せに暮らしました」というような結末ではありません。ある意味において、今回の研究やエレミヤ書の大部分を要約すれば、「私たちがここに見るのは、恵みの限界の実例だ」ということになるのかもしれません。つまり、恵みは、それを断固として受け取らない者たちを救いはしない、ということです。主が彼らにどれだけ語りかけ、救い、守り、贖い、平安、繁栄を提供しようと、少数の忠実な残りの者たちを除いて、彼らはみな神の申し出を軽んじ、はねつけました。

そして、エレミヤはどうなったのでしょうか。彼の人生と働きは、人間的な観点からすれば、どう見ても無益でした!この「悲しみの預言者」には、嘆かざるをえないことがたくさんありました。彼が警告したあらゆることが起こったあとでさえ、人々は依然として自分たちの罪や異教信仰や反逆から離れず、この預言者に面と向かってあからさまに逆らい、彼らに対する主の言葉をあざけりました。

私たち自身はいかに注意する必要があるでしょうか。恵みは、それを受けるに値しない者に与えられるから恵みです。しかし、恵みがだれかに押しつけられることはありません。私たちはそれを進んで受け取る必要があります。

政治的混乱

バビロンによってエルサレムが破壊され、完全に敗北したことで、すべての人が教訓を学んだのだろうと、私たちは考えるでしょう。残念ながら、すべての人が教訓を学んだわけではなく、ドラマはまだ終わっていませんでした。

問1

エレミヤ40:7~16を読んでください。人々に与えられたのは、どのようなメッセージでしたか。11節で用いられている「残留者」という言葉の重要性は、何でしょうか。

平和のメッセージとその後の繁栄(エレ40:12参照)にもかかわらず、すべての人が現状に満足していたのではありませんでした。

エレミヤ書41章を読んでください。「残留者」たちは、ここで新たな問題に直面します。暗殺の理由は説明されていません。しかし、「王族の一人で、王の高官」(エレ41:1)であった者によって暗殺が実行されたという事実は、これらのエリート主義者たちが、この選民[ユダの人々]はバビロンの支配に従う必要があるという考えを依然として受け入れていなかったことを示唆しています。この人たちは、ゲダルヤがバビロンの王によって監督の地位に就けられていたので(エレ40:5参照)、彼を裏切り者の操り人形(民に対して不忠であり、それゆえに臣下ともども取り除かれなければならない者)とみなしていたのかもしれません。

この章を読み進めるにつれ、この残留者たちが今や新たな脅威に直面したことがわかります。その新たな脅威とは、バビロニア人に対する恐怖でした。彼らは起こったことの詳細をたぶん知らぬまま、ゲダルヤとバビロンの兵士たちの死(エレ41:3参照)に対する復讐をしようとしました。

神の導きを求めて

エレミヤ42章を読んでください。ここには、ユダの人々にとってのみならず、祈りによって主の導きを求めるあらゆる人にとっても、力強いメッセージがあります。バビロン人を恐れて、人々はエレミヤを捜し出し、神の導きを祈り求めてほしい、と彼に頼みました。彼らは、エレミヤが本当に神の預言者であり、彼が主の名において語ることは実際に起こると、すでにわかっていたに違いありません。

彼らはまた、神から求められること、命じられることは何でもします、と誓いました。それゆえ、私たちは先に読んだとおり、教訓を学んだように思える人々を見ます。その人々は、神の御旨が何であるかを知るだけでなく、もっと大切な、それ(神の御旨)に従おうと望んでいました。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います」(エレ42:6)という言葉は、力強い信仰の告白でした。しかしあとから見れば、その告白は遅すぎたくらいでした。

エレミヤの先のメッセージとの類似点に注目してください。「外国の勢力に頼ってはならない。主を信頼せよ。そうすれば、主はあなたがたを繁栄させ、しかるべき時が来たら、あなたがたを解放する。救いは主以外のだれからも、どこからももたらされない。外国勢力はこれまでもあなたがたを助けなかったし、今回も助けることはない!」

神が彼らに警告しなければならないのは、彼らの心の傾向をご存じだからです。神は、彼らが保護を求めてエジプトへ戻ろうと考えていることを知っておられます。それゆえ、主は彼らに、そうしてはならない、という非常に明瞭で具体的な命令をお与えになりました。そのような道を選べば、彼らは滅びるでしょう。

またしても対照的な選択、私たちのだれもが直面しなければならない選択—イエスに対する信仰と服従によって命と平安を得るか、それとも信仰と服従の欠如によって悲惨と死を得るか、という選択—です。どれほど状況が異なろうと、結局のところ、問題は私たち全員にとって同じです。これらのユダの人々と違って、私たちに与えられる警告は必ずしもこんなに具体的で明瞭ではありません。が、私たちにも同様の警告が与えられてきました。

エジプトへ戻る

もしあなたが先を読んでいないなら、エレミヤ42章にワクワクすることでしょう。この民はどうするのでしょうか。彼らは、服従によって明らかにされる信仰に到達して、ユダにとどまるのでしょうか。それとも、はっきりと「主がこう言われる」ということに従わないで、過去にした同じ過ちを犯すのでしょうか。彼らがエジプトに戻ったなら、彼らを待ち受けていることについて、42章の最後の数節で主がはっきりと警告しているにもかかわらず、彼らがしたいと思うことをするのでしょうか。

エレミヤ43:1~7を読んでください。神の御言葉が私たちの意図や願いと一致しないとき、私たちは、その言葉が神からのものであることを疑う傾向があります。同様に、ユダの人々や指導者たちはエレミヤに疑いを抱きました。明らかに、ユダにおいて状況は変わっていたのに、人々の頭の中も心の中も同じままでした。彼らは預言者エレミヤを攻撃することによって、自分たちの誓いを反故にしました。しかし、人々は老いたエレミヤを直接攻撃したいと思いませんでした。そこで彼らは、エレミヤの友人であり、時折書記の働きをしたバルクを非難し、彼が預言者を彼らに敵対させたのだと主張して、怒りの矛先を彼に向けました。

人々がエレミヤに言ったことと、彼らの祖先がモーセに言ったこととの間には類似点があります(出エジプト記16:3、民数記16:13)。人間性というものは、問題を常にだれかほかの人のせいにし、望むところを実行するためにいつも言い訳を求めています。それゆえ、バルクはどういうわけか非難されました。すべての同胞がバビロン人の手によって殺されるか、あるいは捕囚として連れ去られることを、彼が望んでいると言われました。エレミヤ43:1~7は、なぜ人々が、そのようになることをバルクが望んでいると考えたのか、理由を述べていません。それは、イスラエルの子らがエジプトを去ったあと、彼らが荒れ野で死ぬことをモーセが望んでいると考えた理由を聖書が説明していないのと同様です。感情や熱情のとりこになっている人々は、健全な思考能力を失うことがあります。ですから、私たちが感情や熱情を主に従わせ続けることは、なんと大切でしょう!

エジプトへ逃れる

問2

エレミヤ43:8~13を読んでください。主はエレミヤを通して、何と言われましたか。

タフパンヘスは、エジプト北東の国境沿いにあった重要な要塞の町で、そこには多くのユダヤ人居留者がいました。

ここでもまた、主はエレミヤに、預言を象徴的に行動で示すことを望まれました。言葉には力があります。しかし、ときとしてその要点は、言葉が実生活の中でなされ、私たちの目の前で行動によって示されるときに、一層強く伝わるものです。

どれほど厳密に、エレミヤがファラオの宮殿の入り口に石を埋めなければならなかったのかはわかりません。しかし、要点ははっきりしています。強力なファラオでさえ、主にはかなわないということ、そして主は御自分の言葉を言われたとおりに実行なさるということです。エジプトへ行けば保護と安全が得られると考えた避難民たちは、先に見たように、エジプトに出動してもらえば保護と安全が得られると思った者たちと同様に間違っていました(エレ37:7、8)。エジプトの神々は、役に立たない、ゆがんだ想像の産物でした。その神々は、悲惨にも人々に真理を知らせないようにし続けた異教の嫌悪すべき偶像でした。ユダの人々は、私たちと同様、唯一にして真の保護と安全は主に従うことの中にあることを知っておくべきでした。

「自己否定が私たちの宗教の一部になるとき、私たちは神の御旨を理解し、それを実行するようになるだろう。なぜなら、目に塗る薬が私たちの目に塗られ、神の律法のうちにすばらしいものを見るからである。私たちは従順の道を安全への唯一の道だと思うだろう。神は、御自分の民が真理の光を理解している割合に応じて責任を負わせられる。主の律法の要求は、公正で妥当である。そして、キリストの恵みによって私たちがその要求を満たすことを、神は期待しておられる」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1890年2月25日号、英文)。

公然とした反逆

問3

エレミヤ44:1~10を読んでください。エジプトでユダの人々は何をしていましたか。

エジプトにおいてエレミヤは、彼や同胞たちがユダに住んでいたときと同じ問題に直面しなければなりませんでした。そのときは指導者たちに話さなければなりませんでしたが、今回は普通の人々に話さなければなりませんでした。彼らはこの惨状をもたらした同じ罪のいくつかを、エジプトでも最初から犯していました。

エレミヤが立ち向かったとき、彼らは驚くべき返事を彼にしました(エレ44:15~19)。彼らの心のかたくなさと欺きとは、驚くほどです。要するに、彼らはエレミヤの顔をまともに見て、彼が「主の名」によって語ったことと彼自身とを拒絶したのでした。

根拠は単純でした。初めの頃、ヨシヤの改革がなされる前、つまり彼らが異教の神々を礼拝することに深くはまり込み、「天の女王」に香をたき、ぶどう酒を注いでささげていた頃、物事はうまくいっていた、というのが根拠でした。彼らは物質的には恵まれており、平和に暮らしていました。しかし、災難が襲ったのは、ヨシヤの改革の直後でした(いずれにせよ、その改革は遅すぎ、中途半端でした)。それゆえ、なぜエレミヤの言葉と彼のあらゆる警告に耳を傾けなければならないのかと、彼らは考えました。

エレミヤの返事は、次のようなものでした(エレ44:20~30)。「いいや、あなたがたはわかっていない。このような惨事があなたがたを襲ったのは、あなたがたがこういったことをしたからにほかならない。さらに悪いことに、変わることをあなたがたが頑固に拒むので、さらなる惨事がやって来る。あなたがたがエジプトで得られると思った安全は、あなたがたが拝む異教の神々と同様、欺きでありうそだ。最終的に、あなたがたは真実を知るが、それでは遅すぎる」

さらなる研究

聖書全体と同様、私たちはエレミヤ書全体を通じて善悪の問題を突きつけられています。そして、私たちクリスチャンは善と悪を知っています。なぜなら、神はさまざまな形でこれら二つの言葉を定義しておられるからです(例えば、ロマ7:7、ミカ6:8、ヨシュ24:15、マタ22:37~39、申12:8参照)。しかし、もしあなたが神を信じていなかったら、どうでしょうか。どうやってあなたは善と悪を区別することができるのでしょうか。無神論者の作家サム・ハリスが示唆を与えています。彼は『道徳的な風景』という本の中で、善悪は科学によってのみ理解されうるし、理解されなければならないと論じています。つまり、強い核戦力と弱い核戦力の違いを科学が私たちに教えてきたのと同じように、是と非、善と悪を区別できるように科学が私たちを助けるべきだと言います。彼は、いつの日か科学が人間の悪をいやすかもしれないとまで推測しています。

「もしわれわれが人間の悪の治療方法を見いだしたとしたら、どんなことになるか、考えてみよう。仮定上の話として、脳の中における関連する変化を安価に、痛みもなく、安全にすべて起こせると想像しよう。精神病質の治療薬は、ビタミンDのように直接食料に入れることができる。今や、悪は、栄養不足のようなものにすぎないのである」(『道徳的な風景』109ページ、英文)。しかし、たいていの科学者は、たとえ彼らが神を信じていなくても、科学がこういった問題を解決できると信じることに抵抗があるでしょう。ですが、もしあなたが神を信じていないなら、こういったことの解決をどこに見いだせるのでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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