金持ちの役人の物語
「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、『よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』」(マルコによる福音書10章17節)。
この質問をしたのは若い役人でした。彼は財産を持ち、また高い地位を持っていました。地上の生活に関するかぎり何の不足もないように見えた人でしたが、彼の心には何か空虚なものがあったのです。一生懸命にまじめな生活をしているつもりでした。しかし、何となく心が満たされないのです。寂しかったのです。どうしたら本当に生命の躍動するような生活ができるのだろうか。喜びと満足に満ちた生活に入れるだろうか。そんなことを考えていたとき、彼はイエスが幼児を祝福されるのを見ました。イエスの愛に満ちたみ姿が彼の心をとらえたのです。この方ならばきっと自分の空虚な心を満たしてくださるに違いない―こう思った青年は、走りよって、自分の魂のためにも、また私たちにとっても、重要な問題をイエスに問いかけたのです。
「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」
イエスはこの問いに対して、戒めを守れと言われました。そして人に対する義務を規定している数か条の戒めを引用されました。
青年が「先生、それらのことはみな、小さいときから守っております」と答えたとき、イエスは、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(マルコによる福音書10章20、21節)と言われました。
この青年は有能な人でした。また彼は誠実でした。もし彼がイエスに完全に従うならば、よい協力者となるであろうことを知っておられたので、イエスは目をとめ、いつくしんで言葉をかけられたのです。
「あなたに足りないことが一つある」
ただ一つではありましたが、これは致命的なものでした。神の愛を信じ、これを受け入れ、神を愛する心が欠けていました。彼の宗教生活はただ外面的なものにすぎなかったのです。
キリスト教の信仰経験の中心は、キリストとの人格的交わりです。イエスを信じ、イエスを愛し、イエスにすべてをおゆだねしていく生活です。聖書を読み、教会に出席しても、もし今もなお生きて私たちを導いてくださるイエスとの交わりを失ったとき、信仰生活は形式となり、生命のないものとなってしまうのです。
この青年はまさにそのような生活をしていたのです。信仰が単に理論であり、一種の人生哲学としてのみ理解され、実際にイエスの品性に触れ、イエスと交わっていくことがないため、心が本当に満たされることがないのです。
スタンレー・ジョーンズ博士が来日したとき、「日本にはキリスト教を信じないで神学を論じる人がいる」と言いました。このような人はキリスト教の真髄に触れることはできません。
イエスと交わる
聖書の中には、イエスを知り、イエスと交わる経験について書かれています。しかし今日、イエスと交わるということは人々に神秘的なイメージを与えます。どうしてそんなことが起こりうるかと問う人がいます。あるいは今日の科学から考えれば、そんなことはあり得ないと言う人もいます。そして宗教や信仰といったものは、人間の思考の産物にすぎないと主張します。
しかし人間はすべてのことを説明することができると思ってはならないし、また説明のできないことは真実ではないと考えることもできません。
人間同士の人格的な交わりや、愛という感情の仕組みについて心理学的に説明せよと言われたら、すべての人を納得させるような満足な説明は、おそらくだれにもできないでしょう。しかし事実、私たちはそれを体験することができるし、人生の喜びがそこからわきあがってきます。
人間と神との関係も同じように考えられます。初めに人は「神のかたち」にかたどってつくられました。人間と神との間には、人格的な共通性があるのです。そこで人間と神との交わりが成立するのです。罪を犯した後、直接の交わりは絶たれましたが、悔い改めて神に帰る者に、神はご自分を現してくださるのです。これは驚くべき事実であり、体験です。また人生の旅路における唯一の力強い慰めです。
「それらのことはみな、小さいときから守っております」と言ったこの青年は、自分の本当の姿を悟っていませんでした。自分は正しい生活をしていると思っても、それはあてにはなりません。自分をあざむいている場合もあるのです。人間の良心でさえ、絶対に正しい規準とはなりません。自分に罪はないと言う人は、その良心の低劣さをあらわしていることさえあります。
イエスはこの青年に、彼の本当の姿を示そうとされました。イエスは富を否定されたのではありませんでした。ただ「神に仕え、神の戒めを守った」と主張している彼の心の中に、なお自我を愛する気持ちが強く残っていることを指摘されたのです。
自我を愛することは、すべての罪の根です。この世界に罪が入ってきたのも、この道を通ってでした。人生のあらゆるみじめなことが、自我を愛するみにくい心から起こってくるのです。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書16章24節)とイエスは言われました。「自我を捨てる」ということがイエスの教えられた道でした。すべての利己的なものが捨てられ、全くキリストの支配のもとに自らをゆだねていくときに、生活がきよめられるのです。この青年は、神を選ぶか、自己に仕えるかを決定しなければなりませんでした。彼は地上の富を持っていましたが、天の宝に欠けていたのです。そしてこれを得るために、自我を取り去らなければならなかったのです。
しかし彼はイエスの言葉に従うことができませんでした。「この言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マルコによる福音書10章22節)。
この日、彼は寂しい心を抱いて、自分の大きな邸宅に帰っていったのです。
自己中心的な性質
人は生まれながらにして自己中心の生活を求めます。神を愛し、人を愛するより、自分を愛するものです。しかし、イエスは自分のために生きる生活に本当の喜びはないことを教えてくださいました。
今は罪のためにゆがめられていますが、神のおつくりになった自然は、神の栄光をあらわしています。利己的になった人間の心以外は、自然のもので自分のために生きているものは、何一つありません。空飛ぶ鳥も、野の獣も、他の生命のために奉仕しています。植物は人間や動物が生きていくために、生命そのものを与えていますし、人間や動物はまた、植物の生命を支える要素を与えるのです。花が咲けば、その香りと美によってこの世界に祝福を与えます。
人間の世界では「与えて取る」(give and take)といわれますが、自然を流れている原理は、「与えるために取る」(take to give)です。それが宇宙の本質的な構造なのです。
イエスは地上におられたとき、「わたしは自分からは何もせず」「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように」「わたしは自分の栄光を求めてはいない」「自分をつかわされたかたの栄光を求める」(ヨハネによる福音書8章28節、6章57節、8章50節、7章18節)と言われました。これらの言葉の中に、宇宙を貫いて流れている生命の原則が見られます。イエスは父なる神からすべてのものを受けて、また与えられました。神からの生命が、イエスを通して流れ、これを受けた被造物の感謝と奉仕となって神に帰っていくのです。
与える生活は、真の幸福と喜びをもたらします。人はそのようにつくられているのです。得ることに幸福があり、喜びがあると思っている人がいますが、与えることにはもっと大きな喜びがあるのです。愛されることに喜びはありますが、愛する喜びはもっと豊かなものです。無我の奉仕―それはどんなに小さいことであっても、求める心なくして与えた経験を持った人には、このことがよくわかるはずです。
イエスが示された道は、最も幸いな道でした。ディケンズのクリスマス・キャロルはこのことを暗示しています。どん欲に、自分のことだけ考えて、一生満たされない心で過ごした主人公スクルージの心に、与える喜びがはじめてわかったときに、新しい人生が開けていったのです。
ナイチンゲールにも、リビングストンにも、あるいはモロカイ島のハンセン病患者のために奉仕の生涯を送り、自分も同じ病気に感染したダミアン神父にも、この喜びが宿ったのでした。
若くして富めるこの役人は、その求めてやまなかったもの―彼の生活の奥底に潜む空虚感を追い払い、満ち足りた平安な生活をもたらすもの―が彼にとって最も恐ろしい、全生活の破壊をさえ前提としなければならないことを知ったとき、決心することができませんでした。信仰の道は冒険であり、一つの飛躍です。その飛躍のかなたに新しい生活が開けてくるのです。
私たちは努力すれば、あるいは一般的な道徳の水準まで到達することができるかもしれません。事実、私たちはこのような努力を最高のものと考えています。しかしイエスは、「あなたに足りないことが一つある」と言われます。それを欠いているだけというのではなく、それをただ一つ欠いているゆえに、すべての努力がむなしいと言われるのです。
イエスはまた、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイによる福音書16章25節)とも教えられました。私たちが自分の生命を救うために行う、あらゆる努力も精進も、まず自己の罪を悔い、神に帰り、神を愛していくことがなければ、結局満たされることのない、はかない空回りに終わってしまうのです。
しかし私たちが自己を否定する意味を真に悟ってキリストのもとに来るとき、私たちに与えられた素質がいかに貧しいものであっても、私たちの能力がいかに弱いものであっても、私たちのささやかな努力が実り多い奉仕となって、周囲の人々に幸福をもたらすことができるようになるのです。自分に死ぬことによって、周囲の人々への奉仕に生きることができます。「そして、わたしに従ってきなさい」というイエスの言葉に従って、すべてを捨ててイエスに従う決心をするとき、周囲に対して祝福を与えることができるばかりでなく、自分自身も歓喜と平安に満たされる体験をすることができるのです。
ダミアン神父の物語(1840-1889年)
アメリカ大陸のハンセン病患者が隔離されたハワイ諸島・モロカイ島。この地にあるハンセン病患者の病院には、ベッドもなく、医者もいません。病人たちは薬さえも与えられないままに放置されています。まるで死を待つ墓場の待合室のようでした。
寒さと空腹と苦痛にさいなまれ、家族もなく、気づかってくれる人もなく、希望をすっかり失ってしまった人々は、自暴自棄になり、酒に溺れていました。
そこへある日、1人の宣教師が来ました。ベルギーから来た青年、ダミアン神父でした。彼は、その現状を目の当たりにして愕然としました。
「彼らのために仕えよう。そのためなら、この命をも喜んで捧げたい」
ダミアン神父はそう決心しました。
水不足のために、患者たちは傷口が洗えず、不潔な包帯のままで過ごしていました。それに気づいたダミアン神父は、早速、資材を調達し、貯水池から村まで8キロにもおよぶ水道管を引きました。
また元建築家であった彼は、元気そうな若者を選んで青年隊を組織し、教会を建て、患者たちの家を次々に建てていきました。
ダミアン神父がこの島に来てから、病人たちのみじめな生活は少しずつ人間らしさを取り戻していきました。もう彼らは見捨てられた人々ではなかったのです。
彼らは、ダミアン神父がいつも彼らのために心を砕いていることを知っていました。愛してくれる人がいる、この喜びを思い出したのです。
ダミアン神父は患者たちと一緒に地べたに座り、同じ食器から同じものを食べました。彼らが血の滲む指で取り分けてくれた食べ物を、臆さずに口にしました。重病人の家を訪問し、ベッドに腰掛けて彼らを慰め、傷口の手当をしました。
ダミアン神父の大胆な行動に、患者たちの方から感染を気づかうことさえあったと言います。しかしダミアン神父は、そんな患者たちにこう答えたと言うのです。
「私が病気になっても、神様が復活の日に新しい体をくださるから大丈夫。大切なのは、今、あなたの魂を救うことです」
やがて発病した彼は、その病気をむしろ喜んだのです。「これで患者たちの痛み、苦しみに、もっともっと近づくことができる」と。
最後の最後まで患者たちのために仕え、命を捧げたダミアン神父の墓標には、「友のために命を捨てるより大きな愛はない」というイエス・キリストの言葉が刻まれています。
(参考 本田弘慈著『宣教の情熱』)
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