第8課   放蕩息子

目次

放蕩息子の物語

イエスはすぐれた教師でした。深い霊的な真理を説明するのに、だれでもよく知っている事柄を用いられました。野のゆりや空の鳥を示しながら、神の人間に対する周到なご配慮を説明され、種まきや刈り入れなどのことを例にして、私たちの魂の問題や世の終わりのことを教えられました。イエスのお話は、うるおい豊かなものであり、またいつでも心に残る印象を聞く人々に与えました。

聖書の中には、そのようなたとえ話がいくつも記されています。放蕩息子のたとえ話もその中の一つですが、神の愛を語ったよく知られているたとえ話です。かつてルーズベルト大統領は、この物語ほど自分の心を打ったものはなかったと言いました。

「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』とたずねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」(ルカによる福音書15章11~32節)。

たとえ話の解説

このたとえ話は、ある大きな邸宅における、父と子の会話に始まっています。この弟は平和な秩序だった父の家の生活に飽きて、もっと違った世界を求め始めていたのです。もっと自由で自分の好きなことができる世界を考えました。そして彼はその計画を実行するために、財産の分け前を要求したのです。

自由、これは私たちの心をひく言葉です。多くの人が自由を求めます。イエスは「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書8章31、32節)と言われました。本当の自由は、神の言葉の中にあるときにのみ与えられます。真理を知り、真理の道に歩むときにのみ、完全な自由を得ることができるのです。自由はそのように構成されているのです。

この弟が求めたのは、間違った自由でした。それは自己を中心としたものでした。人生における一番大切なことは、神と人に対する義務に生きることです。

父は寛容にも息子の要求を許しました。

このたとえ話の父は神をあらわしています。弟は人間の姿です。かつて人間は神と共に住んでいました。神は人間の父であったのです。しかし、人間は神のみ旨のうちに生活することに満足しませんでした。そして、父なる神は人間に選択の自由を与えておられました。

さて弟は、数日のうちに自分に与えられた財産を集めて、遠い国へ旅立ちました。遠い国―そこは、いわゆる自由の世界であり、この世のはなやかな生活の場で、そのうちには、あらゆる虚偽と罪悪がありました。それは神のもとから遠く離れた罪の世界だったのです。

弟はそこで放蕩にその財産を散らしてしまいました。そして自分の思う通りの生活をして、全く自由にふるまっても、本当に幸福ではありませんでした。

神を離れた生活にも楽しみがあることは事実ですが、罪の楽しみは一時的なものであり、その後味も悪いのです。悪魔は人の魂を釣るために、この世の楽しみを餌にします。人がそれに耽溺しているうちに、悪魔の針は深く魂に食い込んできます。そして気がついたときには、みじめにも破滅した自己を見いだす結果となるのです。自分の意志のままに歩もうとして、かえって罪にひきずられている自己を見いだすのです。

弟が財産をことごとく費やしたときに、その国に大きな飢饉が起こりました。放蕩息子は自己の乏しさを感じ始めました。彼はやむを得ず、ある人のもとに行って豚を飼うことになりました。豚飼いは、ユダヤ人が一番卑しんでいた職業です。はなやかな夢を見て家を出た青年のさっそうたる姿は、もうどこにもありませんでした。

自己を中心とした生活は、やがて自己を保存することすらできなくなります。その生活は神に対しても、人に対しても全くの浪費となるのです。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12章24節)とイエスは言われました。みずからを捨てるところに、またみずからも生きる道があるのです。自己犠牲の道は、自己保存の道です。私たちは破滅を経験する前にこの真理を悟りたいものです。

弟は、豚飼いをして、困窮から逃れることはできませんでした。ここまできて、彼の心にようやく反省の思いがわいてきました。自分の過去と現在と将来についてまじめに考え始めたのです。彼は罪の生活の本当の姿に気がつきました。父の前にすべてを悔い改める決心をし、本当に謙遜な心になって立ち上がり、家路をたどり始めたのです。

私たちは放蕩まではしていないでしょうが、私たちの肉体も精神もむしばみつくす罪の生活の真相に早く気がつかなければなりません。神を離れて歩んでいるかぎり、どんなに一生懸命やってみても、困窮におちいるばかりです。たとえ物質はあっても心の平安はないのです。神は人間が罪を認めて、神のもとに帰ることを待っておられます。

ここで物語はクライマックスに達します。

自己の過ちを告白して「雇人のひとり同様にしてください」と言う決心をして帰った息子は、まだ父の愛を失っていませんでした。

「昔、意気揚々となんの深い考えもなく父の家を出た青年は、それが父の心にどんな痛みと寂しさを残したかを夢想だにしなかった。非道な仲間たちと踊ったり、騒いだりしていた時に、それが自分の家庭にどんな暗い影を投げたかは考えてもみなかった。ところが、今、疲労のため痛む足どりで、彼が家路をたどる時にも、彼の帰りを待ちわびている人があるのを彼は知らないのである。放蕩息子が、『まだ遠く離れていたのに』、父は彼の姿を認めた。愛は、すばやく発見する。長年の罪の生活のために変わり果てた姿であっても、父の目から子を隠すことはできなかった。父は『哀れに思って走り寄り、その首を』しっかりと温かく抱きしめたのである」(エレン・ホワイト、『明日への希望』1263ページ)。

そむいた人類に対して、またあなたに対し、私に対して、神はこのようにしてくださるのです。「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」(詩篇103篇13節)。

この物語で、父はその子どもの非行に対して一言も責めていません。あたたかな愛をもってその胸に抱いています。神は、「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31章34節)と言われます。どんな罪を犯していても、悔い改めて神に帰るとき、豊かにゆるしを与えてくださるのです。

罪を犯して神のもとを離れた人間の姿は、息子として表されています。息子が失われたのです。ほかのものならば新しく求めることもできたでしょう。しかし父にとっては、失われた息子の代わりになるものはないのです。私たちに対する神の愛は、そのようなものです。失われた子どものように、私たち一人ひとりを求めておられます。

「彼(神)はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」(ゼパニヤ書3章17節、括弧筆者付加)。

この物語はこれで終わっていません。父が子どもを迎えて喜びの中に楽しみ始めたとき、畑から兄が帰ってきて、いぶかって何事が起こったかとたずねました。僕の一人が弟の帰宅と父の喜びを告げたとき、「兄はおこって家にはいろうとしなかったので」とあります。兄の心には父のような愛がありませんでした。また自己の行為に対しての誇りがあったのです。

「(愛は)怒らず」(コリント人への第一の手紙13章5節、新改訳)とパウロは書きました。怒り、不愉快な気持ちをあらわすことは、一般には、さほど罪とは考えられていませんが、いらいらした気分、怒りは魂の奥底から出てきます。これは品性の大きな欠陥を示し、周囲に不幸な暗いかげを投げるものです。

兄の怒りは、この喜びの日に、家庭の中に暗いかげを落としました。愛の足りなさ、自分を義とする精神が、いかに多くの幸福を人々から奪っているでしょうか。

父がやさしく、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」と言っているのは、自分を義とし、他人を責める人に対する神のやさしいみ声です。

肉体的な罪も精神的な罪も、神は御子イエスの十字架によって全くゆるしてくださるのです。

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