
アウグスティヌスの『告白』とは
アウグスティヌス(354ー430)は、後世に大きな影響を与えたキリスト教の思想家で、 原罪論や予定説を主張しました。また、人間の内面・心を問題としたため「心の哲学者」とも呼ばれています。
アウグスティヌスの著作『告白』(ラテン語:Confessiones、397〜400年頃執筆)は、自身の回心を描いた作品で、西洋思想史とキリスト教神学において重要な位置を占める古典です。
『告白』は全13巻で構成されていますが、一般的には次のように理解されることが多い書物です。
- 第1部(1〜9巻)「自分の誕生から母の死までの回想」
- 第2部(10巻)「司教としての心の有り様」
- 第3部(11〜13巻)「『創世記』第1章の解釈」
この記事では、そのアウグスティヌスが自身の半生の生き様とキリスト教に回心した経験を書いた『告白』の第1部について解説します。

この記事はこんな人におすすめ!
・『告白』第1部の内容を簡潔に知りたい
・『告白』をこれから読む予定の人・読んだけれど挫折した人
・アウグスティヌスの生涯を知りたい
この記事は約6分で読むことができます。
この記事のポイント
- 『告白』第1部は、アウグスティヌスが神を信じるようになるまでの物語
- 弱さや失敗をとおして、自分の生き方を見つめ直していく内容で、「人はどう生きるのか」を考えるきっかけになる作品
- 神に助けられ、心が変わっていく姿が中心テーマ
よくある質問


『告白』のあらすじとアウグスティヌスの生涯
その生涯と『告白』のあらすじ
- 誕生
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西暦354年11月13日、交通の要所であった北アフリカの都市タガステで、アウグスティヌスは誕生します。
この時、ローマ帝国は射陽となり、時代は中世へと移ろうとしていました。
- アウグスティヌスの両親
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父パトリキウスは市会議員で、母モニカも平民階級ではありましたが、ある程度の資産家の娘でした。
他にも弟ナウィギウスのほか、修道女となった姉妹がいました。
- 重い病にかかり、洗礼を受けようとする
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アウグスティヌスが少年の時、胃の病にかかり、死にかけます。その時に、母は彼に洗礼を受けさせようとしましたが、奇跡的に回復したため、洗礼の機会は延ばされました。
わたしをよろこばせたのは、愛し愛されることでなくて何であったろうか。
アウグスティヌス『告白』第2巻第2章
- アウグスティヌスの進学
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13歳の秋、アウグスティヌスはマダウラの学校に進学します。
しかし、15歳の時に学業の途中でしたが、学費が工面できなくなったために、実家に戻らざるを得なくなりました。
- 梨泥棒
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突然の学業中断は、アウグスティヌスの不安をかき立て、それは生活の乱れとしてあらわれます。
故郷で怠惰な生活を送っていた息子を見て、母は「姦淫をしてはいけない」といさめます。
そのようななかで、彼は仲間たちと梨泥棒をするのです。それは飢えからでも、食べて楽しむためでもなく、単に行為そのものを楽しむためでした。
AIによって生成されたイメージ画像です
わたしは、愛することを愛して愛の対象を求めていた。
アウグスティヌス『告白』第3巻第1章
- 学業の再開
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援助を受け、カルタゴの修辞学学校に進学する夢が叶います。
ただこの時、年頃の彼にとっては、恋愛が最大の関心事となっていたのでした。
- ひとりの女性との出会い
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アウグスティヌスは、ひとりの女性と出会い、肉体関係を持つようになります。ほどなくして、子どもが誕生します。この子の名前はアデオダトゥスで、「神から与えられた者」を意味します。
AIによって生成されたイメージ画像です - 結婚できないふたり
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相手の女性は身分が低かったため、家と家との間で、正式な婚姻関係を結ぶことができませんでした。そのため、あくまで彼女は同棲者という立場でした。
- 温かな家庭
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ふたりの関係は15年間続き、アウグスティヌスは彼女と息子を大切にし、ささやかなそれでいて温かな家庭をつくりました。
- 学業で首席を占める
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学業では優秀な成績を占め、弁論術の分野で秀でていきます。しかし、彼は後に次のように語っています。
「そこではうまく人を欺すほどますますほめられた。……わたしは……得意になり、虚栄心のためにふくれあがっていた」。 - 哲学とマニ教との出会い
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19歳になったアウグスティヌスは、ギリシア・ローマの哲学書も読むようになり、キケロに感銘を受けます。
この時、アウグスティヌスは『聖書』にも手を伸ばしますが、キケロと比べて取るに足らないものと考えました。
そのようななかで、「自分たちこそ真のキリスト教徒である」と主張していたマニ教に出会います。
マニ教|用語解説マニ教は、二元論の世界観とグノーシス主義思想を持つ当時の世界宗教でした。
3世紀、ペルシアのマーニー・ハイイェー(216〜277年)は、「ザラスシュトラ(=ゾロアスター)とブッダとイエスを止揚する最終預言者」を名乗り、マニ教を「真のキリスト教」であるとしたのです。
また、キリストの受肉と十字架の贖いを否定し、ローマ帝国下においても非合法とされました。
- 幼なじみの死
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アグスティヌスは友人たちにマニ教を勧め、親しい幼なじみもそれを受け入れます。
しかし親友は熱病にかかり、その死の間際に、洗礼を受けていくのです。これはアウグスティヌスにとって、大きな衝撃でした。
その後、アウグスティヌスはマニ教に心を惹かれつつも、完全にその教義に納得できていたわけではなく、カトリック教会にも求道者として通いました。
- 占星術に惹かれる
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友人を亡くしたアウグスティヌスは、占星術に惹かれていきます。それは、占星術が友人の死の理由を教えてくれると思ったからです。
アウグスティヌスは占星術を通して、天文学に興味を抱き、学び始めました。
その時に、占星術は人間の思いつきや偶然に基づく、曖昧なものであることに気づき、さらにマニ教の教理が不確かなものであることにも気づきます。
- マニ教の指導者、司祭ファウストゥスとの出会い
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ある日、マニ教の有力指導者であるファウストゥスが、アウグスティヌスのいる街へとやってきました。
ファウストゥスがマニ教に対して、彼が抱えている疑問を答えてくれると期待しましたが、その説明は納得いくものではなく、彼は失望します。
こうして、しばらくの間、アウグスティヌスはマニ教やキリスト教、哲学の間をさまよい続け、その彼を母モニカは祈り続けました。
わたしの母は、わたしのためにあなたにむかって、世の母親たちが愛し子のなきがらに注ぐよりもはげしく泣いた。……そして主よ、あなたは母の嘆きに耳を傾けられた。
アウグスティヌス『告白』第3巻第11章
AIによって生成されたイメージ画像です
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わたしが、このようなことを語り、そして風向きがさまざまに変わって、わたしの心をかなたこなたへ追いやっている間に、時はすぎ去った。そしてわたしは、主に向き直ることをためらって、あなたのうちに生きることを日一日と伸ばしていたが、日々わたし自身のうちに死ぬことは伸ばしていなかった。
アウグスティヌス『告白』第6巻第11章
- アンブロシウスとの出会い
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出世街道を走り、ミラノへと移ってきたアウグスティヌスは、もはやマニ教徒でも、キリスト教徒でもなく、また哲学思想からも少し距離を置いている状態でした。
この時に、アンブロシウスと出会い、彼の「自分たちが悪をなす原因は自分たちの自由意志にある」という考えは、アウグスティヌスに影響を与えます。
- 伴侶との別れ
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母モニカがミラノへとやってきて、息子のミラノでの地盤固めのために、良家の娘との正式な婚姻に奔走します。アグスティヌスも紹介されたその娘を気に入り、正式に婚約しました。
この時に、婚約の差し障りになるという理由で、15年連れ添った女性と離別するのです。
当時、ローマの慣習として同棲者をそのままにしておくこともできましたが、厳格な司教や母、また彼女自身もそのような関係をよしとせず、息子アデオダトゥス残して、ひとり去っていきました。
- 自堕落になるアウグスティヌス
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良家の娘を許嫁にしたアウグスティヌスでしたが、彼女は結婚できる年齢になるまでにあと2年足りていませんでした。
そのようななか、15年連れ添った女性がいなくなり、自堕落な性質が彼を襲い、他の女性と関係を持つようになっていきます。
ただ、この関係も離別の傷を癒すことなく、いっそう絶望的なものにするばかりだったのです。
この自分自身の問題に苦しんだ彼は、アンブロシウスから教えられた「自由意志による悪」の問題を改めて理解するようになったのです。
- 「取って読め」
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葛藤の中にあったアグスティヌスでしたが、徐々にキリスト教の信仰が彼の中に根付くようになります。
しかし、決心をすることができず、長い葛藤の日々を過ごします。
そのようなある日、「取って読め、取って読め」という歌を聞きます。彼は、聖書を開いて最初に目が止まった箇所を読めという神の命令だと、これを捉え、聖書を手にします。
そして、開いた聖句がローマの信徒への手紙の一節でした。
日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、主イエス・キリストを着なさい。欲望を満足させようとして、肉に心を向けてはなりません。
ローマの信徒への手紙13章13ー14節AIによって生成されたイメージ画像です - 母モニカの死
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アウグスティヌスの母モニカは、彼の洗礼後しばらくして、病に倒れ、亡くなります。
彼女は、生涯をかけた執り成しの祈りが実を結んだことを見届けて、その生涯を閉じるのでした。
わが子よ、人はいざ知らずわたしは、もうこの世のどんなものにも喜びを感じない。……この世の望みはすでに遂げたからである。……それはわたしが死ぬ前に、あなたをカトリックのキリスト信者として見ることであった。神はわたしにこの望みを十二分にかなえてくださったので、わたしがいまあなたが地上のあらゆる幸福を捨てて、神の僕となったのを見ることがでるのである。わたしはもうこの世で何をしようか」
アウグスティヌス『告白』第9巻第10章
- アグスティヌスのその後……
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マニ教の反駁に着手
著書『自由意志』を書き始める。
『告白』を書き始めるローマ帝国が東西に分裂した翌年、396年に司教に就任。397年に『告白』を書き始め、400年に完成します。
ペラギウス論争412年にペラギウス論争に関わり始め、418年にカルタゴ教会会議がペラギウス主義を断罪すると、『キリストの恩寵と原罪』を執筆します。
ヴァンダル族の襲来と死西暦430年8月28日、ヴァンダル族の包囲網の中、熱病により76年の生涯を閉じます。
ペラギウス主義・半ペラギウス主義とは
アウグスティヌスは論争を通して、彼の神学的立場を築いていきましたが、その一例がペラギウスです。
ペラギウスは人間の意志を強調し、それに対してアウグスティヌスは、人は神の恵みによって救われるのであり、単に人の自由意志によって救われるわけではないとしました。
この時に、彼は恵みは救いに予定された者に与えられるとし、予定説的な考えを深めます。
その後、ペラギウスは西方教会で異端とされます。
- 異端
- ペラギウス主義
何の助けなしに自分の意志によって、神を選ぶことができる。 - セミ・ペラギウス主義
神の助けによって、神を選ぶことができるが、最初の一歩は人間の意志による。
- ペラギウス主義
- 正統
- カルヴァン主義
人間には神を選ぶ力がないので、神が救いを含めすべてを決定される。 - アルミニウス主義
神が恵みを与えてくださり、意志の力を強められていき、神を選ぶことができる。最初の一歩もその後も神の恵みによる。
- カルヴァン主義
カルヴァンの予定説に疑問を抱いたアルミニウスの思想は、イギリスのジョン・ウェスレー(メソジスト)やアメリカのプロテスタントなどに影響を与え、特にアメリカのエヴァンジェリカリズムに大きな影響を与えています。
アルミニウス主義の違いとカルヴァン神学の主な違いは以下の通りです。
アルミニウス | カルヴァン |
神は予知に基づいて人を選ばれた | 神の一方的な予定 |
キリストはすべての人のために死なれたこと | 神は予定された者のために死なれた |
人は恵みを受けることも拒むこともできる | 神は不可抗的な恵みを与えられる |
著者|高橋 徹
1996年、横浜生まれ。三育学院カレッジ神学科卒業後、セブンスデー・アドベンチスト教団メディアセンターに勤務、現在はセブンスデー・アドベンチスト教団牧師。
- セブンスデー・アドベンチスト教団牧師
- 光風台三育小学校チャプレン・聖書科講師、三育学院中等教育学校聖書科講師
- 著書『天界のリベリオン』
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参考文献
服部英次郎訳『聖アウグスティヌス 告白(上)』岩波文庫
出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書
ギャリー・ウィルズ(志渡岡理恵・訳)『アウグスティヌス』岩波書店
山形正男『キリスト教2000年の歴史』福音社