神の臨在を恐れる
家庭,学校,病院,教会において,神への愛と畏敬を示すとき,私たちは祝福されます。イスラエルとその敵は,神の臨在についての目に見える象徴を誤用したために,祝福を失いました。
神の箱の重要性 イスラエルの民は,「サムエルが主の預言者と定められたことを知っ」ていましたが(サム上3 : 20),その霊的生活は衰退していました。シロの聖所におけるエリの息子たちの悪影響のために,聖なる儀式は軽べつの的になっていました。周辺の国々でさえ,不名誉な話を聞いて,ますます大胆に偶像を拝み,罪を犯していました。「しかし,報復の日は接近していた。神の権威は退けられ,神の礼拝は,無視され,軽べつされた。それで,神のみ名の名誉を維持するために,神が手を下さなければならなくなった。」(「人類のあけぼの』下巻241ページ)。
契約の箱は神の臨在の象徴 それは聖所の儀式の中心でした。神はこの聖なる箱の建造と取り扱いについて細かな指示を与えておられました(出エ25:10~16参照)。しかし,イスラエルの民は,罪によって感覚が鈍り,エリの息子たちの悪い感化を受けていたために周辺の偶像を拝む異教の民の考えに染まっていました。こうして,彼らは契約の箱を礼拝の対象とみなしました。今週は,神がどのようにして悲劇と敗北を通して,彼らをついにはリバイバルと勝利に導いてくださったかについて学びます。
イスラエルの失敗(サムエル記上4章1節~22節)
「イスラエルの人々は,神の指示も仰がず,大祭司または預言者の同意も得ないでこの遠征に着手した」(「人類のあけぼの」下巻242ページ)。神はイスラエルのために戦うと約束しておられました。敵は強く,イスラエルにかなう相手ではありませんでした。この頃
のイスラエルの部族は団結の弱い,十分に組織されていない連合体であって,敵の軍事力に見合うだけの装備もありませんでした。これに対して,ペリシテ人はよく組織され,軍事的な知識と絶対数において優勢でした。彼らは鉄製の武器の使用を独占し,木製の四輪牛車を使用していたので,これにかなう相手はいませんでした。
イスラエルの指導者たちは,自分たちのみじめな敗北が主の導きを求めなかった結果であることを悟りました。状況を有利にするために,彼らは神の箱を戦場に携えて行きますが,事態をいっそう悪くしただけでした。
契約の箱が戦場に携えて行かれたのは,ヨシュアがエリコを攻略したときだけです。そのときは,神の特別な監督と指示のもとでなされました。
おそらく,ペリシテ人は魚の神,ダゴンをイスラエルとの戦いに携えて行ったことでしょう。神の箱は神の臨在を確かなものとしてくれると,イスラエル人が信じたのも,そうした異教の慣習に影響されたからだと思われます。長老たちは神の許しを求めないで,契約の箱を戦場に携えて行く決定をします。
イスラエル人のうぬぼれ 「契約の箱を神聖なものとするのは神の律法だけであること,またイスラエルがその律法に従うときにのみ,その臨在は彼らに繁栄をもたらすということを,彼らは考えなかった……。
エリの二人の息子,ホフニとピネハスは,箱を陣営に携えて行くという提案に喜んで同意した。大祭司の同意も得ないで,彼らは尊大にも至聖所に入り,そこから神の箱を運び出した。誇りに満たされ,すぐに勝利するという期待で得意になって,彼らはそれを陣営に運び込んだ。それを見て,エホバの臨在のしるしと考えた民は,「みな大声で叫んだので,地は鳴り響いた」」(「SDA聖書注解」第2巻1011ページ,エレン。G・ホワイト注)。
イスラエル人はその敵と同じように,契約の箱を神というよりも一種のお守りとしかみなしていませんでした。この箱が聖なるものであるのは,それが至聖所に置かれたときに神のお現れになる場所であったからです。自然は神の栄光をあかししますが,自然そのものは神ではありません。同じように,契約の箱は聖所における神の臨在をあかししましたが,箱そのものは神ではありませんでした。この真理はイスラエルの神と宗教を,ほかの偽りの神々と宗教から区別するものでした。
「イスラエルには,最も戦懐すべき災害がくだった。・・・ピネハスの妻は,夫が不信心であったにもかかわらず,主をおそれる女であった。……彼女は,イスラエルの最後の希望が消えたと感じた。彼女はこの不幸なときに生まれた子を,イカボデ「栄光は去った』と名づけた。……「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われたからです」」(「人類のあけぼの』下巻243,245ページ)。
- 神の臨在の象徴である契約の箱を尊んでいるので,神は自分たちと共におられると,イスラエルは考えました。私たちもどんな意味において,これと同じ過ちを犯しがちですか。
ペリシテ人の罪(サムエル記上5章1節~6章21節)
神の箱をめぐるペリシテ人の経験について記したサムエル記上5章を読んでください。イスラエルの失敗にもかかわらず,神 ようこがどのようにして契約の箱を守り,ご自分の名誉を擁護されたかに注目してください。
サム上5:3
サム上5:4
サム上5:6
サム上5:9
サム上5:11
「これらの賢者たちは,箱に不思議な力があることを認めた。…それにもかかわらず,彼らは,偶像礼拝をやめて,主に仕えることを人々に勧告しなかった。彼らは,圧倒的刑罰によって,神の権威に従わなければならなくなったにもかかわらず,イスラエルの神を憎んだ」(「人類のあけぼの』下巻247ページ)。
「人類のあけぼの』下巻249ページには,次の理由があげられています。
●礼拝者たちは自分の罪を悔い改めなかった。
●彼らは忠実に神の律法に従っていなかった。
●彼らは幸福の前兆として,箱が帰ってきたことを喜んだけれども,その神聖さをほんとうに理解していなかった。
●箱を受け入れるために適当な場所を用意するかわりに,それを収穫の野にそのままにして置いた。
●彼らは箱に慣れて,その中身を見たいという好奇心にかられて,おおいを除き,あえてふたを開こうとした。
大祭司だけが年に一度,箱を見ることを許されていました(ヘブ9:7,レビ16:2,29~31参照)。ペリシテ人でさえ,それを開こうとはしませんでした。イスラエル人の罪は,畏敬の念をもって箱を尊ぶようにという神の命令にそむいたことにありました。
- 今日の教会においても,同じような不敬の念が見られないでしょうか。イスラエルの経験は神の臨在を象徴するものの神聖さについてどんなことを教えていますか。神の家における不敬の念を正すためにはどうしたらよいと思いますか。
敗北から勝利へ(サムエル記上7章1節~1 4節)
レビ人を含むベテシメシの人々は明らかに自分たちの罪を悔い改めませんでした。そして,彼らはキリアテ・ヤリムの人々に神の箱を引き取るように求めます。「厳粛なうちにも喜びに満ちて,彼らは箱を彼らの町に携えてきて,レビ人アビナダブの家に置いた。アビナダブは,むすこのエレアザルにその管理を命じた。こうして,箱は長年そこにとどまっていた」(『人類のあけぼの』下巻250ページ)。
考古学的調査によれば,シロはアペクの戦いのときにペリシテ人によって滅ぼされたと考えられています。サムエル記にはもはや,その名は出てきません(詩78:60~64参照)。サウルの治世には,聖所はノブにありました(サム上22:19参照)。神の箱はダビデの治世までの20年間,アビナダブの家に置かれていました。
サムエルは強情な民のために心を痛めていたにちがいありません。ほこりだらけの道を,村から村へ,家から家へと訪ね歩き,人々に神のもとに立ち返るように嘆願し,警告し,彼らと共に祈るサムエルの姿を思い浮かべてください。
イスラエル人はペリシテの地に追放されることはありませんでした。しかし,ペリシテ人に支配され,みつぎ物を納め,さまざまな点において彼らに仕えたことでしょう。社会的,商業的係わりで彼らはたえずペリシテ人と交わりました。ペリシテ人に従属することを憎む一方で,彼らはペリシテ人の生き方を好み,その習慣,神々,罪を受け入れます。
彼らが受け入れた異教の神々のなかに,ペリシテ人の魚神ダゴンとカナン人のバアルの混合である女神アシタロテが含まれています。「アシタロテ礼拝はふつう,みだらな儀式から成り立っており、多くの場合、それはアシタロテに帰依して「聖女』つまり神殿娼婦となった女たちによっていとなまれた」( 「S D A 聖書注解」第2巻480ページ)。
詩篇作者は次のように言っています。「わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから迷い出させないでください」(詩119:10)。「わたしはあなたの定めを終りまで,とこしえに守ろうと心を傾けます」(同119:112)。心から神を求めることは,神の戒めに従うこと,罪を悔い改めること,神から引き離す習慣,態度,偶像などを捨てることを含みます。これが真のリバイバルにつながります。
「心をさぐる神はその民をあらゆる偶像崇拝から解放しようとされる。……あなたもともしびをもって自分の心をさぐり,あなたを神から引き離すこの世の習慣に結びつけている細い糸を見つけて,それを断ち切ってほしい」(『セレクテッド・メッセージズ」第2巻318ページ)。
「一心に主に立ち返る」ようにというサムエルの勧告を,次の聖句と比較してください。列王上8:46~50,イザ55:6,7.これらの聖句は私たちの神について何を教えていますか。
「人間の心を通して世代から世代に伝えられてきた父親の愛のすべて,また人間の魂にわき出る優しさという泉のすべても,無限の,尽きることのない神の愛に比べるなら,無限の大海に注ぐ一つの小川にすぎない。それは筆舌に尽くしがたい。……永遠そのものも,それを完全にあらわすことはできない。」(「教会へのあかし』第5巻740ページ)。
「古代イスラエルが経験したのと同じ真の心の宗教のリバイバルが,今日必要である」(「人類のあけぼの』下巻251ページ)。
ペリシテ人はイスラエルのリバイバルに対してどのように反応しましたか(サム上7:5〜7)。これと似たことが今日の教会にも見られないでしょうか(黙示12:10~12)。
「ペリシテ人の君たちはこれを独立宣言に等しいものとみなした。……ペリシテ人の攻撃は非常に迅速だったので,平和的な意図をもって国のあちこちから集まってきていたイスラエル人は,戦いの準備のないままに彼らに対応せざるを得なかった。ただ一つの打開策は祈りであった」( 「S D A 聖書注解」第2 巻4 8 2 ページ) 。
私たちの魂の敵は,私たちを手中におさめていると思っているうちは私たちにあまり関心を示しません。しかし,私たちがリバイバルを経験し,敵とのきずなを断ち切ろうとするときに,彼はすぐに,激しい攻撃を加えてきます。
20年前の,自信過剰で自分を頼みにした民と,へりくだり,主に全的にゆだねて,「われわれのため,われわれの神,主に叫ぶことを,やめないでください」とサムエルに嘆願している民とのあいだには,何と違った変化が見られることでしょう(サム上7:8)。預言者の祈りは何という相違をもたらしたことでしょう.ノイスラエルが自分たちのために戦ってくださる神に信頼したとき,神は何とたやすく彼らの敵を打ち破られたことでしょう/「国家であろうと,個人であろうと,神に服従する道は,安全と幸福の道である」(「人類のあけぼの』下巻252ページ)。
「『主は今に至るまでわれわれを助けられた』(サムエル記上7:12)とありますが,神は終りまで私どもを助けたもうのであります。主が私どもを慰め,滅ぼす者の手より私どもを救いたもうた際の記念の塔をながめましょう。……神のあわれみの数々をつねに心にとめて自らを励まし,私どもの前途に横たわる残りの旅路を進まねばなりません」(「キリストへの道」175,176ページ)。
まとめ
神は聖なる律法の入った契約の箱をイスラエルの民にゆだねられました。神はこの箱の上にご自分の臨在をあらわし、みこころを伝えられました。しかし,イスラエルがこの箱を神の臨在の象徴としてでなく,神そのものとして扱ったときに,また平凡なものとみなしたときに,神はその恵みを取り去られました。私たちも心にキリストの臨在のないままに宗教的儀式にあずかったり,礼拝をささげるなら,古代イスラエルの多くの人々と同じく,霊的な滅びを招くことになります。
*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。