「七の七十倍までも赦しなさい」の意味とは?|聖書の名言

この記事は約6分で読むことができます。

目次

クリスマスツリーの意味

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

新約聖書 マタイによる福音書 18章22節(新共同訳)

この聖書の言葉を聞いて、「はい、無理〜!」と思う人は多いでしょう。あるいは、「7の70倍ってことは、490回赦せばそれでいいんでしょ?」と考える人もいるかもしれません。

季節外れの話になりますが、クリスマスの色として特に知られているのは緑と赤ですが、その理由を知っていますか? 

クリスマスツリーには、モミの木などの常緑樹が使われるのが一般的で、冬の間も緑を保つ常緑樹が強い生命力の象徴と考えられているそうです。ですから、緑色には「力強さ」「永遠の命」といった意味が込められるようになったようです。

そして赤は、「神の愛と寛大さ」をあらわすと言われていますが、神の愛と寛大さがどのようにあらわされたのかというと、イエス・キリストの十字架によってであったと聖書は教えています。

ですから、赤はイエス・キリストが十字架で流した「血」をあらわしているとのことです。

「キリストの血」と言われると、どこか物騒な気がしますが、キリストの血について考えることなしに、神の愛と寛大さを表すことはできません。

「神の愛と寛大さ」とだけ聞くと、「ああ、神は何でもゆるしてくださるお方なのか、それはラッキーだ」と思うかもしれません。

あるいは、神はとにかく愛のお方で寛大なお方なのだから、人の罪をゆるすなどお手の物で、神が人の罪をゆるすのは当然のことだと考えがちですが、決してそうではありません。

わたしたちの間でもそうですが、「人の罪や過ちをゆるす」ということは簡単なことでも、当然のことでもありません。感情的な問題もありますし、何よりその罪、過ちの責任を誰かが負わなければならないからです。

このことを抜きにして、ゆるしを考えると、ゆるしはとても軽いものになります。わたしたちがゆるす側になった時に、ゆるすことが思いの外、難しいことを知ります。

同じように、いやそれ以上に、神がわたしたち人間の罪をゆるすということは、神だから簡単にできるというような、当然であるような、軽いものではありません。

王と1万タラントンをゆるされた家来のたとえ

このことを考えるために、イエス・キリストのたとえ話を一つ紹介します。

ある王さまが家来たちに貸した借金の決済をしようとしました。すると、1万タラントンを王さまから借りている一人の家来が連れてこられました。

仮に時給1000円のアルバイトで1日8時間働く今の日本の現状に置き換えるならば、1万タラントンは日本円では、約4800億円です。とにかく巨額で、一生かかっても返せそうにありませんし、生命保険をかけて自分の命をもって借金の責任を取りますとか言っても、多分完済は無理だと思います。

それほど大きな借金は、わたしたち人間が負っている罪の大きさを示しており、またそれが自分の持っているものすべてをもってしても償いきれないものであることを示しています。そして、わたしたち人間は、この負債の事実を神によって示されるまで気づかないのです。

巨額の借金をしているこの家来は、王の前で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言いました。そんな家来を見て王さまはなんと、彼をゆるして、借金を帳消しにしてあげました。4800億円の借金が帳消しですから、これはものすごいことです。

さて、ゆるされたこの家来が外に出ると、自分に100デナリオンの借金をしている仲間を見つけました。そして彼の首を締めて「借金を返せ!」と迫ります。100デナリオンは先ほどと同じように考えますと、日本円では約80万円です。安い金額ではありませんが、4800億円に比べればはるかに安い金額です。

そのような自分の仲間が「待ってくれ、返すから」と頼む声を無視して、彼はその仲間を牢屋に入れました。これを見ていた他の人が王さまにこのことを知らせて、この家来はまた王さまの前に呼び出されます。

「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

こう言った王さまは、この家来を牢屋に入れてしまいました。

このようなお話なのですが、皆さんはどのように思いますか?

王さまは4800億円もの借金をゆるすという驚くべきことをしました。しかし、4800億円もの巨額の借金の責任は誰が取るのでしょう。その借金をゆるした王さまの責任になったはずです。ゆるすということは、その責任を誰かが引き受けることだからです。

神のゆるし

ゆるしについて考える時によく、「神は愛なり」という聖書の言葉が引用されます。確かに、神は私たちを愛しておられますので、私たちの罪をおゆるしになります。しかし、その点だけを考えるとゆるしはとても軽いものになります。

神は愛だから、罪をゆるすことなど簡単なことで、人をゆるして当たり前という考えすら持ってしまいますし、「神は愛なり」と聞いてそのように考える人が多くいます。また、「神は愛なり」というところだけ切り取って、神ならイエスの十字架というような犠牲を伴わなくても人をゆるすことができるはずだという主張もあります。

しかし、「神は愛なり」であるとともに、神は聖なるお方、正しいお方でありますので、罪をうやむやにすることはできません。人の失敗や罪をうやむやにするのが愛だというのなら、それはヒューマニズムと言われる限りのある人間の愛です。神の前には罪は罪ですから、その裁きは必ず執行しなければなりません。

神の赦しは、実は、慈悲とか恩赦ではありません。イエス・キリストが神の裁きを受けていたのが、あの十字架だったのです。わたしたちが本来は自分で受けるべき神の裁きを、イエス・キリストが身代わりになって引き受けてくださいました。そのようにするほど、わたしたちを愛してくださったのです。

だから、わたしたちの罪は赦されるのです。決して、赦されて当然ではありません。わたしたちの罪のゆるしのために、イエス・キリストが犠牲になり、血が流されたことを考えますと、罪のゆるしが簡単ではないことがわかります。

イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、わたしたちに罪のゆるしが与えられるということですが、聖書にはこのような言葉があります。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章23節(新共同訳)

神からわたしたちへのプレゼントは、イエス・キリストによって与えられた罪のゆるしであり、「永遠の命」であるとこの聖書の言葉は教えています。このような犠牲を払ってまで、わたしたちの罪をゆるしてくださるということを信じ、受け入れるなら、用意されたプレゼントを受け取るなら、罪のゆるしはわたしたちのものになります。

当然のことですが、用意されたプレゼントは受け取らなければ自分のものにはならないように、既に用意された罪のゆるしを信じ受け入れなければ、罪のゆるしはわたしたちに実現しません。

どうか、イエス・キリストの血によって用意された罪のゆるしと、永遠の命というプレゼントを受け取ってください。

先ほどのたとえ話から学ぶ点がもう一つあります。

たとえ話に出てきた4800億円もの借金を赦した王様は、仲間をゆるさなかった家来にこのように言いました。

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

イエス・キリストが私たちの代わりに罪の裁きを受けてくださったので罪がゆるされます。しかし、ゆるされた人は、ゆるされて終わりではありません。ゆるされた人は、ゆるされたように、人をゆるすように言われています。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」という言葉が、しばらく前によく聞かれました。スカッとする思いになるかもしれませんが、その言葉通りにしていると、いつまで経っても平和にはなりませんし、人の心が憎しみでいっぱいになって、どんどん蝕まれていきます。人をゆるすのは確かに、思いの外、難しいことを私たちは知っています。

だからこそ、思い出してください。イエス・キリストによって、ゆるされたのだということを。

ミス青森硫酸事件

イエス・キリストの罪のゆるしをもって、人をゆるした人がいます。

かつて、ミス青森に輝いたある女性がいました。この女性は、同じ職場の友人の嫉妬心によって顔に硫酸をかけられました。急いで皮膚の移植手術を受けましたが、美しい顔は元には戻らず、彼女の心に硫酸をかけた友人に対する激しい怒りが生まれ、絶望感に突き落とされてしまいました。

ある日、入院していた病院の窓から教会の十字架が見え、教会に行ってみたいと思うようになり、教会で神の愛を知りました。イエスが自分の罪のために十字架で死んでくださったことを知りました。やがて牧師に聖書研究を願い出て洗礼を受けることになりました。

洗礼当日、牧師は尋ねました。

「あなたは、あなたの顔に劇薬をかけたあの人をおゆるしになりますか?」。

この質問を聞いた時、彼女は顔が曇りうつむいてしまいました。しかし、長い沈黙の後に彼女は顔を上げて「イエスが私を愛し、私を赦してくださったのですから、私もあの友人をゆるします」と答えました。

その後、刑務所に入っていたその友人に会いに行き、あなたをゆるしていますよと伝えて、やがて刑務所を出た友人と一緒に暮らすことになるのですが、そうなる前に多くの葛藤があったようです。

青森の自宅に帰ってから、彼女の心に真の平安はありませんでした。洗礼を受けた翌日から、厳しい戦いの日々が始まりました。惨めな屈辱に打ちひしがれ、消えない肉体の不自由さと痛みにさいなまれ、前途の不安に思い悩む度に、決して相手をゆるしていない自分を発見しました。

主の祈りにあるように、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」という祈りも心から祈れません。聖書に赤線をいっぱい引いて、暗唱するほどに一生懸命読んでも、具体的な喜びの力とはならず、本当の平安は与えられませんでした。

汚れた罪の現実に打ちのめされ、どうしようもなかった時に、聖書のイザヤ書53章というところを読んだ時、その言葉が彼女の光となりました。そこからイエス・キリストの十字架の事実が知らされ、それまで学んだ聖書の言葉が生ける力となりました。

限りない神様の愛が注がれた時、「ゆるすのはわたしではない。わたしこそゆるされねばならぬ者なのだ。加害者は彼女ではない。わたしこそ加害者である。主よ、ゆるして下さい」と、神様に泣きながら祈りました。

その時に、神は罪のトゲを抜き取って下さり、醜い魂の傷を癒して下さった、とこの女性は語っています。

神がわたしたちの罪をゆるすために犠牲を払ってくださったこと、イエス・キリストの血が流されたこと、それによって永遠の命をわたしたちに与えようとしておられることを、どうか思い出してください。

イエス・キリストの血によって用意された永遠の命というプレゼントを受け取ってください。そして今度は、イエス・キリストによって、ゆるされたのだということを思い出して、イエス・キリストのゆるしをもって人をゆるすことができるようにと祈り、互いにゆるし合う、あたたかい関係を築いていきたいものです。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次