エレミヤ書からの教訓【エレミヤ書】#13

目次

この記事のテーマ

私たちのエレミヤ書の研究もいよいよ最後です。それは一つの冒険であり、多くの感情やエネルギーがこの預言者の物語の中で費やされてきました。

あらゆる預言者と同様、エレミヤはこの書を世間から孤立して書いたのではありません。彼のメッセージは主からのものであり、それは特定の時代と場所、そして特定の状況下にいた人々に対するものでした。

しかし、彼の状況がいかに私たちの状況や、エレミヤ書をこれまで読んできたさまざまな時代の人々の状況と根本的に違ったとしても、そこにあらわされている重要な原則は、あらゆる時代の神の民にとって同じです。

例えば、次のようなことです。神に忠実であり、神の戒めに従うこと。人々を誤った満足感に浸らせてしまう空虚で冷めた儀式とは対照的なものとしての真の宗教、心の宗教。たとえ聞きたくない内容であっても、叱責の言葉に進んで耳を傾けようとすること。真のリバイバルと改革。肉の腕に頼るのではなく、主と主の約束に頼ること……など。

数え上げればきりがありません。今回は、御自分の民に対する神の愛のこのような啓示から学ぶことのできる多くの教訓のうちのいくつかに目を向けてみましょう。

エレミヤの主

セブンスデー・アドベンチストは、大争闘の中心に一つの重要な問題が存在していることを理解しています。それは、神の御品性はどのようなものか、という疑問です。神は実際にどのようなお方なのでしょうか。神は、サタンが信じさせようとしているような独裁的暴君なのでしょうか。それとも、私たちの最善だけを願っておられる、愛情深く、思いやりのある父親なのでしょうか。このような疑問は、宇宙全体の中でも最も重要な問いかけです。詰まるところ、もし神が親切で、愛情深く、自己犠牲的なお方ではなく、意地悪で、独裁的で、残忍なお方であるなら、私たちの状況はどのようになるでしょうか。そんな神を持つよりは、神が存在しないほうが、私たちはずっと幸せでしょう。

それゆえ、この疑問はとても重要です。幸いなことに、私たちは答えを持っており、それはキリストの十字架に最もよくあらわされています。

「広大な空間に、数えきれないほどの諸世界を、その力によって創造し、支えておられるお方、神の愛するみ子、天の大君、ケルビムや輝くセラピムが喜んであがめるお方、そのお方が、堕落した人類を救うために身を卑しくされたことは、決して忘れられることがない。また彼が、罪の苦痛と恥とを負われ、天父からはそのみ顔を隠されて、ついには失われた世界の苦悩がその心臓を破裂させて、カルバリーの十字架上でその命を絶たれたことは、決して忘れられることがない。諸世界の創造者、すべての運命の決定者が、人類に対する愛から、ご自分の栄光を捨てて、ご自分を卑しくされたことは、いつまでも宇宙の驚嘆と称賛の的となる」(『希望への光』1917ページ、『各時代の大争闘』下巻433、434ページ)。

エレミヤ書の中に、神の御性質や御品性は、さまざまな形であらわされています(エレミヤ2:13、5:22、11:22、31:3、3:7)。それらの聖句は、神の御性質や御品性を私たちに示すために、この書の中で用いられている多くのたとえや表現の中の一部にすぎません。神は命の源、力強い創造主、裁き主、私たちを愛し、罪を悔いて破滅に至る道から立ち帰るようにと何度も私たちに呼びかけくださるお方です。

儀式と罪

「組織化された宗教と神との終わりなき意気阻喪する闘争の記録文書、それが聖書として知られているものだ」(テリー・イーグルトン『宗教とは何か』青土社22ページ)。

この指摘は正しくありません。聖書の宗教、神が人類にお与えになった宗教は、常に「組織化された宗教」だからです。

その一方で、神がエレミヤ書において、寒々しく命のない、しかし極めて組織化された儀式から人々を離れさせようとしておられたことは、疑いの余地がありません。そのような儀式が人々の信仰を支配するようになり、彼らは、それを行うことで自分たちの罪が覆れると信じていたからです。

先に述べたように(けれども、繰り返す価値のあることなのですが)、エレミヤの格闘の大部分は、指導者や祭司たち、さらには、自分たちが神に選ばれた者、アブラハムの子ら、契約の民であるがゆえに、主と良好な関係にあると信じていた人たちとの格闘でした。なんと悲しい欺瞞でしょうか。そして、アブラハムの子孫(ガラ3:29)である私たちも、同様の欺瞞を注意する必要があります。

問1

エレミヤ書の次の聖句のメッセージは、何ですか(エレ6:20、7:1~10)。最も重要なことに、私たちはここでの原則を、主との歩みの中に、いかに適用することができますか。

エレミヤ7:9、10を読んでください。もしだれかが、「安価な恵み」と呼ばれてきたものにぴったりの状況を見つけたいと思ったことがあるなら、この用語はまさにここに当てはまります。人々はこのような罪深いことをいろいろしたうえで、神殿へ戻って来て真の神を「礼拝」し、彼らの罪の赦しを求めるのです。神はだまされません。このような人たちは生き方を変えなければ、とりわけ彼らの間にいる弱い者たちの扱い方を変えなければ、厳しく裁かれることになります。先のような罪を続けられるように、契約の条件を顧みず、自分たちは神の赦しを求めることができ、やりたいことをやれるのだという思い込み—なんという欺瞞の下に彼らはいることでしょう!

心の宗教

「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ロマ14:12)。

エレミヤ書の大半は、民全体に向けられています。再三再四、エレミヤは集団としてのイスラエルとユダを神の「すぐれたぶどうの木」(エレ2:21、口語訳)、主の「愛する者」(同11:15、12:7)、神の「嗣業」(同12:7~9)、神の「ぶどう畑」(同12:10)、神の「群れ」(同13:17)などと呼んで、彼らについて語りました。間違いなく、私たちはエレミヤ書の中で、この民に対する神の呼びかけの集団的性質を感じ取ることができます。

もちろん、そのことは、教会が集団として繰り返し理解されている新約聖書においても同じです(エフェ1:22、3:10、5:27参照)。

しかし、救いは個人の問題であって、集団の問題ではありません。私たちは一括扱いで救われるのではありません。新約聖書の教会と同様、ユダ王国は個人によって構成されていました。そして、本当に重要な問題が持ち上がるのは、この個人のレベルにおいてです。有名な申命記6:5(「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」)は、民全体に対して語られてはいるものの、二人称単数形で書かれています。つまり、神は一人ひとりに個人的に語りかけておられます。最終的に、私たちは一人ひとり、自分のことについて神に申し述べることになるでしょう。同じことがエレミヤ書の中にも見られます。

問2

次の聖句は、主との個人的な歩みの重要性について、どのようなことを述べていますか。エレミヤ17:7、10、29:13、9:22、23[口語訳9:23、24]。

旧約聖書も新約聖書も神の教会の集団的性質について語っていますが、真の信仰は個々の人の問題です。日々、主に屈服し、信仰と服従によって歩む選択を個人的にすることです。

偶像のたそがれ

問3

民が犯した大きな罪の一つで、エレミヤが常に対処しなければならなかったものは、何でしたか(エレ10:1~15)。

聖書のこの箇所で興味深いのは、これらの偶像がいかに空しく、役に立たず、愚かしいかを示したエレミヤの示し方だけではありません。生きておられる神と偶像との対比の仕方も興味深い点です。こういった偶像は、力がなく、役に立たず、空しく、偽りです。天と地を創造された主とは、なんと対照的でしょう!これらの偶像はいずれ消え去りますが、主は永遠に存在なさいます。ですから、私たちはだれを礼拝し、だれに人生をささげるべきでしょうか。弱く、偽りで、空しく、力のないものに対してでしょうか。それとも、宇宙を創造し、維持する偉大な力を持っておられる主に対してでしょうか。言うまでもなく、その答えは明らかです。

しかし、その答えがいかに明らかであろうと、私たちも偶像礼拝に陥る危険性の中にいるというのが実情です。今日、私たちは、エレミヤの時代の人々が拝んだような類の偶像を拝んではいないかもしれませんが、私たちの現代生活は偽りの神々であふれています。私たちが神よりも愛するものなら何でもこうした現代の偶像になりえます。私たちが「礼拝する」(礼拝とは、必ずしも歌ったり、祈ったりすることを意味するのではありません)ものは何であれ、私たちの神となり、私たちは偶像礼拝の罪を犯していることになります。

言うまでもなく、私たちは、こういったものがどれも礼拝に値しないことを頭ではわかっています。この世が私たちに提供するもの、私たちが偶像に仕立て上げるものは、最終的にどれ一つとして私たちの魂を満足させえないこと、救いえないことを、私たちは知っています。しかし、もし私たちが注意を怠り、イエスが私たちのためになさったことや、なぜそうされたのかという理由を忘れてしまうなら、私たちは現代的な形態の偶像礼拝(エレミヤが激しく非難した偶像礼拝)に簡単に飲み込まれるでしょう。

残りの者たち

「ユダの背信の末期において、預言者たちの勧告は、いかにも効果がないように思われた。そしてカルデヤの軍勢が最終的に第3回目のエルサレム包囲を行った時に、すべての者は希望を失ってしまった。エレミヤは全滅を預言した。そしてついに彼が投獄されたのは、彼が降伏を叫んでやまなかったからである。しかし神は、なお都にいた忠実な残りの者たちを、どうすることもできない絶望の中に放置されたのではなかった。エレミヤが彼の言葉を軽べつした人々によって厳しく監視されていた時にもなお、天の神は喜んでゆるし救おうとしておられることについての新しい啓示が彼に与えられた。それは、当時から今日に至るまでの神の教会に対して、つきない慰めの泉となったのである」(『希望への光』562ページ、『国と指導者』下巻82ページ)。

はびこる背教と悪しき運命の中にさえ、神は、少ないながらも、忠実な民を常に持っておられました。多くの預言書と同様、エレミヤ書においても、強調点の多くは背教と不誠実に置かれています。なぜなら、主はそれらから御自分の民を救い出したいと願われたからです。しかしそれにもかかわらず、聖書に記された歴史全体を通じて、主は忠実な残りの者たちを持っておられました。言うまでもなく、このことは終末時代に至るまでずっと続くでしょう(黙12:17参照)。

エレミヤ23:1~8に残りの者たちの概念が表現されています。長きにわたって、学者たちは5~7節の中にメシア預言を、つまり神の忠実な民の救済の預言を見てきました。バビロン捕囚のあと、残りの者たちが帰還したのは事実ですが、それは輝かしい帰還ではありませんでした。しかし神の御旨は、ダビデの血筋、いつの日か統治なさる王であるところの「正しい若枝」を通して成就します。

この預言は、イエスの初臨において部分的に成就し(マタ1:1、21:7~9、ヨハ12:13参照)、再臨において完全に成就します。そのとき、神の忠実な民、神の真の残りの者たちはみな、平和と安全の中に永遠に住むことになります。そして、出エジプトによって最初に象徴された救済は、最終的で、完全で、永遠の救済になります。

さらなる研究

何年も前のこと、W・D・フレイジーというアドベンチストの牧師が、「勝者と敗者」という説教をしました。彼はその中で、聖書のさまざまな登場人物の人生を概観し、彼らの働きや伝道に目を向け、その1人ひとりについて「彼は勝者だったのでしょうか。それとも、敗者だったのでしょうか」と問いました。

例えば、フレイジー牧師は、荒れ野で孤独な人生を送ったバプテスマのヨハネに目を向けました。ヨハネにはわずかな弟子がいましたが、決して多くならず、あとからやって来たイエスの弟子たちのようでもありませんでした。そして言うまでもなく、ヨハネは最後の日々をじめじめとした牢獄で過ごし、ときとして疑念に悩み、結局、首を切り落とされてしまいました(マタ14章)。こういったことをすべて語ったあと、フレイジー牧師は尋ねました。「ヨハネは勝者だったのでしょうか。それとも、敗者だったのでしょうか」と。

預言者エレミヤはどうでしょうか。彼の人生はどれほど成功したでしょうか。彼は大いに苦しみ、そのことについて泣き言を言い、悲しむこともためらいませんでした。ほとんど例外なく、祭司も、預言者も、王も、大衆も、彼が言ったことを好まなかったばかりか、それに激しく腹を立てました。彼は、同胞に対する裏切り者だとみなされさえしました。そして最終的に、人々がエレミヤの言葉を拒絶したため、彼が人生を費やして警告した破壊と破滅はやって来ました。彼らはエレミヤを殺そうとして、泥の溜まった穴に彼を投げ入れました。しかし、彼は生き延びて、エルサレムの町や神殿が破壊され、同胞が捕囚として連れ去られるのを目撃したのです。このように、人間的な観点からすると、エレミヤの人生は順調とは言い難いものでした。見方によっては、彼はかなり悲惨な人生を送ったとも言えるでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次