*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。
キリストの再臨は祝福に満ちた教会の望みであり、福音の壮大な頂点である。救い主は、文字どおり、からだを持って世界中の人々の目に見える姿で来臨される。キリストが来臨されるとき、死んでいる義人はよみがえらされ、生きている義人と共に栄化され、天に上げられる。しかし、不義なる者たちは死ぬ。預言がほぼ完全に成就してきたことは、現在の世界の状況とあいまってキリストの来臨が近いことを示している。この出来事がいつ起るかは、明らかにされていない。それゆえ、われわれは常に用意をしているように勧められている。(信仰の大要25)
「お母さん、わたしイエス様にお会いしたい。イエス様、いついらっしゃるの。」小さな女の子がベッドに入ってやすむ前に、そっと母親にいいました。
その女の子は、自分の小さな胸の内にある望みが、長い間待ち望まれている事柄であるということを知るよしもありませんでした。聖書の最後の言葉は、キリストがまもなく戻って来られることを約束しています。「しかり、わたしはすぐに来る。」そして、啓示者でありイエスの忠実な弟子であったヨハネは、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20)とつけ加えています。
イエスにお会いするのです。わたしたちの想像をはるかに越えてわたしたちを愛していてくださる方と永遠に一つになるのです。この世のすべての苦しみが終るのです。今や、よみがえった愛する人々と、平安のうちに永遠を楽しむのです。キリストが昇天されて以来、キリストの友たちがその日を今か今かと待ちつづけてきたのも無理はありません。
ある日キリストはおいでになります。長い間待ちくたびれて、まどろみ眠っていた人々にはもちろん、聖徒たちにとってもキリストの再臨は圧倒的な驚きです(マタイ25:5)。地上がもっとも暗い時間である「真夜中」に、神はご自分の民を解放するためにその力を現されます。聖書はそのできごとをこう描写しています。
「大きな声」が「天の聖所の中から、御座」から出て、「事はすでに成った」と言いました。この声は地を揺るがし、「人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったような」「激しい地震」(黙示録16:17,18)をひき起します。山々は揺れ、岩がいたるところに飛びちり、地面全体が海の波のようにうねります。地の表面は裂け、「諸国民の町々は倒れた。…島々はみな逃げ去り、山々は見えなく」(同19,20節)なってしまいます。「天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されて」(黙示録6:14)しまうのです。
物質的な世界を襲う混乱にもかかわらず、神の民は「人の子のしるし」(マタイ24:30)を見て勇気づけられます。人の子が天の雲に乗ってくだってこられる時、すべての人々の目は生命の君を見るのです。この時には、悲しみの人としてではなく、勝利者であり征服者としてご自分の支配権を取り戻すためにおいでになります。いばらの冠のかわりに、栄光の冠をかぶり、「その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされて」(黙示録19:12,16)います。
イエスがおいでになる時、イエスを救い主なる主と認めることを拒み、自分たちの生活に対するイエスの律法の要求を拒否した人々は大きな絶望に襲われます。「あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル33:11)と、きわめて忍耐強く訴えつづけたあの声ほど、救い主の恵みを拒んだ人々にその罪を知らしめるものはありません。「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とにむかって言った。『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』」(黙示録6:15-17)。
長い間小羊を待ち望んでいた人々の喜びは、悪人たちの絶望をはるかにしのぐものです。あがない主の来臨は、神の民の歴史に、栄光に満ちたクライマックスをもたらします。それは神の民の解放の瞬間です。打ち震えるような敬愛の念をもって神の民が叫びます。「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」(イザヤ25:9)と。
イエスは近づいてこられると、眠っている聖徒たちを墓から呼び起し、天使たちに『天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」(マタイ24:31)よう命じられます。世界中の眠っている義人たちがイエスの声を聞き、墓からよみがえります。喜ばしい瞬間です。
それから、生きている義人たちが「またたく間に、一瞬にして変えられる」(1コリント15:51)のです。栄光と不死とを受け、よみがえった聖徒たちと共に引き上げられて空中で主に会い、いつまでも主と共にいるのです(1テサロニケ4:16,17)。
キリストの再臨の確実性
使徒たちや初期のクリスチャンたちは、キリストの再臨を「祝福に満ちた望み」(テトス2:13、ヘブル9:28参照)と考えました。彼らは聖書のあらゆる預言と約束とが再臨によって成就すると期待していました(2ペテロ3:13、イザヤ65:17参照)。というのは、再臨がクリスチャンの人生行路の目標に他ならないからです。キリストを愛する人はみな、キリストと――そして、父なる神と、聖霊と、また天使たちと――顔と顔とを合わせて交わることができるその日が来るのを心待ちにしています。
聖書の証
再臨の確実性は、聖書の信頼性に立脚しています。イエスは亡くなられる直前、弟子たちのための場所を用意するために、父なる神のところに帰ると言われました。しかし、それだけではなく、「またきて」(ヨハネ14:3参照)と約束なさいました。
キリストの初臨が預言されていたように、再臨もまた聖書全体を通じて予告されています。大洪水以前に、すでに神はエノクに対して、キリストが栄光の内にこられるとき、罪の終結を迎えるということを言っておられます。エノクはこのように預言しています。「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」(ユダ14,15)と。キリストの初臨の千年も前に詩篇記者は、主がこられてその民をお集めになるということを次のように言っています。「われらの神は来て、もだされない。み前には焼きつくす火があり、そのまわりには、はげしい暴風がある。神はその民をさばくために、上なる天および地に呼ばわれる、『いけにえをもってわたしと契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ』と」(詩篇50:3-5)。
キリストの弟子たちは、キリストが戻ってこられるという約束を喜んでいました。遭遇したあらゆる困難のただ中にあっても、この約束がもたらした確信によって、新たな勇気と力とを、確実に得たのでした。主が戻って来て、彼らを父の家へ連れて行ってくださることになっていたからです。
初臨の与える保証
キリストの再臨は、初臨と密接に結びついています。もしキリストが一度目においでにならなかったら、そして罪とサタンとに対して決定的な勝利を収められなかったとしたら(コロサイ2:15)、最後にキリストが来られてサタンのこの世界に対する支配権を滅ぼし、元の完全な状態に回復してくださるとわたしたちが信じる根拠を失うことになります。しかしわたしたちには、キリストが「ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために…現れた」(ヘブル9:26)という証拠があるので、キリストは、「罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられる」(ヘブル9:28)ということを信じる根拠があります。
キリストの天における働き
キリストのヨハネに対する啓示は、天の聖所が救いの計画の主要な位置を占めていることを明らかにしています(黙示録1:12,13、3:12、4:1-5、5:8、7:15、8:3、11:1,19、14:15,17、15:5,6,8、16:1,17)。キリストが罪人たちのための最後の働きを始められたことを示す預言は、キリストがご自分の民を連れて帰るために間もなく戻ってこられるという確信を、より確かなものにしています(本書第23章参照)。十字架においてすでに成し遂げられたあがないを完結しようとして、キリストが積極的に働いておられるという確信は、キリストが戻ってこられるのを待ち望んでいるクリスチャンたちにとって大きな励ましとなります。
キリストの再臨の様子
キリストはご自身の再臨が近づいていることを示すしるしについて語られたとき、同時にご自身の民が、偽りの主張によって欺かれることのないようにと案じられました。キリストは、再臨の前には、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイ24:24)と警告なさいました。また、「だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる、』また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな」(マタイ24:23)と言われました。「あらかじめ知れば憂いなし」【訳注1】です。信徒たちが本当のできごとと偽の再臨とを見分けることができるように、いくつかの聖句は、キリストがどのようにして戻ってこられるかについて詳しく述べています。
文字通り、そして自ら戻ってこられる
イエスが雲に包まれて天に昇っていかれたとき、主が去っていかれたあとをじって見上げていた弟子たちに、二人の天使が言いました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒1:11)と。
言いかえれば、天使たちは、去って行かれた同じ主――何か霊的な存在ではなく、人格を備え、肉体を持った方(ルカ24:36-43)――が地上に戻ってこられると言ったのです。キリストの再臨は、その昇天と同様に字義通りであり、なおかつ人格的なものなのです。
目に見えるかたちで戻ってこられる
キリストの再臨は、内的な、目に見えない経験としてではなく、目に見える人格と実際に出会う経験となることでしょう。イエスの再臨が目に見えるかたちで起ることは全く疑いの余地がないので、イエスはご自分の再臨をいなずまのひらめきにたとえることによって、弟子たちが秘密裏の再臨という説によって欺かれることがないように警告されました。(マタイ24:27)。
義人も悪人も同時に、キリストの再臨を目撃するであろうと聖書は明確に述べています。ヨハネは「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目…は、彼を仰ぎ見るであろう」(黙示録1:7)と記しており、キリストは悪人たちの応答について次のように注意を与えておられます。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイ24:30)。
耳に聞こえるかたちで戻ってこられる
キリストの再臨を全宇宙が知るという描写に加えて、聖書は再臨が目に見えるだけではなく、音によっても知らされるということを明らかにしています。「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサロニケ4:16)。選民が集められる時に、「大いなるラッパの音」(マタイ24:31)が同時に鳴り響きます。事が秘密裏に行われることはないのです。
栄光に満ちて戻ってこられる
キリストが再臨なさるとき、支配者としての力を持ち、「父の栄光のうちに、御使たちを従えて」(マタイ16:27)戻ってこられます。啓示者ヨハネは、キリストの再臨を最も劇的に描写しています。キリストが白い馬に乗り、数え切れない天の軍勢を率いておられる姿を描いています。栄光に満ちたキリストの神としての輝かしさは、明明白白です(黙示録19:11-16参照)。
突然、予期しない時に戻ってこられる
キリストが戻ってこられるのを待ち望んでいる信徒たちは、再臨が近づくとそれに気づかされるでしょう(1テサロニケ5:4-6)。しかし世の一般の人々にとっては、パウロが書いているように、「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」(1テサロニケ5:2,3、マタイ24:43参照)のです。
ある人々は、パウロがキリストがこられるのを盗人が来る様子にたとえていることから、キリストは何か秘密の、目には見えない方法でこられると結論づけています。しかしこうした見方は、栄光と輝きの内に、すべての人が見ることができるかたちでこられるという、聖書の描いているキリストの再臨の様子とは矛盾しています(黙示録1:7)。パウロの言わんとしたことは、キリストの再臨が秘密であるというのではなく、世俗的な人々にとっては、盗人がやって来るときのように予測できないということなのです。
キリストは再臨を大洪水による突然の世界の滅亡にたとえることによって、同じことを述べておられます。「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」(マタイ24:38,39、NJV)。ノアは長い間洪水が来ることを訴えつづけましたが、ほとんどの人々にとってそれは驚くべきできごとでした。その当時、二種類の生き方をしている人がいました。一方の人々はノアの言葉を信じて箱舟に入り、そして救われましたが、もう一方の人々は箱舟の外に留まるほうを選び、その結果「洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行」(マタイ24:39)きました。
激変的なできごと
大洪水の例のように、ネブカデネザルの見た金属の像の夢は、キリストがご自分の栄光の王国を確立される激変的な方法を描き出しています(本書第4章参照)。ネブカデネザルは、「頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土」でできている巨大な像を見ました。それから、「一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました」(ダニエル2:32-35)。
この夢を通して神は、ネブカデネザルに世界歴史の概要を見せられました。ネブカデネザルの時代とキリストの永遠の王国(石)設立との間に、4つの主要な王国あるいは帝国、それから弱い国や強い国が寄り集まっている国々が相次いで世界の舞台にそれぞれの位置を占めることになるという夢です。
キリストの時代から注解者たちは、これらの主要な帝国をバビロニア(紀元前605-539年)、メディア・ペルシア(紀元前539-331年)、ギリシア(紀元前331-168年)、そしてローマ(紀元前168-紀元476年)と結びつけてきました[1]。預言されていたように、ローマの後に続いた帝国はありませんでした。紀元4世紀から5世紀の間にローマ帝国はいくつかの小さな王国に分裂し、後にそれらがヨーロッパの国々になって行きました。幾世紀にもわたって、強力な支配者たち――カール大帝、シャルル5世、ナポレオン、ウィルヘルム:カイゼル及びヒトラー――が新たに世界帝国を設立しようと試みました。しかし、すべて失敗に終りました。ちょうど預言に、「鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません」(ダニエル2:43)とある通りです。
最後に、夢は劇的なクライマックスである神の永遠の王国の設立に焦点をあてます。人手によらずに切り出された石は、再臨の時、人間の労力なしで樹立されるキリストの栄光の王国を表しています(ダニエル7:14、黙示録11:15)。
キリストの王国は、人間の帝国と同時には存在しません。ローマ帝国の支配していたこの地上にキリストがおいでになった時には、すべての国々を打ち砕く石の王国はまだ来ていませんでした。鉄と粘土の足の段階、すなち分割された国々の時代の後にそれは到来するのです。その王国は、キリストが義人を悪人からより分けられる再臨の時に設立されることになっています(マタイ25:31-34)。
その王国が到来すると、この石、つまり王国は「その像の鉄と粘土との足を」撃ち、「これらのもろもろの国を打ち破って滅ぼ」(ダニエル2:34,35,44)し、あとかたも残さないと預言されています。確かに再臨は地を揺るがすできごとなのです。
再臨と人類
キリストの再臨は、人類の大きな区分――キリストとキリストのもたらす救いとを受け入れた人々、そしてキリストに背いた人々――とに関係するでしょう。
選民を集める
キリストの永遠の王国設立の重要な面は、すべてのあがなわれた人々をキリストが用意された天の家(ヨハネ14:3)へ集めることです(マタイ24:31、25:32-34、マルコ13:27)。
ある国の指導者が他の国を訪問した場合、歓迎の催しに出席できるのはほんのわずかの人々です。しかしキリストがこられる時には、この世に生を受けたすべての信徒たち、年齢、性別、教育、経済的な地位、人種に関係なく、盛大な来臨の祝典に参加するのです。二つのできごとがこの全世界的な集会を可能にします。それは死んでいる義人たちのよみがえりと生きている聖徒たちの昇天です。
1キリストにあって死んだ人々のよみがえり
キリストの再臨を告げるラッパの鳴り響くときに、死んでいる義人たちはよみがえらされて、朽ちず死なない者となるのです(1コリント15:52,53)。その瞬間に「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」(1テサロニケ4:16)ます。つまり、キリストにあって死んだ人は、生きている義人たちが主と共にいるために引き上げられる前に、よみがえらされるのです。よみがえった人々は、悲しみのうちに別れた人々と再会します。そして、「死よ、おまえのとげはどこにあるのか。墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15:55、KJV)と歓喜するのです。
よみがえって来る肉体は、葬られたときの、病んだり、年老いたり、また損なわれた身体ではなく、もはや罪によって堕落させられた跡のない、新しい、不死の完全な肉体です。よみがえった聖徒たちは、知性、魂そして肉体において、神の完全なかたちを反映し、キリストの回復の働きの完結を経験するのです(1コリント15:42-54、本書第25章参照)。
2生きている信徒たちの昇天
死んでいる義人がよみがえらされるとき、すなわち、再臨のときに、この地上に生きている義人たちは変えられます。「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるから」(1コリント15:53)です。キリストの再臨のときに、ある信徒たちが他の信徒たちより優位に立つということはありません。パウロは、生きていて変えられた信徒たちが、「彼ら[よみがえった信徒たち]と共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(1テサロニケ4:17、ヘブル11:39,40参照)と明示しています。したがってすべての信徒たち、すなわち全時代のよみがえった聖徒たちと、キリストの再臨の時に生きている人々のいずれもが壮大な、ご臨席の集会に出席するのです。
不信の者たちの死
再臨は、救われた人々にとっては喜びと活気とに満ちた時ですが、失われて行く人々にとっては、恐ろしい、恐怖の時となるでしょう。この人たちはキリストの愛と救いへの招きにずっと抵抗してきたため、誤った妄想に陥ってしまったのです(2テサロニケ2:9-12、ローマ1:28-32参照)。彼らは自分たちが拒んできた方が王の王、主の主として来られるのを見るとき、自分たちの運命の時が来たことを悟ります。恐怖と絶望に圧倒され、彼らは自分たちをかくまってくれる、生命のない被造物を求めます(黙示録6:16,17)。
このとき神は、すべての背信的な宗教の統合であるバビロンを滅ぼされるでしょう。「彼女は火で焼かれてしまう」(黙示録18:8)。この連合の指導者――不義の惑わしと不法の者――を「主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(2テサロニケ2:8)ともいわれています。獣の刻印を強要した責任のある権力(第12章参照)は、「硫黄の燃えている火の池に」投げ込ます。そしてそれ以外の悪人は「馬に乗っているかた」(黙示録19:20,21)――主なるイエス・キリストの口から出るつるぎで切り殺され」るでしょう。
近づいているキリストの再臨のしるし
聖書は、キリスト再臨の様子や目的について明らかにしているだけでなく、このクライマックスとなるできごとの近いことを告げるしるしについても述べています。再臨を知らせる最初のしるしは、キリスト昇天の1700年以後に起り、キリストの再臨が非常に近いことを示す、他のしるしもそれに続いて起っています。
自然界におけるしるしキリストは「日と月と星とに、しるしが現れるであろう」(ルカ21:25)と預言され、具体的に「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マルコ13:24-26)とも述べておられます。加えてヨハネは、天空のしるしに先立って大地震が起るのを見せられました(黙示録6:12)。これらのすべてのしるしは、1260年間の迫害の終結を示しています(第12章参照)。
1地の証言
この預言の成就として、「歴史上最大の地震」[2]が1755年11月1日に起りました。リスボン地震として知られるその地震の影響は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど400万平方マイルにも及びました。ポルトガルのリスボンを中心に、ほんの数分の間に公共や民間の建物を破壊して、何千人もの死者を出しました[3]。
地震の及ぼした物理的な影響は、その大きさと同時に、時に関する考え方に対して強い影響を与えたという点でも重要な意味がありました。当時の多くの人々が、この地震を終りの時の預言的なしるしであると認め[4]、神のさばきと世の終りについて真剣に考え始めました。リスボン地震は預言の研究に刺激を与えました。
2太陽と月の証言
25年後、預言の中の次のしるし――日と月とが暗くなる――が起りました。キリストはこのしるしが、大きな試練すなわち、聖書の他の箇所で言われている教皇制による1260年間の迫害に続いて起るということに特に言及し、その成就する時を指摘されました(マタイ24:29、本書第12章参照)。しかし、これらのしるしに先立って起る迫害の期間は縮められるであろうとキリストは言われました(マタイ24:21,22)。事実、宗教改革とそれにともなった運動の影響によって、教皇制による迫害は縮められました。その結果、迫害は18世紀の半ばにはほぼ完全に終っていました。
この預言の成就として、1780年5月19日、異常な暗黒が北米大陸の北東部を襲いました[5]。
イエール大学学長のティモシー・ドワイトは、このできごとを思い起してこう言っています。「1780年5月19日は注目すべき日でした。多くの家々でロウソクに灯がともされ、鳥たちは静まって姿を消し、鶏たちはねぐらにひきこもりました。…さばきの日は近い、というきわめて一般的な見解が優勢を占めました。」[6]
ハーバード大学のサミュエル・ウィリアムズは、暗黒は「雲を伴って南西の方角から『午前十時と十一時の間に』やって来て、地域によって程度や期間は異なっていたものの、『次の日の真夜中まで続きました。』ある地域では、『人々は野外では物を読むことができなかった』」[7]と報告しています。サミュエル:テニーによると、「次の日の晩の暗黒は、おそらく、全能者の命令により光が生まれて以来、かつてないほどの暗さであったでしょう。もし宇宙のすべての光を発する物体が、光を遮断する覆いで覆われていたか、あるいは、存在を抹殺されていたとしても、あれ以上暗くなることはあり得なかったでしょうというできごとでありました。」[8]
その夜の九時には満月が出ていましたが、暗黒は真夜中すぎまで続きました。月が見えるようになると、それはまるで血のように見えました。
啓示者ヨハネはすでにその日の異常なできごとを預言していました。地震の後、太陽は「毛織の荒布のように黒くなり、月は…血のようになり」(黙示録6:12)と記しています。
3星の証言
キリストもヨハネも、キリストの再臨が近づいていることを示すできごととして、落星について述べています(黙示録6:13、マタイ24:29参照)。1833年11月13日の大流星――記録上最も広範囲にわたる落星――がこの預言を成就しました。それは一人の観察者が、一時間に平均6万個の流星を確認できるほどでした[9]。そしてその流星は、カナダからメキシコ及び、中部大西洋から太平洋にわたって認められ[10]、多くのクリスチャンがこれを聖書の預言の成就であると認識しました[11]。
ある目撃者は、「天空はこの落ちてくる星で絶え間なく埋めつくされ、見たところ空と星との区別がつかないほどでした。さらに星は時々かたまって降ってきました。――それは『いちじくの木が強風によって揺すられたとき、時ならずその実を落とす』様子を思い起こさせました」[12]と言っています。
キリストはクリスチャンたちに、ご自分の再臨が近づいているので喜んで待っているように、そしてそのために充分な備えをしているようにと警告するためにこれらのしるしを与えられました。「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」とキリストは言われました。また、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」(ルカ21:28-31)とも言われました。
このように、キリストが預言なさったとき、しかも正確な順序で起った地と太陽と月と星とによる独特な証拠は、多くの人々の注意を再臨の預言へと向けました。
宗教界におけるしるし
聖書は、宗教界における多くの重要なしるしが、キリストの再臨の、直前の時を示すであろうと預言しています。
1宗教的大覚醒
ヨハネの黙示録は、再臨前に世界的な宗教運動が起ることを明示しています。ヨハネの幻の中で一人の天使がキリストの再臨を予告している様子は、この運動を象徴していました。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』」(黙示録14:6,7)。
この使命自体、いつそれが宣べ伝えられなければならないかを示しています。永遠の福音は全時代を通じて説かれてきました。しかし、福音のさばきの面を強調するこの使命は、終りの時代にのみ宣べ伝えられるのです。というのは、この使命は「神のさばきの時がきた」と警告しているからです。
ダニエル書は、終りの時にその中の預言が開かれるに至ることをわたしたちに語っています(ダニエル12:4)。その時には、人々はその預言の奥義を理解するのです。この預言の開封は、1798年の教皇の捕囚によって、1260年間にわたる教皇制による支配が終ったときに始まりました。教皇の追放と自然界におけるさまざまなしるしとの結びつきは、多くのクリスチャンたちをキリストの再臨の先駆となる、種々のできごとに関する預言の研究へと導いて行き、その結果これらの預言の理解についての新しい深遠さを生み出しました。
キリストの再臨にあてられたこの焦点はまた、世界的な再臨待望の信仰復興をもたらしました。ちょうどさまざまな国で独自に起った宗教改革がキリスト教界全体に行きわたったように、再臨運動もキリスト教界全体に広がっていきました。この運動の持つ世界的な性質は、キリストの再臨が近づいていることの明確なしるしの一つでありました。バプテスマのヨハネがキリストの初臨に対して道を備えたように、再臨運動もまた、救い主の栄光に満ちた帰還に備えるようにとの神の最後の招きであるヨハネの黙示録14章6-12節の使命を宣べ伝えながら、この運動はキリストの再臨に対して道を備えるのです(本書第12章、第23章参照)[13]。
2福音の宣教
神は「義をもってこの世界をさばくためその日を定め」(使徒17:31)られました。キリストはその日に関する、わたしたちに対する警告の中で、全世界が悔改めたときにその日が来るとは言われませんでした。そうではなくて、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)と言われました。したがってペテロは信徒たちに、「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」(2ペテロ3:12新共同訳)と奨励しています。
聖書の翻訳と配布に関する今世紀の統計は、福音の証人の増加を表しています。1900年には537の言語の聖書を入手することができました。1980年までには、聖書は全訳、部分訳をあわせて1811の言語に翻訳されており、これは世界の人口の約96パーセントに及ぶことになります。同様に年間の聖書の配布数は、1900年には540万冊から3,680万冊に、そして1980年には5億冊に近い聖書が配布されるに至っています[14]。
加えて、今ではキリスト教は宣教のためにかつてない種々様々な手段を用いることができるようになって来ています。それらは奉仕活動、教育及び医療機関、同国人及び外国の働き人たち、ラジオやテレビの放送、それに人々の印象に残る経済的な援助などです。今日では、強力な短波ラジオ放送局は、事実上、地球上のすべての国に福音を放送することが可能になっています。これらのかつてなかった手段が聖霊の導きのもとに用いられて、わたしたちの時代に全世界への福音宣教をという目標は、実現するに至るでしょう。
セブンスデー・アドベンチストの教会員は約700の言語と1,000の方言を話す人々から成っており、190の国々で福音を宣べ伝えています。これらの教会員のほぼ90パーセントが北米大陸以外に住んでいます。医療及び教育事業が福音使命の達成に重要な役割をはたすと信じて、わたしたちは約600の病院、療養所、診療所及び無料診療所、19の医療船、27の健康食品工場、86の大学、834の中・高等学校、4,166の小学校、125の聖書通信学校、33の外国語学校などを運営しています。わたしたちの51の出版社は190の言語の出版物を発行し、短波放送局は世界人口の約75パーセントの人々に向けて放送を行っています。聖霊は、わたしたちの宣教の推進を豊かに祝福してくださっています。
3宗教的な衰退
福音の広範囲にわたる宣教は、必ずしも本当のキリスト教の大規模な発展を意味するわけではありません。むしろ、終りの時に近づくにしたがって、真の霊性が低下して行くことを聖書は預言しています。パウロは「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」(2テモテ3:1-5)と言っています。
確かに今日、多くの人々の心の内では自己愛、物質欲、世俗的な思いがキリストの霊に取って代っています。人々はもはや神の原則や律法をその生活の指針として認めようとはしません。不法がそれらに取って代っています。「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」ともいわれています(マタイ24:12)。
4教皇制の復活
聖書の預言によると、1260年の終りに教皇制は「死ぬほどの傷を」受けるが、死ぬことはないとされています(本書第12章参照)。聖書は、この死ぬほどの傷はなおるであろうと告げています。教皇制は、勢力と権威との大刷新を経験するでしょう。――「全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い」(黙示録13:3)ました。すでに今日、多くの人々は教皇を世界の倫理的な指導者とみなしています。
教皇制勢力の増大は、クリスチャンたちが聖書の権威の代りに伝統や人間的な標準、そして科学を置き換えたことによるところが大であります。そうすることによってクリスチャンたちは、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と」を行う「不法の者」(2テサロニケ2:9)に対してすきだらけになってしまいました。サタンとその手先は、邪悪な三位一体として象徴されている、龍と獣及びにせ預言者からなる集合体によって悪の連合を生じさせるでしょう(黙示録16:13,14、同13:13,14参照)彼らは世界をあざむくのです。聖書を指針とし、「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける」(黙示録14:12)人々のみが、この悪の連合がもたらす圧倒的な欺瞞に首尾よく抵抗することができるのです。
5宗教的自由の衰退
教皇制の復活は、キリスト教に対して劇的な影響を及ぼすでしょう。多大な犠牲によって獲得され、教会と国家との分離によって保証された宗教的自由はむしばまれ、遂には廃棄されるでしょう。強力な国家行政権の支持により、この背教の勢力は、その礼拝の形式をすべての人々に強要しようと試みるでしょう。一人一人が、神とそのいましめに対する忠誠か、あるいは獣とその像に対する忠誠のいずれかを選ばねばならないでしょう(黙示録14:6-12)。
服従させようとする圧力は、経済的な弾圧をも含むでしょう。「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」(黙示録13:17)とあります。服従することを拒む人々は、ついには死刑に直面することになるでしょう(黙示録13:15)。この最後のなやみの時に、神はご自分の民のために特別に介入され、生命の書に名前の記されている人々を救い出してくださるでしょう(ダニエル12:1、黙示録3:5、20:15参照)。
悪の増大
キリスト教界における霊性の低下と不法の者の復活は、教会の中においても信徒の生活においても、神の律法を次第にないがしろにするようにしむけてきました。多くの人々は、キリストが律法を廃されたので、クリスチャンはもはやそれを守る義務はないと信じるようになってきています。こうした神の律法の軽視は、犯罪と不道徳な行いとを増加させています。
1世界的な犯罪の急増
今日の多くのキリスト教会における神の律法の軽視は、現代社会の法や秩序の軽視を助長しています。世界中で、犯罪は手におえないほど急激に増加しています。世界のいくつかの主要都市に駐在している特派員からの報告によれば、「合衆国におけると同様に、世界中のほとんどすべての国々で犯罪は増加の傾向にあります。」「ロンドンからモスクワ、ヨハネスブルグにいたるまで、犯罪は、多くの人々の生き方を変えてしまうほど、急速に大きな脅威となってきています。」[15]
2性的な変革
神の律法の軽視はまた、つつましさや純潔さなどの抑制を衰退させ、不道徳の高まりを生んでいます。今日、性は偶像化され、映画やテレビ、ビデオ、歌や雑誌など、あらゆる広告媒体をとおして売買されています。
性的な変革は、離婚率の衝撃的な上昇や常軌を逸した「開放的な結婚」あるいは夫婦交換、子供たちの性的な乱れ、恐るべき数の妊娠中絶、同性愛の蔓延、性病の流行、そして最近表面化してきたエイズ(後天性免疫不全症候群)などを生み出してきています。
戦争と惨事
イエスは、再臨の前には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう」(ルカ21:10,11、マルコ13:7,8、マタイ24:7参照)と言われました。終りが近くなり、サタンの勢力と神の勢力との間の戦いが激しくなるにしたがって、これらの惨事もまた激しさと頻度とを増し、わたしたちの時代に空前の成就を見ることになるでしょう。
1戦争
歴史を通じて戦争は人類を悩ましてきましたが、それはこれまでにないほど世界的かつ破壊的なものになるでしょう。第一次及び第二次世界大戦は、それ以前のすべての戦争を合わせたよりも多くの死傷者と被害とをもたらしました[16]。
多くの人々が次の世界的な戦争を予想しています。第二次世界大戦は戦争の根を断ち切ったわけではありませんでした。第二次大戦が終ってから、「核兵器ではない、通常兵器による140の戦闘があり、それによって一千万人の人々が死んで行きました[17]。全面的な核戦争の脅威は、わたしたちの世界の上にダモクレスの剣のように迫っているのです。
2自然界の災害
近年、災害は著しく増加してきているようです。次から次へと起る最近の地球と気象との変動のため、ある人々は、自然がだんだん狂暴になってきているのではないかといぶかっているほどです。――そしてもし世界中で気候や地質構造における、理解しがたい変化が起きているとすれば、それは今後ますます激しくなるでしょう[18]。
3食糧不足
飢饉は過去に何度もありました。しかし、今世紀に起きているほどの規模のものではありませんでした。何百万人という人々が飢えと栄養失調で苦しむなどということは、これまでにはありませんでした[19]。将来は決してばら色ではありません。かつてなかったほどの飢餓は、明らかにキリストの再臨が切迫していることを示しています。
絶えず用意をしていなさい
聖書は繰返しわたしたちに、イエスが戻ってこられることを約束しています。それではイエスは今から一年後にこられるのでしょうか。5年後でしょうか。10年後、それとも20年後でしょうか。誰にも確かなことは分かりません。イエスご自身がこう言われました。「その日、その時はだれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)。
キリストは地上での働きの最後に、終りの時代の教会の経験を説明するために、十人のおとめのたとえ話をされました。二種類のおとめたちは、自分たちの主がこられるのを待っていると公言する二種類の信徒たちを表しています。この人々がおとめと呼ばれているのは、純粋な信仰を告白しているからです。おとめたちの持っているランプは神の言葉を表し、油は聖霊を象徴しています。
表面的にはこれら二種類の人々は同じように見えます。いずれも花婿を迎えるために出て行き、いずれもランプに油を入れています。その行動に違いは認められません。彼女たちはみな、キリストが間もなくこられるという使命を聞き、キリストがこられるのを待ち望んでいます。しかしその時、明らかな遅れが生じます。――彼女たちの信仰が試されるのです。
突然、真夜中――地上の歴史の最も暗い時――に彼女たちは次のような叫びを聞きます。「さあ、花婿だ、迎えにでなさい」(マタイ25:6)。この時、二種類の人々の違いが明らかになります。ある人々は、花婿を迎える用意ができていません。これら「思慮の浅い」おとめたちは、偽善者ではありません。この人々は真理である神の言葉を尊重しています。しかし、油を持っていません。――聖霊によって封印されていないのです(黙示録7:1-3参照)。この人々は表面的な働きに満足してしまい、岩なるキリストに出会っていないのです。信心深い様子をしてはいますが、神の力に欠けているのです。
花婿がやって来ると、準備のできている人たちだけが花婿と一緒に婚宴の会場に入り、扉が閉じられます。やがて油を買いに出ていた、思慮の浅いおとめたちが戻って来て叫びます。「ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください。」しかし花婿は答えて言われます。「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」(マタイ25:11,12)。
キリストがこの地上に戻ってこられるとき、ご自分の愛しておられる人たちに対してこうおっしゃらなければならないということはなんと悲しいことでしょうか。キリストはこう警告なさいました。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:22,23)。
大洪水の前に、神はノアを送って世の人々に滅亡の時が来ると警告を発せられました。同じように神はこの世界に、キリストの再臨に対する備えをするようにという三重の使命を警告のために送っておいでになるのです(黙示録14:6-16参照)。
神の恵みの使命を受け入れる人々はみな、再臨に対する期待で喜びに満たされるでしょう。この人々の確信はこの言葉です。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」(黙示録19:9)。本当に彼は「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル9:28)。
あがない主の帰還は、神の民の歴史の、栄光に満ちたクライマックスとなります。それは神の民の解放の瞬間であり、彼らは喜びと崇敬の念とをもってこう叫びます。「見よ、これはわれわれの神である。私たちは彼を待ち望んだ。…わたしたちはその救を喜び楽しもう」(イザヤ25:9)。
訳注
- 「警戒は警備」とも訳出されることわざ。
[1]フルーム、『われわれの父祖たちの預言の信仰』(Froom, Prohetic Faith of Our Fathers)、第1巻、456,894ページ、第4巻、396,840ページ、第2巻、528,784、第三巻、252,744ページ。本書第23章も参照。
[2]G・I・アイビー、『地震』(ニューヨーク州、ニューヨーク、ヴァン・ノストランド・ラインホルト社、1980年)、G. I. Eiby, Earthquakes (New York, NY・Van Nostrand Reinholdt Co., 1980)、164ページ。
[3]参照例、サー・チャールズ・ライエル、『地質学原理』(フィラデルフィア、ジェームズ・ケイ・ジョン・アンド・ブラザー社、1837年)、第1巻、Sir Charles Lyell, Principles of Geology (Philadelphia ・ James Key, Jun. & Brother, 1837)、416-419ページ、「リスボン」『アメリカ百科事典』フランシス・リーバー編(ペンシルヴァニア州、フィラデルフィア、キャレー・アンド・リー社、1831年)、“Lisbon,”Encyclopaedia Americana, Francis Lieber, ed. (Philadelphia, PA ・ Carey and Lea, 1831)、10ページ、W・H・ホッブス、『地震』(ニューヨーク、D・アップルトン社、1907年)、W. H. Hobbs, Earthquakes(New York ・ D. Appleton and Co., 1907)、143ページ、トーマス・ハンター、『最も確かな歴史家たちから得た地震に関する歴史的説明』(リバプール、R・ウィリアムソン社、1756年)、Thomas Hunter, An Historical Account of Earthquakes Extracted from the Most Authentic Historians(Liverpool ・ R. Williamson, 1756)、54-90ページ、ホワイト、『各時代の大争闘』、上巻(福音社、1974年)、391-393ページ参照。初期の報告は10万人の死者があったとしています。現代の百科辞典は6万人としているようです。
[4]『資料集』(Source Book)、358ページに引用されているジョン・ビドルフ・『リスボンの地震に関する詩篇』(ロンドン、W・オーウェン社、1755年)、John Biddolf, A Poem on the earthquake at Lisbon(London ・ W. Owen, 1755)、9ページ。フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』、第2巻、Froom, Prophetic Faith of Our Fathers, vol. 2, 、674-677ページ参照。1756年2月6日、英国国教会はこの地震を記念して断食をしました(同)。T・D・ケンドリック、『リスボン地震』(ロンドン、メシューエン社、1955年)、T. D. Kendrick, The Lisbon Earthquake(London ・ Methuen & Co. Ltd., 1955)、72-164ページも参照。
[5]ホワイト、『各時代の大争闘』、上巻(福音社、1974年)、393-396ページ参照。
[6]ティモシー・ドワイト、『コネチカット歴史資料集』(Timothy Dwight, Connecticut Historical Collections)、これはジョン・W・バーバー編、第二版(コネチカット州、ニューヘブン、ダリー・アンド・ペックおよびJ・W・バーバー社、1836年、Connecticut Historical Collections, compl. John W. Barber, 2nd ed. (New Haven, CT ・ Durrie & Peck and J. Barber, 1836)、403ページに引用されたもの。『資料集』(Source Book)、316ページに引用されている。
[7]サミュエル・ウィリアムズ、「1780年5月19日、ニューイングランド州でみられた異常な暗黒に関する説明」『アメリカ文芸及び科学アカデミー研究報告――1783年末に至る』(マサチューセッツ州、ボストン、アダムズ、アンド・ノース社、1785年)、第1巻、(Sammuel Williams,“An Account of a Very Uncommon Darkness in the States of New―England, May 19, 1780,” Memoirs of the American Academy of Arts and sciences・ to the End of the year 1783)、234,235ページ、『資料集』(Source book)、315ページ参照。
[8]『1792年マサチューセッツ歴史学会資料集』(マサチューセッツ州、ボストン、ベルクナップ・アンド・ホール社、1792年)、第1巻、Collections of the Massachusetts Historical Society for the Year 1792(Boston, MA ・ Belknap and Hall, 1792), vol. 1、97ページに収められた、 1785年12月にサミュエル・テニー(Samuel Tenny)がニューハンプシャー州エグゼターから出した書簡。
[9]ピーター・M・ミルマン、「落星」『ザ・テレスコープ』、第7号(1940年5―6月)、Peter M. Millman, “The Falling of the Stars,” The Telescope, 7(May―June, 1940))、60ページ。フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、第4巻、295ページも参照。
[10]デニソン・オームステッド、『天文学に関する書簡集』、1840年版、Denison Olmsted, Letters on Astronomy, 1840 ed.、348,349ページ、『資料集』(Source Book)、410,411ページに引用。
[11]フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』(Prophetic Faith of Our Fathers)、第4巻、297-300ページ。ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)、22,23ページ参照。
[12]現象はミズーリ州ボウリング・グリーンで観察され、『ソルト・リバー・ジャーナル』1780年11月20日号(Salt River Journal, Nov. 20, 1780)によって報道されています。その記事は『アメリカ科学及び文芸ジャーナル』ベンジャミン、シリマン編、25号(1834年)、(American Journal of Science and Arts, ed. Benjamin Silliman, 25(1834))、382ページに引用されています。
[13]フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』第4巻、(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、ダムスティーグ、『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと働きの土台』(Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission)参照。
[14]デイビッド・B・パレット編、『世界キリスト教百科事典―1900年から2000年までの現代世界の教会と宗教の比較研究』(オックスフォード、オックスフォード大学出版、1982年)、World Christian Encyclopedia. A Comparative Study of Churches and Religions in the Modern World A.D. 1900―2000(Oxford ・ Oxford University Press, 1982)、13ページ。
[15]「海外でも、恐れが諸都市を捕える」『アメリカのニュース及び海外からのレポート』、1981年2月23日号、(“Abroad, Too, Fear Grips the Cities, “ U.S.News & World Report, Feb. 23, 1981)、65ページ。
[16]デイヴィッド・シンガー、メルヴィン・スモール、『戦争の報い―1816年から1965年。統計便覧』(ニューヨーク州、ニューヨーク、ジョン・ウィリー・アンド・サンズ社、1972年)、David Singer and Melvin Small The Wages of War ・ 1816―1965. A Statistical Handbook(New York, NY・ John Wiley & Sons, 1972)、66,67ページ。
[17]マーガレット・サッチャー。アーネスト・W・レフィバー、スティーブン・ハング、『黙示録の前提』(ワシントンD・C・エシックス・アンド・パブリック・ポリシー・センター、1982年)、Margaret Thatcher as quoted in Ernest W. Lefever and E. Stephen Hung, The Apocalypse Premise(Washington, D. C.・ Ethics and Public Policy Center, 1982)、394ページに引用。
[18]ポール・リーサー、「母なる自然は狂暴になりつつあるか」『アメリカのニュース及び海外からのレポート』1982年2月22号、Paul Recer, “Is Mother Nature Going Berserk?” U. S. News & World Report Feb. 22, 1982、66ページ参照。
[19]国際連合発行『テヴェロップメント・フォーラム』(Development Forum)の特別付録「食物に関する事実」(“Facts on Food”)(1974年11月)によれば、「世界人口の2分の1にあたる200億人が栄養不良です」。ロナルド・J・サイダー、『饑餓の時代の豊かなクリスチャン』(ニューヨーク州、ニューヨーク、ポーリスト社、1977年)、Ronald Sider,Rich Christians in an Age of Hunger(New York, NY ・ Paulist Press, 1977)、228ページ、に引用。
*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。