霊の賜物と奉仕【アドベンチストの信仰#17】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神はどの時代にも、神の教会の会員すべてに霊の賜物を与えておられる。それは教会と人類共通の利益のために、愛の奉仕において用いられるべきものである。聖霊は教会員それぞれに、み旨のままに賜物を分け与えられる。聖霊によるこの霊の賜物は、教会が神から託された役割を果すために必要なあらゆる能力と働きをもたらす。聖書によれば、これらの賜物には、信仰、いやし、預言、宣教、教え、行政、調停、同情、自己犠牲的奉仕、援助と慈善、民の励ましなどがある。教会員のある者は神に召され、霊による能力が与えられて、牧会、伝道、教育といった、教会によって承認された働きに奉仕する。これらの働きは、教会員を整えて奉仕に向かわせ、教会を強めて霊的成熟へと導き、神への信頼と神を知る知識の一致を育成するために特に必要とされる働きである。教会員がこれらの賜物を働かせて、神から与えられるさまざまな恵みを忠実に管理するとき、教会は偽りの教理の破壊的な影響から守られ、神にあって成長を続け、愛と信仰において堅固なものとなる。(信仰の大要17)

昇天なさる直前、イエスの語られたことばは歴史を変えてしまうほどのものでした。イエスは弟子たちに命じられました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。

全世界にですって。すべての造られたものにですって。弟子たちにとってこれは、不可能な仕事に思えたに違いありません。イエスは彼らが全く気力をなくしているのを感じて、エルサレムから離れないで「父の約束を待っているがよい」と言われました。それから主は確約なさいました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:4,8)。

イエスが昇天なさってから、弟子たちは多くの時間を祈りに費やしました。調和と謙遜とが、イエスとの大切な多くの時間を損なうことになった不一致とねたみとにとって代りました。弟子たちは悔改めたのでした。キリストとの親しい交わりをとおして一致していくことが、聖霊の注ぎを受ける準備として必要でした。

キリストが奉仕をするために、聖霊の特別な注ぎを受けられたように(使徒10:38)、弟子たちも証しをするために、聖霊のバプテスマを受けたのでした(使徒1:5)。結果は、電気がついたようでした。霊の賜物を受けた日、彼らは三千人にバプテスマを施したのでした(使徒2:41参照)。

目次

霊の賜物

キリストはたとえをもって霊の賜物をお示しになりました。「また天国は、ある人が旅にでるとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを与えて、旅に出た」(マタイ25:14,15)。

旅に出たある人とは、天にのぼられたキリストを表しています。その「僕ども」は信徒であり、彼らは「キリストの尊い血」(1ペテロ1:19)という「代価を払って買いとられた」(1コリント6:20)のでした。キリストは、彼らが奉仕をし、「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために」(2コリント5:15)生きるように、彼らをあがなって下さったのです。

キリストは、それぞれの僕に、能力と「割り当て」(マルコ13:34)られた仕事に応じて財産を与えられました。他の賜物と才能と共に(本書第20章参照)、これらの財産は、聖霊によって分け与えられた特別な賜物を表しています[1]

特別な意味で、キリストはこれら霊の賜物を、ペンテコステのときに教会に与えられたのです。パウロは「彼は高いところに上がった時」「人々に賜物を分け与えた」と言いました。このように「キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている」(エペソ4:8,7)のです。聖霊は、教会が委ねられた仕事をするために、これらの賜物を「思いのままに、各自に」(1コリント12:11)分配する取次人なのです。

霊の賜物の目的

聖霊は教会がその聖なる働きを完成するために、教会員に特別な才能を与えられます。

教会との調和

コリントの教会は、どの霊の賜物にも不足はありませんでした(1コリント1:4,7)。しかし、不幸なことに、子供のようにどの賜物が一番重要かと口論をしていたのです。

コリントの教会の中における分裂を心配して、パウロは、これらの賜物の真の性質は何か、その働きがどのように意味づけられるかについて彼らに手紙を書きました。パウロは、霊の賜物は恵みの賜物であると説明しました。同じ聖霊から「種々ある」「務」や「働き」へと導く「種々」の「賜物」が来るのです。しかし、パウロは、「すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである」(1コリント12:4-6)ことを強調しました。

聖霊は、信徒それぞれに賜物を与えられます。それによって教会が啓発され、強化されるためです。主の働きの必要によって、どんな賜物がだれに与えられるかが決ってきます。すべての者が同じ賜物を受けるのではありません。パウロは次のように言いました。聖霊はある者に知恵を、ある者に知識を、ある者に信仰を、ある者に力あるわざ、ある者に預言、ある者に霊を見分ける力、ある者に異言、そしてある者には異言を解く力を与えられる、と。「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(同11節)。教会における賜物の働きについての感謝は、神に向けられるべきであって、その賜物を用いる人に向けられるべきではありません。賜物は個人のためでなく、教会のために与えられるものですから、賜物を受けた人々はそれを自分の所有物と考えてはなりません。

聖霊は、最もふさわしいと思えるものを与えられるのですから、軽べつされたり、見くびられたりする賜物は一つもありません。特別な地位や働きの故に傲慢になることのできる人は、だれもいないし、低い地位に置かれたからといって、辱められたと感ずる必要もないのです。

1働きのモデル

パウロは人間のからだをつかって、種々ある賜物が調和していることを説明しています。人間のからだは多くの部分から成り、互いに独自の方法で寄与しあっています。「そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである」(同18節)。

体のどの部分も、他の部分に向かって「おまえはいらない」と言えるものはありません。それぞれは、互いに頼りあっているのです。「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである」(同21-24節)。

どの器官でも損うことは、からだ全体に影響を及ぼすのです。もしからだが脳を持たなかったら、胃は働くことはないでしょう。そしてもし胃がなかったら、脳はあっても無益です。そのように教会は、たといどんなに重要でないと思われる教会員が失われても病んだものとなるのです。

構造的に弱いからだの部分は、特に守られねばなりません。人は、手や足がなくても生きることはできます。しかし、肝臓や心臓、肺などがなければ生きていることはできません。わたしたちは通常、顔や手をさらけ出していますが、からだの他の部分は、しとやかさや身だしなみとして、衣服でおおうのです。より劣った賜物を軽くみるどころか、教会の健全さがそれらに左右されるので、わたしたちは最大の注意をもってそれらを取り扱わねばならないのです。

神は教会に霊の賜物を、「からだの中」の「分裂」を防ぎ、調和と依存の精神をつくり出すために与えようとなさるのです。それは、「それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」(同25,26節)のです。従って、一人の信徒が苦しむとき、教会全体はそれに気づき、その苦しみを和らげるべきです。この人が回復をみたとき、はじめて教会の健全さが保たれるのです。

それぞれの賜物の価値を論じた後、パウロはそのいくつかを列挙しています。「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」(同28節、エペソ4:11参照)。すべての賜物を持つ人はだれもいないのですから、パウロはすべての人たちが、これら教会に最も有益なるものを参考に、「更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい」(同31節)と勧めています[2]

2不可欠な重要さ

しかしながら、霊の賜物はそれ自体では十分ではありません。「最もすぐれた道」(同31節)があるのです。キリストが再びおいでになるとき、霊の賜物はなくなっていくのですが、聖霊の実は永遠のものです。これは、愛と愛がもたらす平和、善意、義といった永遠にわたる美徳から成っています(ガラテヤ5:22,23、エペソ5:9参照)。預言、異言、そして知識がすたれる一方で、信仰、希望そして愛は残るのです。そして、「最も大いなるものは、愛」(1コリント13:13)なのです[3]

この神のお与え下さる愛(ギリシャ語でアガペー)は、自己犠牲的な与える愛なのです(1コリント13:4-8)。これは、「次元の高い愛であり、人の中に、あるいは愛される対象に何らかの価値を見い出すものである。この愛は原則に基づいたものであり、感情的なものではない。この愛は、その対象が持っているすばらしい面を認め、それを敬い、その敬意が深まったものである」[4]。愛を欠いた賜物は、教会に混乱と分裂を引き越します。だから、よりすぐれた道とは、霊の賜物を持つ者が、この全き自己否定の愛を持つことなのです。「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、熱心に求めなさい」(1コリント14:1、NIV)。

神の栄光のために生きる

パウロはローマ人への手紙の中でも霊の賜物について述べています。信徒に、神の栄光のために生きるよう勧めながら(ローマ11:36-12:2)、パウロはまた、共に教会に加わっている信徒を特徴づける多様性と一致を表すのにからだのいろいろな部分を用いて説明しています(同3-6節)。

信仰も霊の賜物もその源が神の恵みにあることを認める限り、信徒は謙遜な状態にとどまることができます。信徒により多くの賜物が与えられれば、霊的影響はより大きいものとなり、より神に頼る者となっていくのです。

パウロは、この章の中で次のような賜物をあげています。預言(霊感に満ちたことば、声明)、奉仕(仕えること)、教え、勧め(励まし)、寄附(分かち合うこと)、指導、そして慈善(同情)、コリント人への第一の手紙12章と同じようにパウロは、クリスチャンの最も大いなる原則、すなわち愛(9節)でこの話題を終えています。

ペテロは霊の賜物という主題を、すべてのものの終りが「近づいている」(1ペテロ4:7)という背景の下に論じています。時が切迫しているので信徒は、賜物を用いるよう命じられています。「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである」(同10節)。パウロのようにペテロも、これらの賜物は自分の栄光のためにあるのでなく、「すべてのことにおいて、神があがめられるため」(同11節)であると教えています。ペテロはまた、賜物に伴う愛について語っています(同8節)。

教会の成長

霊の賜物の第三番目にして最後の議論で、パウロは信徒に熱心に勧めています。「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」(エペソ4:1-3)。

霊の賜物は、教会の一致を助長する働きをするもので、それによって教会が成長していくのです。ひとりびとりの信徒は、「キリストから賜わる賜物のはかりに従って、…恵み」(同7節)を受けているのです。

キリストご自身が、「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった」のです。「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」(同11-13節)与えられたものです。霊の賜物を受ける者は、信徒がそれぞれの賜物に従って、数々の伝道の働きができるよう訓練する方向で、彼らに仕えていかなければなりません。これによって、教会はキリストの満ち満ちた高さに至るまで成熟し、しっかりと立てられていきます。

これらの働きは、霊的安定を増し、まちがった教理から教会を守っていきます。これによって信徒は、「もはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」(同14,15節)。

ついには、キリストにあって霊の賜物は、教会の一致と繁栄とをもたらすのです。「キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(16節)。神の示される成長を教会が経験するために、教会員ひとりびとりは、神のお与え下さる賜物を使わなければなりません。

この結果、教会は二重の成長、つまり教会員の数の増加と個人の霊の賜物の増加とを経験していくのです。前に述べたように、愛はこの成長への召しの一部なのです。というのは、教会はこれらの賜物を愛のうちに用いるときにのみ、啓発と成長を達成することができるからです。

霊の賜物の意義

通常の働き

聖書は、牧師が教会の働きをする一方で、一般信徒は教会の席を温め、養われるのを待っているだけといった考えを支持してはいません。牧師も信徒も共に「神につける民」(1ペテロ2:9)として教会を構成するのです。両者は教会の安寧と繁栄に対して責任があります。彼らは、キリストが下さる特別な賜物に従って共に働くよう召されているのです。種々の賜物は、種々の働き、奉仕となって現れ、神の国を広めるために、またこの世の人々を救い主に引き合わせるために、すべては証しによって一つに結び合わされるのです(マタイ28:18-20、黙示録14:6-12)。

牧師の役割

霊の賜物の教理は、信徒訓練の責任が、牧師の肩にかかっていることを教えています。神は、ご自分の民を伝道の働きに備えさせるために、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を任命されたのです。「牧師は教会に属する仕事をすべきではない。そうすることが牧師たちを疲れさせ、他の人々がその責任を果すのを妨げるからである。牧師は教会員に、教会や地域においてどのように働いたらよいかを教えるべきである。」[5]

訓練の賜物をもっていない牧師は、牧会に立つべきではありません。そういう人は他の分野で神の働きをなすべきです[6]。教会に対する神のご計画が成功するかどうかは、神のお与えになった賜物を信徒が使っていくよう訓練をする牧師の才能にかかっているのです。

賜物と伝道

神は霊の賜物を、からだ全体に益となるように与えられるのであり、単にそれを受ける個人に益となるためではありません。賜物が個人のためだけのものでないと同様に、教会は自分たちのためだけに賜物すべてを受けるのではありません。神は教会の中にいろいろな賜物を与えられましたが、それは、神が計画された世界伝道を完成するためなのです。

霊の賜物は、良い働きをしたことに対する報酬ではありません。それは、良い働きをするための道具の役割を果すものです。聖霊は、通常はその人が生れ持った才能に合っている賜物を与えられます。もちろん、生れ持った才能そのもののみが霊の賜物なのではありません。聖霊によって人が力づけられるためには、新しい生命が必要です。わたしたちは、霊の賜物を受けるために、ぜひとも新しく生れなければならないのです。

均一化でなく多様性における一致

他の信徒たちを自分と同じようなクリスチャンにしようとする人がいます。しかし、これは人間の計画であって神のご計画ではありません。霊の賜物が多種多様であるにもかかわらず、教会は一致を保っているということが、互いに補い合うという賜物の性質を表しています。つまり、神の教会の成長は、ひとりびとりの信徒にかかっているということです。教会には、かつて教会が歴史の中で据えてきた基盤の上にさらに築き上げていくべき働きがあります。そして、神は教会の中のすべての賜物、務め、そして働きがここで融合させられることを意図しておられるのです。隅のかしら石であるイエス・キリストにあって、「建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長」(エペソ2:21)するのです。

証し―賜物の目的

信徒には様々な賜物が与えられています。これはそれぞれに個別の働きがある、ということです。しかしながらどの信徒も、自分の信仰の証しができなければなりません。信仰を分かち合い、自分の人生の中で神が何をなして下さったかを他の人々に話すのです。たとえそれがどんな賜物であれ、神がそれぞれに賜物を下さっている目的は、それを受ける人がこの証しができるためであるからです。

霊の賜物のまちがった用い方

霊の賜物を用いることを拒む信徒は、自分に与えられた賜物が衰えていくばかりでなく、永遠の生命をも危険にさらしているということがわかってくるでしょう。愛のまなざしで、イエスはおごそかに、自分の賜物を用いない僕は、永遠の報酬を失った「悪い怠惰な僕」(マタイ25:26-30)[7]にほかならないと勧告されました。不忠実な僕は、自分のまちがいが慎重に考えた結果であることを、全的に認めています。従って、自分のまちがいに対して責任を負わなければなりませんでした。「成り行きにまかせ、機会を避け、責任をのがれようとする者は、審判の大いなる日に、偉大なる審判者によって、悪人たちと共に分けられるのである。」[8]

霊の賜物の発見

教会員は、教会の伝道活動に加わって成果を収めるために、自分たちの賜物を知らねばなりません。賜物は、それを持つ者を奉仕と豊かな生活からくる喜び(ヨハネ10:10)へと向かわせる羅針盤のような働きをします。もし、わたしたちが、「賜物を認め、開発し、使おうとしないなら(あるいは単純に、否定するなら)、教会はあるべき姿以下でしかないでしょう。神がご計画されたもの以下でしかないでしょう。」[9]

わたしたちが霊の賜物を発見する過程は次のとおりです[10]

霊的備え

使徒たちは、罪人をキリストに導くために、ふさわしいことばを語るようにと熱心に祈りました。彼らは、お互いの間にあった相違や、優越感を捨て去りました。罪の告白と悔改めが、キリストとの非常に親しい交わりをもたらしました。今日、キリストを受け入れる者は、聖霊のバプテスマを受けるために同様の経験が必要です。

聖霊のバプテスマは、一回限りのことではありません。毎日体験できるのです[11]。わたしたちは、神にこのバプテスマを嘆願する必要があります。なぜなら、これは教会に証しする力と、福音を高らかに語る力とを与えるからです。このようにしてわたしたちは、絶えず神に生涯を委ねていかねばなりません。そして、キリストと充分に交わり、賜物を発見する知恵を神に求めねばならないのです(ヤコブ1:5)。

みことばの学び

新約聖書が霊の賜物について教えていることを祈りをもって学ぶことによって、聖霊がわたしたちのために用意しておられる特別な働きを、聖霊自ら心に印象づけて下さるのです。わたしたちは、神の働きをするために少なくともひとつは賜物が与えられていると信じることは大切です。

神の導きへの委ね

わたしたちが聖霊を使うのでなく、聖霊がわたしたちを用いられるのです。それは、神の民の中に、「神のよしとされる願いを起させ、かつ実現に至らせる」(ピリピ2:13、RSV)のは神だからです。神の備えられたどのような奉仕でも、それをさせて頂けるのは特権なのです。わたしたちは、神が他の人々をとおし、わたしたちの助けを求めて、働いて下さるよう、お委ねすべきです。ですから、わたしたちは、どんなときでも教会の必要に応えることができるように、準備をしておかねばなりません。わたしたちは、新しいことをしようとするとき、恐れてはならないし、才能や経験が不足しているとき、いつでもこれらについて援助を求める必要があります。

キリストのからだからの確認

神は、これらの賜物を神の教会をうちたてるために与えられるので、わたしたちは自分の気持ちからでなく、キリストのからだ(教会)の判断によって、自分に賜物が与えられているということを再確認できるのです。他の人の賜物より、自分の賜物を認める方がしばしば難しいものです。自分の賜物に関して、他の人の言うことに喜んで耳を傾けるばかりでなく、わたしたちは神の賜物を他の人の中に認め、確認することも大切です。

神がわたしたちに命じられた地位または働き、あるいは奉仕というものに、わたしたちがあずかっているということを知ることは、何と感激であり、心満たされることでしょう。聖霊をとおしてキリストが下さる特別な賜物を、神の働きのためにわたしたちが用いることができるということは何という祝福でしょうか。キリストは、恵みの賜物を分け与えたいと望んでおられます。今日でも、わたしたちは神の招きを受け入れることができ、そして、霊に満たされた生活の中で、神の種々の賜物がいったい何を成しうるかを発見することができるのです。

[1]例えば、ホワイト『キリストの実物教訓』(福音社、1967年)、301,302ページ参照。わたしたちが、受けついだ超自然的能力と、獲得した才能とを区別するのは、必ずしも、たやすいことではありません。聖霊の支配の下にある人のうちには、これらの能力がしばしば混在してみられるものです。

[2]リチャード、ハミル「今日の教会の霊の賜物」『ミニストリー』Richard Hammil,“Spiritual Gifts in the Church Today,”Ministry(July, 1982)、15,16ページ参照。

[3]広い意味で、愛は神からの賜物です。すべての良いものは神から来るからです(ヨハネ1:17)。これは「御霊の実」(ガラテヤ5:22)です。しかし、聖霊は、霊の賜物をある者には与えられるがすべての者にではない、という意味では、この愛は霊の賜物ではありません。すべての人は、「愛を追い求める」(1コリント14:1)べきです。

[4]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、778ページ。

[5]ホワイト「伝道の訴え」『アドベンチスト外国伝道の歴史的概略』White,“Appeals for Our Missions,”Historical Sketches of the Foreign Missions of the Seventh-day Adventists(Basel, Switzerland: Imprimerie Polyglotte, 1886)、291ページ。レックス・D・エドワーズ『ニュー・フロンティア――牧者としての信徒』Rex D. Edwards, A New Frontier-Every Believer a Minister(Mountain View, CA: Pacific Press, 1979)、58-73ページ参照。

[6]J・デイビッド・ニューマン「霊の賜物セミナー」David Newman,“Seminar in Spiritual Gift,”(未刊行原稿)、原稿3ページ参照。

[7]この厳しい状況に関しては次のものを参照。ホワイト、「家庭でのしつけ」『レビュー・アンド・ヘラルド』White,“Home Discipline,”Review and Herald(June 13, 1882),1ページ。

[8]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第5巻、511ページ。

[9]ドン・ジェーコブセン「わたしにとって霊の賜物は何を意味するか」『アドベンチスト・レビュー』Don Jacobsen,“What spiritual Gifts Mean to Me,”Adventist Review(December 25, 1986)、12ページ。

[10]ロイ・C・ネイデン『あなたの霊的賜物の発見』Roy C. Naden, Discovering Your Spiritual Gifts(Berrien Springs, MI: Institute of Church Ministry, 1982)。マーク・A・フィンレイ『アドベンチスト教会成長への道』Mark Finley, The way to Adventist Church Growth(Siloam Springs, AR: Concerned Communications, 1982)。C・ピーター・ワグナー『あなたの教会を助けるあなたの霊的賜物』C. Peter Wagner, Your Spiritual Gifts Can Help Your Church Grow(Glendale, CA: Regal Books, 1979)参照。

[11]ホワイト『患難から栄光へ』、上巻(福音社、1978年)46ページ。ホワイト、『両親、教師、生徒たちへの勧告』White, Counsels to Parents, Teachers and Stdents(Mountain View, CA: Pacific Press, 1943)、131ページ参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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