【ヨシュア記】敵の策略【9章解説】#8

目次

中心思想

イスラエルはギベオン人の策略を見抜くことができませんでした。天の司令部と絶えず連絡を保っていなかったからです。しかし、ヘブル人の司令官である神は敗北に見える状況を勝利に変えてくださいました。

アウトライン

  • 敵の連合軍(ヨシ9:1,2)
  • ギベオン人の戦略(ヨシ9:3~7)
  • イスラエルの過ち(ヨシ9:6~14)
  • 危険な契約(ヨシ9 :15~20)
  • 「たきぎを切り、水をくむ者」(ヨシ9 :21~27)

敵の戦略と神の対抗策

エリコとアイの滅亡は周辺のカナン人の心を恐怖心で満たしました。次はどこだろう。どうしたら自分たちの町と生命を守ることができるだろうか。自衛本能は時として圧倒的な力を生み出し、人を思いきった行動に走らせます。

今回は、神の民に対する敵の戦略、つまりカナン連合軍による正面攻撃とギベオン人による偽りの同盟について学びます。

神の民は敵の戦略に対して無防備でした。私たちは古代イスラエルの経験を通して霊的戦いに必要ないくつかの教訓を得ることができます。(1)悪だくみにたけた最大の戦略家、サタンの戦術を見抜く。(2)霊的イスラエルの失敗の原因を知る。(3)神の対抗策の原則について学ぶ。

私たちはみな主の軍勢の将の言葉に耳を傾ける必要があります。

敵の連合軍(ヨシ9:1、2)

質問1 

カナンの住民はイスラエル人の軍事的勝利を聞いてどうしましたか。ヨシ9:1,2

ヨシュア記9:1には、「ヨルダンの西側〔字義的には、ヨルダンの向こう側〕……に住むもろもろの王たち」と書かれています(カナンはまだイスラエルの領土と考えられていなかったようです)。この地域には、山地、平地、沿岸が含まれていました。「山地」とはパレスチナ中央の山々をさし、「平地」とは中央高地の西までのシェフェラと呼ばれる丘陵地帯をさし、「沿岸」とは地中海とシェフェラとの中間にあるペリシテとシヤロンの平原をさしていました。

これらの王たちは明らかに、イスラエル人がエバル山で聖なる集会を開き、そこで神の律法をカナンの律法とすると宣言するのを聞いていました。当然ながら、彼らはこの宣言が自分たちの権威を奪うものであると見なしました。

質問2 

王たちは「心を合わせ」たとありますが、このことは神に敵対する悪の勢力の「一致」について何を教えていますか。神の民が神に忠実に従う時、敵は必ずどんな行動に出ますか。詩2:1~3,83:1~8、黙示12:17

「心をひとつにして」(詩83:5)という表現の文字通りの意味は、「口をひとつにして」です。イスラエルに対して同盟を結んだ六つの民は別々の部族の出身で、いつもは利害と行動を異にしていました。しかし、よくあるように、彼らは共に正義を憎むという共通の動機から神の民に敵対したのでした。

「クリスチャンはその私生活の中で勝利するたびに魂の敵の全面的攻撃をまねく。神の子は祝福の経験にあずかるたびに敵の新たな攻撃にさらされる。祝福と戦いは隣り合わせである。あらゆる方向から圧迫され、戦っているなら、神を賛美せよ!……あらゆる方向から誘惑されているとすれば、それは神のみ心を行って祝福を受けているからである」(アラン・レッドパス『勝利に満ちた信仰生活一ヨシュア記研究』137ページ)。

ギベオン人の戦略(ヨシ9:3~7)

質問3

ギベオン人とはどのような人たちでしたか。彼らはイスラエルに対してどんな戦法をとりましたか。ヨシ9:3~7,10:2,11:19

ギベオンの文字通りの意味は「丘」です。古代ギベオンの町は現在のエル・ジープであると考えられています。この町は中央山脈を抜けてヨッパに行く途中の、エルサレムの北西10キロにある、広い谷の中の険しい丘の上にありました。 J・B・プリチャードの発掘によって、79段のらせん階段を持つ、直径11.4m、深さ24.6mの円筒形の立派な給水設備が発見されました(これはサムエル記下2章の物語やエレミヤ書41:12に出てくる「ギベオンの大池」を思い起こさせます)。この井戸の遺物の中からは、古代へブル語でギベオンと書かれた数多くのつぼの取っ手が見つかっています。

ギベオン人は「ヒビ人」と同じで、たぶん「ホリ人」またはフルリ人とも同じであったと考えられています(創世36:2,20参照)。その場合には、彼らはメソポタミヤ北部の山地、アルメニア地方(バン湖の南西)の出身ということになります。彼らはギベオンの町だけでなく、周辺のケピラ、ベエロテ、キリアテ・ヤリムの町々にも定住していました(ヨシ9 :17)。

ラハブと同じく、ギベオン人はイスラエルの歴史について知っていましたが、ラハブのように信仰を働かせ、神の救いを受け入れることがありませんでした。彼らは自分自身の力に頼りました。

質問4

ギベオン人の策略は人類を打ち負かそうとするサタンの策略をどのように例示していますか。聖書はほかにサタンの策略をどのように描写していますか。創世3:1~6,マタ24:5,11,24(エペ4:14、Ⅱテモ3:13、黙示12:9比較)

ギベオン人について用いられている「巧妙」というヘブル語名詞(ヨシ9:4、新欽定訳参照)は、モーセがエデンでエバを欺いた「狡滑な」へびを描写するのに用いているのと同じ言葉(アーロム)から来ています(創世3:1)。

ギベオン人の巧妙さも長くはイスラエル人を欺くことができませんでした。わずか3日の後に真実が明らかになります。

イスラエルの過ち(ヨシ9:6~14)

ギベオン人の取り扱いに関してイスラエルが犯した過ちは、アイにおいて犯した過ちと同じでした。つまり、彼らは主の導きを求めませんでした。ヨシュアは大祭司のウリムとトンミムに問うことによって主の導きを求めることができました(民数27: 15~23)。しかし、彼は最近の勝利によって自信過剰に陥っていたのでしょう。

質問5 

聖書は外見や人間の判断に頼ることに関して何と教えていますか。筬12:15,14:12、Ⅱコリ5:7

イスラエルがギベオン人の策略にだまされたことは、人間の感覚がいかに真理に背くものであるかをよく物語っています。視覚をさすギリシア語は「外観」を意味します。従って、視覚によらないで信仰によって歩くとは、自分の目に見えるものに信頼しないということです。私たちはキリストを見たことがないのに彼を信じています。彼を見るその時まで、見えないものに対する確信によって、私たちは信仰の歩みを続けるのです。

質問6 

私たちは個人として、また教会として、どんな意味で「目に見えるものによって歩く」危険性がありますか。どうしたらこの危険を克服することができますか。筬3:5,6

「決して、決して、決して、何事においてもあなた自身の判断に頼ってはならない。常識が、それが正しい道であるとあなたに告げる時には、あなたの心を神に向けなさい。信仰の道と祝福の道は、いわゆる常識とは正反対の方向にあるかもしれないからである。行動が急を要し、直ちに手を打たなければならない時には、すべてを天の法廷にまかせなさい。それでもなお疑いを感じるなら、あえて動かずにいなさい。行動が求められていても、祈る時間がなければ、行動してはならない。ある方向に行動するように求められていても、神との平和が与えられるまで、動いてはならない。あえて立ち止まり、神を待つほどに強く、かつ勇敢であれ。神を待ち望む者はだれも恥辱を受けることがないからである。これがサタンに打ち勝つ唯一の道である」(アラン・レッドパス『勝利に満ちた信仰生活—ヨシュア記研究』142,143ページ)。

危険な契約(ヨシ9:15—20)

質問7 

イスラエル人はギベオン人にだまされたことがわかった時にも、誓いと契約に背くことができないと考えましたが、あなたはこの考えについてどう思いますか。ヨシ9:15~20(サム下21章比較)

質問8 

イスラエルがギベオン人と契約を結んだことは、「不信者と、つり合わないくびきを共にする」ことについて何を教えていますか。いちど結んだ契約を破ることは正当なことですか。聖書はどんな原則を示していますか。筬12:22、マタ5;33~37、Ⅱコリ6:14

「義務を誓ったからには、それが、悪い行為を義務づけるものでない以上、尊重すべきである。利益、報復、自己中心などを考慮に入れて、誓いを破るようなことがあってはならない」(『人類のあけぼの』下巻132ページ)。

詩篇15: 4には、「誓った事は自分の損害になっても変えることなく」という基本的な原則が示されています。この原則が最も軽視されているのが、たぶん結婚に関する契約でしょう。結婚した二人が(一方がクリスチャンになった後などに)互いにうまく行かなくなると、一般的な傾向として離婚という方法がとられます。しかし、聖書はそれを認めていません(Iコリ7 :10,11、マル10:11,12)。私たちはこの世の慣習、生まれながらの傾向に従うべきでしょうか、それとも「死が二人を引き離すまで」という結婚の誓いを守るべきでしょうか(エレン・ホワイトは、「聖書に反した約束をした」婚約者に対して、結婚によって釣り合わないくびきを共にするよりも聖書に反する婚約を破棄した方がよいと勧めています—『アドベンチスト・ホーム』43,44ページ参照)。

ヨシュア記のギベオン人自身、ひとたび契約を結んだからには、それが自分の損害になっても忠実に契約を守った民のよい例です。彼らはカナン人との同盟から手を引き、後にイスラエルと戦うことになる他のヒビ人との血の盟約を破りました。

契約を忠実に守った最高の模範者は神ご自身です。「そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである」(ヘブ6:17,18)。

「たきぎを切り、水をくむ者」(ヨシ9 :21—27)

質問9

ギベオン人はその罪のゆえにどんな刑罰を受けなければなりませんでしたか。ヨシ9:21~27、申命29:10,11

「『王の都にもひとしい』町の住民で、『そのうちの人々が、すべて強かった』といわれていた人々にとって、子孫末代まで、たきぎを切ったり、水をくんだりする者となることは、けっしてなまやさしい屈辱ではなかった。彼らは、欺瞞の目的で貧しい着物を身につけていたが、それは彼らがいつまでも人に使われる身分であるしるしとして、彼らにつけられた。こうして、何代にもわたって、彼らの奴隷状態は、神が虚偽を憎まれる証拠となるのであった」(『人類のあけぼの」下巻133ページ)。

質問10 

ギベオン人に対する刑罰は後にどんな祝福となりましたか。ヨシ21:13,17、列王上3:3~15、歴代上12:1~4,21:29

もし真実で忠実であったなら、ギベオン人は奴隷となって滅びることがなかったはずです。神は寄留の他国人を親切に、同等に扱うようにという勧告をイスラエルに与えておられました(レビ19:33,34、民数15 : 15)。「もしギベオン人が欺臓的な手段に訴えなかったら、このような立場を与えられたのであった」(『人類のあけぼの下巻133ページ)。

しかし、邪悪なカナンの住民を根絶するようにという、イスラエルに対する神の命令はどうなるのでしょうか。ラハブとその家族の救いは、神がカナンの住民に悔い改めるように求めておられたこと、また彼らが悔い改めるなら神によって救われていたことを示しています。

質問11 

私たちのクリスチャンとしての経験はどんな点でギベオン人の経験と似ていますか。

ギベオン人と私たちの霊的経験との共通点について考えてください。私たちは異邦人ですが、霊的イスラエルに接ぎ木されたのです。

「ギベオン人はうそつきで、偽り者であった。彼らはさばきの下にあり、神の激しい怒りにさらされていた。私たちも|司じである。彼らと同じく、私たちは真の神について聞いた。確かに、初めのうちは、私たちは神についてあまり知らなかった。しかし、神はそのわずかなきっかけを用いて私たちを神の民の仲間とし、さらに学ぶことによって、ついにはイエス・キリストに対する信仰によって救われた者たちと全く同等の者としてくださった。私たちもまた信じた。これは大いなる不思議であり、神の恵みの賜物である」(ジェームズ・M・ボイス『ヨシュア記一私たちは主に仕えます』106ページ)。

まとめ

ヨシュア記9章は神の民に対する敵の正面攻撃と謀略について記しています。それはまた、神の民が神の勧告を求めることを怠る時に誘惑に陥りやすいこと、約束を守ることの重要性について教えています。神の民が神に信頼する時、神は明らかな失敗や災難をも祝福に変えてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1995年2期『神の安息に入る ヨシュア記』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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