悪がのぼってきた
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。ヨナ1:2(口語訳)
「悪がのぼってきた」という表現は、ノアの洪水のときにも、またソドムとゴモラのときにも登場しており、恩恵期間の終了が目前であることをあらわしています。
アッシリア帝国の中心地であったニネベは物質的に繁栄していましたが、同時に堕落していました。
神が忍耐されていただけであり、ニネベは着実に滅びへと向かっていたのです。そのニネベに対する最後のメッセージを伝えるものとして、ヨナは選ばれました。ヨナの言葉を聞いて悔い改めなければ、ヨナはニネベにとって、最後の預言者となったことでしょう。
黙示録のバビロン
サタンの勢力として黙示録に登場するバビロンも、同様の特徴を持っています。
彼女<バビロン>が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。……それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。黙示録18:7,8(口語訳)
このバビロンも「高ぶり、ぜいたくをほしいままにした」ことにより、恩恵期間の終了とともに、滅ぼされてしまうことが預言されています。
神と富
豊かさと堕落は常に表裏一体です。それゆえに、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とキリストは言われたのでした(マタイ6:24口語訳)。
キリストは言われます。「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ6:21口語訳)。
今、物質的に満たされていることや物事がうまく行っていることは、神がそれを承認されているという証拠にはなりません。その逆で、神が忍耐されている可能性もあります。
わたしたちの心に響いているその良心は、神がつかわされた最後の預言者かもしれないのです。