【ヨナ書解説】ヨナのしるし、ヨナの働き(2003年4期ssガイド本より)

目次 & この記事について(書籍情報・引用元情報)
目次

この記事について

*本記事はジョアン・デイヴィドソン(英:Jo Ann Davidson)著、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第1課 聖書の預言者と現在の批評家

第1課 聖書の預言者と聖書の批評家

ある男が巨大な魚に呑み込まれ、三日三晩その腹の中にとどまり、その後、生きたまま陸に吐き出された――私たちはそのように信じています。

なぜでしょうか。ヨナの記録が聖書に含まれているからです。もし聖書が神の言葉だとすれば、ヨナ書もまた神の言葉の一部です。次のように書かれています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモ3:16)。「聖書はすべて」とあります。とするなら、ヨナ書も、魚の餌になった優柔不断な預言者の記録もそれに含まれます。

ヨナとヨナ書が宗教的な教訓を教えるための単なる神話、たとえ、おとぎ話にすぎない、と考える学者がいます。しかし、これは大きな誤りです。これから学ぶように、ヨナ書が聖書の正典に加えられていることには十分な理由があります。

今回は、純粋に学問的な視点からヨナという人物について学びます。彼が主のために素晴らしい働きをした歴史上の人物であることがわかるでしょう。

預言書には大預言書と小預言書があって、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書は大預言書で、ヨナ書は12ある小預言書のうちの一つです。

預言書はみないくつかの共通した特徴を持っています。それは、預言者自身に関する記述と、託宣(神のお告げ)から成り立っています。ヨナ書も預言者とその託宣から成り立っています。しかしながら、ほとんどの預言書は預言者によって伝えられた神のメッセージが中心です。程度の差はあっても、一般的に、預言者の自伝的な記述はほんのわずかです。ほとんどの場合、預言者よりも託宣に重点が置かれています。しかし、ヨナ書の場合は、託宣そのものが10語にも満たないくらいで、ほとんどはヨナ自身に関する記述です。とはいえ、これから学ぶように、ヨナと彼の身に起こった出来事についての記述は、多くの意味で託宣そのものと言えます。

ヨナ書3:4を読んでください。ニネベに対するヨナの託宣の中心は何ですか。

ヨナ書に与えられている託宣の言葉は多くはありませんが、それらは本質的に聖書全体に流れているメッセージであり、歴史的に正しいことが証明されているほかの預言書とも一貫して同じものです。

ミカ書、ナホム書、ゼファニヤ書、オバデヤ書などの小預言書は、預言者自身について書かれていますか。

これらの預言書を読んでわかることは、預言者自身に関する情報が非常に少ないということです。書かれているのは預言者の名前、出身地、父親の名前くらいのものです。対照的に、ヨナ書の場合は、ヨナ自身の背景よりも彼の経験の方に重点が置かれています。これはほかの小預言書と大きく異なる点です。

「主の言葉が……」

ヘブライ語で書かれたヨナ書の原文は「~が起こった」を意味する言葉で始まります〔通常、この言葉は訳出されません〕。この表現は、過去に起こったことが現在も続いていること、またその言葉(~が起こった)の後に続く記述が事実であること、つまり歴史上の事実を示す表現方法です。これと同じ表現がほかにも用いられています。

「また主の言葉がエリヤに臨んだ。『立ってシドンのサレプタに行き』」(列王上17:8、9、強調付加、以下同じ)。「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちに下って行き、サマリヤに住むイスラエルの王アハブに会え』」(列王上21:17、18)。

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って』」(ヨナ1:1、2)。

これと同じ冒頭の句、あるいは「きまり文句」がほかの預言者に対する召命においても用いられていることに注意してください。たとえば、エレミヤ書1:4、2:1、エゼキエル書1:3、ヨエル書1:1、ミカ書1:1、ゼフェニヤ書1:1、ハガイ書1:1、ゼカリヤ書1:1を読んでください。

この言葉は預言者に対する神の召しを読者に印象づける働きをしています。事実、「主の言葉」を受けることは真の預言者であることを証明するしるしでした。それはまた、託宣が人間からではなく、神御自身から与えられたものであることを証明するものでした。

ヨナ書には、「主の言葉」がヨナに臨んだと記されています。これは聖なる序文です。それは、私たちが聖書を読む時には、天の神の御前にひざまずき、聖霊の導きを祈り求めるべきであることを思い出させてくれます。それはまた、天の神がなおも罪深い人間とお交わりになられるという厳粛な思いで私たちを満たしてくれます。

歴史的な手がかり

次の聖句を読んでください。そこに記されている出来事はヨナの経験とどんな点で似ていますか。主はだれに警告を発しておられますか。イザ13:1、エレ25:20~27、エゼ21:28~32          

これらの聖句の中で、主は異邦の国民にその罪と不義の結果について警告しておられます。イスラエル以外の国民に焦点を当てているヨナ書は、この意味で、同じ警告を含む聖書のほかの書と何ら変わりありません。このように、ヨナ書はイスラエルとユダの国境を越えて、神の恵みについての重要なメッセージを宣ベ伝えています。これは、一部の批評家の主張とは異なり、ヨナ書が信頼に値する書であることのさらなる証拠です。

次の聖句を読んでください。語っているのはだれですか。どんなことが語られていますか。これらの聖句から、ヨナ書の史実性に関してどんなことがわかりますか。マタ12:39~41、ルカ11:29~32    

主御自身、ヨナが実在の人物であって、「大魚の腹の中」にいたことについて語っておられます。それだけでなく、御自分の使命をヨナの経験に結びつけておられます。このことからも、ヨナが歴史上の人物であったことには疑いの余地がありません。

ヨナ書の奇跡(1)

現代の批評家たちがヨナ書の史実性を受け入れないのは、そこに出てくる奇跡的な出来事のためです。

ヨナ書を読み、そこに出てくる奇跡的な出来事を書き出してください。

ヨナ書に出てくる奇跡的な出来事がいつでも非常に簡潔に、しかも淡々とした調子で書かれていることに注意してください。それらは物語の中であまり強調されていません。「巨大な魚」そのものでさえ、わずか3か所に出てくるだけです。超自然的な出来事は、あたかも自然界における神の力が当然であるかのように描かれています。

ある男が巨大な魚に呑み込まれ、3日後に生きたまま吐き出されます。聖書にこのような奇跡が出てくるのはここだけではありません。次の聖句を読んでください。それらはどんな奇跡について記していますか。創21:2、出13:21、22、ダニ5:5、24~29、マタ1:20、マコ6:44       

これらの出来事は神の超自然的な介入による以外に説明できるでしょうか。人間の論理、理性、科学を超えた超自然的な出来事であるという理由で、聖書の一部を否定することは愚かなことです。これらの出来事は、人間の科学、論理、理性が神の御業を説明するには全く無力であることを教えています。

ヨナ書の奇跡(2)

古代のユダヤ人著述家たちの間では、ヨナ書の信頼性は疑問視されていませんでした。イエスとほぼ同時代に生きたユダヤの歴史家ヨセフスは、ヨナ書を史実と認めており、それを彼の歴史書の中に取り入れています。ヨナ書の史実性は、それが二つのれっきとした預言書の間に置かれていることからも明らかです。それはつねに小預言書の中に含められてきました。初期の聖書学者は、ヨナ書の著者が小説を書いたなどとは考えていませんでした。

ヨナ書の歴史的正確さが疑問視されたのは比較的最近になってからです。なぜだと思いますか。近代になって科学が進歩したことと何か関係があると思いますか。

トマス・ジェファーソンは福音書を書き直しました。彼はその中から人間の理性や常識、合理的思想に合わないと思われる部分をすべて削除しました。こうして出来上がったのが『ジェファーソン・バイブル』と呼ばれる福音書です。これには、処女降誕、奇跡的いやし、死人の復活、キリストの神性、復活、昇天などが含まれていません。ジェファーソンによれば、これらのことはありえないことでした。なぜでしょうか。常識と理性に反すると考えたからです。

次の聖句はジェファーソンの問題、ひいては現代の多くの批評家の問題を理解する上でどんな助けになりますか。それらは今日の世界に広く見られる懐疑主義から私たちをどのように守ってくれますか。ヨブ11:7、Ⅰコリ1:21、2:14、3:19、ヘブ10:38   

まとめ

列王記下14:23~25を読んでください。これらの聖句から、ヨナがイスラエルの王、ヤロブアム2世(前782~753)に神の御言葉を宣べ伝えたことがわかります。この王の前任者たちの時代に、ダマスコによって率いられたアラム人の国々がイスラエルを侵略し、民を大いに苦しめていました(列王記下13:3~5、アモス書1:3)。しかし、ヨアシュ王はイスラエルの町々を取り返します(列王記下13:25)。ヨナは、ヤロブアム王がイスラエルの国境をダビデの時代の領域にまで回復すると預言します。

預言は実現し(列王記下14:25~27)、イスラエルは再び繁栄します。しかし、長くは続きませんでした。ホセアとアモスはすでにヤロブアムの時代から北王国を厳しく叱責しました(ホセア書1:1、アモ1:1)。アモスはベツレヘムに近いテコア出身の南王国の人でしたが、ヨナは北王国の人でした。彼の家族がシリアの侵略によって苦しめられていたとしても不思議ではありません。ヨナがアッシリアのニネベに対して激しい敵意を抱いていたのはそのせいかもしれません。アッシリアはシリアよりも残酷な国でした。

ミニガイド

著者・年代について

ヨナ書1:1に「アミタイの子ヨナに」とありますが、ヨナ自身がこの書を書いたものか、彼の経験を他の人が記したのかははっきりしません。

「ヨナ」とは『鳩』の意、父の「アミタイ」とは『真実』という意味を持ちます。先々期に学んだ列王記下14章25節に、イスラエルの王ヤロブアムⅡ世がシリヤに奪われた領土をいくらか取り返した記事がありますが、そのことをこのヨナが預言していたとあります。ヤロブアムの治世は紀元前793年2月~753年ですから、ヨナは、この時代に預言者として活躍していたのでしょう。その頃、ホセアやアモス、そしてあの大預言者エリシャも同時代に活動していたことになります。

彼の出身地はガテ・へフェルとありますが、そこは、ガリラヤ地方の中央部にあり、イエスの住んでおられたナザレ村の北東3~5キロの地点です。キリストも、ゼブルンにあるこの地を幾度となく訪れられたでしょうし、福音書の記事からも明らかなように、ヨナ書に精通しておられ、その内容を歴史的事実に基づく確かなものとみなしておられました。

背景について

アッシリアの歴史は古く、創世記10章8節に出てくるニムロデに由来します。それまではアッシュールが首都でしたが、シャルマネセルがニネベに宮殿を造営してから、徐々にニネベがアッシリアの首都になっていきました。この町は、チグリス川とコスル川の合流する地点の東岸にありました。ヨナが預言した当時は3章3節に「ニネベは大きな都で……」とありますが、ニネベは、ハトラ、コルサバード、ニムロドなどの町々を含む広い範囲を指し、合計すると住民の人口は17万5千人はいたと推測されています。

この頃、アッシリアは北部で、ウラルトゥ(アルメニアの山岳地帯にあった古代王国で、ヘブル語ではアララテといった)との間で紛争が起こっていました。その勢力が増して、次第に敵が南進し、ニネベに危機が迫っていたのです。

ヨナの託宣の中に「40日すれば、ニネベの都は滅びる」とありますが、これは、何の根拠もなく唐突に預言したのではなく、そのように差し迫った事情があったのです。ですから、ヨナの預言は現実味を帯びていたのです。アッシリア人の残忍性はつとに周囲の国々に知られていましたが、ウラルトゥ人はそれに勝る残忍さをもって迫っていたのでした。

第2課 神は人とその住みかを知っておられる

第2課 神は人とその住みかを知っておられる

キリスト教の素晴らしい真理のひとつは、神が実在するだけでなく、人格を備えたお方であって、御自分の被造物と親しく交わられるお方であるということです。人間が創造された後で、与えられたものを自分の力で最善に用いるように放置されたというのは、キリスト教の教えではありません。聖書がエデン以後はっきりとあかししているように、私たちの創造主なる神はまた私たちの供給者であり、維持者です。そればかりでなく、この神は私たち一人ひとりについて、また一人ひとりの事情について知っておられます。そのうえ、神は私たちを心にかけてくださいます。

この偉大な真理はイエスの生涯と働きにおいて最もよく啓示されています。主イエスは人性を取ることによって私たちの一人となられましたが、それは永遠にわたって私たちと親密な関係を保たれるためでした。

今回は、ヨナ書の冒頭の聖句について学びます。ここにも、神が私たち一人ひとりだけではなくその住まいについても知っておられることの実例を見ることができます。ヨナ書の最初の2節は人類に対する神の愛を教えています。

個人的な出会い

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」(ヨナ1:1、2)。

この聖句にどんな意味が含まれているか考えてください。宇宙の創造者なる神、宇宙を支えておられるお方が今、宇宙の中の一点にすぎない銀河系の、そのまた一点にすぎない地球上の、取るに足らない一人の人間とお交わりになるというのです。

私たちの知っているこの宇宙は200億光年以上の広がりを持つといわれています。つまり、光の速さ(秒速30万キロ)で旅をしても、端から端まで行くのに200億年かかる計算になります。この広大な宇宙を創造し、御自分の力をもってそれを支えておられる神が今、一人の人間と交わり、ほかの人間に与えるべきメッセージをお与えになります。

このように言えば、自分が取るに足らない者で、だれからも心にかけてもらえない惨めな存在であるかのように考えるかもしれません。しかし、ここヨナ書において(もちろん、聖書全体において)、驚くべき神が描かれているのを見ます。私たちを知り、私たちを心にかけられる神、広大な宇宙の広がりを超えて、私たち一人ひとりと交わられる神を啓示しているからです。

詩編104編をご覧になって、世界と私たちの人生における神のメッセージ読み取ってください。特に35節が力説している点は何でしょうか。

この詩編にも、神が御自分の被造物とお交わりになることが描写されています。ここで注目したいのは、それが基本的に創世記における創造の順序に従ってはいるが(創1、2章参照)、神の力に関して用いられている動詞が現在形になっている点です。ここに、被造物の維持者・供給者として絶えず働いておられる神の姿を見ることができます。神は、この世界を創造された後は、自然の法則が支配するままに放置されたのではありません。むしろ、聖書によれば、自然界にも、わたしたち一人ひとりの人生の細部にいたるまで、今もご配慮を及ぼしてくださっています。

私たちの髪の毛

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタ10:30)。

ヨナ書は、神が目には見えないお方であるにもかかわらず、御自分の被造物に深い関心を寄せておられることを教えてくれます。そればかりでなく、神が私たち人間について知っておられることは個人的で、広範囲に及ぶものです。私たちがあまり関心を払わないことでも、神は詳しく知っておられます。

マタイ10:30は、神が私たちの個人的な生活にまで深くかかわっておられることをどのように例示していますか。

神が私たちについて詳しく知っておられることに関連して、詩編139:1~18を読んで、次の質問に答えてください。(1)これらの聖句と先に読んだ詩編104編との共通点と相違点は何ですか。それらは共に神についてどんなことを教えていますか。(2)詩編記者によれば、神は私たちをいつお知りになり、どんな点まで詳しく知っておられますか。このことは私たちの生き方にどんな影響を及ぼしますか。

神は私たちのすべて、つまり私たちがどこに行き、何を考え、何を言い、何をするかを知っておられます。

神の全知全能について詩編記者は、「あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる」(詩139:17、18)と記しています。

ヨナ書に啓示された神の力と知識について学ぶときに覚えたいことは、神が愛の神であって、私たちにとって最善のことを心にかけておられるということです。このことを決して忘れてはなりません。

「おい、お前!」

聖書は、神が異教徒であれ信仰者であれ人々をよく知っておられることの実例で満ちています。

サムエル記上16:1~3を読んで、神が私たちの心の中まで知っておられることに関してどんなことを教えていますか。

ルカ19:1~10を読んでください。イエスはエリコの町を通っておられたとき、群衆に囲まれます。上を見上げると、いちじく桑の木の枝に一人の男が座っているのをご覧になります。イエスは、「おい、木の上にいるお前!」とは言われませんでした。むしろ、その男の名前をお呼びになりました。「ザアカイ」と。イエスはその男の名前まで知っておられたのです。

エレン・ホワイトによれば、ザアカイは罪深い生活を送ってはいましたが、自分に働いておられた聖霊の導きに心を開いていました(『各時代の希望』中巻376ページ)。すでにそのことを知っておられたイエスは、この出来事をザアカイを救うための機会とされました(ルカ19:9参照)。

ヨハネ4:4~19を読むと、イエスはサマリヤの女の経歴を知っておられました。主は、どのようにしてそのことを彼女の永遠の祝福に変えられましたか。

神は神の民の人生にのみ介入されるのではなく、イザヤ書44:28、45:1では、イスラエル人以外の支配者が名指しで呼ばれています。このことは聖書の神の注目すべき特質であって、人間に対する神の態度に関して非常に重要なことを教えています。神が人を呼ぶときには、「おい、お前!」とは言われません。むしろ、彼がだれであり、何を考え、今どんな状況にあるかを詳しく知った上で、呼びかけられます。ヨナの場合もそうです。神は、不特定多数の中の一人としてではなく、特定の個人として、ヨナを知っておられました。

神は人とその住みかを知っておられる

神は人ばかりでなく、場所をも知っておられます。これは重要なことです。というのは、神に愛され、そのために死んでくださった人々は特定の場所に住んでいるからです。しかも、彼らの個人的な事情はその住んでいる場所と密接な関係があります。それゆえ、神は町々の名前を、さらにはそこで起こっている出来事を知っておられるのです。もちろん、神の関心は生命のない建物や通りや岩にではなく、そこに居を構えて住んでいる人間にあります。

次の聖句は、神がこの世界のすべてを知っておられることに関して何を教えていますか。創11:1~9、創18:20、ルカ19:41~44

旧約時代にあっては、エルサレムとヘブライ民族が重要な位置を占めていました。しかし、イエスの死後、人類のための神の救いの計画の中心は特定の場所から離れました。なぜですか。マタ21:43、24:14、ガラ3:28参照

古代世界の都市や町は新約聖書の中で重要な意味を持つようになりました。黙示録の初めにある七つの教会への手紙は、七つの都市と関係があります(黙1:4~3:22)。パウロの宣教旅行はどれも、特定の都市と関係があります(使17:1~4、16~34、18:1~11)。新約聖書の大部分を占めているパウロの手紙の多くは、当時の主要な都市や地域と密接な関係があります(ガラ1:1、2、エフェ1:1、2、フィリ1:1)。

したがって、ヨナの召しにおいて特定の都市の名が出てきたとしても不思議ではありません。ヨナ書の冒頭において、神はヨナという人物を召し、彼にニネベという都市に行くように告げておられます。

大いなる都ニネベ

ニネベが初めて聖書に出てくるのはどこですか。創10:11

古代ニネベの輪郭となる城壁が考古学者の手で発掘されました。ヨナが警告を伝えるために遣わされた時代に存在した主要な宮殿は、アシュルバニパル王の宮殿であったと思われます。この宮殿の建物だけでも約2万4000平方メートルの広さがありました。

紀元前1世紀の文書によれば、ニネベは30キロ×18キロの長方形をしており、周囲は約96キロありました。これは「一回りするのに三日かかった」というヨナ書の記録とほぼ一致します(ヨナ3:3)。

「ニネベ」というヘブライ語は「ニヌワ」というアッシリア語から来ています。この「ニヌワ」は古いシュメール語の「ニナ」から来ています。ニナは女神イシュタルの呼び名の一つで、子宮の中の魚によって表されています。

ニネベはイスラエルの北東約800キロのところにありました(現在のイラク共和国、モスルの近く)。神の命令に従うためには、ヨナは徒歩で、あるいはラクダに乗って砂漠を旅しなければなりませんでした。それは、イスラエルの最も恐ろしい敵となるアッシリアの首都への長く苦しい旅を意味しました。

ヨナ書1:2を読んでください。神がヨナをニネベに遣わされたのはなぜですか。

ニネベは異教の繁栄と暴虐の中心でした。最も栄えた時には、犯罪と罪悪の都でもありました。実際のところ、ニネベに警告したのはヨナだけではありませんでした。ヨナから100年以上も後に、預言者ナホムが神から遣わされてニネベに神の裁きを警告しました。

まとめ

ペトロがヤッファにいたとき、コルネリウスという名のローマの百人隊長に福音を伝えるように主から召しを受けます。コルネリウスは異邦人として生まれ、異邦人として教育を受けていました。エレン・ホワイトは使徒ペトロとコルネリウスとの出会いを次のように記しています。

「コルネリオが祈っていると天使が現れた。百卒長は自分の名が呼ばれたので恐れたが、神の使者が来たことを悟って『主よ、なんでございますか』と言った。すると天使が答えて『あなたの祈りや施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている』と言った。これらの命令の明白なこと、また、ペテロが宿っている家の人の職業まであげられていることを見ると、どんな身分の人々の一生も仕事も天には知られていることがわかる。神は王の経験や働きを知っておられるだけでなく、身分の低い労働者のこともごぞんじなのである」(『患難から栄光へ』上巻142、143ページ)。

「この地球について、聖書は、創造の働きが完成されたものであることを宣言している。『みわざは世の初めに、でき上がっていた』とある。しかし神の能力は、いまもなお、お造りになった物をささえるために働いている。脈膊がうち、呼吸がつづけられるのは、一度動きはじめた機械組織が、その固有のエネルギーによって活動をつづけるせいではない。呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動の一つ一つは、われわれの生命と活動と存在の根源である神の守りの証拠である。小さな昆虫から人間にいたるまで、ありとあらゆる生物は日々に、神の摂理によって生きているのである」

(『教育』141ページ)。

ミニガイド

預言者について

聖書で預言者という言葉を用いる場合、広い意味と狭い意味の預言者があると思います。広い意味の預言者とは、文字通り「神の言葉を預かる人」で、言い換えれば伝道したり、説教や聖書研究の賜物のことでしょう。要するに神の言葉を他の人に伝える技術や能力を指して

います。コリントの信徒への手紙Ⅰ・14章1節で、「特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」とコリント教会の一般の信徒に勧められている賜物です。その意味では、主を信じ、伝道を志す人には、不特定多数の人が預言者になれるわけです。

狭い意味の預言者は、神に直接に召され、啓示と霊感を授かったある特定の人です。「神のはかりごと」を示された預言者は、神の言葉を携え、それを叫ぶものとされるのです。未来の事柄を『預言』するのもその職務ですが、それは副次的、付随的な場合が多いのです。

最大の任務は、神から告げられた神のご意思、神がなそうとされる行為をそのまま告げることです。彼らは、また聖書全体の教理を体系的に、神学的に理解した上でそうするのでもありません。

預言者は、神の民が犯した罪の故に、彼らの命と存続が危機に瀕した時に、神の御意志を伝えるために遣わされます。啓示を逐一述べ、神の目でご覧になった人々の状況や側面を客観的に知らせます。

彼らは、機械的に一字一句神の言葉を伝えているのではないと思います。聖霊を通して神の臨在とその痛いほどの御心に触れ、確信に満たされます。その圧倒的な確信の故に、言葉がほとばしり出て、あたかも神が直接に語っておられるように見えるのです。

ヨナの預言の内容は、単純でごく短いものですが、そのメッセージは、ニネベの人々の心に力強く訴えました。その意味でヨナも後者の意味での預言者であって、他の預言者と肩を並べることができる人です。

また彼の預言活動から逃避しようとしたいただけない経験も思わぬところで、死んで葬られ、三日目に復活された主のさきがけの象徴になろうとは、思いもしなかったことでしょう。

第3課 ヨナと裁き

第3課 ヨナと裁き

ヨナ書の冒頭部分からも明らかなように、この書は神の裁きを背景として書かれています。このことは数々の神の裁きの実例、警告、約束で満ちた聖書においては特に珍しいことではありません。神の裁きは旧約聖書だけでなく新約聖書においてもはっきりと教えられています。

神は愛の神です。十字架上のイエスがこのことを最もよく証明しています。それはまた神の裁きの最高の模範です。神が愛の神であるゆえに、私たちは公正で正しい神の裁きに信頼することができます。神は買収されるような陪審員ではありません。神は賄賂を受け取るような裁判官ではありません。神は不公平な裁きを下すようなお方ではありません。

今回も引き続き、ヨナ書に啓示された神の裁きについて学びます。神はこの世に多くの苦痛と荒廃をもたらしている罪悪をどのように扱われるのでしょうか。

ニネベに対する裁き

ヨナ書1:2の「彼らの悪はわたしの前に届いている」とは、どう解釈すべきでしょうか。それは、神が私たちの道徳的行為に関心を持っておられることについてどんなことを教えていますか(士師21:25、コヘ12:13、マタ12:36、25:45、ヘブ5:14参照)。

人間は神によって正と邪、善と悪という道徳的原則を植えつけられています。どのような立場・状況に置かれていても、私たちはみな道徳的な被造物であって、道徳的な責任を負わされています。神は最終的に私たちとその行為をお裁きになります。ヨナ書1:2は、ニネベの住民のような異教徒でさえ、神御自身の前で自らの行いに関して弁明しなければならないことを教えています。ニネベの住民も神の前で弁明することが多々あるはずです。アッシリア人はその異常なほどの残忍さと凶暴さで有名でした。

古代アッシリアの石板や碑文が多数発見されています。たとえばアシュルナジルパル2世(前884~859)時代のある文書には、次のように書かれています。「余は敵の町に向かって一つの塔を築き、反逆した首長どもの頭皮をはぎ、その皮で塔を覆った。ある者たちをその塔の中に閉じ込め、ある者たちを塔の上で磔にし、ある者たちを塔の周りに縛りつけた。……余に背いた役人ども、王族どもの手足を切り落とした。……余はこれらの者たちの多くを火で焼き、多くの者を生け捕りにした。ある者たちの鼻、耳をそぎ、指を切り落とした。多くの者たちの目をえぐり出した。ある時は生きた人間の山を築き、ある時は首の山を築いた。また、その首を町の周りの木に縛りつけた。彼らの息子・娘たちを火で焼いた。

余は20人の男を生け捕りにし、宮殿の壁に埋め込んだ(」D.D.ルケンビル『古文書シリーズ1、古代アッシリア・バビロンの記録』-ジョフリー・T・ブル『都市としるし-ヨナ書解説』1970年、109、110ページに引用)。

神の裁き

ある人たちは神の愛にのみ目を向けがちですが、ヨナ書の初めの数節を見れば、神が人間の罪悪に深い関心を寄せておられることがわかります。当然ながら、この神の関心は神の愛と対立するものではなく、むしろ神の愛の結果として生じるものです。

聖書を学ぶときには、言葉の選択とその繰り返しに十分注意を払う必要があります。聖書の記者は、特定の部分に下線を引いたり、太字を用いたりといった、現代のような強調手法を用いていません。その代わり、彼らは伝えようとすることに関して注意深く言葉を選んでいます。ヨナ書全4章のうちに「悪」という語が10回用いられています。そのうちの2回がニネベの住民について用いられています(ヨナ1:2、3:8)。これには理由があります。主はこの町がいかに悪い町であったかを知らせようとしておられるのです。

次の聖句は、神が人間の悪をどのように非難しておられますか。創6:5、創18:2、エゼ7:10、11、ハバ1:1~3、黙16:1~7

神は悪を非難され、イスラエルの周辺の国々に裁きを宣言されました。最終的には、黙示録にあるとおり、全地は神の裁きに服します。イザヤ書もエレミヤ書も、大部分は当時の国々に対する警告で満ちています(イザ13章、14:24~32参照)。

神の道徳的基準

十戒が圧倒的な力をもってシナイ山から宣言されたために、多くの人々は十戒がそのとき初めてイスラエル人に与えられたと考えています。また、十戒に啓示されている道徳律がそのときまで存在しなかったと考えています。しかしながら、創世記と出エジプト記の初めの数章を注意深く読むと、これらの戒めが以前から知られていて、人間がみなこれらの戒めに対して責任を負っていたことがわかります。

次の聖句は、シナイ山においてイスラエル人に十戒が与えられる前から、人々が契約の民と同じ道徳律に対して責任を負っていたことに関してどんなことを教えていますか。創12:10~20、創20:1~14、創39:1~9

聖句そのものの年代から推測して、ヨブ記は旧約聖書の中で最も古い書巻であると考えられています。しかしながら、ヨブ自身は契約の民ではありませんでした。彼はまた、シナイで十戒がイスラエル人に与えられる以前に生きた人物でした。

十戒のどの戒め(または、その基本的な原則)がヨブ記の次の聖句の中に表されていますか(出20章参照)。ヨブ31:5、6、ヨブ31:9~12  ヨブ31:16~23、ヨブ31:26~28、ヨブ31:38~40    

ローマの信徒への手紙1章18~20節を読み、この聖句が今回のテーマに関して教えていることを要約してください。

これらの聖句からも明らかなように、神は人間の悪や不義を不公平な、あるいは独断的な方法で裁かれることがありません。神は愛の神です。キリストの死は、これまで生きた人であれ、これから生きる人であれ、すべての人を包含します(ヨハ3:16、ロマ5:18、ヘブ2:9)。神の望みは、異教徒を含めてすべての人類が救われることです。これらの聖句によれば、神について十分なことが啓示されているので、彼らには「弁解の余地がありません」。

「弁解の余地がない」とはどういう意味ですか。それは、神がすべての不義を公平に正しく裁かれることに関して何を教えていますか。

ここで銘記すべきことは、この裁きを下される神が自ら裁かねばならない罪人のために十字架上で亡くなられたのと同じ神であるということです。十字架とその意味を正しく理解するときに初めて、私たちは悪に対する神の裁きを正しく理解することができます。

「しかし、悪人の滅びにおいて啓示される神のこの最終的な怒りでさえ、独断的な権力にもとづく行為ではない。『神は生命の泉である。しかし罪に仕えることをえらぶとき、その人は神から離れ、したがって生命から自分自身を断つのである』(『各時代の希望』下巻291ページ)。人々が自分の品性を養うために、神は一定期間の命をお与えになる。これが終わると、彼らは自らの選択の結果を刈り取る」(『SDA聖書注解』第6巻477、478ページ、ロマ1:18)。

人を分け隔てしない

使徒言行録10章34、35節を読むと、聖書は、預言者ヨナもイスラエル民族も諸国民の光となるという聖なる責任に忠実でなかったことを啓示しています。ヨナもイスラエルも、神が御自分の選民だけでなく全ての人類を愛しておられることを忘れました。神がイスラエルを御自分の特別な宝としてお選びになったのは、他の民族、異教徒にも福音を伝えるためにほかなりませんでした。

アブラハムの契約にはイスラエルのほかのどんな民が含まれていましたか(創22:18参照)。神はアブラハムによってだれを祝福しようとしておられましたか(ガラ3:26~29参照)。

ヨナも、神の愛がイスラエル民族を超えたものであることを知らなかったわけではないでしょう。しかし、神が世界に御自分の恵みを伝える道は容易に閉ざされがちです。私たちはみなそのような傾向を持っています。

新約時代においても、旧約時代のヨナがそうであったように、シモン・ペトロは日の当たる屋上で同じ問題に直面していました。

神はどんな方法でペトロに偏見のない愛を教えようとされましたか。使徒10:9~16、34、35、11:4~10

聖書の中で特定の部分が繰り返されている場合は、それが強調されている証拠です。ここで、ペトロは3度、神が清いと言われたものを清くないなどと言ってはならないと告げられています。彼は、神がすべての民を平等に愛しておられることを教えるものであると理解していました。

まとめ

神は人々が警告と裁きのメッセージを聞いて悔い改めるように望んでおられます。しかし、決して彼らの意志を強制されません。

「暴力の行使は神の統治の原則に反する。神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみめざめさせられる。神を知れば神を愛するようになる。神のご品性がサタンの品性と対照的に示されねばならない。この働きは全宇宙でただひとりのおかただけができた。神の愛の高さと深さとを知っておられるおかただけが、その愛を知らせることがおできになった。世の暗い夜に、義の太陽キリストが『翼には、いやす力をそなえて』昇られねばならない(マラキ書4:2)」(『各時代の希望』上巻4、5ページ)。

ミニガイド

イエスとヨナの類似点と相違点(ヨナは神ならぬ人間、かたや、イエスは肉体をとられた神であって、比較例示するには抵抗を覚える方もおありでしょうが、あえて試みました)

1.時代と背景

ヨナは旧約時代の預言者。背景には、ニネベの滅亡が迫っていた。イエスは新約時代の預言者(としても働かれた)。エルサレムの滅亡を控え、ひいては人類が滅亡に瀕していた。

2.出身地

ヨナは、ガリラヤ中央部、ガテ・ヘフェル出身。

イエスもガリラヤ中央部、ナザレ出身。ガテ・ヘフェルとは徒歩で約1時間の距離にあった。(主は、ガテ・へフェルの地を訪れては、ヨナの体験に予表されていた死と復活に、父なる神より託されたご自分の使命を重ね合わせて、その時の到来を待機しておられたのではないでしょうか)

3.人間性

ヨナは、弱い人間性をさらけ出し、与えられた使命から逃避しようとした。イエスは、父なる神に完全に服従され、人間性においても完全であられたのでご自分を「ヨナにまさる者」(マタイ12:41)と宣言された。

4.尋問の時

ヨナは、船上で尋問された時、「わたしはヘブライ人だ」と答えた。キリストは、大祭司に尋問されて、神のみ子であることを宣言された。

5.3日目の経験

ヨナは、一度は主のみ顔を避けて、自分の己の気の向くまま歩こうとして、信仰も使命も振り捨てようとして船底、大魚の腹に入り、海底深くまで堕落し、その後主によって3日目に引き上げられた。

イエスは、常にみ父のみ顔を求め、そのご意志に従順で、しかも人類の身代わりとなられたために、神からも見捨てられ、十字架に死んで黄泉にまで降るという苦悩を経験されたが、3日目に父なる神によって甦らされた。

6.死の覚悟

ヨナは、己れの良からぬ行動の故にやむなく死を覚悟した。

主は、ご自分はひとかけらの罪もとがもないのに、私達すべての罪を背負うために、自発的に死を覚悟し、死に赴かれた。

第4課 逃れるヨナ

第4課 逃れるヨナ

ここまでのところ、ヨナ書に書かれているのは、ごく普通の、当たり前のことです。つまり、預言者が神の召しを受けるという、ただそれだけのことです。事実、これは旧約聖書によく見られることです。たとえば、神はエレミヤに、「立って、ユーフラテスに行き……なさい」と言っておられます(エレ13:4、5)。また、エリヤに、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め」と言っておられます(列王上17:9、10)。そして、二人の預言者はその通りにしています。

ヨナ書が同じような書き出しになっているので、読者はヨナも同じように、「立って、ニネベに行きなさい」という神の召しに応答するものと考えることでしょう。ところが、そうではありません。ヨナ書は神の預言者とその行動に関する私たちの伝統的な考え方を拒みます。ヨナ書はこれまでの範例を根底から覆します!預言者ヨナは、神の命令に従わないどころか、逆の方向に逃れます。神の預言者として決してよいスタートではありませんでした。

しかし、驚くには及びません。預言者も人間であり、私たちと同じ恐れ、不安、疑いを持っています。主の預言者に完全を期待すべきではありません。そうではないでしょうか。ノア、ダビデ、バプテスマのヨハネ、そしてペトロはどうだったでしょうか。彼らはみな完全ではありませんでした。

「わたしがここにおります。わたしを遣わさないでください!」

ヨナという名前は「鳩」を意味します。彼は神から逃れようとします。

ヨナは神の召しに対してどのように応答しましたか。ヨナ1:3

驚くべきことに、ヨナ書はひとりの預言者が神の召しを受けながら、自分の任務を逃れようとしたと記します。ヨナの行為はとてもほめられたものではありませんが、神の召しに従うことをためらった例はこれだけではありません。

ほかにもだれが神の召しに従うことをためらっていますか。その理由は何でしたか。出4:1、10、13

イスラエル人を奴隷から解放するためにエジプトに戻るように神から告げられたとき、モーセは驚きと恐れのあまり神の命令に従うことを辞退しました。彼はいくつも理由を挙げて任務を拒絶しますが、最終的には従います。エレン・ホワイトはこのときの事情を次のように説明しています。「神の命令がモーセに与えられたとき、彼は、自信がなく、口が重く、おくびょうであった。彼は、イスラエルびとに対する神の代弁者としての、自分の不適任さを思って圧倒された。しかし、ひとたびその任務を受け入れるや、主にまったく信頼を寄せ、全心をこめて働きを始めた。彼はこの偉大な働きのために、彼の知力のかぎりを尽くして働いた。神は、モーセのこのような従順な態度を祝福されたので、彼は雄弁になり、希望に満ち、落ちつきを取りもどして、人間にゆだねられた最大の働きにふさわしい人物となった」(『人類のあけぼの』上巻291ページ)。

「鳩」が逃げる

神はヨナに命令を与えられますが、ヨナはその命令に従わないで逃れようとします。ヨナ1:3には、あからさまな反抗心が示されています。この聖句に用いられている動詞の一つ一つが、主と主の命令から逃れようとするヨナの行為を表しています。ヨナ1:3に用いられている各動詞に注目してください。ヨナは「立って」、逃れます(「立って」という動詞は、語源的には「立って、……ニネベに行きなさい」という主の命令に用いられているそれと同じです――口語訳参照)。彼はヤッファに下り、船を見つけ、船賃を払い、船に乗り込みます。これら一連の行動は、彼がはっきりした目的を持って神の命令を逃れようとしたことを暗示します。著者は巧みな方法を用いて、ヨナの逃亡がはっきりした意図によるものであることを示唆しています。

ヨナ書1:3の初めと終わりにどんな言葉が繰り返されていますか。これは何を意味しますか。

この聖句の中に2回、ヨナが「主から逃れようとした」ことが繰り返されています。1回でよさそうなものです。しかしながら、一つの聖句に同じことが2回繰り返されていることは、ただ預言者にとどまらず、人間が主から逃れることができると考えることの愚かさについて考えさせるものです!

ヨナは主を知り、イスラエルの神を拝み、天と陸と海の創造主を知っていました(ヨナ1:9参照)。したがって、自らの行動の愚かさをだれよりも知っていたはずです。何の力も持たない異教の神々に従っていたわけではありません。

それどころか、自ら白状しているように、彼は神の力を知っていました。すべてを承知の上で逃れたのでしょうか。いったい、何を考えていたのでしょうか。

向かった

ヨナ書1:3は3回、ヨナがタルシシュに向かったと記しています。一つの聖句に3回も、です。ヘブライ語の物語体を記述する場合の、この特徴的な繰り返しに注意してください。著者はだらだらと書いているのでもなければ、口ごもっているのでもありません。そうではなく、著者は読者に重要な問題について考えさせようとしているのです。ここでタルシシュの町が3回繰り返されているのは、この町が、主がヨナに行くように言われたニネベと正反対の方角にあるからです。ニネベは東の方角で、タルシシュは西の方角です。ヨナの反逆はこれではっきりします。

神の明らかな命令と反対のことをした人物の例をほかにあげてください。創2:16、17と3:6、サム上15:3と15:21~23、出20:4~6とエゼ8:10

ヨナ書1:3で、ほかにどんな動詞が2回用いられていますか。

この聖句の中に2回、ヨナが「下った」と書かれています〔英語聖書参照〕。5節にも同じことが書かれています。つまり、ヨナはヤッファに「下り」、船に「乗り込み(下り)」、船底に「降りて」います。このように、続けて3回、ヨナは「下った」と書かれています。著者は注意深く、ヨナが神の命令から離れて行く様子を描いています。このような特殊な動詞が用いられているのは偶然ではありません。ここでは、それは否定的な含みを持ちます。事実、現代ヘブライ語では、「下る」という動詞は否定的な意味を持ち、反対に、「上る」は肯定的な意味を持ちます。

神の忍耐深い恵み

ヨナが主から逃れたとき、タルシシュへの船賃を払ったとき、全てが、そして彼の召しも終わっていたはずです。私たちが反逆し、神の指示から逃れ、神の命令に背くとき、それは私たちの終わりを意味します。神にはいつまでも私たちと取り引きしなければならない義務はありません。私たちが決定的な過ちを犯したときには特にそうです。しかし、神は私たちの理解を超えた愛のゆえに、私たちの度重なる失敗にもかかわらず、私たちのために働いていてくださいます。この忍耐深い神の恵みのゆえに、私たちは心から神に感謝すべきです。私たちの一つの大きな失敗のゆえに、神が私たちを見捨てられるとしたらどうでしょう。もしそうなら、いかなる聖人であれ、救われる望みはありません。恵みとは、もう一度、いや何度もやり直す機会が与えられること以外の何ものでもありません。

神の命令に背いた人たちのために、神がなおも働いてくださった実例を聖書からあげてください。創3章、創16章、サム下11章、マタ26:74、75      

決定的なときに信仰を捨てた人たちに対する神の恵みについての記録から、どんな教訓を学ぶことができますか。

神はヨナを召されますが、ヨナはそれを拒みます。主はヨナを反逆したままにされるでしょうか。ヨナの大きな過ちのゆえに彼をお見捨てになるでしょうか。そうではありません。ヨナは大胆にも逃亡しますが、主は彼と共におられます。ヨナは主を拒みますが、主はヨナを拒まれません。主によって召されたヨナは主を捨てますが、聖霊は彼をお捨てになりません。

自然界を支配される神

神はヨナの不服従にどのように応えられましたか。ヨナ1:4、ヨナ2:1(口語訳1:17)、ヨナ2:11(口語訳2:10)

ヨブ記38章を読んでください。今日の研究に関連して、この章はどんな重要なことを教えていますか。

自然界の法則を定められたのは神です。これらの法則は自らの力で機能しているのではありません。法則の賦与者である神がそれらを支配しておられるのです。一連の原因とその結果も神によって定められました。聖書によれば、神はそれらを思いのままに管理し、支配し、動かしておられます。

神がヨナの逃亡に対してとられた最初の行為は何ですか。ヨナ1:4

この大風は単に自然の力によるものではなく、自然界を含む万物を支配される神によるものでした。しかし、それは単なる力の誇示ではありません。自然の力と多くの無実の水夫たちがヨナの冒険に巻き込まれています。大風が起こったのは気むずかしい預言者(ヨナ)を追跡するためであり、その過程で預言者と同じ船に乗り合わせていた多くの人々を巻き込みました。

まとめ

エジプトの災害に関するエレン・ホワイトの言葉は多くの教訓を含んでいます。「破滅と荒廃が、滅びの天使の通ったあとを示していた。ゴセンの地だけが助かった。地は、生きた神の支配のもとにある。そして、自然は、神のみ声に従っている。だから神に従うことだけが安全であることが、エジプト人に明らかに示された」(『人類のあけぼの』上巻308、309ページ)。

黙示録によれば、キリスト再臨前にも同じような状況がこの世界に起こります。エレン・ホワイトはヨナの経験に関連して次のように記しています。

「人間の力ではいやすことのできない悲しみが、この世界に起こる時が近づいている。神の霊が取り去られつつある。海にも陸地にも、次々と急速に災害が起こる。地震、大竜巻、火事、洪水による破壊、人命財産の大損害などを、なんと度々耳にすることであろう。一見、こうした災害は、人間の力を超えた自然の猛威が突発的に起こしたものと思われるであろう。しかし、その中にあって、神のみこころを悟ることができるのである。神は、こうした方法によって、人々に、彼らの危険を自覚させようとしておられるのである」(『国と指導者』上巻244ページ)。

ミニガイド

ヨナの逃亡の理由

ヨナが、明白な神の命令を聞きながら、あえて逃亡したのはなぜでしょうか。彼が臆病だったからでしょうか。そんなふうには見えません。暴風雨が起きて船が沈みそうになった時、水夫たちも他の乗客たちも右往左往している中で、彼は船底で熟睡していたとあります。ガリラヤ湖上で暴風雨に巻き込まれた弟子たちの狼狽ぶりを尻目に、艫(とも)の方で眠っておられた主イエスの姿にも似た落ち着きぶりです。またクジに当たって、自分が荒れ狂う波間に投げ込まれる時も、おじ惑った様子はありません。大胆沈着な人だったようです。

ですから、他に理由があるようです。聖書には詳しく書かれてありませんが、ヨナ書4章2節に示唆があります。すでに預言者として名を馳せていた彼の目には、当時の政界情勢は一目瞭然でした。アッシリアが大きな勢力を得て他国を侵略していましたし、無防備な北王国イスラエルを攻撃してくるのも時間の問題でした。

この大国はパレスチナを領有する野望を持ち、アッシリアの碑文には、アダド・ニラリ3世がヤロブアム王の治めていたイスラエルにみつぎ物を課したことや、シャルマネセル3世はアハブ王と戦い、エフーからみつぎ物を受け取ったという記録が残っています。

また、アッシリアが征服した敗戦国をいかに残酷に取り扱うかも知っていました。どちらかと言えば、ヨナはアッシリアに天罰が降ることこそ望ましいと考えていたかもしれません。ヨナが宣教の命令を受けた頃は、アッシリア自身も北からの脅威を受けて、士気が衰えていた時でもありました。したがって、自分がニネベに出かけて悔い改めを促せば、その町の住民たちが神の警告を心に留め、悔い改めれば、神はこれを是認される可能性が強い。そうなれば、この国が力をつけて、再び自分の母国にとって脅威になりかねないと判断したのではないでしょうか。自分が、ここで敵前逃亡したとなれば、預言者としての名声に傷は付くかもしれないが、そのために祖国が助かればよいという愛国心からこのような行動をとったのでしょう。

ヨナ書には、彼が主のみ顔を避けて逃れようとしたと書いてあります。しかし、主は、世界中どこにも遍在なさるお方であり、誰も主から逃れる術はないのだということも重々知ってはいたはずです。それでも、彼がタルシシを選んだのは、当時の地理観では、そこが地の果てであり、引き返すことができないほど遠くへ足を伸ばせば、神はあきらめて自分以外の人を預言者に選ばれるだろう。そうすればこのいやな任務をはずしてもらえると期待したのでしょう。それとも、多分、神に対する無駄な抵抗と知りつつも、あえて逃亡を企てたのでしょうか。

第5課 ヘブライの預言者と異教徒の水夫たち

第5課 ヘブライの預言者と異教徒の水夫たち

ある意味で、今回の研究で学ぶこと(ヨナ1:4~13)は古代イスラエルの経験に対する模範とも言えるものです。神の当初の計画は、異教の民が神の選民に対する神の憐れみを学ぶためにあらゆる国から集まってくることでした。残念ながら、結果はそうではありませんでした。イスラエルの不信仰のゆえに、異教の民がヘブライ人のもとに来る代わりに、ヘブライ人がしばしば鎖につながれて、異教の民のもとに下って行きました。神が予告されたとおり、彼らは大いなる災難と苦悩の中で神をあかしすることになります。

今回は、これほど大規模なものではありませんが、同じような経験について学びます。ヨナは大いなる試練と災いの中で、つまり大風によって船が沈みそうになるという極限状況の中で、異教徒に主をあかしせざるを得ませんでした。

海上の嵐

ヨナ書1:4、5を読んでください。主は大風を送られます。船は沈みそうになります。異教徒の水夫たちはそれぞれの神に助けを求めて叫んでいます。しかし、ヨナは「船底に降りて」(5節)寝込んでいるところを船長に見つかります。このような危機に際して寝込んでいるヨナを見て、船長は憤慨したことでしょう。

異教徒の水夫たちはどうしたでしょうか。聖書によれば、彼らは「積み荷」を海に投げ捨て始めました。これらの積み荷は普通の状態であれば大切なものでした。しかし、危機に際して、彼らはすすんでそれらをすべて海に投げ捨てたのです。ここに霊的教訓があります(マタ16:26、コヘ2:11、Ⅰヨハ2:15~17参照)。あなたは大切であると思っていたものが突然、無価値に思われる経験をしたことがありませんか。主はそのような状況を通して真に価値あるものを教えようとしておられるとは思いませんか。

船長がヨナに憤慨したのはなぜですか。彼は眠っている預言者にどうするように言いましたか。それは信仰から出たものですか。それとも単なる絶望から出たものですか。ヨナ1:6

船長はヨナに、「起きて」(ヨナ1:6)と呼びかけていますが、これはヨナが初めに神から言われた「立って」(1:2、口語訳参照)と同じです。また、船長はヨナに、神を「呼べ」(6節)と求めていますが、これは神が初めにヨナに言われた、ニネベに「呼びかけよ」(2節)と同じです。起きて、呼べという命令が天の神を拝まない異教徒の水夫の口から出ていることは興味深いことです。

奮発する水夫たち

ヨナがひとり取り残されている間、水夫たちは荒れ狂う嵐と格闘します。この暴風は神々が怒っていることの証拠であると、水夫たちは考えます。

実際には、この暴風は怒りではなく愛から出ていました。ヨナと水夫たちにはそのことがわかりませんでした。このことは、何か恐ろしい状況に直面したときに誤った結論を引き出すことのないように注意すべきことに関してどんなことを教えていますか(箴3章、ロマ8:28、Ⅰペト4:12参照)。

このような恐ろしい嵐は誰かが罪を犯したせいだと水夫たちは考えましたので、くじ引きで犯人探しをします。昔のイスラエルなどでは、くじは困難な状況を打開する方法として一般に用いられていました(民33:54、サム上14:41、42、エス3:7、参照)。

聖書には、人の悪が災いをもたらした実例が記されていますが(ヨシュ7章)、災いがだれかの罪の結果であると考えることが危険であるのはなぜですか(ヨブ1、2章参照)。

くじがヨナに当たると、水夫たちは次々に質問しています。なぜくじがヨナに当たり、なぜヨナが暴風の原因なのかと。ここまで沈黙を守っていたヨナですが、質問攻めにあうと、用心深く答えます。しかし、自分の仕事、出身地、国については答えず、彼は自分が「ヘブライ人」であると告げます。それから、自分は「主を畏れる者だ」と答えています。

海でのあかし

自分がヘブライ人であることを明かした後で、ヨナは水夫たちに「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と。

ほかにどんな預言者が「天の神」という称号を用いていますか。ダニ2:19

神がネブカドネツァルの夢を解き明かし、バビロンの知者たちの命を救われた時、ダニエルは「天の神」をほめたたえています。何よりも興味深いことは、ヨナが「天の神、主」と言い、この主が海と陸を造られた創造主であると言っていることです。

次の各聖句はわたしたちの信仰にとって非常に重要なことを教えています。それは何ですか。出2:11、詩100:3、146:5、6、マラ2:10、コロ1:16、17、使4:24、黙4:11、14:7          

主が万物の源、真理の基礎、創造主、この世界を創造されたお方であるという単純ではあるが非常に重要な事実から、神の力と権威が来ていることをヨナは知っていました。私たちの信仰は、私たちが万物を創造された神を礼拝しているという観念にもとづいています。それは、神だけが創造主、神だけが唯一の、まことの神であるという事実です。もし神が創造主でなかったなら、神を礼拝する意味はありません。なぜなら、神は私たちと同じく、神以上に偉大なお方によって造られた被造物に過ぎなくなるからです。

なんという皮肉なことでしょう。ヨナはニネベの異教徒にあかしすることを拒み、せっかく神の召命から逃れてきたというのに、船上の異教徒たちに神をあかしせざるを得ない破目になりました。

ヨナのどんな言葉が水夫たちを恐れさせましたか。ヨナ1:9、10

水夫たちは暴風のためにすでに「恐怖に陥」っていたのに、暴風の恐ろしさよりも、むしろヨナの信仰告白に対して「非常に怖れ」ました。それもそのはずです。ヨナが力ある神を崇めると言いながら、その神から公然と逃れていたからです。異教徒の彼らは神についてあまり理解していませんでしたが、神がヨナの不従順を罰するためにこの暴風を送られたと理解しました。そして、自分たちが不運にもこの男と居合わせたために、一緒に滅ぼされるのだ、と。

これら異教徒の水夫たちとヨナとの間には、際立った違いが見られます。神の預言者ヨナは自分の畏れる神に逆らいましたが、異教徒の水夫たちは力ある天の神と聞いただけで大いに畏れました。水夫たちは暴風に遭っただけで、ヨナが怒らせたに違いない神の力を認めました。

水夫たちのこの確信は、ヨナが意識的に神を証したことによるものではありませんでした。ヨナは嵐の中でやむなく信仰を告白しただけでした。しかし、この予期せぬ告白によって、水夫たちの心は動かされました。ヨナが天地の神から逃れてきたと聞いたとき、彼らは恐怖の念に満たされました。このように、不従順の中にあってさえ、ヨナは神によって証人として用いられたのでした。

水夫たちが心を動かされたのはヨナの品性によってではありませんでした。事実、彼らはヨナのうちに特別な美徳を何一つ見ていません。それにもかかわらず、神はヨナの不従順を避けてお働きになることができました。皮肉なことに、水夫たちがまことの神について何かを学んだのは、ヨナのあかしのおかげでした。

状況が悪化する

ヨナ書1:10で、どんな言葉が3度繰り返されていますか。

ヨナ書1章で、「主の前から」(主から)という表現が繰り返しのように用いられています。3節にもすでに2度用いられています。ヨナ書の著者は、ほかの聖書書巻の著者と同様、慎重に言葉を選んでいます。ヘブライ語の物語における繰り返しは、重要なことを強調するために用いられる手法です。ここでは、ヨナの強情な態度が強調されています。

この表現が再び用いられているのはなぜだと思いますか。著者は何を言おうとしていると思いますか。そこにはどんな皮肉が込められていますか。全知の神の前から逃れることのできる人がいますか(箴5:21)。

暴風がひどくなるにつれて、水夫たちはますます絶望的になります。何らかの手を打たなければ、だれも助からないでしょう。水夫たちがなおも主導権を握っていることに注目してください。

彼らはヨナの崇める神を認めました。今、彼らは自分たちの取るべき方法をヨナに尋ねます。神の怒りを静めるにはどうしたらよいか。「さあ、教えてくれ。言われた通りにするから。事の発端はお前さんにある。解決策を示してくれ」。

ヨナの応答に注目してください(ヨナ1:12)。彼は自らの非を認めて進んで犠牲になろうとしたでしょうか。敬虔な殉教者になろうとしたでしょうか。それとも、なおも神に反逆し続けたでしょうか。あるいは、悔い改めの表現でしょうか。

さすがのヨナも、いくぶん考えが変わったようです。彼は自分が主から逃れてきたこと、また自分が現在の苦難の原因であることを認め、滅びを免れるために進んで海に投げ入れられようとします。

まとめ

ヨナの応答を、同じ水域で暴風に遭った使徒パウロの体験と比較してください(使27:21~25)。

パウロは全体を指揮し、神が必ず自分たちを救ってくださると言っています。彼は失望しないように励ましています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります」(使27:23~25)。ヨナも神に対して同じ信仰を表していたならどうなっていたでしょうか。

ミニガイド

正当化

「どうして、あの残忍極まりないアッシリアに行けと言われるのか!その役がよりによってなぜこのわたしなのか!」この愛する自国イスラエルを支配しようとたくらむ宿敵の町に「行って呼ばわれ」という主のお言葉は、ヨナにとって我慢のならない不愉快な役割でした。狭量な愛国心にかられて、ヨナはそれだけ排他的になり、不安と不満の中で彼の頑固な心は、ますます募っていきました。

「何とかこの役をはずしてもらいたい」。イスラエルがアッシリアの求めにしたがって、みつぎ物をささげ、隣国アラムがアッシリアにさいなまれているのを知ってはなおさらでした。

「こうなれば、主のみ顔を避けて、どこか遠くへ行くしかない」、そう意を決して、ヤッファに行きます。はたして、タルシシ行きだというおあつらえ向きの船がありました。「やった、やはり自分の判断も見捨てたものではない。こんなに遠くへ行けば主もあきらめてくださるだろう」。非常な後ろめたさを持ちながらも、早速乗船切符を手にして、タイミングの良さと自分の決断の早さにほくそ笑んで、出帆を待ちました。

ヤッファにやってくる途中でも、良心はうずいたかもしれません。「あれもこれも、神様が間違っておられたのだ。無理な命令だ、不合理だ、わたしこそ被害者だ」と道すがら自分に言い聞かせて歩いたのでしょうか。

首尾よく船には乗り込めましたが、やはり主のみ心に背いている後ろめたさからか、彼は人目も避けて、船底に一人身を隠し、ふて寝を決め込むのでした。

傍目から見れば、ヨナの行動は滑稽で、幼児性を感じさせるものですが、いざ私たちが主の明白な御心を知り、それに従うよう求められた際、ヨナを笑うことができるでしょうか。

私たちはどのようにして神の私に対するみ心を知ることができるでしょうか。預言者たちのように直接天の声を聴くことはないでしょう。しかし、よく聖書を読んでいる人は、その人がなすべき行動が示されるはずです。

もちろんヨナのように、様々な被害者意識を育てて、自分を正当化することもできます。キリスト者の多くは、全面的にご命令を否定することはしませんが、また、全面的に主に従ってもいません。「ほんのこれくらいだから、これくらいは赦される」と言っては、自分を納得させ、神の赦しを勝手に決め込んでいることはないでしょうか。

第6課 救いは主にある

第6課 救いは主にある

ヨナ書1章は山場を迎えます。神からの使命を逃れてきた預言者ヨナは暴風に遭って死にそうになります。しかし、このような苦境の中で主に祈ったのは預言者ヨナではなく、異教徒の水夫たちでした。

「ついに、彼らは主に向かって叫んだ。『ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから』」(ヨナ1:14)。なんという皮肉でしょう。イスラエル人でない異教徒たちが、不従順な神の預言者の前で、預言者の死の責めを自分たちに負わせないでくださいと祈っています。主の僕たちが黙っている一方で、異教徒たちが主に祈るこのような光景は聖書の中にめったに出てきません。終始、異教徒たちが本来ならヨナのなすべきことをしています。

さらに、これらの水夫たちはヨナのあかし(9節)を受け入れて、イスラエルに与えられた特別な契約名を用いてヨナの神に祈っています。彼らは恐怖にかられて行動していたかもしれませんが、時には恐怖も注意を喚起するうえで有用かもしれません。

物語に沿って、次に何が起こるか見てみましょう。

主を畏れる

先週は、死に物狂いの中で、彼らは言われた通りヨナを海に投げ込みます。すると、「荒れ狂っていた海は静ま」ります(ヨナ1:15)。海を造られた神は明らかにそれを支配しておられます。

暴風が静まったのを見た水夫たちはどうしましたか。ヨナ1:15、16

水夫たちが天候の急変を気まぐれな自然のせいと見ることもなく、単なる偶然や幸運とも見ていません。それどころか、彼らは「大いに主を畏れ」ました(16節)。先に、彼らは暴風を恐れましたが、今は暴風そのものよりも暴風の主を畏れました。それまでは様々な偽りの神々を拝んでいた水夫たちが、ヤーウェの神を拝み、誓いを立てています。彼らは生ける神を知るに至り、海を創り、それを支配しておられる真の神に犠牲を献げ、誓いを立てています。

神は奇跡によって水夫たちを救われました。その結果、水夫たちは神を崇めるに至りました。このことはイエスの生涯と働きによる救いの計画をどのように例示していますか。ヨハネ9章参照

私たちはイエスによって救われ、死から解放され、次に、この救いの結果として、イエスを崇め、従うようになるのでした。これらの水夫たちの場合も同じです。畏敬、礼拝、服従そのものは決して人を救いません。それらは信仰によって奇跡的に救われたことの結果に過ぎません(ガラ2:20参照)。

魚の腹の中で

水夫たちはみな、ヨナが溺れ死んで、海底の藻屑(水難・海戦などで死ぬこと)となったに違いないと考えたことでしょう。しかし、ここでもまた、神が自然界を完全に支配しておられることが明らかにされます。

神の主権がどのようなかたちで現されましたか。ヨナ2:1(口語訳1:17)

人間が生きたまま魚に呑み込まれ、その腹の中で丸3日も生き続けるという話は、この21世紀だけでなく、どの時代にあっても信じがたいことです。それなのに聖書は、この不思議な出来事の説明も正当化もしていません。著者はただ、そのことを事実として記録しているだけです。主がそうされても何ら不思議なことはない、と考えているからです。ヨナ書は、主が大いなる魚に「命じて」とあるのは、「定めて」と訳すこともできます。この動詞の語源になっているヘブライ語は、「定める」「備える」「数える」「見なす」を意味する言葉です。ここで、この言葉が用いられているのは、神が被造物を支配することによって御自分の目的を達成されることを強調するためです。事実、著者はほかに3回、これと同じ動詞を神の主権と結びつけて用いています。

ほかにどんな動詞が魚の行為を描写するのに用いられていますか。

旧約聖書の中に「呑み込む」という動詞は、神の民に対する裁きを描写するのに用いられる場合があります。事実、神の民に対する裁きの多くは彼らを悪から立ち返らせるための手段にほかなりませんでした。裁きには贖罪的な意図がありました。主はヨナに対してもそのような意図を持っておられたに相違ありません。そうでなければ、魚はヨナを丸ごと呑み込む代わりに、噛み砕いていたはずです。

ヨナは何日間魚の中にいましたか。ヨナ2:1(口語訳1:17)

これと同じ時間的表現が旧約聖書のどこに見られますか。サム上30:12、列王下20:5、8、ホセ6:2

この時間的表現は新約聖書の中でどのように用いられていますか。マタ12:39、40(ルカ11:30参照)

イエスはヨナの奇跡的救出を御自分の苦難・死・復活のしるしとして用いておられます。預言者ホセアは、ヨナの経験の時期を復活の文脈の中で語っています(ホセ6:2)。このように、キリストが御自分の死と復活の経験をヨナの経験にたとえられたとき、彼は旧約聖書にすでに見られる一般的な理解にもとづいて語っておられたのです。

一方、地中海に投げ込まれたヨナは、自分をすっぽりと包み込んでいる闇が「陰府」(ヨナ2:3)のそれでないことを理解するにはしばらく時間がかかったでしょう。自分が助かったとわかったとき、彼はそれを神の救いのしるしとして受け入れました。

その時、ヨナはどうしましたか。ヨナ2:2(口語訳2:1)

ヨナの祈りは、溺れるときの苦しみ、死の淵で感じたこと、「大魚」の腹の中での体験や思いをよく表現しています。彼はその祈りの中で詩編の言葉をいくつも引用しています。祈りの中で詩編の言葉を引用することは珍しいことではありません。

地とその扉

ヨナ書2:3~10を読んで、ヨナの祈りの冒頭部分を詩編18:7(口語訳18:6)、120:1と比較してください。ある聖書注解者たちはこのヨナの祈りを、主が恐るべき境遇から救い出してくださったことに対する感謝の詩編と呼んでいます。

興味深いのは、生きたまま魚に呑み込まれた後も、ヨナが自分を救ってくださった神をほめたたえていることです。明らかに、彼は主の御手の業を見、神の救いを悟ったはずです。ヨナは主に背き、明らかな義務から逃れようとしました。しかし、主は彼をお見捨てになりませんでした。

ヨナ書2:5を読むと、ヨナはここで、「わたしは思ったあなたの御前から追放されたのだと」言っています。これをヨナ書1:3、4と比較してください。どんなことがわかりますか。

絶望的な苦悩で始まるヨナの祈りはどのように結ばれていますか。ヨナ2:10(口語訳2:9)

多くの人は神の憐れみに関するこの最終的な宣言をヨナ書の中心、著者の強調点と見なしています。結局、ヨナは神の救いの憐れみを認めざるを得ませんでした。しかしながら、異教徒の水夫たちはすでにそのことを認めていました。

ヨナ書1章と2章は共にいけにえと誓いをもって終わっています。そこにはヨナの経験と水夫たちの経験とが対比されています。どちらも暴風という極限状況に直面しました。どちらも神の主権を認めて、神に助けを求めました。どちらも助かりました。どちらも礼拝をささげました。多少時間がかかりましたが、ヨナも最後には異邦人の水夫たちと同じ境地に到達しました。

苦しい時に祈る

ヨナは、「救いは、主にこそある」という言葉をもって祈りを結んでいます。この「救い」にあたるヘブライ語は直接的な肉体の救いばかりでなく、永遠の救い、究極の贖いをも意味します(「救い」という言葉は語源的にはメイエスモと同じです)。

もちろん、ヨナの問題は主に対する信仰にあるのではありません。ヨナ書1章で、ヨナは神に対する信仰とは無関係に行動しています。したがって、彼が主と主の力についてどれだけ素晴らしい宣言をしたとしても、それだけでは何の意味も持ちません。ヨナの場合は「行いの伴わない信仰」の最も良い実例の一つです(ヤコ2:18~20参照)。

行いの伴わない信仰の実例をあげるとすれば、だれをあげますか。ユダですか。サウルですか。12人の斥候ですか。彼らの信仰はどのように現されましたか。

ヨナはその祈りの中で一度も自分の背信を告白していません。彼が心から悔い改めたしるしはありません。もちろん、だからと言って、彼が魚の腹の中で罪を告白しなかったということにはなりません。しかし、そのように書かれていない事実を見落としてはなりません。たとえ彼が罪を告白して、心から悔い改めなかったとしても、主はなおも彼を試し、彼と共に働かれるのでした。

ヨナの祈りを詩編51編のダビデの祈りと比較してください。どこが同じで、どこが異なりますか。

ヨナの祈りは私たちに、失敗の中でも祈ることができることを教えています。たとえ、その失敗が自分自身の不従順によるものであっても、です。これはぜひ学びたい教訓です。なぜなら、そのようなときに祈ることは非常に難しいように思われるからです。神に祈る権利がないように感じるからです。祈りたくても、神の助けを求める資格がないように感じるからです。

まとめ

「悪魔がきて、あなたは恐ろしい罪人であると言うならば、あがない主を仰ぎその功績を語りなさい。キリストの光をながめることは大きな助けになります。自分の罪を認めるとともに、敵には、

『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』

(テモテ第1・1:15)と告げねばなりません」(『キリストへ道』)。

「罪を告白した後で、神の御言葉が確かであること、神が約束に忠実なお方であることを信じなさい。罪を告白することがあなたの義務であるのと同じくらい、神が御言葉にしたがって、あなたの罪を赦してくださると信じることもあなたの義務である。御自分の御言葉に約束されたことを忠実に実行し、あなたのすべての罪を赦してくださる神に対して信仰を働かせなければならない」

(エレン・G・ホワイト『この日も神と共に』89ページ)。

「あなたは過ちを犯したことがないだろうか。イエスのもとに行き、イエスに赦しを求め、イエスが赦してくださると信じなさい。

『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます』(Iヨハ1:9)。主に過ちを赦してくださるように求めなさい。そして、主にあって喜びなさい」(エレン・G・ホワイト『天をながめて』132ページ)。

「自分の欠点を嘆いていても何の助けにもならない。むしろ、次のように言いなさい。『主よ、私の哀れな魂をあなたに、しかもあなただけにお委ねします。私はもう心配しません。あなたが、「求めなさい。そうすれば、与えられると言われたからです』。与えられると信じなさい。あなたの救い主が同情に満ちたお方、優しい憐れみと愛に満ちたお方であることを信じなさい。ささいなことで悩んではならない。主は小さな失敗によってあなたを大きな失敗から守ってくださるのである」(エレン・G・ホワイト『天をながめて』132ページ)。

ミニガイド

船底で熟睡しているヨナが目を覚ましたのは、前代未聞の嵐に遭遇した乗組員たちの動揺と、船客たちの戸惑いに翻弄されている船長の荒々しい声でした。嵐の原因を突き止めたい彼らは、乗船するや否や、姿をくらました一人の乗客に思い当たる節がありました。

さんざん捜したあげく、船底でふてぶてしく寝息をたてている乗客ヨナを見つけました。乗組員、乗客がみな顔を揃えたところで、神の怒りの原因を知ろうと、クジを引き始めました。ヨナの心境は、あのアカンが部族から家族へ、そして自分に当たった時のようであったでしょうか。神のご指示は、寸分の狂いもありません。ヨナに的中したのです。

異教徒の人々は、矢継ぎ早に質問を浴びせて、神を信じているといいながら、大胆にもそのご命令に背いた預言者、嵐の原因ともなった人をつきとめました。

「なんという事をしたのだ」。これは重い言葉です。「あなたはクリスチャンでありながら、どうしてそんなことをするの?どうしてそんなことを言うの?」と問われて、クリスチャンとしてふさわしくない言動があったことを知り、我ながら恥じ入ることがあります。その人はクリスチャンの標準を知りながら、自分がその標準にないことは棚に上げて、クリスチャンの言語動作を観察して、その非をあげつらわれた経験が、皆さんにも一度ならずあると思います。

「『海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ』と告白しながら、その実、お前たちは偽善者だ!お前たちの生活はなっちょらん!」私も家内の家を訪問した時、義父から何度も聞いた言葉です。たしかに義父は、周りの人々に親身になって世話を焼き、人々もその振る舞いや人格に評価を与えていました。

私たちの立場から、神を信じない人の生活を見れば、逆の質問をしたいぐらいに、その人の生活はもっと虚偽に満ちていると思える人をあえて神はお用いになって、私たちの弱点や偽善的な一面を浮き彫りにされて、私たちを矛盾のない生き方に連れ戻れそうとなさるのでしょう。

私たちは「すべての人から読まれている」「キリストの手紙」(Ⅱコリ3:3)であるだけに、その責任と特権を自覚したいと思います。未信徒の人々の目は鋭く厳しく感じられますが、キリストの目はもっと鋭く的確なものであることも覚えましょう。

「立っている者は、倒れないように」気をつけねばなりませんし、これまで大丈夫だったからといって、この後も大丈夫という保障はありません。ただ、神の憐れみにすがって、一歩一歩進むのみです。自分の非を悟ったヨナも、自ら水中に身を投じる勇気もなく、投げ込むように頼むしかなかったのですが、憐れみに富む神のまなざしは注がれ続けられました。

第7課 第二の機会

第7課 第二の機会

ここまで、ヨナ書に記された様々な出来事について見てきました(まだ2章しか見ていません)。これまでに学んだなかで最も重要なことの一つは何でしょうか。それは、ヨナのうちに働かれた神が今日の私たちのうちにも働いておられるということです。私たちの試練や経験はヨナほど劇的ではないかもしれません。私たちの召しはヨナほど重大ではないかもしれません。しかし、神が私たちに対して抱いておられる関心と愛は、神がヨナに対して抱いておられたそれと何ら変わりありません。もちろん、そのように信じる信仰があれば、の話ですが。神がヨナのためになさったことはすべて、この優柔不断な預言者を御自分の望まれるところに導くためでした。神は私たちに対しても同じようにされないでしょうか。もちろん、その必要があれば、の話ですが。

ここまでヨナ書の中で見てきたことは聖書全体に見られることの一つの特別な例です。それは従順な心の持ち主に対して働く神の驚くべき恵みと言えます。

神の「言葉」が再び臨む

ヨナ書2章11節(口語訳10節)を読んでください。多くの翻訳では、この聖句の微妙な意味が訳出されていません。この聖句を文字通りに訳すと、「主は魚に言われた。すると、魚はヨナを吐き出した」となります。「主〔神〕は言われた」という表現は聖書にごく普通に見られる表現です。

たとえば、創世記の天地創造の記録の中に、次のような表現が見られます。「神は言われた。『光あれ』。……神は言われた。『水の中に大空あれ』」(創1章参照)。同じように、ヨナ書でも、被造物に対する主の権威を示す動詞形が用いられています。もし主がその言葉によってこの世界と自然界を創造されたとすれば、ヨナ書の初めの数章に見られるように、主が同時に自然界を支配されるとしても不思議ではありません。

ヨナ書3:1を1:1と比較してください。どんな共通点が見られますか。

ここでも、神の行為がその「言葉」を通して現されています。詩編33:6、107:19、20、イザヤ書55:10、11を読み、そこに主の「言葉」がどのように現されているか見てください。これらの聖句は、神が御心を地上に実現される方法を示しています。それによれば、神は御自分の「言葉」を通して御心を地上に実現しておられます。

「タルグム」は旧約聖書(の一部)をアラム語に訳したもので、ユダヤ教の会堂において大きな影響力を持ちます。それによれば、「主の言葉」は主御自身と密接な関係に置かれています。

聖書には、「神は……人を創造された」とあります(創1:27)。タルグムはこれを、「主の言葉は人を創造された」と訳しています。聖書には、「主は……地上に人を造ったことを後悔し」とあります(創6:5、6)。タルグムはこれを、「主は御自分の言葉によって人を造ったことを後悔し」と訳しています。聖書には、アブラハムは「主を信じた」とあります(創15:6)。このような例はほかにもたくさんあります。

ヨナは初めに従わなかったにもかかわらず第二の機会を与えられています。ヨナは故意に、頑固に神に背きました。不思議なのは、神がそれでもヨナをお見捨てにならなかったことです。神は背いたヨナを再び召しておられます。

神はほかにだれに第二の機会を与えておられますか。創22:1~10

「神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた」(『人類のあけぼの』上巻153ページ)。

第二の機会を与えられた人をほかにあげてください(創28:10~22)。あなたもそのような経験がありますか。

「エサウの怒りに生命をおびやかされて、ヤコブは逃亡者となって父の家を出た。しかし、彼は、父の祝福をたずさえていった。

……しかしヤコブは、深く物思いに沈んでさびしい旅に出かけた。2日めの夕方、彼は父の家から遠く離れたところに来ていた。彼は、自分が放浪の身に陥ったことを感じた。そして、この苦しみは、すべて、自分のまちがった行為の結果であることを悟った。絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈ることすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。……しかし、神はヤコブを見捨てられなかった」(『人類のあけぼの』上巻198、199ページ)。

神の賜物

私たちの神は赦しの神、愛と憐れみの神です。救いの全計画はこの赦しの思想にもとづいています。それは、神がキリストによって罪のゆえに死すべきものとなった人間に命を与えてくださるという思想です。

次の各聖句は人間の本質、品性、行為について何と教えていますか。イザ53:6、イザ64:6(口語訳64:7)、エレ17:9、ロマ3:23、ロマ5:12

私たちの周囲を見れば、これらの聖句の正しさが容易に理解できます。周囲を見るまでもなく、自分自身を見るだけで十分です。神はヨナに第二の機会をお与えになりましたが、これは神がイエスの十字架を通して人類のために成し遂げてくださったことの実物教訓です。私たちはみなキリストを通して第二の機会を与えられています。私たちはみな、キリストが与えてくださる輝かしい贖いにあずかる機会を与えられています。

エフェソ2:1~10を注意深く読んでください。これらの聖句は上記の言葉をどのように要約していますか。罪、死、過ち、不従順、欲望、肉、怒りという言葉は私たちの行為と品性をどのように描写していますか。対照的に、主の行為と品性がどんな言葉で描写されていますか。

再度の第二の機会

もし私たちが多くの第二の機会でなく、一回限りの第二の機会しか与えられないとしたら、果たしてどれだけの人が救われると思いますか。

ヨハネの手紙Ⅰ・1:8~2:1を読んでください。これらの聖句は、クリスチャンとしての私たちが一回以上の「第二の機会」を必要としていることをどのように例示していますか。特に8節に注意してください(ギリシア語では、「罪がない」は現在時制になっています)。

私たちは何度も何度も赦しを必要とします。ヨナは二度、神の赦しを経験していますが、私たちはそれ以上に何度も神の恵みと赦しを経験しているのではないでしょうか。他人の罪と、彼らに対する神の御業にばかりに目を向けていると、自分がどれほど豊かに神から恵みを受けているかが見えなくなります。

「イエスは、ひとりびとりの魂の事情をご存じである。自分は罪深い者だ、とても罪深い者だとあなたは言うだろう。あるいはそうかも知れない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、イエスが必要なのである。主は泣いて悔い改める者を決してしりぞけられない。主は明らかに示すことがおできになることを全部だれにでもお告げになるとは限らない。主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。主はゆるしと回復とを求めてみもとに来るすべての者を快くゆるしてくださる」(『各時代の希望』中巻396、397ページ)。

神が私たちを何度、穴の中から引き上げてくださったか思い起こしてください。そうするなら、神が反抗的な御自分の預言者ヨナに示してくださった恵みをもっと理解することができます。

再度の挑戦

「主の言葉」が再びヨナに臨みます。主は何と言われましたか。ヨナ3:2

「さあ、大いなる都ニネベに行って」という神の命令は、初め神から与えられたものと同じです。神はなおもヨナをニネベに遣わそうとしておられました。神はヨナの頑迷さに失望されません。

今度は、ヨナはどのように応答しますか。ヨナ3:3

1章のときと同じように(3節)、ヨナは「立って」行きます。しかし、今度は、「主から逃れ」ることなく、「主の命令どおり」に従います。彼のたどった長旅のことは何も書かれていません。1、2章に記された初めの旅とは対照的です。ニネベの都の光景が直ちに目の前に広がります。初めの旅の行程が詳しく書かれているのには理由がありました。神に対するヨナの反抗を描くためでした。しかし、ヨナが従ったからには、旅行の行程を描く必要はありませんでした。重要なのはニネベです。

ニネベはどのように描かれていますか。ヨナ3:3

ニネベの大きさは、「一回りするのに三日かかった」(3節)という言葉のうちに暗示されています。当時の標準からしても、それは大きくて、重要な都でした。ニネベはまた、神がわざわざヨナをそこに遣わそうとされたことからもわかるように、神にとって「大いなる」都でした。

まとめ

「私の兄弟・姉妹方よ、目を覚ましなさい。まだ福音の宣べ伝えられていない国内の伝道地に入って行きなさい。外国の伝道地のためにいくぶんかを献げたからといって、それで自分の義務が終わったと考えてはならない。外国の伝道地にもなすべきことがあるが、同じくらい重要な国内にもなすべきことがある。アメリカの町々にはあらゆる言語の民がいる。これらの人々も、神が御自分の教会にお与えになっている光を必要としている」(『教会へのあかし』第8巻36ページ)。

「遠い地のいろいろな国々の住民に警告する種々の計画が実行されている一方、われわれの国の岸にやってきている外国人のために多くのことがなされねばならない。われわれの戸口のかげにいる人々は中国にいる人々と同様に重要である。神の民は、み摂理が道を開くままに遠い地で忠実に働かねばならない。それと同時に彼らはまた、近くにある都市や村、いなかの地方にいるさまざまの外国人に対する義務も果たさねばならないのである」(『クリスチャンの奉仕』285、286ページ)。

ミニガイド

再度の任命

ヨナは、大魚の胃の中に三日三晩閉じ込められ、呑み込んだ魚のえさ、消化液など、どろどろした液体の中の、不快きわまる環境の中でも守られ、三日目に吐き出されました。おそらく彼は失神していたでしょう。気が付いてみると、自分が生きていて陸地にいる、それだけのことでした。どの地点に置かれたのでしょう。そのあたりは聖書に書いてありませんが、おそらく、彼が逃げ出そうとした、ヤッファの近くの海岸だったのでしょうか。いわば、振り出しにもどされたのです。最初からやり直しです。名誉回復のチャンスです。

再び主の言葉が臨みます。今度は少し主の言葉に変化があります。前の言葉は「ニネベの町に対して(against)」【1:2】神のみ旨を伝えることでしたが、今度は「ニネベの町に(unto)」【3:2】伝えるよう命じられます。今回は、伝える理由も、内容も告げられていません。絶対的な服従だけが要求されています。大魚の腹の中での、彼の悔い改めが本物であるか、「いけにえをささげて、誓ったことを果たそう」と主に対する誓いが実行されるかが試される時です。今度だけは、主に抗議する意思も、反論する意図もへし折られていました。

彼は異教徒をも愛される主の御心に、自分も賛同して宣教に出かけたのでしょうか。異邦人に対する偏見は捨てたのでしょうか。それは4章で明らかになるように、彼の宣教の結果ニネベの住民がこぞってその悪の道を離れたことを知り、主が災いを下すことを差し控えられたとき、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」(4:1)ことを読めばわかるとおり、異邦人を愛する思いはなく、偏見に満ちたままでした。

しかし、主はヨナを強制的に遣わされたのではありませんでした。ヨナが喜んで従うように導いておられます。神は、自分勝手な私たち、主のご要求を無視し、真っ向から反抗する人間を回復してくださるばかりでなく、もう一度、更にもう一度と、御用に用いてくださるとは驚くべきことです。

大きな町

ある著者はニネベを次のように描写しています。

「基礎工事を施した、広大な高台の上に、何階もの高さに及ぶ宮殿、兵器庫、兵舎、図書館、神殿がいくつもそびえ立っていた。水を豊富に供給するシステムが、巨大な水門を備えた運河から四方八方に広がっていた。空中庭園が設けられ、そこには立派な植物と珍しい動物が充ちていた。アラバスター(雪花石膏)、金、銀、宝石がくすんだレンガのかたまりにアクセントをつけていた。それは、壁のあらゆるくぼみや銃眼つきの胸壁に取り付けられていた。……城壁の外側には広大な郊外があり、その向こうにも別の町々が続き、住宅地が延々と広がっていた」。

ヨナの祈り

ヨナの大魚の腹の中での祈りは、詩編との類似点が多く見られます。思想、表現に詩編の作者の手法が祈りに織り込まれています。詩編3編、18編、107編、120編、124編などと類似しているといわれます。祈りは3区分されます。

2―4節 危機と苦難

5―7節 苦難からの救い

8―9節 救われた感謝と賛美

第8課 目覚ましい働きをした伝道者、ヨナ

第8課 目覚ましい働きをした伝道者、ヨナ

ヨナはアッシリアの首都ニネベに入ります。彼は神から与えられた使命を大胆に宣べ伝えます。ニネベの都に驚くべきことが起こります。悔い改めるとは思わなかった人々が心から悔い改めたのです。事実、彼らの悔い改めはヨナ書の中でも最大の驚きです。

彼らにこれほどの方向転換をさせたものは何だったのでしょうか。聖書は何も語っていません。回心が個人的で、まれな経験であることを考えると、異教徒の都全体が回心することは驚きです。聖書によくあることですが、ここでも詳しい説明は与えられていません。とすれば、与えられた情報で満足するしかありません。罪人に与えられた神の恵み深い愛を理解するにはそれで十分です。

アッシリアの首都で説教する

ヨナの説教を要約したものがあればよかったかもしれません。異教の民にこれほど強力な影響を与えた説教がどのようなものであったかがわかるからです。

彼は何を伝えようとしたのでしょうか。彼が説いたのは一神教でもなければ、神の無限の愛や永遠の希望・約束でもありません。教会一致運動を推進しようとしたのでもありません。それは、悪しき道を離れなければ神の裁きを受ける、ということでした。

ヨナは特に何について警告しましたか。ヨナ3:4

裁きは救いと共に聖書に一貫して流れている中心的なテーマです。両者は互いに関連しています。悪人にとって、裁きは死と滅びを意味しますが、義人にとって、裁きは勝利と正義、救いを意味します。義人であれ悪人であれ、だれひとり裁きを逃れることはできません。

裁きの思想は聖書の中に様々なかたちで現れます。次の聖句は裁きについてどんなことを教えていますか。創15:14、詩1:5、19:10(口語訳19:9)、コヘ3:17、12:14、ダニ7:22、ヨハ12:47、ルカ21:36、使17:31、Ⅰヨハ4:17、黙20:12     

神の最終的な目的は裁くことでなく救うことにあります。ヨハネ12:47を読んでください。ここに、神のすべての裁きが救いを目的としていることが教えられています。

あと40日すれば

神は何日後にニネベの都を滅ぼすと言われましたか。これと同じ数字(40日)はほかにどこに出てきますか(創7:17、出24:18、民14:33、34、マタ4:2、マコ1:13、ルカ4:2、使1:3を読んでください)。これらの聖句に記されている出来事とヨナ書の出来事との間に何か共通点がありますか。

ヨナが何と言ったかはわかりませんが、結果は明らかでした。ヨナ書3:5にある「身分の高い者も低い者も」(文字通り訳すと、「大きい者から小さい者まで」、口語訳参照)という表現は、ヘブライ語で全体を表す一般的な表現です。邪悪な異邦人の町全体が、ヨナが裁きについて語ったことを真理として受け入れます。

第1章に出てきた異教徒の水夫たちと同様、ここでも異邦人が天の神を受け入れるのを見ます。邪悪なニネベの都の、異教徒の住民がヨナの語る裁きのメッセージを真剣に受け入れます。

ヨナがニネベの都に恐ろしい警告を発したとき、どんな驚くべき結果が見られましたか。ヨナ3:5

ニネベの住民はヨナを信じただけでなく、「神を信じ」ました

(ヨナ3:5)。彼らはほかの神々を礼拝していましたが、必ずしも唯一の至高の神、裁き主なる神を知らなかった、あるいは反抗的であったとは言えません。ニネベの住民は、自分たちが神の裁きを受けて当然であると考えました。聖書にもあるように、異教徒であれクリスチャンであれ、各人の心には良心があり、神はそれを目覚めさせてくださいます。

異教徒の回心(ヨナ書3章5節―8節)

ニネベの人々は、自分たちが神の裁きを受けて当然だと考えました。そこで、断食をし、粗布をまとうことによって悔い改めの気持ちを表しました。これらの行為は悔い改めを表す方法でした。一人の魂を真の悔い改めに導くためには、多大の労力が必要です。それなのに、異教徒の町全体が悔い改めたのですから、まさに驚きです。

一般の住民のほかに、だれが裁きのメッセージを聞きましたか。ヨナ3:6

古代近東諸国の王たちは、特に「外国」の神の前では高慢で頑迷なことで知られていました。しかし、ニネベの王は違いました。彼らは、神の前にへりくだりました。

「ニネベの王」という称号は、すなわち「アッシリアの王」ということです。しかし、アッシリアという国名はヨナ書に一度も出てきません。当時の文書においては、主要な都市の名前によって一国を代表するのが一般的な慣習でした。

王はヨナのメッセージにどのように応答していますか。ヨナ3:6~9

王の一連の動きに注目してください。彼は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ捨て、それから粗布をまとって、灰の上に座します。王座から下りて灰の上に座し、王衣を脱いで粗布をまとっています。これは心からの悔い改めを表しています。

この異教徒の王は巧みな方法を用いて自分の罪を隠そうとはしませんでした。彼は自分の過ちを正直に認めました。自らの悔い改めの必要を認めて民の前に模範を示しました。

王の布告

王はどんな注目すべき布告を出しましたか。ヨナ3:7~9

食べることと水を飲むことは全く別のことです。しかも、通常、断食は動物にまでは当てはまりません。しかしながら、なぜか動物まで、食べることも、水を飲むことも禁じられています。彼らはヨナの言葉を非常に重大なものとして受け止めました。家畜にまで言及しているということは、王の使者が城壁の外の農村地帯にまで遣わされたことを暗示します。

王はさらにどんな要求をしましたか。ヨナ3:8

「粗布」は罪に対する悲しみを表します。粗布をまとうことは罪によって生じる破綻を表します。粗布をまとうときのざらざらした不快感は罪の恐ろしさを表します。それは、罪人が聖なる神の前にいかに哀れな状態であるかを表します。

「灰」は焼き尽くす火と罪の最終的な消滅を表します。

王はニネベの人々にさらにどんなことを要求しますか。ヨナ3:8

王はニネベに蔓延していた様々な罪悪の中から特に不法を指摘しました。神がニネベを裁こうとされたのも不思議ではありません。不法はアッシリア人の特徴でした。考古学者によって発見された花崗岩の壁板には、彼らが征服した民に対して行った残虐な行為が描かれています。王はニネベの文化が暴力に彩られていることを自ら認めたのです。

真の悔い改め

王の布告はどんな動機から出ていましたか。ヨナ3:9

王は、自分たちの罪の赦しが天と地の大いなる神の憐れみにかかっていることを認めました。恐ろしい暴風に遭遇したとき、ヨナに、「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」と懇願したあの船長と似ています(ヨナ1:6)。両者の共通点に注目してください(ヨナ3:9)。どちらの場合も、自分たちの力を超えた神の憐れみに全く頼るしかなく、神の恵み以外に助かる機会はありませんでした。

神が災いをくだすのを「思い直され」た(ヘブライ語では、「哀れに思い」)のは彼らの行い(信じたこと、断食したこと、粗布をまとったこと、家畜にも断食させたこと)のうちの特にどの行いを「御覧になり」、災いを撤回されましたか。このことは私たちにどんな重要なことを教えていますか(ヤコ2:2~26参照)。

後にニネベの人々の悔い改めについて何と言われていますか。マタ12:41

イエスは後に彼らの悔い改めに言及しておられます。ヨナ自身の民であるイスラエル人は、神と特別な契約関係にあったにもかかわらず、ニネベの人々と同じような集団としての経験にあずかることができませんでした。結局のところ、彼らは悔い改めなかったために裁きを受けました。

このように、神はすべての人を分け隔てなく、同じ基準によって扱われます。最後には、ニネベもエルサレムも滅ぼされました。神はすべての民族を平等に扱われます。

まとめ

「ニネベは悪しき町であったが、全体が悪に染まっていたわけではなかった。『人の子らをひとりひとり御覧にな』る(詩33:13)お方は、……より良いもの、より高いものを求める多くの人がこの都の中にいるのを知っておられた。……神は確かな方法で彼らに御自身を啓示し、できることなら彼らを悔い改めに導こうとしておられた」(エレン・G・ホワイト『戦いと勇気』230ページ)。

「『神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる』。キリストの来臨に先だった暗黒の時代に、支配者であられる神は、異教徒の偶像礼拝を見過ごしておられたが、今、神はみ子を通して真理の光を人々にお与えになり、貧しくつつましい者ばかりでなく、誇り高い哲学者やこの世の君主たちすべてが、救いを得させる悔い改めに導かれるようにと望んでおられた。『神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである』。パウロが死者の復活について語ると、『ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った』」(『患難から栄光へ』上巻258ページ)。

「この王が与えたゆるしは、すべての罪に対する神のゆるしをあらわしている。哀れに思ってしもべの負債をゆるした王は、キリストを表わしている。人間は律法を破って、罪の宣告のもとにあった。人間は自分自身を救うことができなかった。そのためにキリストはこの世界にこられ、神性に人性をまとい、不義なもののために、義なるご自身の命をお与えになった。主はわたしたちの罪のためにご自身を与え、血によって買いとったゆるしを全ての人に価なしに提供される。『主には、慈しみがあり、また豊かな贖いがある』(詩篇130:7)」(『キリストの実物教訓』220ページ)。

ミニガイド

悔い改めと改革

ヨナの託宣の内容は、ニネベの住民にとって破壊的なメッセージで、悔い改めた後の恵みについては、示されなかったにもかかわらず、「神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」(3:9)と言った王の言葉にうながされて、民全体が悔い改めの表明をし、悪の道、暴虐な行いをやめたと言います。

彼らの真剣な悔い改め、それにふさわしい実を結んだことをご覧になり、国全体を滅ぼされるという予定を変更、または延期されました。悔い改めには、改革(生き方の方向転換)が伴ってはじめて、主がそれを承認されるのです。しかし、悔い改めも改革も自分の力ではできません。徹頭徹尾主のあわれみと主の賜物です。しかし、悔い改めの実は長続きしませんでした。国力が増し、諸外国を脅威にさらすようになりました。またもや、真の神から離れ、前612年メディアバビロン、スキタイの連合軍によって攻められ、陥落しました。

迅速な悔い改め

悔い改めを促す主の使信が突きつけられて、これほど早く異邦人の大多数の人が悔い改め、邪悪な生き方を方向転換した例はあまりありません。エジプトの王に迫ったモーセの使信に、ファラオは心を頑なにし、あくまで主に反抗したためにそれに倣ったエジプト人は、紅海で海の藻屑と消えました。

パウロがアテネの人々に語った福音は、当時の人々によって黙殺されました。主ご自身によってもたらされたイスラエルの悔い改めの使信は、嘲笑と反発に終わってしまいました。

安息日毎になされる説教は、私たちに悔い改めを迫る中身を持っているでしょうか。霊的覚醒を促すものでしょうか。それを聞く現代のイスラエルの態度は、ニネベの人々に肩を並べることができるでしょうか。

ニネベ全市の悔い改め?

「粗布をまとって、灰を」かぶった「身分の高い者も低い者も」と言及されているのは、住民が一人残らず行動したと考えなくてもよいのではないでしょうか。

ソドム・ゴモラを滅ぼすとの宣言を聞いたアブラハムが、その町のために執り成しの祈りを主に捧げました(創世記18:16~33)。そのとき主は、町の中に義人が10人いれば滅ぼさないと言われたことに照らしてみれば、ニネベの町の大分の人が悔い改めたのでょう。キリスト教国といわれる国でもすべての国民がキリスト者であるわけではありません。聖書の理念がその社会に活かされている国のことです。

第9課 神との対話

第9課 神との対話

ヨナは見事に使命を果たしました。首都ニネベの市民は、身分の高い者も低い者も、裁きのメッセージを受け入れ、悔い改めて天の神に立ち帰りました。ヨナは今、邪悪な異教徒の心さえ変えることのおできになる神の偉大な力に対する喜びと感謝に満たされて帰途につきます――このように期待したいところです。しかし、ヨナ書はさらなる驚きで満ちています。

ヨナ書全体を通じて、神は邪悪な異教徒以上に御自分の預言者に手を焼いておられます。第1章におけると同様、第3章でも、ヨナは異教徒に比べて影の薄い存在になっています。つまり、第1章では、水夫たちと船長が暴風の中で神の力を見、神を礼拝しました。第3章では、邪悪なニネベの人々が悔い改めて神の裁きの警告を受け入れました。

しかし、ヨナは神のきびしい試練に遭って初めて神に従っています。異教徒の王でさえ、神の憐れみを信じて(ヨナ3:9)、謙虚に神の絶対的な権威に従っています。しかし、ヨナは神の憐れみにつけ込んでいます。

意外な応答

ヨナ書4:1「ヨナにとって、このことは悪、大いなる悪であったので、彼は激怒した」(ヘブライ語聖書)。彼は、何に対して激怒したのでしょうか。この「大いなる悪」とは何だったのでしょうか。それは、ニネベの人々がその罪と不法を捨てたので、彼らに下ることになっていた裁きが下らなかったということでしょう。

これら邪悪なアッシリア人はその悪のゆえに裁きを受けて当然であるのに、彼らに対する神の恵みは正義の原則に反するものである、と彼は考えたのでしょう。民族主義的な感情から、これら異教徒の上に神の裁きが下ることを望んだのでしょう。その裁きが下らなかったために、自分が偽預言者に見られると思ったのでしょう。

たった今、ヨナの身に起きたどんな経験が、いっそう彼の態度を悪いものにしていますか。ヨナ2:1~10参照

主はヨナの心を、また彼がどのような行動をとるかを知っておられました。しかし、ヨナの誤った態度にもかかわらず、主はヨナを選び、なおも彼と共に働こうとしておられました。これと同じ原則が聖書全体の中に見られます。

次の聖句を読み、ヨナの場合と同様、神が欠点だらけの私たちと共に働き、私たちを用いてくださることについて学ぶことがありますか。創9:20、21、創16:1~4、民20:11、12、サム下11:4、マタ11:3、使15:35~41、ガラ2:11~14 

ヨナが初めに祈っているのは大魚の腹の中においてです。ここで、自分を滅びから助け出してくださいと祈っています。次に祈っているのはここ第4章においてです。ここでは、神が他人を滅びから助け出したと言って怒っています。なんという偽善でしょう。

ヨナは事実上、自分がニネベに行かなかったのは、神が憐れみ深い方であることを知っていたからである、と言っています。それによって、神がニネベの人々を助けることを自分は望まなかったと正直に認めていることになります。さらに驚くのは、主がこのようなヨナの態度を知りながら、なお彼をお用いになったことです。確かに、神の恵みは人間の知恵をはるかに超えていす。

ヨナは神の品性について何と言っていますか(ヨナ4:2)。これらの特質は具体的に何を意味しますか(出34:6、7、ヨエ2:13、民14:18、詩86:15参照)。ヨナの言葉にはどんな皮肉が含まれていますか(神の恵み、憐れみ、慈しみを最もよく受けているのはヨナかニネベの人々か考えてください)。

クリスチャンにとって、神の憐れみ、恵み、忍耐といった概念は単なる神学的な教理ではありません。それらはクリスチャンとして主と共に歩む経験の一部となるべきものです。もし私たちがこのような神との関係の中にあるなら、またこのような神を愛しているなら、神の憐れみ、恵み、忍耐がどのようなものであるかを自ら経験しているはずです。

深遠な神の恵み

リチャード・ターナスは、世を贖うに十分とされるイエスとイエスの死がこの科学時代に生きる現代人にとって、どんな価値があるかについてこう述べています。「諸事件の核心にあったものが全くありそうにないものとなりつつあった。すなわち、無限にして永遠なる神が突然、ひとりの人間となって歴史上の特定の時間と空間に現れ、不名誉にも処刑されたということがそれである。2000年前、一人の人間が想像もできないくらい広大で非人格的な宇宙にある、何十億もの星の一つの周りを回る、取るに足らない物質からできた一個の惑星上の、薄暗く原始的な一国家に生まれ、短い生涯を送ったということがそれである。このような特に目立たない一つの出来事が、圧倒するほどの宇宙的な、あるいは永遠の意味を持つなどということは、理性を備えた人間を強制するだけの信仰にはもはやなりえない。宇宙全体が広大無辺の中のこの微小な一点に強い関心を抱くなどということは全く想像もできない」(リチャード・ターナス『西洋的精神の熱情』305ページ)。

これとは対照的に、エレン・ホワイトは次のように記しています。「神の御子が堕落した人間のためにその働きを遂行するときに経験された謙遜、犠牲、自己否定、屈辱、反抗について瞑想することは有益である。御子の苦しみについて瞑想するとき、その驚くべき謙そんに感嘆の声を上げるであろう。神の御子が一歩一歩、恥辱の道をたどられるのを深い関心をもってながめるとき、天使たちは驚嘆する。それは信心の奥義である。神は、天の光と知識に関して人間を無知の中に置くことによってでなく、人間の最高の知力を超越することによって御自身とその道を隠されるが、これは神の栄光である。……キリストの愛は知識を超えている。贖いの神秘はあくまでも神秘、無尽蔵の科学、永遠にわたって永遠の歌のままである。人間は、だれが神を知りうるか、と叫ぶであろう」(『バイブル・エコー』1894年4月30日)。

神の憐れみ深すぎる?

神の恵みをなかなか理解できないのは、現代人だけではありません。ヨナもそうでした。ニネベに警告を伝えようとしなかったのは、ニネベの人々が分不相応な恵みにあずかることを望まなかったからです。しかし、恵みとはいつでもそのようなもの、つまり分不相応なものを受けることです。

以前にも、主はイスラエルに深い恵みと慈しみをお示しになっておられます。彼らが神に背いて荒野で金の子牛を拝んだときのことです(出34:6参照)。あのときは、本来なら神から見捨てられて当然でした。結果的に、神の憐れみと恵みが示されました。

出エジプト記32章の金の子牛の事件と比較して、イスラエルの罪はニネベの人々の罪よりずっと重かったと思いますか。モーセの態度をヨナの態度と比較してください。これほどの大きな違いはどこから来ていますか。

ヨナは自分に対する神の憐れみを心から感謝しましたが、イスラエルの神が同じ恵み深い態度をニネベの人々のような邪悪な人間に示されることに怒りを覚えました。ヨナは恵みと慈しみに満ちた神の特性を批判しています。神は義人に救いを、悪人に裁きを与えるべきであると、彼は考えました。

ヨナと同じ精神を表したのはだれですか(ゼカ3:1~7、黙12:10参照)。このことはヨナの態度の不当さについてどんなことを教えてくれますか。

ヨナはニネベに対する裁きの猶予を誤りと見ています。彼はニネベの住民に対する主の憐れみを強く非難しています。ニネベの住民もヨナも、共に裁きを受けるべき反抗的な罪人でした。それにもかかわらず、恵み深い神は彼らすべての人に憐れみを示されました。ヨナは喜んでこの憐れみを受け入れましたが、それは自分自身のためであって、ニネベのためではありませんでした。

ヨナに対する神の忍耐

神の憐れみに憤慨するあまり、死にたいと言うヨナに対して、神は何と言われましたか。ヨナ4:4

恵みと憐れみに満ちたヨナの神は、静かに、鋭い質問をされます。ヘブライ語のわずか3文字で、神はヨナに再考を促されます。

主がヨナに言われたこと(ヨナ4:4)とカインに言われたこと(創4:6)とを比較してください。神は何を問題とされていますか。

神はヨナに、正気に返って、子どもじみた自分の態度を改めるよう穏やかに促しておられます。頑迷なヨナが成熟した信仰者になるようにと、自分の考えと行動を分析し、熟考するように勧めておられます。神はヨナに、彼の状況理解が適切でなかったことも穏やかに諭しておられます。しかし、聖書の中で神の導きに戸惑いを感じているのはヨナだけではありません。

聖書の中でほかにだれが神の導きを理解するのに苦闘していますか。これらの人たちの不満は何でしたか。それはヨナの不満とどこが異なりますか。ヨブ7:17~21、エレ15:15~18          

ルカ9:52~56を読んでください。ここに記されていることとヨナ書4章にあるヨナの経験とを比較してください。

神は苦闘している信者を退けられず、事実、そのような経験の中にある人たちを温かく見守っておられます。ヨナもその一人でした。神は御自分との正直な関係を尊ばれます。

まとめ

「贖いの計画には数々の神秘がある。……天使たちにとって、それらは絶えざる驚きの対象である。使徒ペトロは、『キリストの苦難とそれに続く栄光』に関して預言者たちに与えられた啓示に言及し、これらのものは『天使たちも見て確かめたいと願っているもの』である、と言っている」(『教会へのあかし』第5巻702ページ)。

「主が懲らしめを与えることを好まれないことが、ここに明らかに示されている。主は刑罰を止めて、心かたくなな人々に訴えようとなさるのである。『地に、いつくしみと公平と正義を』行っているおかたが、彼の道を踏みはずした子供たちを切に慕い求めて、なんとかして彼らに永遠の生命への道を教えようとなさるのである(同9:24)。神はイスラエルの人々が、唯一の真の生きた神に仕えるように、彼らを奴隷の生活から解放されたのであった。彼らは長くさまよい出て偶像礼拝を行い、神の警告を無視したけれども、神は今、彼らに懲罰を与えることを快く延ばして、彼らにもう一度悔い改めの機会を与えようと宣言されるのである」(『国と指導者』下巻35ページ)。

「彼は、ふたたび、疑惑の念にかられて、またもや、失望の淵に沈んでしまった。彼は、他の人々の幸福のことなど何も考えず、生きていて町が救われるのを見るよりは、死んだ方がましだと考えて、不満げに叫んだ。『それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです』」(『国と指導者』上巻240ページ)。

ミニガイド

ヨナ(預言者)と主の働き人(預言者)

ヨナは、神の憐れみを十分に知っていました。もし自分がニネベは40日以内に滅びると叫んでも、彼らが悔い改めれば、主はニネベに災いを下すのを控えられるのではないかと恐れていました。

はたして、彼の予測どおりになりました。このような結果になるのを嫌がって主の前から逃げようとしたのでした。彼の狭量かつ偏狭な心は、このイスラエルの敵が滅ぼされることをこそ望んでいたのです。これこそ、当時のイスラエル民族の代表的な考えでした。

自分たちは神の選民だ、残りの民だ、神の祝福はもっぱらわれわれに注がれるべきなのだ、という自己中心、排他的な態度です。自分が軽蔑している者が自分より恵まれるのは我慢ができません。他の人の成功を喜ぶことができません。

このヨナの態度と私が重なってきます。なんと卑しいのでしょう。なんと狭量なのでしょう。口では「主の栄光のため、隣人への奉仕のため」と言いながら、伝道も説教も己の栄光のため、自分を喜ばせるためにしていることをしばしば発見します。

ニネベにおける彼の伝道活動は大成功を収めたというべきでしょう。今や彼は有名人です。そのことが彼を高ぶらせたのでしょうか。しかし、預言者として召されたのは、神の憐れみだったはずです。彼が選民の一人として存在できるのは、彼らが立派な民族だったからではなく、ひとえに神のみ旨を果たすため、神のご計画を実行するための器に選ばれたに過ぎません。

主が私を選ばれたのは、「行って実を結びなさい」とのみ旨を果たすため、それだけです。使命をいただいていることは特権ではあっても、特権意識に陥ってはならないのです。「先生、先生」と言われると、何か自分が偉い存在になったように錯覚する危険があります。主の働き人は、常に謙遜の霊に満たされていきたいものです。

無関心な態度と異教の民

自分の思っていたのと逆方向にニネベの住民の反応が悔い改めへと進み、それだけでも不愉快であったのに、その正義の神が与えられた自分の使命とは反対に、なんとこの町を赦されるとは……。彼は、怒り心頭に発しました。子どものように駄々をこねれば、「主はもう一度思い直してニネベに審判を下されるかもしれない」とすねながら、薄目を開けて主の心変わりを待ちました。主は、穏やかに彼をたしなめられました。本来ならヨナは、異教の人々の改心を喜び、手を差し伸べて、霊的なフォローアップに力を注がねばならない立場にありました。日本の伝道が遅れているといわれるのは、もしかしたら私たちクリスチャン自身に問題があるためだと考えたことがあるでしょうか。

第10課 神に従った風と虫と木

第10課 神に従った風と虫と木å

神が邪悪なニネベの人々に憐れみを示されたことに対して、ヨナはあからさまに不快感を表しました(「異教徒」に救いの福音を伝えることを使命とする私たちにとって、これは信じがたいことです)。ニネベの人々がヨナの警告を受け入れて悔い改めたことを、ヨナは快く思いませんでした。神は日射しを避けるために建てた小屋の中に座っているヨナに、不機嫌な態度を改めるように求められます。ヨナと神の対話は続きます。この最終章には、旧約聖書の最も深遠な神学思想のいくつかが述べられていますが、ここにも過ちの多い人間に対する神の恵みの現れを見ることができます。

今回の研究を通して、ヨナがどのような人物であり、どんな特権を与えられ、主からどんな恵みを受けてきたか、それにもかかわらずどんな態度を保持しているかを学んでください。

ヨナの小屋

「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。……これは、私がイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ23:42、43)。

神はヨナのために一つの「実物教訓」を用意されます(『国と指導者』上巻240ページ)。地中海の「巨大な魚」と同様、木と虫と強風が神の道具となります。「巨大な魚」と同様、それらは神に従います。ここでも、主が御自分の被造物を支配しておられることが強調されています。

ヨナ書4:5には、ヨナが都を出て、自分のために建てた「小屋」は、レビ記23:39~44やネヘミヤ記8:14~16に出てくる「仮庵」と同じです。同じ意味の言葉をここで用いていることにはどんな深い意味がありますか。

これらの小屋はイスラエルの子らに、とりわけエジプトからの奇跡的な救出とその後の神の守りを思い起こさせるものでした。ヨナにとって、ヘブライ人が救われるのはともかく、異教徒が救われるのは受け入れがたいものでした。ヨナは自分の安楽ばかり考えていたために、自らの行為の矛盾に気づかなかったのでしょう。

「小屋」を意味するヘブライ語のメスコーモ(ヨナ書に出てくるのは単数形のメスカーモ)は、ユダヤ人の「スコーの祭り」、つまり「仮庵の祭り」の名前にもなっています。今日でもこの祭りの期間、伝統的なユダヤ人はメスカーモと呼ばれる小屋の中で生活します。このようにして彼らは、自分たちの先祖がエジプトから脱出した後、荒野で仮住まいしたことを思い起こすのです。

神の備え

ヨナ書4:6の前半には、どんな動詞が再び出てきますか。

この「備える」という動詞はヨナ書に4回用いられていますが、これはそのうちの2番目のものです。前回用いられていたのは、主がヨナを飲み込むために魚を「備えられた」場面においてです。いずれの場合も(ヨナ2:1-口語訳1:17、4:6~8)、神が動詞の主語、つまり備える、あるいは定めるお方です。ここでも、神が自然界を支配することによって御自分の目的を達成されることが強調されています。ヨナが異教徒に対する主の恵みに失望するあまり死を望んだときでさえ、神はヨナをお見捨てにはなりませんでした。ヨナが小屋の中に座ってニネベの成り行きを見守っていると、神はヨナの「苦痛を救う」ために1本の木を生えさせ、ヨナのために日陰を作られます。

新共同訳聖書では、この木が「とうごまの木」となっていますが、なぜこんなに早く生長したのかは説明してありません。

ヨナ書4:6~8を読み、内容を要約してください。

ニネベが滅びを免れたために気落ちしていたヨナが、こんどは日陰を作ってくれた1本の木のゆえに大喜びしています。この男をどう考えたらよいのでしょうか。神は木を生えさせ、次に虫に木を食い荒らさせ、次に強風を吹きつけさせられます。ヨナはニネベの代わりに神の裁きを受けているようにさえ見えます。彼はニネベに求めた災難をかすかに経験していたのです。彼は恵みによって木が生えると非常に喜びましたが、それが取り去られると深い絶望に陥りました。

再燃するヨナの怒り

神に滅ぼしてくださるようにとのヨナの求めに神は虫を送られ、ヨナに日陰を与えていた木を枯らし、強風によって小屋と一緒に吹き飛ばされます。ヨナは苦しみを通して教訓を学ばねばなりませんでした。二度にわたって死を求めていることから、彼が重い霊的病にかかっていたと思われます。これらはヨナの最後の言葉となります(ヨナ4:8、9)。彼は初めから神に反抗し続けます。

主はヨナに何と言われますか。ヨナ4:9

神の質問はやんわりとヨナに圧力をかけます。主がヨナに自分の怒りについて熟考するように求められるのはこれで二度目です。今回は、枯れた木が話題になっています。神は4節でヨナに、ニネベが救われたことを怒ることは正しいことかと尋ねておられます。そして9節で、とうごまの木が枯れたことを怒るのは正しいことかと尋ねておられます。主はヨナに一つの都市全体と1本の木とを対比して見せておられたのです。それは、彼の考え方がいかに調和を欠いているか、また優先順位がいかに誤っているかを悟らせるためでした。主がニネベの都を滅ぼされなかったことを怒り、その一方で主が1本の木を滅ぼされたことを怒っているからです。確かに、ヨナはどこかが狂っています。

ヨナは主の質問に何と答えていますか。ヨナ4:9

主は恵みを軽んじる人類に、なおも分不相応の恵み、憐れみ、忍耐を示してこられました。これは、主が歴史を通じて御自分の民のためになさってきたことのほんの一例です。

ヨナ10:4の聖句に示されている主の答えに注目してください。神は「惜しむ」という動詞によって、とうごまの木に対するヨナの同情心を描写しておられます(10節)。そして、11節で同じ言葉を用いて、ニネベに対する神御自身の思いを描写しておられます。両者を対比するためです。ヨナは1本の木を惜しみ、主はニネベの住民を惜しまれます。聖なる神と堕落した人間の価値観の違いを表すものです。神はヨナの態度と御自身の態度に関して、同じく「惜しむ」という言葉を用いておられます。これは、ヨナに自分自身の誤りを悟らせるためでした。ヨナがとうごまの木を惜しんだのは、ただ日陰がなくなったからでした。

10節の「滅びた」という動詞に注目してください。それは以前にどのように用いられていますか。ヨナ1:6〔英語聖書参照〕、ヨナ1:14、ヨナ3:9   

イエスはヨハネ3:16で、全世界の「滅び」に関連してこれと同じ意味のギリシア語を用いておられます。ヨナ書の著者はここで、注意深く、とうごまの木に対するヨナの関心が、もし神がニネベに裁きを下されたら生じるであろう滅びに比べたら取るに足らないものであることを強調しています。水夫たち、ニネベの住民、そしてヨナ自身(嵐の中で海に投げ込まれれば、たいていの人は死ぬ)の直面していた問題は、基本的にはすべての人が直面する問題、すなわち生か死かという問題でした。実際のところ、この問題は霧に過ぎない現世の命(ヤコ4:14)と一時的な眠りに過ぎない現世の死(Iコリ15:51)を超えて、永遠の命(ヨハ3:15)か、永遠の滅び(同16節)かという問題とかかわりがあります。

恵みの問題

ヨナは9節で、いわば次のように言っています。「もちろんです。わたしは怒っています。死にたいくらいです。あなたがわたしの木を枯らしてしまったからです」。しかし、10:4でヨナに対する神の返答は真相を明らかにしています。すなわち、ヨナにはとうごまの木に対する所有権を主張したり、権利や権威を要求したりすることができないということです。彼はとうごまの木のために努力し、それを獲得し、それを育てたのではありません。木が彼に日陰を与えてくれたのは、ヨナのためになされた神の超自然的な行為の結果でした。

自分の力で得ることのできないもの、自分の努力で獲得することのできないもの、自分自身で作り出すことのできないもの、つまり完全に神から賜わるもの――それは何に似ていますか。ヨブ4:17~21、エフェ2:5~10、ロマ3:28、4:13~16参照

私たちもヨナと似ていないでしょうか。私たちは神の賜物を当たり前のことと考えていないでしょうか。神の憐れみと恵みに慣れてしまって、それらを当然与えられるものと考えていないでしょうか。それらが恵みの賜物であること、また恵みが与えられるためにはどれほどの代価が支払われたかを忘れがちです。私たちのすべて、また私たちの人生の一瞬一瞬は神の恵みの賜物です。それは、私たちが認識しているよりもずっと広範囲に及ぶものです。そして、このことこそ問題なのです。ヨナと同様、私たちはこの事実を認識していません。

テモテへの手紙Ⅱ・1:8~10を読むと、そこには、恵みが「永遠の昔に」キリストにおいて私たちに与えられていたと書かれています。何かが世の初め以前から私たちに与えられていたということは、それを求める以前から与えられていた、あるいはそれを得る以前から与えられていたということです。

もう一度、テモテへの手紙Ⅱ・1:8~10を読み、神がヨナになさったことと比較してください。

まとめ

ニネベは結局、紀元前612年に滅びました。しかし、ヨナの説教を聞いた世代は奇跡的な救いを経験し、ヘブライ人の神は「異邦世界全土において、賛美され栄光を帰せられ、神の律法はあがめられ」ました(『国と指導者』上巻238ページ)。ヨナ書は贖いの歴史における最大の出来事の一つについて記しています。

「神の御子は私たちの贖いのためにすべてのもの、すなわち命と愛と苦しみを捧げられた。このような大きな愛を受けるに値しない私たちは、御子に心を捧げないでおられようか。私たちは人生の一瞬一瞬、御子の恵みの祝福にあずかっている。このことのゆえに、私たちは自分の救われた無知と悲惨の深みを十分に理解することができない」(エレン・G・ホワイト『驚くべき神の恵み』185ページ)。

「イスラエルの民の間と同様に、異邦人の間にも神の恵みがあらわされることが神のみこころであった。この事は、旧約聖書の預言の中に明らかに説明されていた。パウロは、彼の議論の中で、これらの預言を用いている。彼は、次のようにたずねる。『陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造り上げる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである』」(『患難から栄光へ』下巻58、59ページ)。

ミニガイド

仮庵で

ニネベの町の東側、そこは丘陵地帯で、小高い丘に囲まれた静かな場所でした。そこにヨナは、木の枝や小枝を集め、粗末な小屋をこしらえ、暑い日差しをしのぎながら、これからニネベがどのような経過をたどるか、神がこの後どのようなご処置をなさるかを観察することにしました。

イスラエル人は、幼い頃から年に一度親と一緒にこの小屋を作って、仮庵の祭りの期間(7日間)は、小屋で寝泊りする習慣がありました。それは、彼らがモーセに率いられてエジプトを脱出したあと、荒野でテント生活を続けたあの経験を思い出し、辛かったけれど、奴隷の過酷な境遇から救われた感謝を捧げるお祭りでした。

ここでヨナはその祭りを思い出し、自分が、あの嵐から救われ、何よりも大魚のお腹でいわば死んでいたのに生き返らされたことへの感謝、また、神の信頼を得て、主の御用に再任されたことへの感謝、滅びるはずであった異教の人々が自分の宣教によって悔い改めるという奇跡を体験した喜びなど、これまでの神のお計らいを省みて、主に数々の感謝を捧げる機会となすべきでした。

ところが、ヨナの仮小屋住まいの目的は別のところにありました。ニネベの人々の悔い改めも見せかけであって、40日もすれば元の木阿弥の悪しき生活に逆戻りし、ふたたび神がこの町を滅ぼされるのではないだろうか、北方から外国の勢力が攻めてくるのではないだろうか、そうなって欲しい……。異教の人々を見下す狭量な彼の心は変わることがありませんでした。

粗末な小屋は、強烈な砂漠の暑熱を遮るには十分ではありませんでした。そこで神は一夜のとうごまの木を生長させて、彼の小屋を覆われたのです。ヨナは、十分な日覆いができたことに喜びはしましたが、神に感謝することもありませんでした。暑さから守ることによって体の不快さを取り除き、ニネベに対する彼の不満と偏見を和らげようとなさる神の努力も彼には響きませんでした。

試練

ヨナの忘恩の態度に、今度は厳しい試練を与えられます。雨の降ったあと、多肉多汁の植物であるとうごまの木の葉を好んで食べる黒い毛虫が繁殖するそうですが、おそらく神はその毛虫を送られて、また一夜にしてその日覆いの木は枯れ、更に「焼け付くような東風」をも送られます。太陽の熱射と強い熱風に襲われるという試みでした。そして絶望の叫び声をあげます。ヨナに備えられたとうごまの木のように、神がくださったもの、それが品物や状況であれ、人であれ、喜ぶこと自体はそれでよいのですが、私たちも肝心の与え主である神を忘れ、神に感謝を捧げることを怠るなら、それはご利益宗教と大差がありません。主権者にいます神を自分の下僕か道具のように考える不敬虔な態度を改めましょう。ヨナは、全ては神の支配と管理下にあることを試練によって学ばされました。

第11課 最後の言葉

第11課 最後の言葉

4章からなるヨナ書の物語はこれで終わりです。最後に、神はヨナに問いかけておられます。しかし、それはヨナから何かを学ぶためではなく、むしろヨナに何かを教えるためでした。

ヨナが神の問いかけの意味を理解したか否かは明記されていません。そのこと自体は私たちにとってそれほど重要ではありません。重要なのは、私たちがそれをどのように理解するか、です。確かに、私たちは神の愛と憐れみについて知っています。それらを感謝して受け入れています。しかし、神の助けによってこれらの愛と憐れみを喜んで人々に表しているでしょうか。進んで自己犠牲を払うことによって、現代のニネベの住民に、裁きが来ること、自分の罪の弁明をする日が来ることを告げ知らせているでしょうか。

1人の失われた魂

ヨナ4:11を読むと、主はこの哀れな男に道理を教えようとしておられます。ヨナの住んでいた世界は、現代と同様、人命が軽視されがちでした。しかし、主はすべての人のために死なれました。すべての人を愛しておられるからです。主は一人の魂のためであっても死なれたのです。「たとえの中の羊飼いは一匹の羊、すなわち、数として最少のものをさがしに出かけた。そのように、道に迷った魂がただ一人であったとしてもキリストは、その人のためにおなくなりになられたはずであった(」『キリストの実物教訓』165ページ)。

ヨナ書4:11(また、ヨナの態度)に関連して、マタイ18:11~14を読んでください。これらの聖句から、人間に対する神とヨナの態度の違いについてどんなことがわかりますか。イエスのこれらの言葉は私たちの魂に対する冷淡さと愛の欠如に関してどんなことを教えていますか。

キリストが宇宙に比べればはるかに小さいこの地球上の住民のために死なれたということは、それだけでも十分に驚きです。それなのに、たった一人のために死なれる?だれがこのような愛を理解することができるでしょうか。最終的に何人の人が救われるかはわかりませんが(黙21:24、イザ66:23)、少なくとも一人以上であることは確かです。それなのに、たった一人のためにでも死なれるとは!世俗的な人間はもちろんのこと、信仰を持つ人間でさえこのような高遠な愛を理解することができません。

無知の時代

ヨナ書4:11で、主はニネベの人々を一種の比喩を用いて表現しておられます。主はこのような表現を用いることによってヘブライの預言者ヨナに何を教えようとしておられますか。

主はヘブライ人のヨナ、御自身の特別な民の一人であるヨナに語りかけておられました。ヘブライ人は神についての、また神の永遠の道徳的原則についての大いなる光を与えられていました

(出19:5、同20章、申4:7、12:8、詩19:8~11-口語訳19:7~10、37:31、エレ31:33参照)。ヘブライ人の歴史は大部分、彼らが律法と律法に含まれる道徳的原則をどのように理解するかにかかっていました。この意味において、ヘブライ民族は周辺の異教国家よりもはるかに優位な立場にありました。

これとは対照的に、神はニネベの人々を右も左もわきまえぬ人間と呼んでおられます。明らかに、これらの民はイスラエルと同じ道徳的教えを与えられていませんでした。神の律法と啓示から逸脱することに関連して、これと同じ表現がほかにも用いられています(申28:14、17:20、ヨシュ1:7)。ヨナ書はここで、ニネベの人々が主の律法を知らなかったことを教えています。「右も左も」という表現はバビロニアの写本の中にも見られるもので、「真理と正義」あるいは「法と秩序」と同義に用いられています。このようなわけで、主はヨナにニネベに対する裁きを延期すると言われます。彼らが道徳的に無知だったからです。

家畜も?(ヨブ記39章)

ヨナ書4章全体を通じて、神はヨナにニネベに対する神御自身の配慮を理解するようにやんわりと圧力をかけておられます。驚きに満ちたこの書の中でも、最も驚かされるものの一つはヨナに対する神の最後の問いかけです。

ヨナ書を締めくくる最後の聖句はどんな言葉で終わっていますか。ヨナ4:11

いくぶん不可解な終わり方をしているヨナ書ですが、最後のところで神は異教徒のニネベの人々だけでなく彼らの家畜(ヘブライ語では「動物」一般を意味する)に対しても憐れみを示しておられます。終わりの部分は曖昧で、正確な意味がはっきりしませんが(読者としては対話の結末を知りたいところです)、主はヨナに、御自分がニネベの人々にも彼らの動物にも等しく憐れみをかけるのだ、と言っておられるように思われます。

このことはそれほど意外なことではありません。ヨナ書全体を通じて、「海と陸とを創造された天の神、主」(ヨナ1:9)がすべての被造物を支配されるお方として登場します。これは聖書全体についても言えることです。聖書によれば、神はその被造世界のすべてに、またもろもろの天にさえ心をかけておられます。

ヨブ記39章を読んでください。状況が大きく異なるとはいえ、主がここでヨブに言われることとヨナに言われたこととの間にはどんな共通点がありますか。

ユダヤの伝承によれば、神は動物を優しく扱う人々を顧みられます。動物は人間の好意に報いることができないからです。

疑問、疑問、疑問……

ヨナ書は心を探るような問いかけをもって突然終わります。神の恵みが自分に与えられるのを喜びながら、ニネベの住民に与えられるのを嫌がるというヨナの利己的な態度が受け入れられたのかどうかは最後まで明らかにされていません。また、自分自身の考えをはるかに超えてすべての人に与えられる神の寛大な愛をヨナが理解したのかどうかも明らかにされていません。さらには、ヨナが赦しに値しない人たちに与えられる神の赦しを理解したのかどうかも疑問のままです。

聖書の特定の書巻が問いかけ、しかも驚くべき問いかけをもって終わることはきわめて異例です。このような終わり方は思考の停止あるいは不注意な書き方の結果ではありません。むしろその逆で、ヨナ書はこのような終わり方をすることによって、ヨナの態度と神の態度の違いを際立たせているのです。

聖書の書巻が問いかけをもって終わることは異例であっても、主御自身が問いかけをされることはそれほど異例ではありません。次の各聖句において、主はどのような問いかけをしておられますか。初めに、主が問いかけをされる理由を、次にその問いかけに対するあなた自身の答えとその理由を書いてください。出4:11、ヨブ40:1、2、ヨナ4:11、マコ8:36、ルカ6:9   

牛は知っている

イザヤ書1章の初めの3節を読んでください。そこには、ヨナの経験とどんな共通点が見られますか。

ヨナ書全体を見ると、自然界は主の支配に服しています。この教えは特に新しいものではありません(マタ21:18、19、17:24~27、マコ4:35~41参照)。人間も自然界と同じくらい神に従順であったらよかったのですが……。しかしながら、自然界とは異なって、神は人間を道徳的に責任を負うものとして創造されました。自然界とは異なって、神は人間を強制されません。人間が道徳的存在者であるためには、自由な存在でなければなりません。悲しいことに、私たちはしばしばこの自由を乱用します。

ヨナ書をもう一度読み直してください。主に従ったのはだれ(何)で、従わなかったのはだれですか。そこにどんな皮肉を見ることができますか。

自然界は従い、異教徒は従いました。ヘブライ人のヨナだけが、少なくとも主の求められるほどには従いませんでした。ある意味で、ヨナは各時代におけるイスラエル民族を象徴していました。イスラエル民族は、平和と繁栄の時代に達成できたことを(列王上8:60、イザ27:6、56:5、ゼカ8:23)、捕囚、隷属、追放という苦難に満ちた状況の中で達成することになりました。ヨナも同じでした。もし彼が初めに求められた通りに行動していたなら、暴風、大魚、三日三晩の経験は避けられたのです。ヨナが最終的にどうなったかはわかりませんが、少なくともヨナ書によれば、彼はまだ主の御心を理解するには至っていません。

まとめ

「神は個人また一民族としてのイスラエルの民に『地上最大の国家とするためのあらゆる必要なもの』を与えようと意図された(『キリストの実物教訓』266ページ、申4:6~8、7:6、14、28:1、エレ33:9、マラ3:12、『人類のあけぼの』上巻314ページ、『教育』33ページ、『各時代の希望』下巻12ページ参照)。

イスラエルの民が御名の誇り、周辺諸国の祝福になるように、神は計画された(『教育』33ページ、『キストの実物教訓』264ページ)。

「古代の諸国民がイスラエルの前例なき繁栄を見るとき、興味と関心がかき立てられるのであった。『異邦人も、生ける神に仕えてこれを拝する者たちの優越を認めることであろう』(『キリストの実物教訓』267ページ)。自らも同じ祝福を願い求めて、彼らはどうしたら自分たちもこのような物質的繁栄にあずかることができるのかと尋ねるであろう。イスラエルは次のように答えるであろう。『私たちの神をあなたがたの神として受け入れ、私たちと同じように神を愛し、神に仕えなさい。そうすれば、神はあなたがたにも同じようにしてくださるであろう』。『こうしてイスラエルに保証された祝福は、広い天の下のすべての国家と個人とに、同じ条件の下において、同じように与えられることが保証された』(『国と指導者』下巻109ページ、使10:34、35、15:7~9、ロマ10:12、13ほか参照)。地上のすべての国民はイスラエルに惜しみなく与えられた祝福に共にあずかるのであった(『国と指導者』上巻338ページ)(『SDA聖書注解』第4巻28ページ)。

ミニガイド

ヨナ書の意外な終わり方

ヨナ書の結末は、読者の予期しない終わり方をしています。この内容の今後の展開と私たちに対するメッセージは、おのおのが想像をたくまして読み取って適用するようにと言っているのでしょう。

ヨナ書は、神が話しかけられ、最後も神のヨナに対する語りかけで閉じて、ヨナは沈黙しています。神のニネベの人々に対するみ旨と、ヨナの思いはことごとくすれ違いのままのようにも思われますが、最後の神のヨナに対する、質問ともあるいは神ご自身のモノローグ(独り言)のようにも見える最後の発言を記すことによって、見事な調和でフィナーレ(最終の場面)を迎えています。

とうごまの木の記述は、人間を救われる神の御心の象徴でした。ヨナは自分にとって、暑さを和らげ、暑熱から守ってくれたとうごまの木が枯れたことに怒りをあらわにしたことは、彼が神の御旨を理解しようとしない態度の象徴です。被造物はみな神の作品であって、その存在の可否は神に掌握されており、生きとし生けるものの生殺与奪は神にあるのであって、人間にはご処置に対する抗議の権利などひとつもないことの認識も欠けていました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木を惜しんでいる」と言われました。与えられた神は、また取り去る権利もお持ちです。

「もし、お前があのちっぽけなとうごまの木を惜しむ心があるなら、12万人とも60万人とも数えられるこの地の住民の命を惜しむ私の願いがあなたには伝わってこないのか。この人々は、空の小鳥、一輪の花、一本の木にまさる尊い存在ではないか。私の形に創られ、私が命を与え続けているかけがえのない人々ではないか。どうしてそれが理解できないのか。それだけではないよ。この人たちはあなたのメッセージによって悔い改めたではないか。生活も改めたではないか。それなのにどうして、悔い改めない人に対するのと同じ刑罰を与えることができようか」という神の訴えが聞こえてくるようです。

象徴を通して明白な教訓が与えられたのに、それから学ぶことのなかったヨナ。彼の、自己中心的な排他主義、間違った選民意識、他者に対する憐れみの欠如、不従順の態度を改めるよう、最後の最後まで思いやりを示される神。

ヨナがこのように尻切れトンボのような結末をもって書を閉じたのは、意図的にそうしたのかもしれません。すなわち、自分の盲目的な愚かしさに対する自責の念、心の狭い自分であったことの告白、赦しの願いが込められているとみるのは読みすぎでしょうか。多くの人の悔い改めの業に、自分のような者をあえて用いてくださった神の度量の大きさとを改めて感謝しているようにも思われます。聖霊によってこのことが悟らされ、恥じ入りながら告白文として残したものではないでしょうか。

第12課 預言者ヨナのしるし

第12課 預言者ヨナのしるし

この時点で、ヨナの物語、ヨナの冒険は終わります。じつに読みごたえのある物語、驚きに満ちた冒険でした。

しかしながら、ヨナ書の物語は終わりましたが、そのメッセージと、それが聖書の正典に加えられた理由は終了したわけではありません。

イエス御自身、地上で働いておられたときに三度、大魚の腹の中のヨナについて語っておられます。明らかに、イエスにとって、ヨナ書のこの部分は重要な意味を持っていました。イエスが『マタイ』と『ルカ』の福音書の中でヨナの経験にふれていることからすると、それが私たちに何かを教えていることは明らかです。

今回は、イエスが優柔不断な預言者ヨナについて言われたこと、またイエスがヨナを用いて重要なメッセージを伝えようとされた理由について学びます。

「よこしまな時代」

「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタ12:40)。

第1週の研究でも学びましたが、イエス御自身、ヨナ書の記録、特にヨナが大魚の腹の中で海中を旅するという「信じがたい」部分を真理であると信じておられました。事実、イエスはマタイ12章、同16章、ルカ11章でヨナに言及しておられます。これらはみな同じ文脈において語られたものです。

マタイ12:38~45、16:1~4、ルカ11:29~36を読んでください。これらの言葉はどんな背景において語られましたか。それらに共通していることは何ですか。イエスが「よこしまな時代」に言及されたのはなぜですか。シェバの女王とニネベの人々が出てくるのはなぜですか。

文脈から考えると、これらは多くの点でヨナの経験の繰り返しになっています。ヨナ書全体を通じて、与えられたしるし、警告、神の恵みの現れに応答しているのはヘブライ人でない異教徒たちです。ただ一人のヘブライ人であるヨナはそれらを拒んでいます。イエスはここで同じような人々に出会わされました。これらの人々は、ヨナと同様、イエスをもっと理解していなければならない人々でしたが、実際には理解していませんでした。イエスはヨナに言及することによって、もし信仰をもって従うなら明らかな実物教訓となる真理を彼らに語っておられたのでした。

このことは、大いなる光とその光にともなう大いなる特権を与えられることは全く救いの保証にはならないことを教えています。表面的な「真理」、つまり神と神の性質に関する一連の事実を知ることはそれだけでは何の意味もありません。

しるしを求める

ヨナに関するイエスの発言はどんな質問が発端になっていましたか。イエスがこのように強く応答されたのはなぜですか。マタ12:38、16:1参照

『マタイによる福音書』の初めの16章には、重い皮膚病を患っている人のいやし(マタ8:2~4)、百人隊長の僕のいやし(5~13節)、中風の人のいやし(マタ9:1~8)、盲人のいやし(27~31節)などの奇跡があります。ほかにもいろいろあります。それにもかかわらず、人々はさらなるしるしを求めました。

上記の数々のしるしは、イエスが人々に対して強く応答された理由に関してどんなことを教えていますか。ルカ16:31参照

神を信じたくない人はいつでも何らかの理由をつけて神を信じようとしません。本人が心から信じたいと思わない限り、神にはどうすることもできません。

たとえば、突然、神の御子イエス・キリストが世の罪のために死んでくださったという文字が、全世界のすべての人に見えるように超自然的な方法で大空に映し出されたと想像してください。それがいかに奇跡的で、大いなるしるしであったとしても、神の御子イエス・キリストが世の罪のために死んでくださったと信じるためには、なお信仰が必要です。しかしこのような力強いしるしでさえ信じたくない人にとっては何の説得力もありません。

十字架上のキリストの贖いの死は、過去において起こった歴史上の出来事です。私たちは現場にいて、それを見たわけではないので、信仰によってそれを受け止めるしかありません。ほかにどんな方法がありますか。信仰とは「証明されない」ことを信じることですから、つねに疑念の余地があります。

「ここに、ヨナにまさるものがある」

イエスはマタイ12:41、42で人々に興味深いことを語っておられます(ルカ11:31、32参照)。「ここに、ヨナにまさるものがある」。「ここに、ソロモンにまさるものがある」。前後関係からすると、イエスはここでこれらの人々の態度をニネベの人々およびシェバの女王の態度と比較しておられます。

列王記上10:1~13を読んでください。シェバの女王はソロモンの知恵に接して、どのように応答しましたか。同じように、もしイスラエルの民が主に忠実であったなら、主のためにどんなことを成し遂げることができましたか。申4:5~8、8:17、18、28:11~13参照

キリストはここで、「今の時代の者たち」を異教徒と、さらには御自身をソロモンおよびヨナと比較しておられます。つまり、キリストは次のように言っておられたのです。ニネベの人々は、決して模範的な信仰の持ち主とは言えないヨナの言葉を聞いて悔い改めた。しかし、ここに神御自身の御子がいるのにあなたがたはなおも悔い改めることを拒んでいる。異教徒であるシェバの女王は、罪深い、死すべき人間であるソロモンの知恵を聞くためにやって来た。しかし、神の御子があなたがたのところにやって来たのに、あなたがたはなおも耳を傾けようとしない。

イエスはどんな意味でソロモンやヨナよりも優れたお方でしたか。ヨハ1:1~4、8:58、コロ1:16参照

私たちの知りうる真理の中でも最も深遠で素晴らしい真理は、神御自身がイエス・キリストにおいて人となられたことです。神はキリストを通して罪深いこの世に降り、自ら罪深い、死すべき人間と一つになることによって、私たちにすばらしい希望と慰めを与えてくださいました。

強い言葉

イエスは柔和、親切、愛、赦しに満ちたお方ですが、これらの出来事に描かれているイエスは少し違います。たとえば、マタイ16:1を読んでください。この質問をした人々の動機について考える時、イエスがなぜあのような応答をされたのかがわかります。もちろん、キリストが地上の働きにおいて叱責と酷評に満ちた強い言葉を語られたのはこれが最初ではありません。

マタイ23章を読んでください。イエスはだれを、どんな理由で叱責しておられますか。マタイ23章における叱責と12:38~41における叱責との間にはどんな共通点がありますか。

イエスはマタイ23章で何度も、指導者たちを「ものの見えない者たち」と呼んでおられます。したがって、彼らにマタイ12章にあるようなしるしを与えたとしても全く無意味でした。ものの見えない者たちには見えないからです。たとえイエスが重い皮膚病の人をいやし、死者を復活させ、悪霊を追い出されようとも、これらの律法学者やファリサイ派の人々は見ようとはしなかったでしょう。見ることを望まなかったからです。

イエスは彼らの罪と堕落を指摘することによって(マタ23章)、彼らがなぜ見ることを望まなかったのかを明らかにされました。もし彼らが見ていたなら、もし彼らがイエスのなされたしるしと不思議とを見てイエスを受け入れていたなら、彼らは自分の生き方と行いを根本から変えねばならなかったでしょう。それは彼らの望むところではありませんでした。同じ原則が今日の多くの人々にも当てはまります。彼らが真理を拒むのは、知的な理由からではなく、むしろ生き方を変えたくないからです。

「大地の中」

イエスは律法学者やファリサイ派の人々の霊的盲目を強く叱責しながらも、なお彼らに忠誠を求めておられます。例え神であっても、人々を強制的に従わせることができないからです。現在と同様、当時も、主に対する奉仕は自由意志から出たものでなければなりませんでした。そうでなければ、奉仕は隷属であって神の望まれるところではありません(もし神が隷属を望まれるなら、人間を自由意志を持った道徳的存在者として創造されなかったはずです)。このようなわけで、イエスがヨナの物語をお用いになったのは、御自身の死、葬り、復活について教えるためでした。それらが実際に起こった時、彼らがイエスの言葉を思い出して、イエスを信じるようになるためでした。ヨナはヨナ書2:2で、「陰府の底から、助けを求めると」と言っています。「陰府」という言葉は「墓」または「地下界」を意味するヘブライ語のシェオルから来ています。ヘブライ語では、それは「死」と同じ意味です。ヨナは魚の腹の中で、自分が死んだと考えました。しかし、その後、復活しました。彼は死の運命から救われたのです。

次の聖句を読んでください。イエスがヨナの物語を御自分の経験の「しるし」としてお用いになったのはなぜですか。マタ26:61、27:62~64、マコ14:58、マタ28:6、マコ16:6、ヨハ21:14、使徒2:15、ロマ4:24、25、Ⅰコリ15:3~5、Ⅱコリ4:14、エフェ1:20

ヨナはイエスの象徴としてはいかにも弱々しい存在です。それにもかかわらず、イエスはヨナの物語を、御自分が経験すること、つまり「陰府」にくだり、それから「命」に復活することの象徴として用いておられます。イエスは世の罪の重荷を負って死に(「陰府」にくだり)、ヨナを「陰府」から引き戻された同じ神によって再び命に復活されました。

まとめ

「重要な点は、ヨナが何ひとつ奇跡を行わなかったのに、ニネベの人々が『悔い改めた』ことである。彼らはヨナ自身の権威にもとづいてヨナの言葉を受け入れた。ヨナの言葉が彼らの心に罪の自覚をもたらしたからである(ヨナ3:5~10参照)。律法学者とファリサイ派の人々の場合も、これと同じことが起こるはずであった。キリストの語られた言葉が明らかに彼の権威についての確信に満ちた証拠を伴っていたからである(マコ1:22、27参照)。しかし、これらの言葉に加えて、キリストは多くのすばらしい働きをなされた。これらの働きは、キリストの言葉が真実であることのさらなる証拠であった(ヨハ5:36参照)。これらの証拠があったにもかかわらず、律法学者とファリサイ派の人々は自分たちに与えられた証拠を信じようとしなかった」(『SDA聖書注解』第5巻398ページ)。

イエスは、御自分が「三日三晩」大地の中にいることになる、と言われました。しかし、イエスは金曜日の夕に葬られ、日曜日の朝に復活されました。これはまるまる三日三晩、つまり完全な72時間ではありません。このことからも明らかなように、「三日三晩」という言葉は自動的に、きっかり72時間を意味するわけではありません。むしろ、それは、たとえば(ここでは)金曜日、安息日、日曜日のように、単に三日を意味する慣用句です(ルカ23:46~24:3、13、21参照)。それは必ずしも、完全な24時間からなる金曜日、完全な24時間からなる安息日、完全な24時間からなる日曜日を意味するわけではありません。イエスはまた、ほかのところで、御自分が「三日で」からだの神殿を建て直す(ヨハ2:19~21)、あるいは「三日目に復活する」と言っておられます(マタ16:21)。これらの表現も「三日三晩」と同じ意味です。つまり、イエスは三日の期間にわたって十字架にかけられ、復活するという意味です。これらの日のうちで完全な24時間は安息日だけです。イエスは金曜日の夕に十字架にかけられ、安息日を墓の中で過ごし、日曜日に復活されました。

ミニガイド

ファリサイ派の人々の立場

マタイによる福音書12章41、42節でイエスは、旧約時代の二種類の人物を登場させて、これらの人物の態度と、キリストの多くのわざと宣教を耳にしながら、信じようとせず、もっぱら「しるし」「天からのしるし」(ルカ福音書11章)を要求する律法学者、ファリサイ派の人々の不信仰な態度とを比較しておられます。

一つは、今期ずっと学んできたヨナの説教を聴いて悔い改めた「ニネベの人々」と「律法学者、ファリサイ派の人々」との違いです。ニネベの住民たちは異邦人であったにもかかわらず、見ず知らずの外国人、しかも敵国から来た人、自分たちが信じてもいない神の預言者と称する男を迎え入れたのです。大魚のお腹に3日間も呑み込まれていたなどと、とても信じきれない体験を語る男、その男がこれまた「お前たちは悪い人間だ。悔い改めなければ40日間で国が滅びるぞ」ととてつもないかくい威嚇の言葉を大声で叫ぶのです。自分たちのプライドを傷つけるような耳障りのよくない話を聴いて、それを神の言葉として捉え、素直に悔い改めた事実です。もう一つは、列王記10章に描かれている「シェバの女王」の例です。紀元前千年頃、ソロモンは、イスラエルの歴史上かつてなかった程の繁栄を国にもたらし、国土も領土を広げ、紅海に面したエジオン・ゲベルに貿易港を設け、盛んに諸外国に向けて、貿易を開始しました。現在のイェーメンにあたるアラビア半島南端のシェバという国の女王も、早くから貿易を行っていたので、ソロモンの進出は、商売敵とも言うべき者の出現で、大いに痛手を負っていました。噂によれば、ソロモンはなかなかの名君とのこと、いっそ彼に直接会って、直談判しようとはるばるエルサレムに向かい、数々の難問を解決したという人物です。シェバの女王にとって、ソロモンは外国の商売敵ともいえる人物です。シェバの女王は、女の身でありながら知恵を求めて「地の果てから」やって来ました。

この二つの旧約聖書の事例を挙げて、キリストはファリサイ派の人たちが、どれほど有利な恵まれた場所に立っているかを指摘されます。彼らは、聖書に精通しているベテランです。そして、彼らの目の前におられる方は、外国人でもなく、敵国の人でもない、自国民ユダヤ人です。そして、あからさまに、福音の真髄を開示してくれているのです。はるばる遠地に赴く必要もなく、まさに「ヨナに勝るもの」「ソロモンに勝るもの」として眼前に立っておられます。風の便りではなく、なまの声を聞き、数々の奇跡を見ることができているのです。ニネベの住民のように、自分たちの非を指摘されて素直に悔い改めたら、素朴な畏れの心がひとかけらでもあったら、キリストの前にひれ伏したでしょう。

噂を聞いて、知恵を求めたシェバの女王の求道心が少しでもあれば、悪霊を追い出された主の力を見ただけで、神の指をキリストのうちに見いだしたでしょう。この時点では、まだ主の復活は起きていませんでした。復活を知らなくても、学問的に納得できなくても、イエスを信じることはできましたし、信じなければならなかった。これが彼らに対するキリストの主張でした。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第13課 神についての描写

第13課 神についての描写

今回で、ヨナ書の研究も終わりです。ヨナ書はわずか48節しかありません。しかし、簡潔さは内容の浅薄さを意味するものではありません。事実、聖書の中には、最も深遠な思想が非常に簡潔な言葉で表現されている部分もあります(たとえば、「神は愛です」という言葉など)。同様に、ヨナ書自体は短いかもしれませんが、そのテーマは永遠にわたって研究する価値があります。

繰り返しになりますが、これらのテーマの中でも最もすばらしいものは、神の恵みです。私たちはそれを完全に理解することができません。自分がいかに堕落した存在であるかを知らないからです。そして、私たちが周囲の世界を認識する手段である理性そのものが、とりわけ罪によって蝕まれているからです。あたかも酩酊状態の酔っ払いに、酒の害について聞くようなものです。

それにもかかわらず、感謝すべきことに、私たちが神の愛を知り、信じて従うに十分な恵みを、神は私たちに啓示してくださっています。それ以上に何を求めるべきでしょう。

神の赦し

ヨナ書と聖書のほかの書巻との間には、ある種の共通点があります。それらはどれも神の存在を証明しようとしていません。どれ一つとして神の存在を疑っていません。単なる想像にもとづいて神について語っていません。むしろ、それらは人間の歴史に介入される神について詳しく描写しています。ヨナ書もこの壮大な歴史の一部です。

ヨナ書にはっきりと示されているテーマがひとつあります。それは聖書全体に流れているテーマですが、ヨナ書において独特なかたちで示されています。それは、私たちの神が喜んで赦してくださるお方であるということです。この神の赦しの能力と性質は人間にとって驚くべきものです。ほかの多くの人々と同様、ヨナはこの神の深遠な品性を理解することができませんでした。罪深い人間にとって、神の徹底的な恵みを理解することは困難です。新約聖書の中で四福音書が繰り返し述べているように、神の赦しは人間の想像力の及ばないくらい寛大です。

次の各聖句は、神が喜んで赦してくださることをどのように例示していますか。マタ7:7~11、マタ20:1~16、ルカ15:11~32

ヨナ書は神の豊かな赦しについて描写しています。ヨナ書がユダヤ人の「ミンハー」において朗読されるのはそのためでしょう。これは贖罪日(ヨム・キップール)の午後の礼拝、つまり贖罪日が最高潮に近づく最も聖なる時間になされる礼拝のことです。裁きが終わろうとする最後の時間に、ヨナ書が開かれ、神の憐れみが力強く強調されます。

神の全能

ヨナ書は劇的な方法で、神の主権が信者だけの狭い範囲をはるかに超越したものであることを教えています。第1章に出てくる異教徒の水夫たちでさえ、「暴風」の中に単なる自然界の脅威以上のものを認め、天地の偉大なる神を受け入れました。聖書の記者はみな、例外なく、まことの神と偽りの神々との間にいかなる類似点も認めていません。ヤーウェの決定的で力ある御業は聖書の中で、無きに等しいほかの神々と著しい対照をなしています。

もう一度、ヨナ書に描かれている神の力に目を向けてください。それから、イザヤ書40章を読んでください。ヨナ書に描かれている神の御業はイザヤ書40章の記述をどのように例示していますか。

特にイザヤ書40章の26節と28節には、主の創造力に言及しています。主が世界を完全に支配しておられるのは、主が創造主であり、維持者であられるからです。苦しみや悩みの時にあっては理解できないかもしれませんが、究極的な意味で、私たちの神はすべてを支配しておられます。たとえそれが現在、この世においてでなくても、真に価値のある来たるべき世において、神は万物を更新してくださいます。この世における生命は霧のようなものですが、来たるべき世における生命は永遠だからです。

私たちに理解できないことはたくさんあります。いつでもそうでした。しかし、主は御言葉を通して、またヨナの物語を通して、いかに理解できないことが多くても、私たちは神について、神の品性について、神の力について、そして神の愛について十分に知ることができると教えておられます。神を愛し、神の召しに忠実に従うとき、神は私たちのうちに働いて、人々に御自身とその愛を啓示してくださいます。このことは、私たちが神を愛し、神に信頼する程度に比例します。

神の道徳性

ヨナ書が聖書のほかの書巻とどれだけ異なっていようとも、基本的なメッセージは、神が道徳的な神であって、すべての世界に適用される一定の道徳を持っておられることを明示しています。人間は与えられた光の程度に応じて裁かれますが、神の義の標準にしたがって裁かれることに変わりありません。

次の聖句はどんなことを教えていますか。それらはヨナの物語とどんな関係がありますか。詩9:9(口語訳9:8)、96:9、13、98:9、使17:31、ロマ3:6

聖書の中では、宗教と道徳は密接な関係にあります。聖書は宗教を離れた道徳について教えていません(宗教を離れて道徳に従うことができるという考えは現代の考えです)。神は聖書の中で一貫して、道徳的な原則にもとづいて人間の歴史を評価しておられます。個人であれ、集団であれ、すべての人を造られた神はすべての人を同じ道徳的な秩序のもとに置かれるからです。

創世記15:13~16で、神はエジプトとアモリ人について何と言っておられますか。これらの言葉は異教の民族の道徳性について、また道徳的な行為に関する個人的な責任についてどんなことを暗示していますか。

ヨナ書の中で、邪悪なニネベの人々でさえ、神の裁きに直面したとき、神の裁きの正当性を認めています。さらに、聖書全体に言えることですが、ヨナ書の中で、神との関係が道徳的な生き方のうちに表されています。主の前に「正しく歩む」という表現は、聖書の中で道徳的な生き方を意味する一般的な言葉です。正義を行うことの重要性は聖書の中でつねに強調されています。

神は人格的なお方

ヨナ書において、神は個人的な関係に入られるお方として描かれています。神は単なる抽象的な概念、あるいは漠然とした非人格的な力ではありません。神は地上の人間とかかわりを持たない、遠くかけ離れた存在者でもありません。もちろん、自分の臣民に無条件の服従を要求する宇宙の独裁者でもありません。それどころか、聖書の中で、神は人間に嘆願し、人間と論じ合うお方として描かれています。ヨナ書4章などは、初めから終わりまで神とヨナとの対話になっています。イエスの生涯は、神が地上に来て、私たちと一対一で語られたことを表しています。

次の各聖句において、神は人と語っておられます。これらの聖句に共通していることは何ですか。創4:1~7、出3:1~8、ヨブ38~41章、ヨナ4章、使9:3~8

これらの聖句の中で、神は罪深い人間に警告し、教え、御自身とその愛を啓示しておられます。神は自由意志を持った人間に悪しき選択を思いとどまらせ、カインとヨブには誤った態度を改めさせようとしておられます。これらの実例からもわかるように、主は人類の祝福のためにのみ働いておられます。同じ主は今日、私たちのために働いておられます。この広大な宇宙について考えてみてください(私たちの知っているのはほんの一部です)。それらすべてをお造りになった神が私たちと個人的な関係に入られるのです!想像できますか。

イエスは神の肖像

人間との個人的な関係を求められた旧約聖書の神は、新約聖書の神と同じお方です。このことはイエスの生涯と働きのうちにはっきりと認められます。

イエスは人と交わるために人となり、私たちを滅びの道から救ってくださいました。

福音書に記されている、次に掲げてあるイエスの会話に共通することは何ですか。イエスはこれらの会話を通して何を実現しようとされましたか。マタ19:16~22、マコ7:24~37、ヨハ3:1~21、ヨハ4:1~27

キリストは人々に思慮深く耳を傾け、正直に答えるだけの時間と余地をお与えになりました。人々がただ御自分の言葉に聞き従うだけでなく、議論するのをお許しになりました。キリストは決して人々に無理やり同意させるような話し方をされませんでした。それは神の方法ではありません。キリストが望まれるのは、私たちが愛の心から従うことです。愛は強制することができません。

ヨナ書において、旧約聖書は最高の高みにまで到達しています。神を被造物および歴史と関係を持つお方として、またすべての生き物に対して優しい関心を持つお方として啓示しているからです。

どうして大いなる都ニネベとそこにいる無数の家畜を惜しまずにいられようか、という神の最後の問いかけのうちに、私たちの問題に介入される神の個性の一つをかいま見ることができます。ヨナ書に教えられていることは聖書全体を通して言えることです。すなわち、私たちはひとりではないということです。状況がいかに困難に見えようとも、神は導いてくださいます。私たちは問題の一部・表面しか見ることができません。聖書は私たちに問題の背後にある基本原則を見させてくれます。

まとめ

「神の愛は人類のためにはかり知ることのできないほど深く動かされたのに、これほど大きな愛を受けている者たちに表面的な感謝しかないのを見て、天使たちは驚く。天使たちは、神の愛に対する人々の浅薄な認識に驚き、天は、魂に対する人々の無関心さに憤慨している。そのことについてキリストがどう思っておられるか知りたいだろうか。父母は、自分の子供が寒さと雪の中に行き暮れているのに、それを救えたはずの人たちからみすごしにされ、死ぬがままにほうっておかれたことを知ったらどう思うだろうか。彼らはひどく悲しみ、狂気のように憤慨しないだろうか。彼らはその涙のように熱く、その愛のようにはげしい怒りをもって、そうした殺人者たちを攻撃しないであろうか。ひとりびとりの人間の苦難は神の子の苦難であって、滅びつつある同胞に助けの手をさし出さない人々は神の正義の怒りをひき起こすのである。これが小羊イエスの怒りである」(『各時代の希望』下巻374ページ)。

「主は御自分の広大な支配圏のあらゆる部分と積極的に連絡を取っておられる。主は地球とその住民に関心を寄せておられる。主は語られるすべての言葉に耳を傾けておられる。主はすべての嘆きを聞き、すべての祈りに耳を傾け、すべての人の行動を御覧になる」(エレン・G・ホワイト『今日のいのち』292ページ)。

「キリストのうちには、牧者のやさしさ、親の愛情、あわれみ深い救い主の比類のない恵みがある。キリストは、最も魅力のあることばで祝福をお与えになる。主はそうした祝福を宣言されるだけでは満足されない。主は、それらの祝福を、自分のものにしたいという願いを起こさせるように、最も魅力的な方法で提供される。キリストのしもべたちも同じように、言いあらわしようのない賜物であるキリストの栄光の富を紹介するのである」(『各時代の希望』下巻376ページ)。

ミニガイド

ヨナ書とイザヤ書40章

ヨナ書を「イスラエルが経験した歴史のようなもの」と見る人もいます。イスラエルの国民が、神に授かった使命を忘れ、かえって神のみ心にそむき神から逃走する、しかしバビロンの捕囚によって、本来あるべき場所すなわち、神にそむいた全世界に福音を宣教する立場に引き戻された歴史です。神が「わたしの民」と呼ばれ、異教徒の悔い改めを促す僕となる場所に。ヨナは神からの使命を拒んでタルシシへ逃避しましたが、船の乗組員たちに捕らえられ、大魚によって宣教の原点に立たされました。しかし、ヨナ書の象徴的な意味は、イスラエルにおいては、完全には成就されませんでした。全世界に宣教をするどころか、自分たちの保身のために、選民意識だけを高揚させ、ヨナがニネベの町に宣教したようには全世界に向かって宣教はしませんでした。イスラエルは主の証人とはならず、メシアが到来してもそれを無視して、「わが民」と呼ばれた特権を捨て去りました。

イザヤ書40章は、バビロンに捕囚されたイスラエルの民がペルシャの王キュロスによって捕囚の身から解放され、エルサレムに帰還する預言です。そして、イスラエルの神ヤーウェが宇宙の創造者であり、比類のない方であり、歴史を支配なさる方であり、彼を待ち望む者に豊かな力を添えてくださるお方であることを宣言しています。イザヤは、バビロンの捕囚、エルサレムの崩壊という民族的な苦難の体験を乗り越えて、新たな歩みをなそうとするイスラエル民族に、その拠って立つべき出発点を明らかにしています。

道徳と宗教

ローマ人への手紙の3章で、パウロは古来からユダヤ人の基本的な概念である「世界を裁かれる神」という考えを持ち出しています。善と悪の絶対的基準がなければ、善悪の概念は、すべて相対化してしまいます。「絶対的」な神が存在し、その神が基準を示されてはじめて、この世の道徳的秩序は成立する。これが宗教の立場です。そうでなければ「善が生じるために悪をしよう」(ローマ3:8)という極端な論理も出てくるでしょう。パウロはここの3章で、神の民とされたイスラエル人の罪とそれを裁かれる神の怒りを語る上で、神は真実か不真実かの問題を避けて通れませんでした。神を絶対なる方、至高の聖なる存在として、力強く論証しています。

最後に

ヨナがタルシシヘ行くために船に乗ろうとしたヤッファの港は、使徒ペトロが異邦人伝道のために調えられて、ここから派遣された場所であることを、十数年前私が旅行した時に教えられました。ヨナとペトロが異邦人伝道に赴いた町、時を経て神の主権的な憐れみと恵みが、奇しくも異邦人の私のような者にも及んだ感謝を思い出しています。

よかったらシェアしてね!
目次