*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。
旧新約聖書は書かれた神の言葉、神の霊感によって与えられた言葉である。霊感を受けた著者が、聖霊に動かされるままに語り、また書いた。この言葉を通して、神は救いに必要な知識を人間に与えられた。聖書は、最高の啓示、権威ある啓示、神のみ心の誤りのない啓示である。聖書は品性の標準を示し、人間の経験を吟味し、明確に教理を啓示する。聖書は歴史における神のみわざについての信頼できる記録である。(信仰の大要1)
聖書ほどに愛され、憎まれ、敬われ、また酷評されてきた書物はほかにありません。聖書のために死んでいった人々がありました。また聖書のために人を殺した人たちもいました。聖書は、人々を鼓舞して最も偉大で高貴な行為へと向かわせましたが、また人々の最もいまわしい堕落した行為の責任が聖書にあるとして非難もされてきました。聖書をめぐって戦争が起り、聖書の思想を根拠にして革命が起り、国々は聖書の思想を粉々に打ち砕きました。人々は、解放の神学者から資本主義者まで、あるいは全体主義者からマルクス主義者まで、さらには平和主義者から軍国主義者まで、ありとあらゆる観点から聖書を探求し、自らの行動を正当化しようとしてきました。
聖書が独特な書物であるのは、その政治的、文化的、社会的影響が比類のないものであったからではありません。聖書の独特さは、それを生み出した源とそこで扱われている主題からきています。聖書は、神であり人である独特なお方、すなわち神のみ子にして世界の救い主なるイエス・キリストについての神の啓示です。
神の啓示
歴史上いつのときにも神の存在を疑う人々はいましたが、多くの人々は、神が存在することと神がご自身を開き示されたということを、確固として証ししています。神はどのような方法でご自身を啓示されたのでしょうか。また聖書は神の啓示においてどのような働きをしているのでしょうか。
一般啓示
歴史や人間の行動や良心や自然界にみられる神の性質への洞察は、しばしば「一般啓示」と呼ばれます。それはすべての人々が見ることのできるものであり、理性に訴えるものだからです。
多くの人々にとって、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめ」詩篇19:1)しています。太陽の光、雨、丘、小川の流れなどすべてのものは、愛にあふれた造り主を証ししています。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ1:20)。
友人、家族、夫婦、親子などの間にみられる幸福な関係や深い愛情に、神がいつも人類に思いを向けて下さっていることの証拠を見る人もいます。「母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」(イザヤ66:13)。「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」(詩篇103:13)。
しかしながら、愛にあふれる創造者を証ししているその同じ太陽の光が、地をひからびた砂漠に変え、飢えをもたらすことがあります。同じ雨が、家族を溺れ死なせるような激しい水となることがあります。同じ高い丘が、裂け目を生じ、砕け、そしてやがてつぶれていきます。また人間関係はしばしばしっとやねたみや怒りや、さらには殺人にまで至るような憎しみにさえ巻込まれていきます。
わたしたちを取巻く世界がわたしたちに語りかけていることは複雑です。一つの現象に対する答が出るとその答と同じだけ疑問がわいてくるからです。世界はそこに善と悪の戦いがあることを示してはいますが、その戦いがどのようにして始まったのか、だれが、なぜ戦っているのか、そして最後にはだれが勝利するのかについては明らかにしていません。
特殊啓示
罪は、造られたものをとおしてなされる神の自己啓示を限られたものにしています。それは、罪が、神が証ししておられることを理解するわたしたちの能力を不鮮明にしているからです。神は、私たちがこうした疑問に答えることができるように、愛を持ってご自身を特別に啓示されました。旧新約聖書をとおして、神は、神の愛について疑問の余地がないように、特別な仕方でご自身をわたしたちにあらわされました。神の啓示は、まず預言者たちをとおしてもたらされ、やがてイエス・キリストをとおして、神の究極的な啓示が明らかにされました(ヘブル1:1,2)。
聖書は、神の真理についての言明を含むとともに、神を人格としても啓示しています。このような啓示の両面が必要です。すなわちわたしたちには、「イエスにある真理」(エペソ4:21)を知るとともに、イエス・キリストをとおして神を知る(ヨハネ17:3)ことが必要です。そして聖書をとおして、神は、わたしたちの知的、道徳的、霊的限界を打破り、わたしたちを救おうとするご自身の熱意を知らせてくださるのです。
聖書の焦点
聖書は、神を啓示するとともに、人間がどのような存在であるかを明らかにします。聖書は、わたしたちの行き詰った苦況を明らかにし、それに対する神の解決を啓示しています。聖書は、わたしたちが失われ神から離れた存在であることを示すとともに、失われているわたしたちを見いだし、わたしたちを神のもとへ連れ戻して下さるイエス・キリストを明らかにしています。
イエス・キリストは聖書の焦点です。旧約聖書は神のみ子をメシアとして、世界の贖い主として提示し、新約聖書は神を救い主イエス・キリストとして啓示しています。聖書のすべてのページは、象徴的な表現であれ現実的な表現であれそれをとおし、キリストの働きと特徴がどのようなものであるかを明らかにしています。イエスの十字架の死は、神がどのようなお方であるかについての究極的な啓示です。
十字架が究極的な啓示であるのは、計り知ることのできないほどの人間の悪しき性質と尽きることのない神の愛という二つの極端な事柄を一つにするからです。人間が過ちを犯しやすいものであることを深く洞察しているものは何でしょうか。罪についてはっきり示しているものは何でしょうか。十字架は、み子が殺されることを神がお許しになったことを示しています。何という大きな犠牲でしょうか。神は何という大きな愛を啓示されたことでしょうか。そうです。聖書の焦点はイエス・キリストです。キリストは宇宙が注目するドラマの舞台の中央におられるのです。カルバリーにおけるキリストの勝利は、まもなくこの世界から悪がまったく除去されるときに頂点に達します。そのとき人間と神は再び一つになるのです。
神の愛、特に宇宙の最も偉大な真理であるカルバリーにおけるキリストの犠牲の死にみられる神の愛の主題が、聖書の焦点です。したがって聖書のすべての主要な真理はこの視点から研究されるべきです。
聖書の著者
信仰と実践にとっての聖書の権威は、その成立ちから生じます。聖書の記者たちは、他の文書とは異なるものとして聖書を見ています。それは、「聖書」(ローマ1:2、2テモテ3:15)、「神の言」(ローマ3:2、ヘブル5:12)などと言われています。
聖書のユニークさは、その由来にあります。聖書の記者たちは、その使信は自分たちが創作したものではなく、神から受けたものであると主張しています。彼らが自分たちに委ねられた真理を「見る」ことができたのは神の啓示をとおしてでした(イザヤ1:1、アモス1:1、ミカ1:1、ハバクク1:1、エレミヤ38:21参照)。
これらの記者たちは、預言者たちをとおして人々に真理をつたえられた方は聖霊であると言っています(ネヘミヤ9:30、ゼカリヤ7:12参照)。ダビデはこう言っています。「主の霊はわたしによって語る、その言葉はわたしの舌の上にある」(サムエル下(2サムエル)23:2)。エゼキエルは、「霊がわたしのうちに入り」、「主の霊がわたしに下って」、「霊はわたしをあげ」といった表現を使っています(エゼキエル2:2、11:5,24)。またミカは、「わたしは主のみたまによって力に満ち」(ミカ3:8)と証ししています。
新約聖書は、旧約聖書が聖霊によってできたことを認めています。イエスは、ダビデが霊感を受けていると言われました(マルコ12:36)。パウロは、聖霊が「イザヤによって」(使徒28:25)語られたと信じていました。ペテロは、聖霊がすべての預言者たちを導かれたことを明らかにしています(1ペテロ1:10,11、2ペテロ1:21)。ときには記者が背後に完全に退き、唯一の著者である聖霊だけが認められ、「聖霊が言っている」(ヘブル3:7)とか「それによって聖霊は……示している」(ヘブル9:8)とか表現されることもありました。
新約聖書の記者は、聖霊が彼ら自身の使信の源であることも認めていました。パウロはこう言っています。
「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は……信仰から離れ去るであろう」(1テモテ4:1)。ヨハネは「主の日に御霊に感じた」(黙示録1:10)と言っています。またイエスは使徒たちを聖霊によって任命されました(使徒1:2、エペソ3:3-5参照)。
このように、神は聖霊によって、聖書をとおしご自身を啓示されました。神は聖書をご自分の手によってではなく、他の者すなわち約40人の手によって、1500年以上もの期間にわたって書かれました。そして聖霊なる神が記者たちに霊感を与えられたゆえに、聖書の著者は神なのです。
聖書の霊感
パウロは、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3:16)と述べています。「霊感」と訳されているギリシャ語のセオプニューストスという語は、文字どおりには「神が息を吹き込まれる」ということを意味しています。神は人々の心に「息を吹き込まれ」ました。そして人々はそれを言葉で言い表わして聖書としたのです。したがって霊感とは、それをとおして神が永遠の真理を伝達される過程なのです。
霊感の過程
神の啓示は、「聖霊に感じ」(2ペテロ1:21)た人々に神の霊感によって与えられました。これらの啓示は、人間の言葉に具体化されそのゆえに限界と不完全さをともないましたが、それにもかかわらずそれらは神の証しです。神は言葉にでなくそれを用いた人間に霊感を与えられました。
預言者たちは録音されたことをそっくりそのまま再生するテープレコーダーと同じように受け身であったのでしょうか。ある場合、記者たちは神の言葉をそのまま正確に言い表わすよう命じられたこともありましたが、多くの場合、神は、彼らに見たこと聞いたことをその持てる能力をいっぱいに使って言い表わすように指示されました。この場合、記者たちは彼ら自身の言葉が持っている特徴を使って表現しました。
パウロは、「預言者の霊は預言者に服従する」(1コリント14:32)という見方をしています。本当の霊感は、預言者の個性や理性などを殺すようなものではありません。
モーセとアロンの関係は、ある程度聖霊と記者の関係を示しています。神はモーセに言われました。「わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう」(出エジプト7:1、同4:15,16参照)。モーセは、神からのメッセージをアロンに知らせ、アロンはそれを、彼の持っている言葉と語り方でパロに伝えました。同様に、聖書の記者たちは、神の命令や思想を彼ら自身の言葉のスタイルで伝えたのです。聖書のそれぞれの書巻の語彙が、多様であったり、記者たちが受けた教育や文化を反映しているのは、神がそのような形で真理を人々に伝えようとされたからです。
聖書は「神の思想様式や表現様式ではありません。人々はしばしばそのような表現は神にふさわしくないと言います。しかし神はご自身を聖書の言葉や論理や修辞に閉じ込めることをなさいません。聖書の記者は神の言葉の筆記者であってペンではありませんでした。」[1]「霊感は人間の言葉や表現に対して働くのではなく、人間自身に対して働きます。そして聖霊の感化のもとにある人間に思想が吹込まれます。しかし言葉は各人の思想の刻印を受けています。神の思想は広く伝わっていきます。神の思想と意志は人間の思想と意志と結び付きます。そのようにして人間の言葉は神の言葉であるのです。」[2]
わたしたちには一つだけ神が語られ書かれたそのままの言葉である十戒があります。それは神が作られたものであって、人間が作ったものではありません(出エジプト20:1-17、31:18、申命記10:4,5)。しかしそれでさえ人間の言語の限界の中で表現されています。
したがって聖書は人間の言葉で言い表わされている神の真理です。量子物理学を赤子に教えることを想像してみてください。これが、罪深い有限な人間に神の真理を伝えようとされるときに神が直面される問題です。神がわたしたちに伝えることがおできになることを制限するものは、わたしたちの有限さなのです。
人間の姿を取られたイエスと聖書の間には並行関係があります。イエスは人間と結合された神であり、神性と人間性が一つになっている方です。同じように聖書には神性と人間性が結合しています。次の言葉はキリストについて言われているものですが、聖書についても当てはまります。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)。この神性と人間性の結合が、聖書を数ある文書の中でユニークなものとしているのです。
霊感と聖書記者
聖霊は神の真理を伝えるために特定の人間を聖別されました。聖書は神がどのようにこれらの人々を選ばれたのか詳しく説明していませんが、神はなんらかの方法で神と人間を一致させられました。
聖書を書いた者たちはそのもって生まれた才能のゆえに選ばれたのではありません。また神の啓示がその人を回心させ永遠の命を確約されたのでもありません。バラムは神の勧告に反する行動をしていたときに霊感に導かれて神の使信を宣べ伝えました(民数記22-24章)。聖霊によって用いられたダビデは大きな罪を犯しました(詩篇51篇参照)。聖書の記者たちはすべて罪深い性質を持ち、神の恵みを日ごとに必要とする人間でした(ローマ3:12参照)。
聖書記者たちが経験した霊感は、真理を求める者すべてに与えられる天来の光や神の導きといったもの以上のものです。実際、聖書記者たちは時に彼らが伝える神の使信を充分に理解することなく書いているときもあります(1ペテロ1:10-12)。
聖書記者たちが受けた使信に対する彼らの応答は同じではありません。ダニエルとヨハネは、彼らが書いたものに対して大きな困惑を感じたと言い(ダニエル8:27、黙示録5:4)、ペテロ第1の手紙1章10節は、他の聖書記者たちが彼らの使信やその他の記者の使信の意味を尋ね求めたことを明らかにしています。またときには、これらの人々は霊感を受けた使信を宣べ伝えることを恐れ、ある場合には神と論争さえしています(ハバクク1章、ヨナ1:1-3、4:1-11)。
啓示の方法と内容
聖霊は神の知識をしばしば幻や夢によって伝えることがあります(民数記12:6)。時々聖霊は声として聞こえる形で語られることや内なる感覚に語りかけられることがあります。神はサムエルに対しその「耳に」(サムエル上(1サムエル)9:15)語りかけられました。ゼカリヤは、説明を伴った象徴的な表現を受けました(ゼカリヤ4章)。パウロやヨハネが受けた天についての幻は口頭の指示をともなっていました(2コリント12:1-4、黙示録4,5章)。エゼキエルは、他の場所で起ったできごとを見ました(エゼキエル8章)。ある聖書記者は、彼らが見せられた幻に関係し、その幻の中でその一部として特定の働きをしています(黙示録10章)。
内容に関しては、聖霊はある者に対してはまだ起っていない出来事を示しておられます(ダニエル2,7,8,12章)。またそれが個人的な経験に基づくものであれ、すでにある歴史的な記録の一部をとおしてであれ、歴史上の出来事を記録しているものもあります(士師、サムエル上(1サムエル)、歴代下、福音書、使徒)。
霊感と歴史
「聖書は、すべて神の霊感を受けて」書かれたものであって、道徳的霊的生活に有益で権威あるものであるとの神の主張(2テモテ3:15,16)は、聖書記者が情報を記録に残すその過程において神の導きがあったことに疑いがないことを示しています。情報が個人的な観察や、口頭もしくは書かれた資料やあるいは直接の啓示のいずれからくるものであれ、それはすべて聖霊の導きをとおして記者のところにきたものです。これが、聖書が信頼に値するものであることを保証しているのです。
聖書は、人間と神との力動的な相互作用における神の計画を、抽象的な教理の寄せ集めによってではなく明らかにしています。神の自己啓示は、明白な時と場所において起った実際のできごとに基づいています。歴史的な記述が信頼のおけるものであるかどうかは特に大切です。なぜならそれは、わたしたちが神がどのようなお方であり、どのような目的を持っておられるのかを理解するときの枠組みを形作るものだからです。正確な理解は永遠の命に至りますが、不正確な見解は混乱と死に至ります。
神は特定の人々を選んで、ご自分がイスラエルの民をどのように扱われたかについてその歴史を書かせられました。一般の歴史とは異なった視点から書かれたこれらの歴史的な叙述は、聖書の重要な一部となっています(民数記33:1,2、ヨシュア24:25,26、エゼキエル24:2参照)。それらはわたしたちに、神の視点からの正確で客観的な歴史を提供しています。聖霊は記者たちに特別な洞察を与えられ、それによって彼らは、神の品性を証明し、救いを求める人々を導く善と悪の戦いのうちにあるできごとを記録することができました。
歴史的事件は、「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のため」(1コリント10:11)に書かれた「型」もしくは「事例」です。パウロはこう言っています。「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」(ローマ15:4)。ソドムとゴモラの滅亡は「例」であり警告です(2ペテロ2:6、ユダ7)。義とされたアブラハムの経験はすべての信仰者にとっての模範です(ローマ4:1-25、ヤコブ2:14-22)。旧約聖書の民法でさえ霊的な深い意味にあふれており、今日のわたしたちの益のために書かれています(1コリント9:8,9)。
ルカは、彼が福音書を書いたのは、「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいため」(ルカ1:4)に、イエスの生涯を書き残したいと思ったからであると述べています。イエスの生涯のどのできごとを福音書に書き残すべきかについてのヨハネの基準は、「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るため」(ヨハネ20:31)ということでした。神は、わたしたちを救いに導くようなしかたで歴史を提示するよう聖書記者たちを導いておられます。
聖書に登場する人物の伝記は神の霊感のもうひとつの証拠です。それらの叙述は、登場人物の品性の弱さと強さを注意深く描写しています。聖書記者たちは彼らの罪を、その成功の経験とともに忠実に記しています。
ノアが自制心を失ったことやアブラハムが人をだましたことをおおい隠すようなことはしていません。モーセやパウロやヤコブやヨハネなどが激しい感情をむき出しにした様子なども記録されています。聖書の歴史は、イスラエルのもっとも英明であった王の失敗や12人の族長たちと使徒たちの弱さを暴露しています。聖書は彼らの失敗の言い訳も彼らの罪を軽く扱うこともしていません。聖書は、彼らがどのような人間であったかそして神の恵みによってどのような人間になったかあるいはなれなかったかを描写しています。神の霊感がなければ、そのような鋭い分析をすることのできる伝記作家はいないでしょう。
聖書記者は、聖書に含まれているすべての歴史的な叙述は、真の歴史的な記録であって神話や象徴ではないと見ています。現代の多くの懐疑的な人々は、アダムとエバの物語やヨナや洪水の物語の歴史性を拒否しています。しかしイエスはそれらを歴史的に正確なものとしてまた霊的に現代に当てはまるものとして受け入れておられます(マタイ12:39-41、19:4-6、24:37-39)。
聖書は、霊感を受けているのは一部分であるとか霊感に程度の違いがあるということを教えてはおりません。そのような考えは聖書の神の権威を否定するものです。
聖書の正確さ
イエスが「肉体となり、わたしたちのうちに宿」(ヨハネ1:14)られたのと同じように、わたしたちが真理を理解するために、聖書が人間の言葉で与えられました。聖書の霊感は聖書が信頼に値するものであることを保証するものです。
神は、聖書の本文が後代に伝えられていく過程をどれだけ守られたのでしょうか。明らかなことは、古代の写本は多様ではあるがその本質的な真理は保護されてきたということです[3]。聖書の写字生や翻訳者が小さな誤りを犯したことはもちろんありうることですが、聖書考古学から明らかになることは、多くの誤りとされてきたものは実際には学者の側の誤解であったということです。これらの問題のあるものは、人々が聖書の歴史と文化を西洋的な目で読んだ結果生じたものでした。わたしたちは、人間が知るところは一部であること、すなわち神のみわざに対する人間の洞察は断片的なものにとどまるということを認めなければなりません。
したがって認められる食い違いは、聖書に対する信頼を失わせるものではありません。それらはしばしばわたしたちの不正確な理解の産物であって、実際の誤りではありません。わたしたちが充分に理解できない文章や言葉に出会うとき、それは神が試されているということでしょうか。わたしたちは聖書のすべての文章を説明することはできませんし、またそうする必要もありません。成就された預言が聖書の信頼性を証明するのです。
聖書を抹殺しようとする試みにもかかわらず、聖書は驚くほどの、というよりも奇跡的というほどの正確さを維持してきました。死海写本を後代の写本と比較してみるとき、写本が伝えられてくるときどれほどの深い注意が払われたかが明らかになります[4]。それらは、神のみ旨の誤りのない啓示として、聖書が信頼に足るものであることを確信させてくれます。
聖書の権威
聖書には神の権威があります。神が聖霊を通して語っておられるからです。したがって聖書は書かれた神の言葉です。このような主張ができるその証拠はどこにあるのでしょうか。またわたしたちの生活や知識の探求にとってその意味はどのようなものでしょうか。
聖書の主張
聖書記者たちは自分たちの使信が直接神からきたものであると証言しています。エレミヤ、エゼキエル、ホセアなどの預言者たちに与えられたのは「主の言葉」(エレミヤ1:1,2,9、エゼキエル1:3、ホセア1:1、ヨエル1:1、ヨナ1:1)です。主の使命者として(ハガイ1:13、歴代下36:16)、神の預言者たちは神のみ名によって語るよう命じられ、「主なる神はこう言われる」(エゼキエル2:4、イザヤ7:7参照)と言いました。神の言葉は神の信任と権威を帯びています。
ときとして神が用いられる人間は背後に後退します。次のような言葉を引用するとき、マタイは、旧約聖書の預言者の背後にある権威を指し示しています。「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである」(マタイ1:22)。つまりマタイは、主が直接的な主体すなわち権威であり、預言者が間接的な役割を果していると見ています。
ペテロは、パウロの著作を聖書として扱っています(2ペテロ3:15,16)。そしてパウロは自分が書いたものについて、「わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである」(ガラテヤ1:12)と証言しています。新約聖書の記者たちはキリストの言葉を聖書として受け入れ、それらを旧約聖書と同じ権威を持つものと見なしています(1テモテ5:18、ルカ10:7)。
イエスと聖書の権威
イエスはその奉仕の生涯において一貫して聖書の権威を強調されました。サタンの試みや敵対するものたちとの戦いにおいて、「……と書いてある」(マタイ4:4,7,10、ルカ20:17)ということがイエスの防御であり攻撃の言葉でした。イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)と言われました。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねられたとき、イエスは、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:26)と応じられました。
イエスは聖書を人間の伝統や意見に勝るものとされました。イエスは聖書の権威を無視しているユダヤ人たちを譴責し(マルコ7:7-9)、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか」(マタイ21:42、マルコ12:10、26参照)と言われて、聖書をもっと注意深く研究するように訴えられました。
イエスは預言の言葉の権威をかたく信じ、それがご自身を指し示すものであることを明らかにされました。イエスは、聖書は「わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われました。「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ5:46)。ご自分が神の使命を持っているというイエスの強い確信にあふれた主張は、ご自身が旧約聖書の預言の成就であるというところからきていました(ルカ24:25-27)。
したがって、キリストが聖書を人類に対する神のみ旨の権威ある啓示として受け入れておられたことに疑問の余地はありません。イエスは、聖書を、人間を誤った伝統や神話の闇から救いの知識の真の光へと導く、真理の集成にして客観的な啓示として見ておられました。
聖霊と聖書の権威
イエスがこの世におられた間、宗教的指導者や不注意な群衆はイエスが真にだれであるかを理解しませんでした。ある者は、イエスはバプテスマのヨハネ、あるいはエリヤやエレミヤといった預言者、すなわち単なる人間であったと考えました。ペテロが、イエスは「生ける神の子キリストです」と告白したとき、そのような告白ができたのは神の導きによるものであると指摘されました(マタイ16:13-17)。パウロはこの真理を強調してこう述べています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12:3)。
聖霊がわたしたちの心を開いて下さることなしに、わたしたちは決して聖書を正確に理解することも、またそれを神の権威あるみ旨として認めることもできません[5]。「神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」(1コリント2:11)ゆえに、次のように言われています。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(1コリント2:14)。その結果、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(1コリント1:18)。
「神の深み」(1コリント2:10)をきわめる聖霊の助けを得て、はじめてわたしたちは神とそのみ旨の啓示としての聖書の権威を確信することができるようになります。十字架が「神の力」(1コリント1:18)となり、「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」(1コリント2:12)とのパウロの証言に同調することができるのはそのようにしてなのです。
聖書と聖霊とは決して切り離すことはできません。聖霊は聖書の真理の著者であり啓示者です。
聖書の権威は、わたしたちの生活の中では、わたしたちが霊感をどう考えるかによって大きくもなり小さくもなります。もしわたしたちが聖書を人間の証言の単なる集成として考えたり、聖書がわたしたちを感動させてくれるその度合いに応じてその権威を認めたりしているとしたら、わたしたちは生活の中で聖書の権威をないがしろにしていることになります。しかし、わたしたちが記者たちをとおして語る神の声を聞き分けるとき、彼らがどれほど弱く人間的であったとしても、聖書は、「人を教え、戒め、正しくし、義に導く」(2テモテ3:16)ことにおいて、絶対的な権威となります。
聖書の権威の射程
聖書と科学の矛盾はしばしば推測の結果にすぎません。科学と聖書を調和させることができないとしたら、それは、わたしたちの「科学もしくは啓示の理解が不十分」なためである。「しかし、正しく理解しさえすれば、この二者は完全に一致しているのである。」[6]
すべての人間の知恵は聖書の権威に従属します。聖書の真理は、それによって他のすべての思想が審査されるべき基準です。神の言葉を限られた人間の標準によって判断することは、ものさしで宇宙を測ろうとするようなものです。聖書を人間の基準に従属させてはなりません。聖書はすべての人間の知恵や文学に勝るものです。わたしたちが聖書を判断するのではなく、すべてが聖書によって判断されるのです。聖書は、品性の基準であり、すべての経験と思想の試金石だからです。
最後に、聖書の権威は、預言の賜物による指導や異言を語ることをも含む聖霊の賜物にも勝るものです(1コリント12章、14:1、エペソ4:7-16)。霊の賜物は聖書を越えるものではありません。それらは聖書によって審査されなければなりません。もし聖書と調和していなければ、それはほんとうのものではないので捨てられなければなりません。「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(イザヤ8:20新改訳、本書第17章参照)。
聖書の統一性
聖書は、表面的に読むなら、表面的にしか理解できません。そのような読み方では、聖書は、物語と説教と歴史の単なる寄せ集めにしか見えないでしょう。しかし神の霊の導きに心を開き、忍耐と多くの祈りをもって隠された真理を探求する者は、聖書が救いの原則について教えていることの中には統一があることを発見します。聖書は単調に一様ではありません。むしろ聖書は、まれにみる際立って美しい調和ある証しについての豊かで、多彩な多様性からなっています。そしてその視点の多様性のゆえに、聖書はいつの時代にも人間の必要をよく満たすことができるのです。
神はご自身を人間に、一度に啓示されたのではなく、世代から世代にわたって少しずつ啓示してこられました。ミデアンの荒野におけるモーセが書いたものであれ、ローマの牢獄でパウロが書いたものであれ、聖書の書巻は皆同じ聖霊の霊感を受けて書かれたものであることを示しています。このような「啓示の進展」を理解することは、聖書とその統一性を理解する上で助けになります。
書かれた時代は離れていても、旧約聖書と新約聖書の真理は分けることができません。それらは互いに矛盾するものではありません。神が一つであるように、旧新二つの聖書は一つです。旧約聖書は預言や象徴をとおして来るべき救い主を啓示し、新約聖書はイエスの生涯をとおしてすでにこられた救い主、すなわち成就した福音を啓示しています。そして両方ともに同じ神を啓示しているのです。旧約聖書は新約聖書の基礎となっています。新約聖書は旧約聖書の神秘を説明し、旧約聖書は新約聖書を開く鍵を提供しています。
神は、み言葉を尋ね求めることによってご自身を親しく知るように、わたしたちを招いておられます。わたしたちは聖書の中に救いの豊かな祝福と確信を見いだすことができます。わたしたちは、聖書が「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」ことを自分で見つけることができます。聖書をとおして、わたしたちは、「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16,17)。
[1] エレン・G・ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』Ellen G.White,Selected Messages,(Washington,D.C.: Review and Herald,1958)、第1篇21ページ。
[2] 同。
[3] いろいろな写本があることの理由については、次のものを参照。エレン・G・ホワイト『初代文集』(福音社、1976年)、365ページ。
[4] ジークフリート:H:ホーン『考古学による聖書の確認』改訂版(Siegfried,H.Horn,The Spade Confirms the Book,rev.ed.’(Washington,D.C.:Review and Herald,1980))を参照。
[5] 聖書解釈に関するセブンスデー:アドベンチスト教団の一般的な理解については以下のものを参照。世界総会委員会、定例会議報告書、「聖書研究の方法」(General Conference Committee,Report of the General Conference Committee Annual Council,Oct.12,1986,“Methods of Bible Study,”Distributed by the Biblical Research Institute,General Conference of Seventh-day Adventists,6840 Eastern Ave.,N.W.,Washington,D.C.20012)。G:M:ハイド編、『聖書解釈学論集』(A Symposium on Biblical Hermeneutics,ed.G.M.Hyde(Washington,D.C.Review andHerald,1974))。ゲルハルト:ハーゼル、『生ける神の言の理解』)Gerhard f.Hasel,Understanding the Living Word of God(Mountain View,CA:Press,1980))。P:ジェラルド:ダムスティーク「聖書の釈義」(P.Gerard Damsteegt,“Interpreting the Bible”(Paper prepared for the Far Eastern Division Biblical Research Committee Meeting,Singapore,May 1986))参照。
[6] ホワイト『人類のあけぼの』上巻:福音社、1971年、33ページ。
*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。