聖書、この不思議なるもの
聖書はキリスト教の聖典と言われているように、キリスト教を学ぶための基本的な教科書です。英語で聖書を「バイブル」というのは、ご存知の通りです。これはギリシャ語の「書物」という意味の「ビブロス」の訳なのです。これに定冠詞の「The」がついていますので、これこそは「真の書物」すなわち、書物中の書物ということができるでしょう。
聖書は不思議な書物です。聖書は人類最大の古典であり、聖書のように長期間にわたって読まれた本はありませんし、将来も出現することはないでしょう。聖書こそは、史上最大のベストセラーであり、ロングセラーなのです。
実際、聖書は、現在、世界の約2100の言語で読むことができ、680の言語での翻訳が進行中です(1997年現在)。世界138カ国が加盟している聖書協会世界連盟の統計によりますと、1年間に約8千万冊の聖書が頒布され、そのうち半分以上の聖書が販売されています(1994年現在)。日本においても、日本聖書協会だけでも毎年50万部以上の聖書が販売されています。
これだけの書物は人類歴史上他に類をみません。なぜこれほどまでに読まれているのでしょうか。それは、聖書こそ、生ける神の言葉であり、人々の必要に対する十全な解答を与えてきたからでした。聖書の神は、聖書によって私たちに語りかけてくださるのです。
古今東西を問わず、多くの偉人たちが、科学者が、そして文学者が、それぞれの偉大さに応じて聖書を読み、敬い、生きる意味と勇気と励ましを与えられてきました。そして現在も、世界中の家庭の書棚にあって、20億と言われるキリスト教徒だけではなく、他の多くの人々の魂を潤しているのです。
人生を変える書物
「地獄の虹」という書物があります。これは、副題に「死刑囚から牧師に」とあるように、第二次世界大戦中、南国サイパン島の捕虜収容所で米軍に協力する邦人指導者を暗殺して死刑の宣告を受け、その後獄中でキリスト教に回心して牧師になった新垣三郎氏の物語です。
熱心な軍国少年であった新垣氏は、第二次世界大戦中、サイパン島で日本軍と行動を共にして米軍と戦いましたが、圧倒的な米軍の戦力の前に日本軍は玉砕してしまいました。生き延びた新垣少年は、山中で憲兵伍長に出会い、彼の烈しい敢闘精神と天皇への忠誠心に触れ、心酔してしまいます。彼の指示に従いながら、一年有余のゲリラ戦の果て、伍長の命令に従い彼と共に収容所に潜入するために投降しました。そこには1万5千人もの日本人が収容されていましたが、そこで新垣少年はこの憲兵の命令で、米軍への協力者を暗殺してしまったのでした。
その後、彼は逮捕されて拷問にも耐えながら犯罪を一貫して否認し続けました。ところが、ある日この憲兵から「君はおれと一緒に死ねるか。おれは間違いなく死刑だ。新垣君、あの事件は自分の意志でやったと言ってほしい。そうすれば君とおれは一緒に死ねる」と言われました。彼はその命令どおり今までの否認を撤回して単独犯行であると主張し、その結果、死刑の判決が下されました。
ところが、その後、彼はあの伍長に裏切られたことを知ったのです。伍長は、彼に殺人を命じたにもかかわらず、罪を一人新垣少年に押し付けて、彼自身は無罪になり日本に帰国したのでした。
新垣氏はこう言っています。「私は怒りに燃えました。私はのろいました。覚えていろ、必ず復讐してやる。きっと殺してやる。しかし、どうすることもできませんでした。私は、犯行はあの憲兵伍長の命令によるものだと訴えましたが、あとのまつりでした。…ただ一人取り残されて…。死刑執行は、今日か明日か?死の恐怖にさいなまされて、私はやせ衰え、毎日狂ったように泣きわめいていました。」
死刑執行の行われるグアム島へ移送され、独房の中で死の恐怖に襲われながら、裏切って逃げたあの伍長を呪うばかりの毎日でした。ところがその後、彼は終身刑に減刑されハワイの刑務所に移送されました。明日の希望も無い終身囚の身で、空しく月日が流れていくばかりでした。
そういう中で、ある日彼は日本語で書かれた「預言の声・聖書通信講座」を手渡されました。これは今皆さんが学んでおられるこの聖書通信講座の姉妹編でした。日本語に飢えていた彼は、早速むさぼるように読み始めました。講座を通して聖書を学んでいくうちに、彼は神との出会いを経験したのです。彼はやがて洗礼を受け、神を知る喜びに満たされ、生活が一変してしまいました。彼は模範囚として認められ、死刑宣告から8年後、彼は特赦で釈放されたのです。
日本に帰国した彼は、千葉の神学校で学び、やがて牧師になったのでした。日本に帰国後、彼が一番会いたかった人は、あの自分を裏切った憲兵伍長でした。彼が東京にいることを知った新垣氏は、この元伍長を訪ねていきます。彼の来訪を知った元伍長は、驚きと恐れのあまり、しばらく出てきませんでした。30分以上経ってから現れた彼は、顔面蒼白、内心のおびえが浮き出て見えていました。その元伍長に彼はこう語りかけたのでした。
「しばらくです。死刑をまぬかれて元気で帰ってきました」。
何も言葉に出せずうつむいたまま黙っている元伍長に向かって、彼はさらに語りつづけました。
「私はもう、昔の新垣ではありません。私はイエス・キリストを信じてクリスチャンになりました。昔のことは忘れましょう」。
元伍長の目がたちまち潤み涙があふれ出してきました。「新垣君、すまなかった。赦してくれ、赦してくれ。」
彼はこう応えます。「あなたも苦しんだでしょう。私は思います、罪を悔い改めて赦されて、神の愛に生きることです。私はそれを言いたくて会いに来たのです。」
この再会以来、新垣氏とこの伍長は生涯を通じての良き友となったのでした。ある人は、彼を評して「現代の奇跡、人間のうちに起こる神の奇跡である」と述べています。彼は、聖書を通しての神との出会いを体験しました。それにより、彼は全く新しい人生の意味と目的を見出し、自分を裏切った者をも赦すことのできる人間に変えられたのでした。
この新垣氏のように、人類歴史を通じて実に多くの人が聖書によって新しい人生の真実を見出し、生きる意味と喜びを与えられたのでした。
聖書の歴史的真実性
聖書は人生について深い真実を私たちに教えてくれるばかりではなく、人類の歴史についても正確な記録を残しています。近代の歴史家たちは、熱心に聖書の史実性に対して批判を加えてきました。ところが、19世紀以降もたらされた考古学の多くの発見は、聖書の史実性を否定するどころか、逆にその真実性を立証するものでした。
たとえば、旧約聖書のダニエル書には、カルデア王国最後の王ベルシャザルが酒宴を設ける話しが出てきます。
酒宴の最中、突然人の手の指が現れ、壁に意味不明の文字を書いたのです。会場は大混乱に陥り一同は恐怖に満たされました。王は、この文字を解読したものには、王国の「第3のつかさ」の位を約束しました。しかし誰一人解読できず、王は大いに悩み大臣たちも当惑しました。ところが、ダニエルが出てきて、それを解読したのでした。
長い間、ダニエル書のこの部分は、荒唐無稽の説話のようにみなされていました。カルデア王国の最後の王はナボニドスであったというのが歴史家の一般的な見解でした。ベルシャザルが最後の王であったというのは史実に反するものと思われていました。
ところが、1854年、南メソポタミアの遺跡を発掘していたイギリスの副領事テイラーは、刻銘のある粘土円筒を発見しました。この円筒は、ナボニドス王が神殿を修復した際に、その事業を記念して納めたものでした。その各刻文の最後の部分には、彼が自分の長子ベルシャザルのために、神に長命を祈る詩的文章が刻まれていたのです。そればかりか、ベルシャザルは始終外征に出て留守がちであった父ナボニドスとカルデア国の統治を分かち合っていたことが他の粘土文書から明らかになりました。ベルシャザルは、カルデアでは父に次いで第二のつかさであって、壁の文字の解読者には「第3のつかさ」しか約束できなかったのでした。
ダニエル書は、この記述のゆえに批判されましたが、現在は、まさにこの記述のゆえにその真実性が認められているのです。東大名誉教授江上波夫氏は「沈黙の世界史」の中で次のように述べています。
「一見荒唐無稽な説話風のダニエル書の所伝にも重要な史実性が見られることが、ナボニドス関係の楔形文書の解読によってだんだん分かってきたのですが、そのきっかけを作ったものとして、テイラー発見のナボニドス願文は非常に大きな役割をもったものでした。」
旧約聖書には48回「ヘト(ヘテ)」という民族について記述しています。聖書以外にその存在の証拠はありませんでしたので、歴史家は「ヘト人」の存在については否定的で、聖書の史実性が疑われる理由の一つに挙げておりました。
ところが、1905年ドイツの考古学者ウィンクラーは、トルコのボガズ・ケイ村の近くで多くの楔形文字の文書を発見しました。この楔形文字が解読されていくにつれて、ヘト民族が強力な帝国を築き上げていたことが判明しました。この「失われた帝国」は、聖書以外の世界では、3000年近く人々から全く忘れ去られていたのです。フレデリック・ケニオンは「聖書と考古学」の中で「かつてヘト人が広大な領土を支配し、一時はアッシリア、エジプトなどの大帝国と競っていたという事実は、現代考古学における偉大な発見の一つである」と述べています。
1947年に死海の北端の洞窟で発見されたいわゆる「死海文書」は、聖書の記事と内容がいかに忠実に保存されてきたかを実証しました。この死海文書と称された巻物は、死海北西岸のクムランで共同生活を営んでいたユダヤ教の一教派によって遅くとも紀元一世紀までに書かれていたことが確認されました。これらの死海文書の中に「預言者イザヤの書」が含まれていましたが、それまで知られていたイザヤ書の最古の写本は930年ごろに書かれたものでした。この写本はこれまで知られていた写本より約1000年も古いもので、しかもこの内容が、今日使用されているヘブライ語のテキストと実質的に同一であったのです。聖書はその歴史において、私たちの時代まで忠実に引き継がれてきたのです。
ウェルネル・ケラーは「歴史としての聖書」の中で、「(聖書に書かれている)事柄そのものは歴史的な事実であり、それが正確に記録されていることには、ただ驚嘆のほかはない。考古学者の発掘のおかげで、今では聖書の記述の多くが、以前よりずっと正しく理解されるようになった」と述べています。
聖書の内容
聖書は、極めて具体的に、神がいかに歴史の中で生きて働かれたかを述べています。そして、その中心的メッセージとして、神の救いの成就であるキリストの福音を私たちに語りかけているのです。
聖書は旧約聖書と新約聖書からなっています。聖書の中心はキリストであり、キリストの誕生以前に書かれたのが旧約聖書、キリストの誕生以降に書かれたのが新約聖書です。旧約聖書は39の書物から、新約聖書は27の書物からなっており、聖書全体は、両者合わせて66の書物から成っています。旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれています。
旧約聖書、新約聖書とも「約」という言葉が使われています。それは、聖書は「神と人間との契約(約束)」の書だからです。それは、神の救いの契約であり、具体的にはイエス・キリストの十字架の死による救いの契約なのです。聖書の中心的メッセージは、キリストが約2000年前に十字架上で私たち人類の罪の刑罰を身代りに受けて死なれたことによって、私たちの罪が赦されたという神の約束なのです。これこそが聖書の中心的メッセージです。
このキリストの十字架の出来事という神の約束を中心として、それ以前に書かれたものを旧約聖書、それ以後に書かれたものを新約聖書と呼んでいるのです。旧約はキリストの救いの「約束」を述べ、新約はキリストの救いの成就と「新しい約束」を述べています。旧約聖書も新約聖書もキリストがその焦点になっているのです。聖書全体を貫いている主題は「救い」であり、その主人公は「イエス・キリスト」なのです。
合計66の書物からなる聖書は、一度にでき上がったものではありません。長い年月をかけて、時代的・文化的背景が違う多くの人々によって書き上げられたものです。
エジプトからの解放者モーセ、国王であったダビデやソロモン、預言者であったイザヤやエレミヤ、政治的指導者ダニエル、医者ルカ、徴税人マタイ、キリスト教会の迫害者であったパウロなどいろいろな人達、約40人が聖書を書きました。聖書が書かれた時代は、旧約の創世記の著者モーセから、新約の最後の書・黙示録の著者ヨハネまで、実に約1600年にも及んでいます。
このように聖書は、時代も文化も違う人々によって書かれているため、実に多様で豊富な表現と内容に満たされています。しかし、聖書全体は、互いに矛盾しているところがないばかりか、一貫した思想が流れており、驚くべき統一と調和を保っています。この長い年月にわたり多くの人によって書かれながら、全体は統一と調和を保っているという事実は、それらの著者たちの背後にあって、彼らに同じ思想を与えられた生けるまことの神がおられるという事実を指し示しているのです。神こそが聖書の真の著者であり、神がこれらの人たちを導いて聖書を書かれたのです。故に、聖書は人間が書いた書物であると同時に神による書物と言うことができるのです。
聖書の構造
聖書の構造について述べてみましょう。聖書が旧約聖書と新約聖書に分かれていることは、先に述べたとおりです。
旧約聖書は全部で39書あり、律法書、歴史書、文学書、預言書の4つに分類されます。
最初の律法書とは「モーセの五書」と言われるもので、聖書の最初の5書、すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。人類の始祖アダムとエバの創造の記述を含む天地創造の物語から始まり、神に逆らった結果の人類の堕落、ノアの洪水、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語、モーセの指導によるイスラエル民族の出エジプトの記録、そしてモーセを通して神より示された律法が記されています。
歴史書は、文字通りイスラエルの歴史について記述しています。モーセ5書に続き、ヨシュア記からエステル記までの12書がこれに含まれます。モーセの後継者であったヨシュアに率いられたイスラエル民族がカナンの土地を征服・占領していく過程、その後のサムエルに至る民の指導者達、最初の王サウルから始まって、ダビデ、ソロモンの全盛期を経た後、南北の王国に分裂してやがて衰退し滅亡するまでの歴史が描かれています。
文学書は、歴史書に続く、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉、雅歌の5書を指しています。特に詩編には150編の詩が収められており、現代のキリスト教会の礼拝でもよく用いられています。
最後の預言書には、イザヤ書からマラキ書までの17書が含まれます。イスラエルの歴史の只中にあって、神が預言者を通して語られた言葉が記されています。哀歌以外は、各書の著者である預言者の名前がそのままその書物の名前になっています。
新約聖書の27書は、福音書、使徒言行録、書簡、黙示の4つに分類されます。
新約聖書は、まずイエス・キリストの出来事が述べられている4つの福音書から始まっています。この福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の記者が、イエス・キリストのご生涯とその教えをそれぞれの観点から記録したものです。旧約時代に預言され約束されていた救い主が、イエス・キリストにおいて成就したことを彼らは記しています。福音とは「良い知らせ」という意味です。イエス・キリストこそが待望された救い主であり、キリストのご生涯とその教えこそが人類にとって良い知らせであると福音書記者達は述べているのです。
使徒言行録には、キリストの昇天後、使徒と呼ばれるようになったキリストの弟子達を中心にして、キリスト教が各地に宣教され、教会が設立されていく様子が描かれています。
書簡には、使徒たちが各地の教会や個人に宛てて記された21の書簡が含まれます。このうち13の書簡は、迫害者から改宗してキリスト者になったパウロという使徒によって書かれました。特にパウロの4大書簡、すなわちローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙1および2、ガラテヤ人への手紙は、キリスト教の明確な教義形成の上で大きな役割を果しました。
黙示は、新約聖書の最後に収められているヨハネの黙示録のことで、人類の救いの歴史、すなわち、罪の起源から、キリストの時代を経て、終末時代、キリストの再臨、さらに最終的宇宙の完成に至るまでの預言が記されています。
このように、「創世記」の天地創造から「ヨハネの黙示録」のキリストの再臨と最終的宇宙の完成に至るまで、全宇宙を支配し人類歴史を導いておられる神の救いのみ業が中心テーマとなって旧新約聖書に明らかにされているのです。
聖書の学び方:聖書を読むルール
聖書を読むときそのルールを知る必要があります。同じものを観察していても、そのルールを知っているとより深く理解できます。
例えば、スポーツを観戦するとき、ルールを知っているのと知らないのでは、理解の深さが全く違ってきます。ルールを知っていれば、細かい選手の動きの意味、ボールの配球や駆け引きの意味を理解できるのです。
私たちが聖書を読むときにも、そのルールを知った上で聖書を学ぶとき、より深い理解ができます。
1.キリストが聖書の中心テーマ
聖書の中で、イエス・キリストは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5章39節)と述べられました。このように、聖書の中心テーマはイエス・キリストです。
私たちは、聖書を通してキリストに出会うのです。キリストに出会うとき、キリストにおいて明らかにされた神の愛と赦しのメッセージに(福音)に触れることができるのです。
2.信仰を持って読むこと
その基本的ルールは「信仰」です。信仰の目をもって聖書を理解するとき、歴史を導かれる神のみ手を知るのです。言い換えるならば、聖書は頭で読むのではなく、心で読む書物なのです。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と聖書自身は述べています(1テモテ3章16節)。
聖書は霊感を受けて、すなわち神の霊の導きによって書かれたのです。これを神の言葉として受け入れるのも、また神の霊の導きによるのです。
聖書の教える宗教の本質は信仰にあるのであって、知識にあるのではないのです。聖書は、神様からの人類に対する手紙あるいはメッセージであると言ってよいでしょう。それは人類に対する神の呼びかけで、それを啓示と言っています。その呼びかけに対して、私たちは頭(知識)ではなく、心(信仰)によって応じるのです。神の呼びかけに対してこのように応じるときに、私たちの信仰が呼び起こされるのです。
そのためには、私たちが聖書を読むとき、神の霊の導きを祈り求める必要があります。祈りつつ聖書を読む姿勢が重要です。
3.求道的態度で読むこと
聖書を読むときに必要なものは、傍観者的態度ではなく、求道的態度です。聖書を読むときに大切なことは、ただ単に過去の出来事として読むのではなく、今現在の自分自身のために起こっている救いの出来事であると信じて読む姿勢です。「(聖書が)書かれたのは、私たちに対する訓戒のため」(2コリント10章11節)なのです。現在の自分の生きている状況とどう関わりを持っているかを常に問いつつ学んでいくのです。
聖書を通して、神は私に何を語りかけておられるのか、私に何を求めておられるのか、を求めながら読んでいくことが重要です。
4.読み続けること
聖書は神の言葉であり、非常に奥が深い書物です。聖書は、2千年のキリスト教歴史の中で、多くの牧師や神学者が、その生涯をかけて全精力を傾けて取り組んできたほどの書物です。まして、初めて聖書を読み始めるときには、あちこちで意味不明な理解しがたい個所に出くわすことでしょう。しかし、重要なことは、分からない個所があっても諦めずに、神の導きを求めつつ読み続けることです。読み続けるうちに、必ず神の言葉が少しずつ理解できるようになります。
聖書を読み始める場合、基本的にはどこから読んでもよいのですが、聖書のメッセージを聴こうとするなら、新約聖書の福音書から読み始めるのがよいでしょう。キリストのご生涯とその教えの中に福音が分かりやすく示されています。
5.信仰共同体の交わりの中で読むこと
自分自身で主体的に聖書を学んでいくことは非常に大切なことです。しかし、一人だけの学びでは、ともすれば独善的な解釈や読み方に陥る恐れがあります。
教会の礼拝や聖書研究会に出席して、生ける信仰をもつキリスト者と共に神の導きを祈り求めながら聖書を読むときに、私たちの信仰が生まれ芽生えてくるのです。その時に信仰を持って聖書を読むということが、どういうものであるかを理解できるようになります。
さらに牧師など聖書に精通した適切な指導者について聖書を読むと、その学びは実り多いものになります。聖書が書かれた時代の風俗習慣と私達が生きている現代社会の風俗習慣は、まったく異なっています。そのため、聖書に出てくる様々な表現は、理解に苦しむことがあります。適切な解説により聖書の書かれた時代の歴史的・文化的背景を知りながら読むと、より正確で深い理解ができるようになります。
永遠の神のみ言葉
1521年、宗教改革者マルチン・ルターは、ウォルムス帝国議会において、彼を裁く神聖ローマ帝国のカール大帝とドイツの諸侯達を前にしてこう叫びました。
「私はここに立っています。こうするほかはありません。神よ、どうぞお助け下さい」。
彼は、当時の腐敗した教会に対し95ヶ条の抗議文を公表して、たった一人立ったのでした。彼は、召還され、帝国議会において審問されました。そこで彼は、「君は、君の書物とそれに書いてある誤りを認めるのか、認めないのか」と問われました。
一日保留した彼は、次の日こう断言したのでした。「私は聖書と明白な理性によって確信するのではない限り、何も撤回することはできないし、また撤回しようとも思いません。私の良心は、聖書にとらえられています。良心にそむくことは、正しくないし危険であるからです。」
ここまでラテン語で述べてきた彼は、突如ドイツ語でこう付け加えたのでした。「私はここに立っています。こうするほかはありません。神よ、どうぞお助け下さい」。
ブランデンブルグのヨアヒム候はこう質問します。「私があなたを正しく理解しているとすれば、あなたは聖書を捨てることはできないのですね。」。
ルターは答えます。「その通りです。私は、その上に立っているのです。」
審問を終えて退出するルターに、皇帝カール5世に仕える者達から怒号が飛び交いました。「この男を火あぶりにしろ。火あぶりにしろ」
その時から、彼は「帝国追放」の処せられ、いっさいの法律の保護を失ってしまったのでした。それでも彼は自分の考えを翻しませんでした。ルターはただ一人、「聖書のみ」を根拠にして戦ったのでした。時の権力と精神に対して、神のみ言葉という時代を超越するものを根拠として、彼は固く立ったのでした。
人生の道しるべ
キリスト教は「聖書の宗教」です。キリスト教にとって聖書が全ての原点です。各時代のキリスト者にとって、聖書こそが彼らの生きる原点であり、彼らの生きる基盤でした。それは、聖書にこそ歴史を通して変ることのない神の真理が記されているからでした。
聖書は不思議な本です。聖書は私たちの生き方をうつす鏡と言ってもよいでしょう。聖書を読むとき、私たちは私たち自身の本当の姿を発見するのです。私たちが、聖書に問いを発する時に、逆に、私たち自身がその生き方を問われていることを発見するのです。
近代の合理主義者ボルテールは確信を持ってこう語りました。「12人がキリスト教を創り上げたという話しに、私はうんざりしている。私は、それをくつがえすのに、一人で十分であることを証明しよう」。
彼に続いて多くの人が聖書を滅ぼす闘いに加わってきました。しかし聖書は滅びるどころか、ますます広く配布されるようになりました。聖書は常に迫害され攻撃されてきましたが、常に新しい勝利を得て、生ける神のみ言葉であることを立証してきたのです。聖書が「草は枯れ、花はしぼむ。しかし我々の神の言葉はとこしえに変ることがない」(イザヤ40章8節)と述べている通りなのです。
アウグスチヌスは「キリスト教は、中は広いが入口は狭くて低いから頭を高くしていては、つかえて中に入れない」と言っています。頭を低くすることとは、信仰を持つことなのです。信仰を持つことによって、キリスト教の深い真理に導き入れられるのです。そして信仰をもつということは、人生の道しるべを与えられることなのです。「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともし火」(詩篇119編105節)と聖書が述べているように、聖書こそは、私たちの人生の道しるべなのです。
ファラーは、「聖書の偉大さ」についてこう表現しています。
「聖書は、世界中の本を集めて、全ての偉大な思想家・文学者がその内面を表現したとしても、それを凌駕することのできない文学です。この書物が取り扱っていない事柄があるでしょうか。この書物が測りえない深淵があるでしょうか。到達できない高さがあるでしょうか。与えられない慰めがあるでしょうか。良心を自覚させるのに不十分なのでしょうか。魂の奥底に触れえないことがあるでしょうか。長い時代に渡って何千何万という偉大な人々が各々の偉大さに応じてこの書物を敬ってきました。またこの書物のために戦闘が繰り返され、哲学者が労し、殉教者が血を流してきました。この書物を一笑に付すのは何と馬鹿げたことでしょうか」。
人類の最大の古典であり神のみ言葉である聖書を読まない人は、実に重大な損失を被っていると言わざるを得ません。この聖書を学ぶ時に、きっと皆さんの人生の見方、生き方を根底から変えてしまうものになるに違いありません。この聖書こそが神様から人類に与えられた人生の道しるべなのです。この機会に、是非聖書を読んでみて頂きたいと願っています。この聖書はきっと、皆さんに生きる勇気と希望を与えてくれることでしょう。
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