【ゼカリヤ書解説】勝利の幻#1 〜見上げて、生きよ〜

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神は私を覚えられる

「ゼカリヤ」というヘブル名は、「神は覚えられる」という意味です。私たちは日常の忙しさのために、神が私たちを覚えられるということを忘れがちです。私たちは立ち止まって、振り返り、目を上げて、神を見る必要があります。神は困難と失望のうちにあるご自分の民をお忘れになるようなかたではありません。神は私たちに、神を見上げて立ち返るように求めておられます。そのとき、神は私たちとともに住み、私たちの働きを祝福してくださいます。

忙しすぎて見上げられない?

ジョン・バンヤンはその著書『天路歴程』において、くまでを持った男の経験について記しています。この男は自分のくまでで身のまわりのゴミを集めるのに忙しすぎて、決して上を見上げようとはしません。頭上には黄金の冠を持った天使がいて、その冠を男に与えようと待っているのに、彼はそれを受ける用意ができていません。なぜでしょうか。自分のしていることに夢中で、立ち止まって、上を見上げようとしないからです。

私たちは、くまでを持ったこの男のようであってはなりません。むしろ、神の存在を認めて、振り返り、何回も目を上げて主の幻を見たゼカリヤのようでありたいものです。そうするとき、ゼカリヤのような預言の賜物が与えられるというわけではありません。が、ゼカリヤの幻の意味を理解し、その勧告にしたがった生き方をするというすばらしい霊的経験にあずかることができます。

ゼカリヤ—神は覚えられる(ゼカリヤ書1章1節、7節)

ゼカリヤ—歴史的背景

「ゼカリヤ」というヘブル名は、「神は覚えられる」という意味です。それは旧約時代には一般的な名前でした。聖書には、ゼカリヤという名の人が29人も出てきます。この名前は帰還したユダヤ人の状態をよく表していました。ペルシャ帝国の政情不安と周辺のサマリヤ人による激しい反対と偏見のゆえに、ユダヤ人は深く失望していました。神殿再建計画は一時、完全に中断し、人々は自分自身の物質的利益を追求しはじめます。その結果、彼らは霊的無気力におちいってしまいました。困難な時代がつづきました。

神はお忘れにならない

失望と不安にみちたこの時期に、預言者ハガイとゼカリヤは人々に励ましと希望の言葉を宣べ伝えました。神は決して彼らをお忘れになってはいませんでした。神が彼らのうちに住み、いつも彼らを覚えることができるように、神は彼らにみもとに帰るように呼びかけておられたのです。彼らが神殿の再建をなしとげることができるように、神は彼らのためにお働きになると約束されました。

約束を守られる神

神は神殿再建の約束を守られました。再建の働きはダリヨス1世の第2年(紀元前520/519年)に再開され、その第6年(同515年)に完了しました(エズラ記6:14、15参照)。

神が試練を許されるわけ

「神が民に試練をお送りになるのは、目的があるのである。神は、もし彼らが初めから終わりを見ることができて、彼らが達成しているみこころの輝かしさを悟ることができたならば、彼らが導いてほしいと考える以外の道に導かれることは、絶対にないのである。神が彼らに試みや試練としてお与えになるものはみな、彼らが神のために強くなり、苦しみに耐えるためである」(『国と指導者』下巻184ページ)。

私はどうだろうか

批判、反対、試練に直面するとき、私は自分の生活のうちに神の臨在を見失うようなことがないでしょうか。そのような状況に直面するとき、神に近づく人もいますが、反対に神から離れてしまう人もいます。あなたの場合はどうでしょうか。昔の神の民のように、主は私をお忘れになったと思って、自分の物質的利益を求めはじめるでしょうか。

ゼカリヤ—人物

紀元前520年ごろ、神によって預言者の働きに召されたとき、ゼカリヤはまだ青年でした。彼は預言者ハガイと同時代の人間でした(エズラ記5:1、6:14参照)。祖父イドは祭司でしたので、ゼカリヤもまた祭司としての務めを果たしました(ゼカリヤ書1:1、ネヘミヤ記12:1、4、16参照)。ゼカリヤがその働きを始めたとき、ハガイはすでに老齢でしたので、若いゼカリヤが彼をよく助けました。「ハガイの最後の記録された言葉が語られてから2か月後に、地上における神の働きについての一連の幻が、ゼカリヤに与えられた」(『国と指導者』下巻185ページ)。

二人は一致協力して働きました。ゼカリヤはハガイの言葉を支持し、強調しました。「ハガイが叫んだ熱烈な嘆願と激励の言葉を、ゼカリヤが強調してさらに追加した。神は起きて建てよという命令を実行するよう、イスラエルを促すためにゼカリヤを起こして、ハガイのかたわらに立たされた」(『国と指導者」下巻182ページ)。

ゼカリヤはバビロンで生まれた捕囚であった

ゼカリヤがおよそ5万人の捕囚とともにエルサレムに帰ってきたことは、彼が神と自分の祖国を愛するように教えられていたことを示しています。

質問1 ゼカリヤはどんな性格の持ち主でしたか。神はゼカリヤの質問、好奇心にこたえておられますが、このことから神のご性質についてどんなことがわかりますか。ゼカリヤ書1:9、10、19、21、2:2、3:5

ゼカリヤがエルサレム復興とメシヤの働きと、また終末の諸事件について神の託宣を人々に伝える者として選ばれたのは、彼の人柄のゆえでした。

神は私たちとの対話を望まれる

ゼカリヤの経験からわかることは、神が私たちの質問を気になさるおかたではないということです。神は喜んで私たちに耳を傾けてくださいます。神は言われます。「さあ、われわれは互いに論じよう」(イザヤ書1:18)。神は忍耐深く、愛に富み、喜んで質問をお受けになられます。ときには、私たちの提案さえお受け入れになります。神はあらゆる方法を用いて対話と理解を生み出そうとされます。

質問2 イエスによれば、ゼカリヤはどのような死をとげましたか。マタイ23:35

律法学者やパリサイ人を叱責するために、イエスはとくにゼカリヤの死をとりあげられたのでした。悲しいことに、ゼカリヤは人々を力づけたあとで、残忍な方法で殺されました。イエスがゼカリヤの死について語られたのは、ご自分が救うために来られたその人々の手で十字架につけられる少しまえのことでした。彼らの祖先が預言者たちを殺したのと同じように、彼らもメシヤを十字架につけました。

〔学者のなかには、マタイ23:35のザカリヤが大祭司エホヤダの子であるという人たちもいます(歴代志下24:20~22)。『SDA聖書注解』第5巻492ページ参照。しかしながらマタイは、殺された預言者が「バラキヤの子」であると明言しています(ゼカリヤ書1:1比較)。『各時代の希望』下巻75ページ参照〕。

ゼカリヤは目をあげて、見た(ゼカリヤ言1章18節、2章1節、5 章 1節、6章1節)。

初めの6章において、ゼカリヤは何回も天を見あげて、神からの幻を見ています。彼は主とともに歩んでいたので、いつでも神からの託宣を受ける用意ができていました。彼は自分の問題ばかり考えたり、地上のことがらにだけ目をそそぐような人間ではありませんでした。

このことは、彼が現実ばなれしていたということを意味するものではありません。彼は現実主義者であって、自分の民の問題をよく理解していました。しかし、この世の問題を解決するまえに、彼は神に向かって目をあげました。そして、助けが自分自身をこえたところから、つまり主からくることを悟ったのでした。

質問3 ゼカリヤが目をあげて見たことには、どんな霊的な意味がありますか。ゼカリヤ書1:18(列王紀下6:14~17比較)

私たちは自然的・超自然的世界に生きている

私たちの人生は目に見えるものと目に見えないものとによってとりまかれています。人間はとかくお金、快楽、名声といった目に見えるものに心を向けがちです。その結果、目に見えない世界、超自然的なものを見失います。もっと目に見えないものが見えるようになるために、神に私たちの目を開いてもらう必要があります。

超自然的なものは自然的なものにまさります。超自然的なものはより現実的で永続的です。神によって目を開いていただき、自分で見あげるとき、列王紀下6:17の若者のように、私たちも神からつかわされた案内者・保護者を信仰によって見ることができます。目にみえない主と主のみ使いたちの世界を身近に認めるとき、私たちのまわりの目に見える世界が新たな意味を持つようになり、正しい位置におかれるようになります。

自分から目を離してキリストを見る

「神はわたしたちが自分の力で勝利するように命じてはおられない。神のそば近くに来るように神は申されている。身心をうちひしぐ、あらゆる困難のもとに働くときも、神はわたしたちを自由にしようと待っておられる。……イエスはわたしたちの弱さに心動かされ、わたしたちが自分の困難や悩みをイエスの足もとにおくように望んでおられる。自己を観察し、自己の感情にふけることは賢明ではない。そうするとき、敵はわたしたちの信仰を弱め、勇気をくじくような困難や誘惑をあらわしてくる。……わたしたちは目を自分から離し、イエスを見なければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』226、227ページ)。

質問4 ゼカリヤは何度も、すすんで神からの託宣を受けようとしています。たえず主の勧告に聞き従うとき、私たちはどんな祝福を受けますか。ゼカリヤ書4:1、5:1、6:1、8:1(サムエル記上3:10、イザヤ書6:8比較)

この世の中には、私たちの心をひきつけようとする多くの声があります。たえず聖霊の声に耳をかたむけ、サムエルやイザヤやゼカリヤのようにそれに応答したいものです。

質問5 主の声にたえず耳をかたむけ、その勧告に従ううえで、私たちの意志はどの程度の役割をはたしますか。ピリピ4:13、3:14、へブル12:4

恵みによってのみ救われ、信仰によって業をなす

私たちは自分の努力によって救われるのではありません。私たちはキリストの恵みという無償の賜物によってのみ救われるのです(エペソ2:8、9参照)。しかし、恵みによって救われるとき、私たちは「良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過こすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。今や私たちには、「愛によって働く信仰」が与えられています(ガラテヤ5:6)。キリストの愛と彼の品性を反映するという目的によって励まされ、たしかな信仰の歩みを忍耐づよく続けていきたいものです。消極的な気分になったり、さまざまな問題に直面するときにも、日ごとに自分の意志を神にゆだねましょう。

選択の力

「すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのであります。神は人間に選択の力をお与えになりました。つまり人がそれを用いるようにお与えになったのであります。私どもは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神にささげることはできません。けれども神に仕えようと選ぶことはできます。意志は神にささげることができます。そうすれば神は私どものうちにお働きになって、神の喜びたもうように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は全くキリストのみたまに支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまたかれと一致するようになります」(『キリストへの道』57ページ)。

質問6 日ごとに主に心を向けるとき、私たちはどうなりますか。イザヤ書45:22、ヨハネ3:14~16

必要な準備

「わたしたちは、キリストを日々の友とするとき、見えざる世界の力に囲まれているのを感じ、イエスを見つめることによってそのみかたちに似た者となるのです。見ることによってわたしたちは変えられます。品性は天のみ国にふさわしく和らげられ、きよめられ、高められます」(『思いわずらってはいけません』110ページ)。

理解し、適用し、生きる(ゼカリヤ書4章4節~6節、6章4節、5節)

質問7 示された象徴の意味がすぐ理解できなかったとき、ゼカリヤはどうしましたか。主はどのように応じられましたか。ゼカリヤ書4:4~6、6:4、5

主が象徴やたとえによってそのメッセージを与えられるのは、私たちを迷わすためではなく、むしろ私たちの研究と祈りを促すためです。私たちがみことばの意味を理解する場合、全的に主に信頼するように、主は私たちに望んでおられます。

質問8 ゼカリヤは自分の預言が後世の人々にもあてはまるということを十分に理解していたでしょうか。もしそうでないとすれば、そこにはどんな意味がありますか。ペテロ第Ⅰ・1:10~12(ローマ15:4、コリント第Ⅰ・10:11、ダニエル書12:4、8、9比較)

「こうした偉大な光景が示された預言者たちは、その意味を十分に理解したいと願った。……まさにその成就の瀬戸際に立っているわれわれにとって、来たるべきこれらの諸事件の描写はなんと意義深く、また生々しい関心事でなければならないことであろう。これは、われわれの祖先がエデンを去って以来、神の子供たちが待望し、祈ってきたできごとなのである」(『国と指導者』下巻333ページ)。

「聖霊の特別の光に浴した預言者たちでさえ、自分たちにゆだねられた啓示の意味を、完全に理解してはいなかった。その意味は、神の民が、そこに含まれている教えを必要とするにしたがって、代代にわたって示されるのであった。……こうした預言が神のしもべたちに与えられたのは、新約時代のキリスト者のためであるとは、神の民にとって、なんという教訓であろう」(『各時代の大争闘』下巻36、37ページ)。

質問9 現代に関する、また地上歴史の最後の諸事件に関するゼカリヤの託宣の特別な意味を、私たちはどのように理解することができますか。ヨハネ16:12~15、26、コリント第Ⅰ・2:12、13

人間の理性は聖霊の教えに服する

「この世においてさえ、真理がたえずご自分の民に示されるように、神は意図しておられる。この知識が得られるのはただ一つの方法による。みことばを与えてくださったその聖霊の啓発によってのみ、私たちは神のみことばを理解することができる。……

神は人間にその理性の力を活用するように望んでおられる。聖書を研究することは、ほかのいかなる研究にもまして理性を強め、高尚にする。それは人間の理性を最も霊的に、また知的に活用することである。しかし、人間性という弱さ・もろさを持ったこの理性を、私たちは神格化することに対して警戒しなければならない。明白な真理を誤解することなく、聖書をはっきりと理解しようと思うなら、すなおな、幼子のような単純さと信仰を持ち、聖霊の助けを求めなければならない」(『教会へのあかし』第5巻703ページ)。

まとめ

ご自分の御子を私たちにくださった神は、私たちを忘れたり、見捨てたりされることがありません。神はいつでも私たちのそばにいて、私たちが目をあげて神を見、約束のものを受けることによってご自分の愛に応答するのを待っておられます。そのとき、私たちは神との関係を維持し、永遠のいのちの約束にあずかることができます。

*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。

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