神の存在
神の存在に対する信仰は人間の存在とともに古いのですが、科学や哲学が発達してきて、これに対して批判を加えるようになってきました。また心理学的に神に対する信仰を分析する論も出てきたのです。そして、神の存在に対する信仰は何か迷信的なものであるかのように感じる人々が多くなってきました。こんな疑問をよく聞くことがあります。
「神は結局、人間の希望の投影ではないか」
「永遠を慕う人間の憧憬が形づくった概念ではないか」
もちろん人間の想像がつくった神もありますが、聖書の示している神は、人間の考えの投影以上のものです。神が要求なさる高い良心、完全な道徳性、どんな小さい罪をも見逃さない峻厳さ、あるいは敵をも受け入れる崇高な愛の精神などは、人間の希望や思索が形づくる以上のものです。
19世紀末より勢力を得てきた唯物論の考えも、神に対する大きな疑問を投げかけてきました。すなわち、目に見えないもの、測定できないものは、実在しない、神は目に見えないから、その実在は信じられないという考えです。
しかし、これはあまりに単純な考えです。また、人間の能力の限界を忘れた考えです。だれも「力」を見た人はありません。しかし「力」が作用したとき、起こる現象を見て「力」の存在を知るのです。少なくともある現象の原因としての「力」という概念を把握することができます。人体を解剖して、人格というものを見いだすことができないからといって、人の人格を否定することは浅はかな考えであると言わなければなりません。
創造主である神
私たちが実在を認める方法は、必ずしも科学的方法によるものだけではありません。また認識の方法が、対象の範囲を決めるということもできるでしょう。
たとえば美を認める方法は、科学的な方法と違って、人間が本来持っている美に対する感覚なり判断なりを通してするのです。そしてここには直観的な要素が多く含まれています。しかしそれだからといって、美に対する認識はあやふやなものであると言うことはできないのです。
神は一つの人格として示されています。人格とは何かということはここでは触れませんが、私たちが普通の意味で理解しているように考えれば、人格を持っておられる神を知るということは、いわゆる科学的な方法のみではできません。人間の本質的な直観によるところが多いのです。
イエスは「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4章24節)と言われました。つまり、心の目が開けて初めて、神のみ姿を拝することができるというのです。このような体験を持つ人々について、イエスは「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(マタイによる福音書13章16節)と言われました。モーセやイザヤ、エゼキエルといった聖書の記者たちは、神のみ姿を見た経験を持っていたので、有神論を書く必要を感じなかったと思われます。
聖書は「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人への手紙1章20節)と述べています。すなわち神は宇宙の創造者なのです。
よほどの懐疑論者でない限り、私たちをとりまいているこの世界の存在を否定する人はないでしょう。そして世界の存在を認める以上、これをつくった方があると考えるのは最も自然な考え方なのです。
ロバート・グリーン・インガーソルは19世紀アメリカの有名な不可知論者ですが、彼があるとき、やはり有名な説教家であった、ヘンリー・ウォード・ビーチャーを訪れました。部屋に入ると、天の星座をあらわしたとても美しい天球儀があるのに目をつけて、ビーチャーに言いました。
「これは実に見事な天球儀ですね。だれがつくったのですか」
ビーチャーは、ちょっととぼけて、「だれがつくったかとおっしゃるのですか。だれもつくりはしませんよ。偶然ここに出てきたのですよ」と答えたということです。
しかし、おそらくインガーソルはその答えに満足しなかったでしょう。
私たちがこの美しい、しかも精巧な構造を持つ自然界を見るときに、偶然がこのような結果をあらわしたとは思われません。これらのもののつくり主が存在し、しかもその方が無限の力と知恵とを持っておられることを認めずにはいられません。
もちろん創造者なる神の存在についても、机上の論議では疑うこともできますが、神を認めない人々には、認める人々よりも、もっと多くの疑問が起こってくるでしょう。事実、単なる推理によっては、神の存在を証明することはむずかしいかもしれませんが、神の存在を肯定することが、私たちをとりまく宇宙の存在に対する唯一の満足な説明であり、自然な考えなのです。また一方、神の存在を否定することも、純粋に論理の上ではできないことをあわせて注意しておきたいと思います。
いわゆる進化論というものがあって、この世界の成立を説明し、創造者なる神を否定します。しかし、進化論はこの世界の成立について途中からの説明をしますが、本当の意味では初めからの説明はしていません。ある仮定から出発しているのです。「そういえば、神の存在だって一つの仮定ではないか」と言う人がいるかもしれませんが、結論的に言えば、単に推理の上からは創造者なる神の存在いかんは決定できません。人は聖書を信じるか、科学の仮定を信じるか、またはある哲学の考えに同意するかということになるのです。
そして私たちは聖書以外の説明が、それ自身のうちに多くの不備な点を持っていることを知っています。
それと反対に私たちは、聖書が信頼できる書物であることを確信できる多くの論拠を持っています。そして、人間の思考の自然の順序という点から考えても、人間の心の本来の欲求ということを考えても、神の存在を信じる方が、これを否定するよりはるかに考えやすい、自然な、かつ確かな考えであると思われます。
一つのたとえを考えてみましょう。回転している機械の一部分だけを穴からのぞいている人がいるとします。はげしく回転している車輪と、それにかかっているベルトが見えています。そしてその人は、普通に考えるならば、モーターか何か動力があってその回転を起こしていると考えるでしょう。しかし懐疑的になって、自分はモーターを見ないから、あるいはその存在の証明ができないから、それを信じることができないと言ったらどうでしょうか。単に推理の上からはそれが間違っているということはできないでしょう。しかし、このような推理は健全なものではありません。少なくとも、回転している車輪を前にしての判断としては自然なものではないと思います。
私たちは日常生活においても、素直な気持ちで考えて自明だと受け取れることは、説明とか証明とかいう面倒なことを考えないで受け入れています。そしてそれを土台にして行動してみて、不都合が起こらなければ、それが真実であることを認めているのです。論理的証明がむずかしくても、体験を土台にしてその真実性を直観し、確信することができるのです。
結局この問題について、自ら意識的に目を閉じて、机上の推理にたてこもっている人を納得させる説明はおそらくないでしょう。人生の思わぬショックがその人の心の態度をゆるがせて信仰の目を開くのを待つよりほかないかもしれません。
神を認めることに困難を感じる人は、今まで述べてきたような考えをよりどころにして、神を信じ、聖書を通して神に従う道を学び、神を愛するように導かれてくるときに、私たちの全人格をもって神をはっきりと知ることができるようになるのです。
トルストイは「神は人がそれなくして生きることができない方である」と言いましたが、神を知ることは人間にとってこの上もない喜びと安定をもたらすものです。
聖書は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)という単純ではありますが、まことに雄大な響きを持つ言葉で始まっています。永遠より永遠に存在される神が、全宇宙を創造さされたということです。神はそのはかり知れない力をもって、この世界をつくられた方です。
人々はいろいろな神を拝みます。自分の手でつくった神仏の像ばかりでなく、富や権力、名誉、あるいは知識などいろいろなものを拝んでいます。聖書は、世界を創造された神を礼拝するようにすすめています。
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」(ヨハネの黙示録14章7節)。
宗教と科学は対立する?
中世以来、科学と宗教、特にキリスト教との間に多くの対立がありました。最も顕著な例の一つはガリレオ・ガリレイでしょう。コペルニクスの地動説を支持する彼の立場は、異端であり無神論であるとされ、異端審問所は、この教えを放棄すべきことを命じました。真摯な真理の探求者に加えられた多くの血なまぐさい迫害の歴史を読むとき、人は中世キリスト教の頑迷さ、ひいてはキリスト教そのものに対する憎悪の念すら感じるのも無理はありません。
このような科学と宗教の争闘は、ほとんど科学の勝利に帰したのです。実証的な方法をもって、科学は着々とその道を切り開いていきました。科学の本質を理解せず、宗教を知らない人々が科学は宗教と相容れないものであり、科学こそ、すべての問題を解決する力を持っていると思いこむようになったのも無理からぬことです。
しかしこのいわゆる科学と宗教の争いは、実は科学と神学との争いであって、アンドリュー・D・ホワイトも言っているように、「この闘争は科学と神学との闘争であって、科学と宗教とのそれではない。科学はむしろ真の宗教を高貴なるものとするのに貢献するものであり、科学を滅ぼそうとする神学こそかえって宗教の敵である」のです。
今日私たちがキリスト教の経典である聖書を開いてみると、自然科学の結果と何ら衝突するものを見ることはできません。
バートランド・ラッセルはこのように述べています。「科学によって与えられる正確な知識のみが必ずしも人類の必要とする一切ではない。人類はそうした知識の外にいかに生きるべきかについても、人間の追究すべき目標についても、また立派なものと下劣なものとの区別についての観念をも必要とする。この観念は、いわば人間が宗教、哲学、詩、あるいは歴史上賛仰される英雄たちから得たものである。組織をどれほどつくっても、また科学をどれほど集積しても、価値の観念を不必要なものにすることはできない。また科学だけでは、ある一つの価値が他の一つの価値よりも優先すべきだということを示すことはできない」
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