苦しみのときに
私たちの毎日は、決して雲のない晴れ渡った毎日ではありません。曇りの日もあれば、雨の日も嵐の日もあります。病気などの不幸により人生が中断されるとき、私たちは立ち止まらざるを得ません。私たちは、立ち止まって人生について考えるのです。賢者と言われたソロモン王は「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ」(コヘレト7章14節、口語訳)と述べています。私たちは逆境においては、人生について深く考えるように促されます。苦しみの中において、私たちは、通常の生活において見えなかった世界に目が開かれるのです。
苦しみにある時、私たちは祈ります。私たちの心は神に向けられていくのです。英文学者C.S.ルイスは次のように言っています。
「苦難はあくまでも私たちの関心を要求します。神は、楽しみにおいて私たちにささやきかけられます。良心において語られます。しかし苦痛においては、私たちに向かって激しく呼びかけたもうのです。苦痛は耳しいた世界を呼びさまそうとしたもう神のメガホンです」。
苦難こそ、魂に働きかけられる神のメガホンであり、ここにおいて「人間の危機は神の機会」となるのです。この痛みのメガホンの激しい呼びかけを通して、多くの者は神のみ声を聞き、より深いキリスト教体験へと導かれていきました。苦難において、私たちは人間の限界を思い知らされます。苦難は、私たちがいかに弱く無力な存在であるかを明らかにし、私たちを神に頼り、祈るように導いていくのです。
浅野順一牧師は、人生の苦痛苦難を「穴」にたとえています。彼は言います。
「人間の一人一人の生活や心に大なり小なりの穴のようなものが開いており、その穴からすき間風が吹き込んでくる。その穴を埋め、すき間風が入らないようにすることは大事である。しかし、同時にその穴から何が見えるかということがもっと重要なことではないか。穴のあいていない時に見えないものが、その穴を通して見える。・・・・どんなに苦しいこと、辛いこと、嫌いなことがあってもそれを通して健康な時、幸福な時、平安な時には解らなかったことが解り、知られなかったことを知るようになる。そこに新しい感謝と喜びを感ずるのではないか。・・・・そのことによって不幸が幸福に変えられるのであり、ここに宗教のもつ重大な逆説が成立する」。
更に彼はこう言います。「神は我々に真実なもの、永遠なものを与えんとして空虚なもの、過ぎ去るものを奪うことがあるのではないか。地位、名誉、財産、学識、健康、そのような人間の地上生活に必要なるもの、従って必ず我々につきまとって来るものが無惨に奪い去られることによってかえって永遠の世界、真実の世界に目が開かれるのではないか」。
なぜ苦しみがあるのか?
なぜ人は苦しまなければならないのでしょうか。古来、人々は、苦難に遭遇するたびに、その原因と意味を探ってきました。苦難は、古今東西を問わず、人類共通の体験です。この苦難の問題に解答を与えることこそ、宗教の中心的課題と言っても差し支えないでしょう。宗教学者ジョン・ボウカーは「ある宗教が苦難について何を語るかということから、その宗教が人間存在の本質や目的をいかなるものと考えているかが、明らかになるのである」と述べています。
なぜこの世界に苦しみが存在するのか、との問いに対する聖書の基本的解答は、罪の結果であるということです。人類が神に逆らい離反した結果、人類ばかりではなく、この世界全体が、一時的に罪の法則のもとに、すなわちサタンの支配下に置かれてしまったのです。文学者C・S・ルイスは「私たちは反逆者に占領された宇宙の部分に住んでいる」と表現しています。このために、私たちはこの世に生きている限り苦しみから逃れることは出来ません。聖書は「すべての人に臨むところはみな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも…その臨むところは同様である」(コヘレト9章2節)と述べています。
苦しみの意味
哲学者ニーチェは、「道徳の系譜」の中で、「苦しみに対して、人を憤激させるのは、実は苦しみそのものではなく、むしろ苦しみの無意味さである」と言っています。人が耐えられないのは苦痛そのものではなく、苦痛の無意味さなのです。その意味が分かったとき初めて、人間は苦痛に耐えることのできる力が与えられます。人間は無意味な苦難には耐えられないようにできているのです。
聖書は一つの出来事を通して苦しみの意味について述べています。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』
イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の栄光がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ9章1-3節)
弟子たちは、この目の見えない人の苦難の原因について問いかけています。弟子たちの考え方は基本的に因果応報の思想です。生まれつき目が見えないのは、罪の結果に違いないという論理です。その弟子たちの質問に対して、イエスは、苦難の原因について論ずるよりも、むしろ苦難の意味と目的について述べておられます。それは人生の苦難の問題に対する鋭い洞察と深い宗教的真理を指し示しています。
すべての苦難の原因に対してはっきりした論理的解答があるわけではありません。むしろ分からないことの方が多いのです。しかし、ここで聖書は、いかなる苦難もキリストにあってはっきりとした意味と目的を持ちうると述べています。キリストとの出会いによって私たちに全く違った人生が開かれ、私たちの弱さ、不幸、苦しみなどのすべてが神のみわざが現れるために用いられるというのです。
偉大な使徒パウロも病をもっていました。彼はこう言っています。
「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章7-10節)
パウロは、神から「肉体のとげ」すなわち身体的障害が与えられました。彼はこれが癒されるようにと熱心に神に祈り求めました。彼にとって、この「肉体のとげ」は、決してあってはならないもの、不条理なもの、取り除かれるべきものでした。
ところが神は彼に対して「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。「肉体のとげ」というものを、あってはならないもの、取り除かれるべきものとして考えるのではなく、神の「恵み」の光の中で理解するようにと、神は言われたのです。
パウロは、この「肉体のとげ」を「サタンの使い」と表現しています。私たちを襲う苦しみは、サタンの仕業です。それは、のろいであり罪の結果なのです。このサタンの仕業に何の意味があるのか、と私たちは問いたくなるのです。
しかし、信仰者においては、この「サタンの仕業」に、全く違ったことが起こります。キリストはパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。彼は、サタンの仕業であっても、それは神の許しの中でしか起こらない、ということを知りました。故に彼は「キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう」と言うことができたのでした。
クリスチャンは、信仰によってサタンの背後に神のご存在を認めます。サタンの仕業の背後に、苦しみの背後に、全宇宙をご支配なさる神様を見るのです。信仰をもって苦しみを見るとき、サタンであっても、神のお許しの中でしか働くことができないことを知るのです。
キリストが弟子たちに「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の栄光がこの人に現れるためである」とお答えになった時、この真理をお教えになったのでした。
この真理を知るとき、苦難というものは、キリスト者にとってもっと積極的な意味合いをもつことになります。苦難というものは、もはやしぶしぶいやいやながら受け入れるものではなくなり、「喜んで誇ろう」という積極的生き方に変えられて行くのです。
故にパウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言いきることができたのでした。
パウロはさらに「患難をも喜んでいる」と言うのです。彼はどうしてこう言い切ることができたのでしょうか。決して患難は彼にとって喜ばしいものではなかったはずです。しかし、彼がこう断言できたのは、彼は患難の中に患難以外のものを見ることができたからなのです。故にパウロはこう言っています。
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。」(ローマ5章3-5節)
希望がなければ、人は苦しみに耐えることができません。また苦しみによってこそ、希望は、より大きく育まれていきます。「なぜならこのしばらくの患難は働いて永遠の重い栄光をあふれるばかりに私たちに得させるからである。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(2コリント4章18節、口語)。
ヨブの苦難
苦しみにおいてこそ、宗教の本質というものが露わになります。聖書に出てくるヨブの物語は、それを私たちに教えています。聖書はまずヨブという人物を次のように紹介しています。
「ウツの地にヨブという人がいた。……無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。彼は東の国一番の富豪であった。」(ヨブ1章1、3節)
このようなヨブに突如として苦難が襲いかかります。いきさつはこうです。それは天上での、ヨブをめぐる神とサタンとのやりとりから始まります。
「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1章8-11節)
サタンは「たとえヨブでも、利益もないのに、神を敬うでしょうか」と言っています。サタンは「ヨブが神を信じているのは、神からの祝福があるからだ」と主張します。彼の主張する宗教はご利益宗教です。
「人が宗教を信じるのは純粋に神を求めるからではない。何か自分に益するところがあって初めて人は宗教を信じる。宗教のために宗教を信じる、あるいは神のために神を信じるということはありえない。あくまでも宗教は人間の幸福追求の手段である時のみ成立する。宗教は人のためにあるもので、人が宗教のためにあるのではない。そもそも苦難、逆境の中にあって宗教などが成立するはずがない。」
神はこのサタンの挑戦を受けられました。ヨブをめぐって、神とサタンとのかけひきが行なわれます。果たして御利益宗教ではない宗教が存在しうるのでしょうか。
ある日突然、シバ人およびカルデヤ人が来襲し、ヨブの家畜を奪い、しもべたちを撃ち殺してしまいます。そして息つく暇もなく、荒野からの大風によって家は倒壊し、彼の息子娘たちはみな死んでしまいます。ヨブは一瞬にして家族と持てるもの全てを失い、妻とただ二人残されてしまうのです。そのどん底の中から「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して」、こう言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
サタンは、さらに神に挑戦します。ヨブが神を信じているのは、彼自身に害が及んでいないからだと主張するのです。
「サタンは答えた。『……手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』。主はサタンに言われた。『それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。』サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」(2章4-8節)
全身に及ぶ皮膚病のため、ヨブは身の置き所がなくなり、灰の中にすわり、陶器のかけらで体をかきむしっていました。その悲惨な姿を見て、ヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(2章9節)と言うのです。
ヨブの妻のこの言葉は、彼女の身になって考えれば無理もないことです。一瞬にして、すべての財産を失い、愛する子供たちに先立たれ、今、唯一の頼みとする夫は全身をおおう皮膚病で苦しんでいるのです。
「神を信じているのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのか。神を信じていても、こんな苦しみに会わねばならないとしたら、そんな神は信じない方がましなのではないか。人間の幸福に寄与しない宗教なんか初めから信じない方がましなのではないか・・・・・。」というわけです。
ここで図らずも、彼女の宗教理解は、サタンの主張する御利益宗教と結びついてきます。それに対して、財産、家族、健康と全ての地上的幸福を奪い去られたヨブはどうしたのでしょうか。彼はこう言いました。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2章10節)
幸福な時に、信じることは容易です。しかし、災いや苦難の中にあって信じ抜くことは可能なのでしょうか。ヨブの物語はそれが可能なことを私たちに教えています。ここにおいて私たちは世間の常識をはるかに超越した宗教に出会うことになります。
神学者大木英夫氏は、「キリスト教には御利益がない。だからありがたい」と述べて、次のように言っています。
「この言葉は、ものすごいパラドクスであるが、しかもかぎりなく、真理である。この言葉が分からない人間は、決して教会に来ないだろうし、来てもながくとどまることはないかも知れない。この言葉がさし示す真理に耐えられなかった人々が去っていくのを、わたしは見た。しかしこの言葉によってかえって福音の深い認識に至らしめられる人々もいた。キリスト者とは『御利益なきありがたさ』が分かった人々である」。
ヨブ物語のその後の大部分は、ヨブと友人たちとの議論に費やされています。三人の友人たちは次々と言い方を変え、説明を変えてヨブの苦難の原因についての彼らの考え方を述べています。彼らの基本的考えは因果応報の思想であって、一般に受け入れられている考え方です。正義の神が世界を支配しており、罪なくして滅ぼされる者はなく、悪の種をまく者はその実を刈り取るのである。人の受ける苦難は罪の結果である。ゆえに、ヨブが苦難を受けているのは、自分の罪の結果に違いない・・・というわけです。
しかしヨブは納得できません。善人が必ず報いをうけ、悪人が必ず罰を受けるのであれば納得できるでしょうが現実はそうではなく、むしろ逆のことが多いのです。ヨブは自分が完全であるとは主張しませんが、自分はこれほど苦しまねばならぬ罪を犯してはいない、といいます。彼にとってはっきりしているのは、少なくとも彼の苦難に関する限り、因果応報の思想は間違っているということでした。
友人たちとの議論は無意味であることを悟った彼は、神に立ち向かい、直接神と対決することを切望します。彼は神に向かってこの苦難の原因についての説明を求めました。彼は神がその姿を現わされることを切に望み、「全能者よ、答えください」(ヨブ31章35節)と神に向かって哀願します。しかしなかなか神は答えられません。ヨブには無意味な友人たちの議論が続いていきます。
しかし、ヨブの求めていた神ご自身がついに嵐の中から答えられました。しかしそれは優しい慰めの言葉ではありませんでした。嵐の中から神はヨブに厳しく問いかけられました。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。
知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。」(38章1-4節)
さらに、神は次々に、宇宙、地と海、雲、稲妻、そして様々な動物の例を挙げて言われました。「ヨブよ、あなたはこの大宇宙や自然界を支配することはおろか、その神秘を理解することさえできないではないか・・」と。
ヨブは、全能にして宇宙の支配者なる神の前に出て、自分はいかに小さく弱い存在であるかをはっきりと思い知らされました。
神は、ヨブの疑問に対して、すなわち彼の苦難の原因については、何一つ答えておられません。しかし、あんなに神に対して身の潔白を主張し、神の応答を求めていたヨブは、すぐに無条件降伏をしてしまいました。今まで神に対して挑んでいた議論をいともあっさりと引っ込めてしまったのです。ヨブは主に答えて言いました。
「あなたは全能であり、お考えになることはすべて成就すると悟りました。
『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。
そのとおりです。わたしには測り難く、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。
『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ』。
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今や、この目であなたを見ております。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自らをいとい、悔い改めます。」(ヨブ42章2-6節)
ヨブに対する神の答えは、苦難の解決にあったのではありませんでした。苦難をもたらした状況は何も変わっていないのに、全ては変わってしまったのです。変わったのはヨブ自身でした。全能なる神に出会うことによって、苦難の問題に対するヨブの態度が変えられたのです。ある聖書注解者は、ヨブの疑問は「解決」したのではなく「解消」したのであると言っています。ヨブの疑問に対する解答はありませんでしたが、その解答の必要がなくなってしまったのです。
全能にして、全宇宙の支配者なる神の前に出た時、ヨブはその偉大なる神と争っている自分がいかに弱く、小さく、しかもあまりに高慢であるかこと十分に思い知らされました。その時ヨブは直ちに無条件降伏せざるを得ませんでした。全能なる神との出会いにより、ヨブは自分の頭で分かっていることが決して全てではないこと、そしてたとえ自分がこの苦難の理由について知ることができなくても、自分の理解力をはるかに超えた広大な真理が存在していることを悟ったのです。
苦しみを通して知る世界
神が私たちを取り扱われる方法について、私たちの限られた頭脳ですべてを理解することはできません。むしろ私たちの意志に逆らって行なわれることの方が多いと言えるでしょう。ある時は、むしろキリスト者なるが故に多くの苦しみを受けねばならないことすらあります。ですから、私たちは決して見ることだけに頼ってはなりません。なぜなら「私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩いているから」(2コリント5章7節)です。
信仰の目と、熱心な祈りの心をもってしても、有限な人間には、全知全能なる神の御計画を全て理解することはできません。賢者ソロモンは「神の為されることは皆その時にかなって美しい。神はまた人間の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見極めることはできない」(コヘレト3章11節)と述べました。
私たちの理解力には限界があります。しかし神の愛と真実を知る私たちは、信仰によって、私たちの出会う全ての経験は「皆その時にかなって美しい」ものであり、キリストにあっては無意味な苦しみは一つとして存在しないことを理解するのです。故に私たちはパウロと共に「神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ロマ8の28)と断言できます。パウロはここで万事という言葉を使っています。わたしたちの幸福も不幸も、成功も失敗も、健康も病気も、強さも弱さも、わたしたちが神の御計画に従って歩むときに、神は、そのみ業が現れるために、全てものを益となるように導いて下さいます。
人生は私たちの思いどおりにはいきません。神は私たちが祈り求めるような形では応えられないことが度々あります。神の栄光を現すための道は、私たち人間にとっては必ずしも、いわゆる栄光と成功の道ではないのです。神のご計画が成功するために、私たちの計画が失敗することさえもあるのです。
応えられた祈り(作者不詳)
功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに
謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。
より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに
より良いことをするようにと、病気を与えられた。
幸福になるようにと、富を祈り求めたのに
賢くなるようにと、貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと、力を祈り求めたのに
神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。
人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに
あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。
祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに
実は私が望んでいた全てのものが与えられた。
このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ
すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。
苦しみを共に担われる神
シカゴの弁護士スパフォードは、ある日、彼の妻と四人の子供たちが乗っていた船が転覆して、四人の子供たちが死亡したとの知らせを受けました。あまりの突然の出来事に彼の心は思い乱れ、失意と絶望のどん底に突き落とされてしまいました。長い苦しみの中にあって、彼は独り祈り続けました。そしてついに彼は、神の御言葉の中に慰めを見い出すことができました。それは、どんな苦しみの中にあっても、その思いを全て理解しておられる神が常に共にいますという約束でした。その時の彼の心を歌にしたのが、よく知られている讃美歌520番です。
しずけき河のきしべをすぎゆくときにも、
うきなやみの荒海をわたりゆくおりにも、
こころ安し、神によりて安し。
むらがる仇はたけりてかこめどせむれど、
いざなうものひしめきてのぞみをくだくとも、
こころ安し、神によりて安し。
うれしや十字架のうえにわがつみは死にき、
すくいの道あゆむ身は、ますらおのごとくに、
こころ安し、神によりて安し。
おおぞらは巻き去られて地はくずるるとき、
つみの子らはさわぐとも神による御民は、
こころ安し、神によりて安し。
エルサレムの町は紀元70年頃、ローマの軍隊によって破壊されました。その後、しばらくの時代を経て、キリスト者はエルサレムへの巡礼の旅をするようになりました。巡礼者たちは、キリストの地上生涯を思い出させる場所を捜し求めて歩きました。特に、ピラト邸からカルバリーへの道、すなわちキリストが十字架に向かって歩まれたヴィア・ドロロサ(Viadolorosa・苦難の道)をたどって行く風習が始まりました。巡礼者たちは、このキリストの道を歩きながら、キリストのご生涯と十字架の意味を新鮮な思いで思い起こしたのでした。
信仰者の歩む道とは、まさにそれぞれが自分に与えられた十字架の道を歩んでいくことなのです。キリストは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8章34節)と仰せられました。
私たち一人一人の人生は、決して、雲なく晴れ渡った幸福の毎日ばかりではありません。思いがけないときに、突如として不幸や災いが襲いかかってきます。しかし、いかに厚い雲が私たちを覆い、土砂降りの雨が降ろうとも、その厚い雲の彼方には常に輝く太陽が存在しているように、それら一切のものを超えて、はっきりした厳然たる事実があるのです。それは私たちに限りなく注がれている神の愛です。この愛の事実をパウロは「キリストの愛が私たちに迫っている」(2コリント5章14節)と表現しています。
更に彼は言います。「誰がキリストの愛から私たちを離れさせるのか。迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。・・・私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8章35、38-39節)。
それ故にクリスチャンは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(2コリント4章8-9節)と断言できるのです。
聖書は、私たちの会う試練は、すべて神のご支配の中にあることを教えています。
「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10章13節)。
私たちが試練の中にいる時、愛の神は常に逃れる道を備えていて下さいます。いかなる状況にあっても、たとえ客観的状況に何の変化も見られないような時でさえも、キリストの内に私たちはこの「逃れる道」を発見することができるのです。
救い主イエス・キリストは今日も私たち一人一人に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と呼びかけておられます。私たちは決して一人で苦しみに耐えるのではありません。インマヌエルなる神は、耐えられるだけの力と支えと慰めを与えて下さるばかりではなく、共にいまして、苦しみを担ってくださるのです。故にダビデは「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである」(詩編68編19節)と言いました。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55章8-9節)
キリストの十字架の死と復活により、私たちはこの「苦難の問題」は過ぎ行くこの世に属するものであり、決して永遠には続かないことを知っています。イエス・キリストは、二千年の歳月を超えて、私たち一人一人に向かって次のように語りかけておられます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
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