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1:11人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。 1:12ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。 1:13しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。 1:14そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。 1:15そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。 1:16そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。1:17主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。ヨナ1:11-17(口語訳)
キリストと神
ジョアン・デイヴィドソンはイエスとヨナの類似点と相違点を以下のようにまとめました[1]。
1.時代と背景<類似点>
ヨナの時代にはニネベの滅亡が迫っており、キリストの時代にはエルサレムの滅亡が迫っていました。
2.出身地<類似点>
ヨナはガリラヤ中央部ガテヘペル出身で、キリストはガテヘペルから徒歩で約1時間の距離の場所にあるガリラヤ中央部ナザレ出身でした。
3.人間性<相違点>
ヨナは与えられた使命から逃げ、弱さをさらけ出しましたが、キリストは父なる神に完全に服従され、完全であられたのでご自分を「ヨナにまさる者」(マタイ12:41)と宣言されました。
4.尋問の時<類似点>
ヨナは乗組員たちに問いただされたときに「わたしはヘブルびと」であると答え、キリストは大祭司に尋問されて、神のみ子であることを宣言されました。
5.死の覚悟<相違点>
ヨナは、自らの行動のゆえにやむなく死を覚悟しましたが、キリストは責められる罪がないにもかかわらず、人々の罪を背負うために死を覚悟され、十字架にかかられます。
6.3 日目の経験<類似点/相違点>
ヨナは主を避けて、自らの意志で歩もうとして、海の底まで沈みましたが、神によって3日目に引き上げられました。一方、キリストは主と共に歩み、父なる神のご意志に従い、十字架で死に墓に葬られます。その墓という地の底から神によって3日目に復活するのです。
ヨナとキリストは多くの類似点がありますが、決定的に異なるのは自らの意志で歩もうとしているのか、神の意志によって歩もうとしているのかです。興味深いことにヨナ書の後半では、乗組員たちが神の意志によって歩もうとしている姿が出てきます。
み心を求める人々
1:11人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。(中略)1:14そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。ヨナ1:11,14(口語訳)
ヨナへの人々の問いかけが、絶望的な状況の中で不安に満ちて語られていることを「海がますます荒れてきたからである」という表現はわたしたちに伝えています。
人々は自らの力でもう一度「船を陸にこぎもどそうとつとめ」ますが(ヨナ1:13)、その努力むなしく海は「いよいよ荒れ」ていきます(ヨナ1:13)。
罪なき預言者を海に投げ込んで殺すのを神のみ心とすることは、彼らにとって受け入れがたいものでした。だからこそ、彼らは「船を陸にこぎもどそうとつとめ」るのです。
人々が自分の力に頼る選択を取り続けている間、海はどんどん荒れていきました。そのため、ついに人々は預言者の助言通りに動くことを決めるのです。
乗組員たちは少しずつ自分の力に頼ることをやめ、神に頼り始めます。最初はヨナを通して、神のみ心を尋ねていきますが、最後にはついに「主に呼ばわって」いくのです。人間的な力によって解決はできないことを悟り、自分たちには受け入れいがたいみ心の実行を決意します。
「罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」(ヨナ1:14)という彼らの祈りは、申命記21章8節の祈りとよく似ています。
主よ、あなたがあがなわれた民イスラエルをおゆるしください。罪のない者の血を流したとがを、あなたの民イスラエルのうちにとどめないでください。そして血を流したとがをおゆるしください。申命記21:8(口語訳)
ヨナ1章と申命記21章の祈りを見ると、「罪のない者の血を流した罪」が彼らにとってとても重いものであったことがわかります。その血の責任を求めないようにと、彼らは神に祈りました。
乗組員から見た神
そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。ヨナ1:16(口語訳)
嵐から救われた人々は本当の意味で「主を恐れ」るものとなりました(ヨナ1:16)。彼らは神を敬い、礼拝するようになったのです。彼らがエルサレムまで行って礼拝したのか、もしくはイスラエルやユダに点在していた「高き所」と呼ばれた異教の影響を受けた場所で、そうとは知らずに捧げたのかは定かではありません(列王下14:4,15:4)。いずれにしても、彼らは彼らなりの礼拝を捧げていったのです。
「誓願を立てた」という表現から、人々の信仰が一時的なものではないことがわかります。乗組員たちは神との関係を真剣に考えていきました。
船員たちがその後、ヨナの姿を目にしたかは定かではありませんが、少なくとも彼らが最後に目にしたのは荒れ狂う海に飲み込まれるヨナの姿でした。この光景から彼らは、主があなどられるお方ではないことを理解していくのです。
まとめ―適用―
乗組員はヨナの姿を通して、主があなどられるお方ではないことを理解し、血の責任を求めないようにと神に真剣に祈り、誓願を立てていきます。
わたしたちはどうでしょうか。
「ヨナにまさる者」(マタイ12:41)であるキリストは無実であったにもかかわらず、わたしたちの罪のゆえに、十字架で殺されていきました。この血の責任はわたしたちにあるのです。
わたしたちは彼らのような真剣さを持って、このことを受け止め、神と向き合っているでしょうか。
[1]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、27頁