この記事のテーマ
人間の苦しみという問題は、確かに人類を脅かし続けています。私たちは、「良い」人たちが大きな悲劇で苦しむ一方、悪人たちがこの世において罰を免れているのを目にします。数年前、『なぜ良い人に悪いことが起きるのか』(英文)という本が出版されました。それは、何千年にもわたってこの問題に対する満足のいく答えを得ようとしてきた多くの試みの一つでした。が、答えは得られていません。ほかにも多くの著者や思想家が、人間の苦しみを受け入れるための苦闘について書いてきました。彼らが正しい答えを見いだしたようには見えません。
言うまでもなく、この主題はヨブ記の主題であり、私たちはその中に、ヨブのような「良い」人がなぜこの世で苦しむのかを探り続けています。しかし、ヨブ記とほかの本との決定的な違いは、ヨブ記が苦しみについて人間的な視点に立っていないという点です(しかしこの書巻の中で、私たちはそのような視点もいろいろ見ます)。むしろ、ヨブ記は聖書なので、私たちはこの問題に関する神の視点を見ます。
私たちは今回、悲惨なヨブのもとにやって来た友人たちの言葉をさらに読みます。私たちはその言葉から、とりわけ、ほかの人たちが失敗してきたのと同様、苦痛の問題を理解しようとする際の彼らの失敗から、何を学ぶことができるでしょうか。
さらなる非難
あたかもエリファズから意見されたことが十分でなかったかのように、次にヨブはビルダドから意見されます。ビルダドは、エリファズが言ったのと同じようなことを言いました。残念ながら、ビルダドはヨブに対して、エリファズよりも粗雑で辛辣でした。子どもを失った人のところにやって来て、「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」(ヨブ8:4)と言う人を想像してみてください。
この言葉は皮肉です。なぜなら、ヨブ記1章(ヨブ1:5)は、ヨブが子どもたちのために(万一彼らが罪を犯していた場合に備えて、という理由から)いけにえをささげたことを明らかにしているからです。このように私たちは、(ヨブの行動に見られるような)恵みの理解と、辛辣で報復的な律法主義をあらわしているビルダドの開口一番の言葉との対比をここに見ます。しかしさらに悪いことに、ビルダドは神の御品性を擁護するために、そのように話します。
ヨブ記8章を読んでください。ビルダドがここで言っていることに、だれが多くの欠点を見つけられるでしょうか。「わたしたちはほんの昨日からの存在で/何も分かってはいないのだから。地上での日々は影にすぎない」(ヨブ8:9)。この言葉は説得力があり、真実であり、極めて聖書的です(ヤコ4:14参照)。この世のものに希望を置く神を認めない人たちは、「くもの巣」(ヨブ8:14)より不安定なものを信頼しているのだという彼の警告に、どこか間違っているところがあるでしょうか。私たちが手に入れられる聖書的な考えは、このくらいのものです。
最も大きな問題は、ビルダドが神の御品性の一つの側面だけを述べているということです。道路の片方の側の側溝にいるという一つの実例です。いずれの側の側溝にも、私たちはいるべきではありません。例えば、ある人は、律法、正義、服従といったことだけに注目し、一方別の人は、恵み、赦し、代理といったことだけに注目することができます。いずれの過度の強調も、神や真理の姿をゆがめることに大抵つながります。私たちは同じ問題をここに見るのです。
「あなたの罪の一部を見逃して」
問1
「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く/海原よりも広いのに」(ヨブ11:7~9、さらにイザ40:12~14参照)。どのような真理が述べられていますか。私たちがそれを常に覚えていることは、なぜ重要なのですか。
これらの言葉は、私たちには神についてわからない部分がたくさんあるということ、私たちが自力で神を調べようとどんなに努力しても、ほんのわずかしか知ることができないという事実を見事に表現しています。20世紀の最も有名な哲学者の1人故リチャード・ローティが、私たちは現実と真理を理解できないのだから、そのような努力はやめたほうがよい、と主張したというのは、興味深いことです。現実を理解しようとする代わりに、私たちにできるのはそれに対処しようとすることだけだと、ローティは言いました。なんと興味深いことでしょう。西洋哲学の2600年の伝統が、結果的にこのような敗北宣言に至りました。もし私たちがいくら探求しても、私たちが生きている現実の性質についてわからないままなら、だれが「探求することによって」創造主——その現実を生み出し、それゆえに現実よりも偉大な方——を理解できるでしょうか。ローティは、たった今私たちが読んだ聖句を基本的に支持しました。
しかし、これらの聖句は深遠なものですが、ヨブの三番目の友人ツォファルの言葉であり、彼はその言葉をヨブに対する誤った主張の中で用いました。
ヨブ記11章を読んでください。ヨブのように苦しんでいる人のところへやって来て、要するに、「あなたは自業自得だ。いや、それどころか、一部を見逃してもらっている」と言い放てる人を理解することは非常に困難です。さらに悪いことに、彼はほかの2人と同じように、神の善意と御品性を立証しようとして、そう言っているのです。
神の報復
間違いなく、ヨブの3人の友人は神に関する知識をいくらか持っていました。そして彼らは、神を擁護する努力においても熱心でした。すでに触れたように、ヨブに対する彼らの言葉は、(とりわけ背景を考慮するなら)見当違いでしたが、彼らは極めて重要な真理もいくつか述べていました。
そして、彼らの主張の中核を成していたのは、神は正義の神であり、罪は悪に報復的な罰を、善に特別な祝福をもたらすという考えでした。彼らが生きていた正確な時代はわかりませんが、私たちは、モーセがミディアンの地にいたときにヨブ記を書いたと信じているので、彼らは出エジプトの少し前の時代に生きていたのでしょう。しかも十中八九、大洪水のあとの時代です。
創世記6:5~8を読んでください。明らかに、大洪水の物語は、罪に対する神の報復の実例です。神はその中で、はっきり罰を受けるに値する者たちに直接それを下しておられます。しかしそこにおいてさえ、創世記6:8に見られるように、恵みの概念が明らかにされています。エレン・G・ホワイトも、「箱船に打ちつけられる槌音の一つひとつは、人々に説教していた」(『預言の霊』第1巻70ページ、英文)という事実を記しています。しかしそれにもかかわらず、これらの友人たちがヨブに説いていたことの一例を、私たちはこの物語の中に(ある程度)見ることができます。
問2
報復的な裁きという同様の考えは、創世記13:13、18:20~32、19:24、25の中に、どのように見られますか。
エリファズ、ビルダド、ツォファルがこれらの出来事をよく知っていたにしろ、知らなかったにしろ、彼らは悪に対する神の直接的裁きという現実を明らかにしています。神は、罪人をただ罪におぼれるままにしたり、その罪が彼らを滅ぼすままにしたりなさいませんでした。大洪水と同様、神は彼らを罰する直接的な主体でした。神はここで、不正と悪の裁き主、破壊者として働きました。
「もし主が新しいことを創始され(るなら)」
忠実さに対する祝福とともに、悪に対する直接的な神の罰に関する多くの実例が、聖書の中に記録されています。それらは、ヨブ記の登場人物が全員死んだあと、ずいぶん経ってから書かれたものです。
問3
服従に対し、どんな大きな約束が与えられていますか(申6:24、25)。
旧約聖書は、祝福と繁栄の約束であふれています。その祝福と繁栄は、もし神の民が神に従うなら、神から直接与えられるものです。私たちはここに、ヨブの友人たちが、神と神の戒めに従おうとする者たちや、信心深く真っ直ぐに生きようとする者たちの忠実さを神が祝福してくださることに関してヨブに言ったことの例を見ます。
言うまでもなく、旧約聖書は、不服従に対して下される直接的な神の罰に関する警告であふれています。旧約聖書の大半において、とりわけシナイの地でイスラエルと契約が交わされたあと、神はイスラエルの人々に、彼らの不服従がもたらすものについて警告しておられます——「しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」(サム上12:15)と。
民数記16:1~33を読んでください。反逆者たちの滅ぼされ方の性質を考えると、この事件は、「罪はそれに対する罰を伴う」から自然なことだと見なすことはできません。この人たちは、自らの罪と反逆に対する神からの直接的な報復に遭ったのです。この件において、私たちは神の力の超自然的な顕現を目にします。それは、まさに自然界の法則が変わってしまったかのようでした。「だが、もし主が新しいことを創始されて、大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込み、彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう」(民16:30)。
この聖句における「創始する」という動詞は、創世記1:1で「創造された」と訳されている言葉と同じ語根に由来するものです。神はすべての人に、この罰を速やかに、かつ直接、反逆者たちに下すのが神御自身であることを知ってほしい、と願われたのでした。
第二の死
確かに、最も大きく、最も力強い報復的な裁きは、聖書の中で「第二の死」(黙20:14)と呼ばれる悪人たちの滅びによって世の終わりにあらわれるでしょう。言うまでもなく、この死と、アダムのすべての子孫に共通する死を混同してはいけません。この死は、第二のアダムであるイエス・キリストが、世の終わりに義人たちには免れさせる死のことです(Iコリ15:26)。それとは対照的に、第二の死は、旧約聖書時代に見られたいくつかの罰のように、悔い改めず、イエスによる救いを受け入れなかった罪人に下される神の直接的な罰なです。
問4
IIペトロ3:5~7を読んでください。失われた者たちの運命について、神の御言葉は何と述べていますか。
「火が天の神のみもとからくだる。地はくずれる。地の深いところに隠されていた武器が引き出される。焼き尽くす炎が、地のすべての裂け目から吹き出す。岩石そのものが火になる。『炉のように燃える日』が来たのである。『天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされる』(マラキ4:1、IIペトロ3:10)。地の表面は、ちょうど溶けたかたまり、巨大な沸騰する火の池のように見える。それは神を敬わない者たちの、刑罰と滅びの時である。『主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年をもたれる』(イザヤ34:8)」(『希望への光』1927、1928ページ、『各時代の大争闘』下巻459ページ)。
罪はそれに対する罰を伴うことがありますが、ヨブ記の主役たちが主張したように、神御自身が罪と罪人を直接罰せられる時も確かにあります。この世のすべての苦しみが罪から生じたことは確かです。しかし、すべての苦しみが罪に対する神の罰であるというわけでもありません。ヨブの場合はまったくそうでありませんでしたし、ほかの多くの場合においても同様です。事実は、私たちが大争闘に巻き込まれており、私たちに害を及ぼそうと躍起になっている敵が存在するということです。良い知らせは、そのただ中にあって、神がそばにおられることを私たちが知っていることです。私たちが直面する試練の理由が何であれ、現時点でのそれらの結果がどうであれ、私たちには神の愛の確証があります。それは、イエスが私たちのために十字架にかかられたことでわかるほど大きな愛です。そしてその行為だけが、すべての苦しみを終わらせると約束しています。
さらなる研究
このシリーズの最初に述べたように、この物語の登場人物の立場にわが身を置こうとすることは重要です。なぜなら、そうすることで彼らの動機や行動が理解しやすくなるからです。彼らには舞台裏で起こっている闘いは、私たちのようには見えませんでした。もし私たちが彼らの立場に立って考えてみるなら、ヨブの苦しみに関してエリファズ、ビルダド、ツォファルが犯した過ちを理解するのはさほど難しくないはずです。彼らは、まったく下す資格のない判断を下していました。
「大きな災難が大きな犯罪や罪の確かなしるしだと考えるのは、人間にとってごく自然なことである。しかし、そのように品性を評価することにおいて、人間はしばしば過ちを犯す。私たちは報復的な裁きの時代に生きていない。善と悪は混じり合っており、災難はすべての人を襲う。ときとして、人間は神の保護を離れて境界線を越えるが、するとサタンが彼の力を人間に行使し、神は介入なさらない。ヨブは激しく苦しんでおり、彼の友人たちは、その苦しみが彼の罪の結果だと認めさせ、彼を有罪宣告のもとにあると感じさせようとした。彼らはヨブの事例を大罪人の事例だと言ったが、主は、御自分の忠実な僕に対する彼らの裁きを叱責された」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。
私たちは、苦しみという問題全体の扱い方において注意深くなければなりません。確かに、ある場合には、理解しやすいかのように見えます。だれかがたばこを吸い、肺がんになったとします。これ以上にわかりやすいことがあるでしょうか。それはいいとして、では生涯ずっと喫煙して、がんにかからない人はどうですか。神は一方を罰し、他方を罰しておられないのでしょうか。結局のところ、エリファズ、ビルダト、ツォファルと同様、私たちはなぜ苦しみがこのように襲ってくるのか、必ずしもわかりません。ある意味において、私たちがわかるか、わからないかは、ほとんど重要ではありません。重要なのは、私たちが目にする苦しみに対してどう行動するかです。この点において、3人の友人は完全に間違っていました。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。