【ヨシュア記】宿営における裏切り【7章、8章解説】#7

目次

中心思想

イスラエルの裏切りによって、エリコの勝利はアイの敗北に変わりました。罪を取り除くと、輝かしい勝利と契約の更新がもたらされました。

アウトライン

  • 裏切りによる敗北(ヨシ7:1~9)
  • 欲張り者を探す(ヨシ7:10~21、歴代上2:7)
  • 悩みの谷(ヨシ7:24~26)
  • 望みの門と勝利(ヨシ8:1~29、ホセ2 :15)
  • 祝福の山、のろいの山(ヨシ8 :30~35)

勝利、反逆、敗北

ヨシュア記はここまで、イスラエルの身にあまる成功、たとえば洪水期にヨルダンを渡り、カナンに入ったこと、記念の儀式、ギルガルで恥辱を転がし去ったこと、エリコにおける勝利について記しています。しかし、イスラエルはアイで敗北を喫します。ヨシュアは苦悩のうちに神の前にひれ伏します。イスラエルの神の信頼性、全能性がカナン人の前で傷つけられたのです。

何が悪かったのでしょうか。神は決してイスラエルが敵の手によって敗北するように計画されたのではありません。神は絶えざる勝利を計画し、そのための道を備えておられたのです。今回は、アイにおけるイスラエルの敗北の原因について考えます。それによって、私たちがなぜ罪との戦いに負けるのか、どのように敗北に対処し、それを勝利に変えることができるのかについて教訓を学びます。最後に、勝利の希望と契約の更新をもって研究を閉じます。

裏切りによる敗北(ヨシ7:1~9)

質問1

アイにおけるイスラエルの敗北はどんな二つの罪によるものでしたか。ヨシ7:1~3,11

イスラエルの「罪」(ヨシ7: 1)について用いられているマアルというヘブル語は、字義的には「覆いの下で行動する」、つまり「不正直に」、「反逆して」、「ひそかに」を意味します。アカンの「罪」は奉納物、つまり(破壊のためであれ、聖なる使用のためであれ)「ささげられた物」に関するものでした。この罪には、神の契約を破ること、盗むこと、だますことが含まれていました。

質問2  

1回目のアイの戦い、結果、イスラエルの民に対する心理的影響について説明してください。ヨシ7:4~9

質問3 

ヨシュアがアイにおける敗北に対して取った態度は彼の品性のどんな-面を明らかにしていますか。ヨシ7:6~9

「ヨシュアは真の熱意をもって神をあがめたが、その嘆願には疑いと不信が混じっていた。神がご自分の民を異教徒の手に渡すために彼らにヨルダンを渡らせたのだという考えは、イスラエルの指導者にふさわしくない罪深い考えであった。ヨシュアの失望感と不信感は、神がご自分の民の救いのためになされた数々の力ある奇跡や、神がご自分の民と共にいてカナンの地から悪しき住民を追放してくださるという再三の約束に照らして考えるなら、言い訳の立たないものであった。

しかし、私たちの憐れみ深い神はこの過ちのゆえに怒りをもってご自分のしもべを罰することはされなかった。神は恵み深くもヨシュアの謙そんと祈りを受け入れ、同時に優しく彼の不信仰を叱責し、それから彼らの敗北の原因を明らかにされた」( 『SDA聖書注解」第2巻996ページ、エレン・G・ホワイト注)。

アラン・レッドパスは次のように言っています。「クリスチャンの人生において勝利の興奮ほど危険に満ちた経験はない。……そのような時には、私たちは高慢になり、自分自身の腕が自分を救ったと、自慢するようになる。そして、自分がひとたび勝利を得たのだから、神は私たちの生涯を通して働く新しい力を与えてくださったと容易に想像してしまう」(『勝利に満ちた信仰生活—ヨシュア記研究」116ページ)。

欲張り者を探す(ヨシ7: 10—21、歴代上2 :7)

質問4 

アカンの物語は罪に対する個人の責任と集団の責任についてどんな二つの原則を明らかにしていますか。ヨシ7:10~12(サム下21:1、ダニ9:4~11比較)

「アカンの経歴は、罪を見つけ出して罰するまで、神の不興が一人の人の罪のゆえに一つの民あるいは国の上にとどまるという厳粛な教訓を教えている。罪は本質的に堕落させるものであって、罪の恐ろしい害悪に感染した者はその病毒を多くの人々にうつす」( 『SDA聖書注解』第2巻996ページ、エレン・G・ホワイト注)。

質問5

「イスラエルを悩ました者」(歴代上2:7)の罪はどのようにして暴露されましたか(ヨシ7:13~23)。アカンが罪を公に告白し、盗んだ物を返す必要があったのはなぜですか。

どん欲であることは愚かなことです。アカンは盗んだ品物を隠しておかなければならなかったので、それらを使うことができませんでした。

十戒の第10条は恐らく最も個人的なもので、「あなたは……むさぼってはならない」と教えています(出エ20:17)。どん欲は私たちから勝利を奪うものであることを、神は知っておられました。なぜなら、私たちの心はキリストにではなく、自分の欲する物に向けられるからです。

さらに、どん欲は私たちの人間関係にも影響を与えます。十戒の後半の六つは隣人に対する私たちの愛を扱っています(マタ22:37~40)。他人の物を欲する時、私たちはその人をねたむようになります。自分のねたんでいる人を愛することはむずかしいことです。聖霊の内住によってキリストのような品性を養うことができなくなります。皆がアカンのようにエリコの略奪品を自由に自分のものにしていたら、イスラエルはどうなっていたでしょうか。

質問6

聖書はどん欲の実例と警告について何と記していますか(コロ3:5、マタ6:24、ルカ12:15、エペ5:3参照)。宇宙における最初の罪(イザ14:13,14)、カナンにおけるイスラエルの最初の罪(ヨシ7章)、新約教会の最初の罪(使徒5:1~11)はどん欲とどんな関係がありましたか。

エレン・ホワイトは率直に次のように述べています。「貫欲は、いたるところで見られる。……悲しいことであるが、『正規の』教会員の中に多くのアカンがいる」(「人類のあけぼの」下巻120,121ページ)。

悩みの谷(ヨシ7:24―26)

質問7 

アカンは自分の罪のためにどんな罰を受けましたか(ヨシ7:24~26)。彼が罪を告白したにもかかわらず罰せられたのはなぜですか。

確かにアカンは罪を告白しました。しかし、彼が罪を悔い改めたとは書かれていません。このことを詩篇51篇におけるダビデの告白・悔い改めと比べてください。悔い改めの伴わない告白(罪から離れることがない)には、ゆるしが与えられません。

「すべての人の運命が、生か死かに決定したあとで、罪人が神のさばきの座の前に立つとき、同じような告白をする。各自は、自分に与えられる罰によって、自分の罪を認める。罪の宣告を受けた恐ろしさと、恐怖すべき審判のことを考えて、魂は、そう言わないではおられない。しかし、そうした告白は、罪人を救うことができない」(『人類のあけぼの』下巻122ページ)。

質問8 

アカンの全家族を石で撃つように求められた神は公正なお方だと言えますか。申命24:16

申命記24:16には、子はその父の罪のゆえに殺されるべきではないと記されています。従って、アカンの家族はみな共犯者であったと推測されます。彼らも品物を盗んだり、隠したりするのを手伝い、アカンの行為を秘密にしていたと思われます。

憐れみ深い神は(ラハブのような)ありそうにない人をお救いになりますが、同時に神はその正義と聖なる品性のゆえに私たちの心に隠されている罪を見のがされることもありません。

「主がアカンを扱われた方法を見れば、同じ罪を犯す者たちに対する主の怒りがいかに大きなものであるかがわかる。現代における福音の標準はヨシュアの時代におけるそれと同じである」(エレン・G・ホワイト『ユース・インストラクター」1894年2月1日)。

アカンの刑罰は厳しいように思われるかもしれません。しかし、どん欲の害毒が民全体に広がることの方がより重大ではなかったでしょうか。罪は放置しておくと急速に信者のうちに伝染する病気です。

さらに、神はご自分の命令の成就を妨げるものをすべて取り除く必要がありました。アカンの罪が生まれたばかりの神の民族にどれほど急速に影響を及ぼしていたかは、神にしかわかりません。かつて、どん欲が天の平和を乱し、天使の3分の1を失わせるに至ったことを、神はよく知っておられました。

望みの門と勝利(ヨシ8:1―29、ホセ2:15)

質問9

「悩みの谷」はどのようにして勝利の道を開きましたか。神はイスラエルにどのような戦術を授けられましたか(ヨシ8:1~29)。

イガエル・ヤデインはヨシュアの時代の戦争に関して次のように述べています。「優秀な諜報能力は弱小軍が正規の戦法として侍伏せを行うのを可能とした。戦術的に見れば、待伏せは最も凶悪な戦法であって、奇襲の原理を最大限に利用するものである。……侍伏せに必要な夜の暗やみも不正規軍が正規軍と戦う上で欠かせないもので、彼らの進軍や攻撃開始を隠してくれた。ヨシュア記には、ヨシュアがよく夜明けに敵を奇襲するために夜通し進軍したことが記されている」(イガエル・ヤディン『考古学から見た聖地の戦闘法』110,111ページ)。

望みの門

預言者ホセアはアカンの経験を用いて、より広い救いのメッセージを例示しています。「その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう」(ホセ2:15)。

祝福の山、のろいの山(ヨシ8:30―35)

モーセはイスラエルがカナンに入った時に行うべき宗教儀式について教えていました。まず申命記11:29,27章、28章に記されているそれらの教えについて読み、次にヨシュア記8:30~35に記されているその成就について読んでください。

質問10 

エバル山とゲリジム山はシケムにありました。シケムがこの特別な儀式の場所として選ばれたのはなぜですか。創世12:5,6,33:18~20,35:4(ヨハ4:5,6,12比較)

シケムは交通の要所であって、律法の刻まれた石の祭壇はそこを通り過ぎる人々に真の神について語るのでした。

シケムに行くためには、イスラエル人はアイの北に30キロほど敵の領地を通らなければなりませんでした。一部の歴史家はこのことから、この出来事があったのはアイの戦いから数年後のことだろうと考えます。しかし、ベテルの北の、カナンのこの地方に要塞があったという証拠はありません。しかも、ヨシュア記17: 18によれば、この地域の大部分は山地であり、人々もあまり住んでいなかったようです。たとえそうでなくても、神がヨルダンで、またエリコやアイの町でなされた業のゆえに、その地方の住民はイスラエル人を恐れていただろうことは十分に考えられます。ヤコブがベテルに行く時にこの地方を通った時もそうでした(創世35:5)。

最近、音響学の専門家が最新鋭の音響機器を用いて行った調査によると、「四方を山々で囲まれたシケムの谷には、音響的な効果がある」ことがわかりました(コピー・クライスラー「パレスチナの自然劇場における音響と収容力」『聖書考古学』39/4〔1976年〕、139ページ)。

質問11 

祭壇がのろいの山であるエバル山の上に建てられたのはなぜですか(ヨシ8:30,31、申命11:29,27:13)。このことは福音についてどんな真理を教えていますか。

ここに福音の真髄が示されています。犠牲の動物はのろいの山の上でささげられました。神の小羊(ヨハl :29)は私たちの受けるべきのろいを負って(ガラ3 :10~14)、カルバリーの祭壇の上で死なれました(ヘブ13 : 10)。それは、私たちが彼の受けるべき(ケリジム山の)祝福を受けるためでした(『人類のあけぼの」下巻125,126ページ参照)。

まとめ

アカンの経験は個人や集団の生活におけるどん欲の結果を例示しています。しかし、手遅れになる前なら、悔い改めと告白によってすべてを良い方向に変えることができます。次のように祈りましょう。「主よ、私は今、自分のうちにある『シナルの美しい外套』と『銀」と「金の延べ棒』をあなたにお返しします。それらを私の天幕から取り除いて、私のために死んでくださることを感謝します。アーメン」

*本記事は、安息日学校ガイド1995年2期『神の安息に入る ヨシュア記』からの抜粋です。

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