聖書の人間観
聖書の基本的人間観は、「人間は神に造られたもの」、すなわち「神の被造物」であるということです。聖書は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)と述べています。
しかし、人間は単なる被造物ではありませんでした。人は「神の像に創られた」と聖書は述べています。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1章26-27節)。
人間は生物学的存在ですが、他の動物とは違う存在です。人は「考える」存在なのです。あの「パンセ」の中で、パスカルが「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。だがそれは考える葦である」と言ったのはあまりにも有名です。さらに、彼は人間の「弱さ」と「偉大さ」についてこう言っています。
「宇宙からみれば人間は弱い弱い存在である。一吹きの蒸気、一滴の水が彼を殺すのに十分である。しかし、人間は考えるということにおいて偉大である。人間は考えることにおいて全宇宙をおおい尽くしてしまうのである。」
人間は、考えるということにおいて、永遠の時間と無限の宇宙空間を把握できるのです。「神の像に創られた」ということは、他の被造物とはまったく違う存在として創造されたのです。考えることのできる存在として創られました。それは、人間は、自らの意思によって神に対して応答するものであることを意味します。すなわち自由意志をもち、それに基づいて選択できる存在なのです。
人間は、主体性をもち、神との関係に、すなわち神との愛の関係に生きるものとして創造されたのです。アイヒロットは「創造者の人間への最大の賜物は、人格的な主体である」と述べています。
「人間は神のかたちに創造された」ということは、神は人間をご自分に似せてお造りになったということです。これは、人間が神のご品性、神の愛を反映するものとして造られたことを意味します。神に似たものになるということは、私たち人間の中に神のお姿、ご品性・愛が反映されるということです。「神は愛である」と聖書は述べています。神は人格的な愛をもった存在であり、人間はこの愛によって呼びかけられ、それに応答するように造られている存在です。
さらに、神は人(アダム)を創造されとき、神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)とエバを創られました。神は、男と女とに創られたということは、人は、単独者ではなく、交わるものとして創られたのです。
人間とは、いったい何なのでしょうか。究極的に人間を人間たらしめているのは何でしようか。哲学者マルチン・ブーバーは、人間を「関係の中で生きるもの」として規定しました。人間は、「我とそれ」と「我と汝」という二つの根源的関係の中で生きているのです。人間は「それ」(モノ)なしには生きることができませんが、「それ」のみによって生きるのでもありません。いかに多くのものを所有していても、人間には「汝」という人格的存在が必要なのです。
他者との「人格的出会い」という体験、すなわち「我と汝」という関係は、私たちの人生を大きく変えてしまう可能性を秘めています。サン・テグジュペリの「星の王子さま」の中で、キツネが王子さまと出会います。すると、その出会いによってキツネの人生が一変してしまいました。今までは、キツネにとって金色に波打つ麦畑など何の関係もないものなのですが、王子さまと仲良くなったとたん「麦畑を見るたびに王子さまの金髪を思い出して泣いちゃうかもしれない」などと言い出しました。また「足音だって昨日と違って聞こえる」といいます。出会いによって、今まで普通のことだったのが普通でなくなってしまったのです。
マルチン・ブーバーは「出会い」についてこう言っています。「真に生きている時間とは、出会いのある時間なのである。出会いという決定的瞬間において、今までにない、全く新しい事柄が我々に起こるのである。最高の出会いの瞬間の後には、人はそれ以前とは全く違った人間になるのである。」
神への反逆と堕落
神は、エデンの園に「善悪の知識の木」を置かれました。そして、こう命じられました。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章16-17節)
ところが、その後、事態は次のように展開していきます。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』
女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』
蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3章1-6節)
人は、誘惑者(蛇)の誘惑に負け、神のようになろうとして禁断の木の実をとって食べたのでした。人は、神の戒めを守らず神に反逆した結果、罪を犯し堕落してしまったのでした。
神はなぜ、誘惑者(蛇)をおき、人間に罪を犯させる機会を与えられたのでしょうか。なぜ全能の神は、人が罪を犯さないように、人を守られなかったのでしょうか。この問いこそが、あの偉大な教父アウグスチヌスが、若き日に抱いた一大疑問でした。彼の「悪の起源と自由選択について(自由意思論)」という本の冒頭で、弟子のエヴィディウスがアウグスチヌスに「いったい悪を創ったのは誰ですか」と問いかけます。それに対して、彼はこう答えています。「それこそが、若い時代の私を大いに苦しめた問題でした。その解決を求めてマニ教に引きずりこまれて非常に苦しんだのです」。
彼は、この「自由意思論」の中で「罪(堕落)とは、人間が、自らの意思によって神に背くことである」と述べました。人間は、愛をもって神に従うように創造されました。「神のみ像」に創造されたということは、人格をもったもの、すなわち愛することができるものとして創られました。自由意思をもつということは、悪への可能性をもつ「自由な存在」なのです。
「なぜ、神は、罪を犯すことができる存在として人間を創ったか」と問うことは、「なぜ、自由意思をもった存在として人間を創ったか」を問うことです。人間は自由意思をもつという点において、神の像であり、他の被造物とは異なっているところであったのです。
神は、人間を神に反逆する可能性のあるものとして創造されたのです。神は愛であるからこそ、盲目的そして強制的に、神に従うように意図されませんでした。愛には強制があってはなりません。神に自由意志をもって従う存在であるからこそ、神と人間との関係が愛の関係で結ばれるのです。人間は神の戒めを破ることができる存在であったのでした。
この自由こそが、神の人類に対する最大の賜物であったのです。この自由は、徹底的に完全な自由でした。しかし、この自由は、神の像として神に従っている間の自由でした。「人は、自由意思によって悪をなすのであるから、罪という悪の主体は人である。しかし、人は、自分の意思によって善をなすことはできない。善をなすのは神の恩恵による。恩恵なしには、人はただ一つの小さな善をもなすことはできない」(アウグスチヌス)。
聖書は、その後の展開を次のように描写しています。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』
彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』
神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』
アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』
「禁断の木の実を食べるな」との神のご命令に背いて、身を隠したアダムとエバに対して、神は「どこにいるのか」と問われました。神には、彼らの所在が分からなかったというのではありません。彼らがその問いに対して「はい、ここにいます」と応答することを求めておられたのです。人は、神から自らなしたことに対する責任ある応答を求められていたのです。
ところが、彼らは、自ら責任を取ることをしないで、他人に押し付けようとしました。アダムはエバに、エバは蛇に責任を転嫁したのでした。
被造物である人間の存在は、神に依存しています。しかし、人間は神によって造られた存在でありながら、神のようになろうとして罪を犯したのです。神を創造者として拝することをせず、被造物としての身分を忘れ、自らが神のようになろうとして、神の戒めを破り、罪を犯してしまったのです。
人間に与えられた自由を用いて、罪を犯しました。神の愛は裏切られ、神との間は破綻してしまったのです。
アダムの罪は全人類に及びました。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5章12節)
罪人としての人間
聖書は、人間を神から反逆したものであり、神に帰って行くべき存在としています。聖書に「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)と書いてありますように、宇宙の大真理(法則)である神の戒めに背いた結果は、死でした。聖書は「人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と述べています。人間は罪のために神から離反した存在であり、失われた存在となりました。人間は神との関係を自ら破壊したのです。ゆえに、聖書においては、救いとは「神と人間との関係の回復」を意味しています。
仏文学者森有正氏は「キリスト教の中心問題は、人間の罪、もしくは罪性を明らかにし、かつその罪からの救いを教えようとするにある。このことは、人間を倫理的責任のある主体として規定することを意味する。と同時にそれからの救いは、人間をその責任を負うことのできない主体として規定する。この二つの矛盾する事柄が、一つに結合しているところに、キリスト教の独自性がある。」(ドストエフスキー覚書)
聖書は「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6章23節)と述べています。この真理を知る者は、神以外の誰をも恐れることはありません。
昭和12年、日本社会全体が軍国主義に突き進んでいく中にあって、時の東京帝国大学教授・矢内原忠雄氏は、東京の日比谷公会堂において、クリスチャンとしての信念からこう呼びかけました。
「今日はいつわりの世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或いは、理想を失ったる日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがお分かりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい。」
この演説のために彼は東京帝国大学を追放されました。東大での最終講義において、彼は「私は身体を滅ぼして、魂を滅ぼすことのできないものを恐れない。ただ身体ばかり太って魂のやせた人物を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように」との言葉を学生たちに残して、大学を去っていきました。
歴史家の家永三郎氏は、「矢内原忠雄という思想家の歴史的意義」の中で、「太平洋戦争の暗黒時代に圧迫に屈せずに思想的抵抗を続けた事実」を挙げて、「多くの知識人が進退を誤ったこの時期の彼の思想活動は、日本人の良心のともし火の吹き消されるのをかろうじて守り抜いたものとして高く評価されねばならないであろう」と述べています。
終戦後の日本社会は、その復興に当たって、彼を必要としました。固辞すること四度、懇請されること五度で彼は東京大学に教授として復帰しました。その後、戦後二代目の東大総長を二期勤め、精神的思想的指導者として戦後日本社会の復興に大きな足跡を残しました。戦後の東京大学の初代総長南原繁氏は「矢内原君にとっては、キリスト教の信仰がその思想と行動の源泉であり、全ては神の栄光のためであった。それ故、彼の信仰について語ることなくして、その学問も教育観も理解しえないであろう」と書いています。
矢内原氏自身は、晩年病を得て床に伏しガンとの厳しい戦いに巻き込まれてしまいます。この病気体験の中で、彼は自分の罪深さを告白してこう書きました。
「詩篇51篇に『視よ、われ邪悪の中に生まれ、罪にありて、わが母われをはらみたりき』とある。この言葉の意味を長らく私はよく悟ることができなかった。ダビデの母が非行によってダビデを生んだとは思えなかったからである。しかし今度自分が病気の中にほうりこまれて、自分の秘かな生涯を考え、生まれつきの私の性質の中に如何に卑しむべきもの、肉情的なものがあるかをつくづく考えて悲しくなったとき、ダビデの言葉の意味も解ったような気がした。
生まれつきの悪い性質、少年時代から今に至るまでの悪い行為、メフィスト的な詭弁による肉感の追求など、それら一切を含めて神は十字架の贖いによって私の罪を赦し、深き新しい心を私の中につくり、私と別人として神の御用の為に用い給うたということである。
病に囚われた者は惨めである。しかしその中で自己の罪を悔い改め、すべての虚偽を清算し新しい心を以て神に依りすがるとき、初めて病もまたキリストの為であることが知られるであろう。」
その時の状況を矢内原夫人はこう書いています。
「けれども主人の戦いはそれだけではありません。主人には霊と肉との戦い、悪魔、罪との闘争がありました。それは、病気の苦痛に比べられない何倍かでございました。ある期間、私が病院に参りますと、私の顔を見て涙を流しました。あの何者にも負けない勇者の主人が泣いておりました。かけ蒲団で顔をおおって泣きました。本当に、これ程までに自分の罪を神様の前に深く感じさらけ出して、赦しを求めたものがありましょうか。
それから何日かたったある日、主人は私に申しました。『僕の罪は赦された。僕は神のみもとに行くというお示しを受けた』。その後、主人の目からは涙が拭われ、どんな痛みの激しい時も、夜中うなっているような時にも、涙を見せませんでした。」
彼の人生の土台には、自分は罪深い人間であるという自覚と、その罪深い自分を救われた愛の神への信仰がありました。矢内原氏は、キリスト者として神を畏れる者であったからこそ、神以外の一切のものを恐れることなく、時代の流れに抗して唯一人立つことができたのでした。
罪人を愛される神
新約聖書には、イエス・キリストの多くのたとえ話が記録されていますが、その中でも有名なのが「放蕩息子」の話しです。聖書は次のように述べています。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカ15章11-24節)
この物語では、弟は私たち人間を、父は神を表しています。弟は、自ら父から離れ自分で歩む道を選びました。それは、自分の道、神なき道であったのです。
しかし、飢饉という苦しみの中で、この弟は「我に返った」のです。口語訳聖書では「本心に返る」と訳されています。彼は、ここで本来の自分の姿、すなわち神の被造物たる自分に目覚めたのです。そして父のもとに帰っていく決心をしたのでした。
彼が不自由と思った生き方が、実はあるべき生き方であったのです。自分は自由であると思った生活の中で、自分の財産を使い果たしてしまったとき、彼は自分本来の生き方に目覚めたのです
財産という物質的なものに基盤を置く生き方は不安定で、いつかは崩れ去っていくのです。神と共にある生き方、神に支えられ神と共にある生き方こそが、人間本来の生き方であると教えているのです。
父に象徴されている聖書の神は、神に反逆し裏切った息子を思い続ける神、失われた息子が神のもとに帰ってくるのを待っておられる神、そしてまだ遠く離れているのに見つけて走り寄ってこられる神なのです。
以前、ニューヨーク・ポスト紙に「黄色いハンカチ」という話しが出ていました。ニューヨークからフロリダに向かうバスに、男女6人の若者と初老の男性が乗り合わせました。物思いに沈み、押し黙っているこの男性に、ひとりの若者が飲み物を勧めたのがきっかけで、この男性は自分の身の上話を始めました。
この男性は、自分の犯した罪のために4年の刑期を終えて仮釈放され、故郷に帰る途中でした。故郷に帰る前に、彼は一通の手紙を自分の妻に出していました。
「愛する妻へ。もう自分のことは忘れて欲しい。でも、もし私が家に帰るのを許してくれるのなら、村の入り口の樫の木に黄色いハンカチを掛けておいて欲しい。」
バスがだんだん村に近づいて来ると、この男性の顔はこわばってきました。樫の木を見るのが怖いのです。
やがて、この男性を励まし続けてきた若者たちの歓声がどっと上がりました。入り口の樫の木の枝という枝に、何百枚もの黄色いハンカチが見事なほどに掛けられ風になびいていたのでした。
この何百枚もの黄色いハンカチは、彼に対する限りない赦しと愛の表現でした。同じように、聖書の神は、罪を犯し神から離れていった私たち人間に対して、大きな愛と赦しを常に提供されているのです。
聖書は、この愛に満ちた神についてこう述べています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16―17節)。
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