【レビ記】罪のらい病からの清め【12ー15章解説】#2

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キリストはいやし、清められる

聖書において、らい病は罪の象徴として用いられています。感覚をまひさせ、腐雀:させるらい病の「流出」は、有害な原則の働きを示しています。清めの儀式はキリストのいやしの働きを示すもので、らい病患者はこれによって神と人との完全な交わりに復帰することができました。キリストの恵みだけが、私たちを罪という内面の汚れから清めるのです。

キリストは人間の必要を満たされる

現代の社会は罪を古くさい概念としてしりぞけ、人間の苦悩をほかの原因に帰しています。しかし、聖書はさまざまな予型を用いて人間の罪の恐ろしさ、罪の力に対する人間の無力さを強調しています

聖書は罪を不浄、汚染、内面的・浸透性の汚れ、堕落として描写しています。救いは清めによってもたらされます。レビ記にこの種の予型が用いられている証拠として、モーセが「不浄な・汚れた」(ターメー)およびそれに関連した語を140回以上、またその反対語である「清い・清浄な」(ターヘール)という語を70回以上、用いている事実をあげることができます。さらに、レビの制度は水と血によって清めがなされ、汚れが取り除かれる過程を明らかにしています。

レビ記第13章、第14章に記された皮膚病が何であったのかは明らかではありませんが、レビ記の律法はその中にらい病を含めています。したがって、今回の研究はそれにもとづいたものとなっています。罪の起源と同じく、らい病の原因も完全にはわかっていません。

罪と同様に、らい病は内側から静かに、知らないうちに作用し、感覚をまひさせ、内臓をおかし、ついには大事な血液を腐敗させてしまいます。

今回は、らい病のもたらす汚れについて考え、聖書に記された4人のらい病患者の物語について学びます。それから、清めの儀式に必要な要素について学び、聖霊の助けによってその意味について考えます。

この儀式的な清めはイエスを指し示しています。イエスは人間の絶望的な必要を満たす犠牲、清めの源泉、仲保の祭司です。彼は私たちのらい病(罪)をご自身に負われたゆえに、堕落した者たちを思いやり、彼らを清め、父なる神との交わりに回復することがおできになるのです。

罪による汚れ

らい病は人間性そのものの象徴なので、儀式的な清めも、単なる外面的な行いだけでなく、人間そのものに関係したものです。

質問1

らい病の不安におののいている人は何によって希望を与えられましたか。レビ記13:6、23、28、34

救いの計画の目的はいつでも、まず罪を制限することであり、つぎにそれを滅ばすことでした。

「私どもは、自分の力で一度沈んだ罪の淵からのがれることはできません。また、私どもの悪い心を変えることもできないのであります。『だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない』(ヨブ記14:4)、『肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである』(ローマ8:7)とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割をもってはいますが、心を新たにする能力は全くないのであります。もちろん、私どもの行動にただ外面的の正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の原泉をきよめることもできないのであります。天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪よりきよめられることはできません。この力というのはキリストであります。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神ときよきに導くことができるのであります」(『キリストへの道』15、16ページ)。

質問2

レビの制度においては、信じるイスラエル人がすべての汚れから清められるということは重要なことでした。神にとってそれはとれほと重大なことでしたか。レビ記15:31~35

儀式的な汚れから清められるためには、以前に罪のために定められていたのと同じささげ物をする必要がありました。罪祭と燔祭が罪と深刻な汚れのためにささげられました。このことは、儀式的な汚れが道徳的な罪の重大さと罪の汚れの恐ろしさを強調していたことを示しています。

らい病に関する律法は、罪人が病人であって、死ぬ運命にあることを教えています。当時のらい病は、ある意味で現代のエイズに似ています。

質問3

らい病の伝染を予防するために、どんな方法がとられましたか。アロンはこの病気の恐ろしさをとのように表現していますか。レビ記13:45、46、民数記12:9~12

「東洋で知られているすべての病気の中でらい病が一番恐れられていた。その病気は伝染してなおりにくいという特性がある上に、病人に恐ろしい結果を及ほすので、どんなに勇敢な人でも恐怖に満たされるのであった。ユダヤ人の間では、それは罪を犯した罰とみなされ、そのために『行羅』とか『神の指』などと呼ばれていた。この病気は根深くて、根絶することができず、致命的であるために、罪の象徴とみなされた。らい病人は、儀式の規則によって、けがれた者と宣告された。彼はすでに死んでしまった者のように、人々が住んでいるところからしめ出された。彼のさわったものはみなけがれた。空気も彼の呼吸によってけがれた。この病気の疑いのある者は、祭司にみてもらい、祭司が調べてみて病気かどうかを決定するのであった。もしらい病人であると宣告されたら、彼は家族から隔離され、イスラエルの会衆から絶たれ、同じようにこの病気にかかっている者とだけしかまじわれない運命に定められた。律法の要求は曲げることができなかった。王や役人たちでさえ例外ではなかった。この恐るべき病気に襲われた君主は、王位を捨てて、社会から逃げ出さねばならなかった。らい病人は友人や肉親から離れて、自分の病気ののろいを負わねばならない。彼は自分のわざわいを公表し、衣を裂き、警戒の声をあげて、不潔な自分の前から逃げるようにみんなに警告しなければならなかった。人々は、孤独な追放人が悲しい調子で『けがれた者、けがれた者』と叫ぶ声を、一つの合図として恐怖と嫌悪の念をもって聞いた」(『各時代の希望』上巻328、329ページ)。

質問4

以下の聖句を読み、彼らがなぜらい病になったのかを調べてみましょう。このことは今日の私たちにとってどんな意味がありますか。

出エジプト記4:1~7(モーセ)

民数記12:1~6、9、10(ミリアム)   

列王紀下5:20~27(ゲハジ)

歴代志下26:14~21(ウジャ)

ヘブル人はらい病を天からの「打撃」の結果と信じていました(レビ記14:34参照一一神は家にらい病を「生じさせる」とあります)。らい病人は「神にたたかれ」たのでした(イザヤ書53:4)。ユダヤ人はイザヤのこの預言によってメシヤを人間の性質を持った「ユダの家系のらい病人」と信じました。メシヤは神からつかわされた身代わりとして、人間の堕落した性質をとられるのでした。

質問5

 キリストはらい病人たちをいやされたあとで、彼らにどうするように言っておられますか。ルカ5:13、14、17:11~14、マタイ8:4

救い主はこの指示によって、モーセがレビ記の規定を書いたことを認められただけでなく、ご自身が15世紀も前にイスラエルに与えられた規定に従われました。救い主はさらに、それによってメシヤが来られたことを祭司たちに教えようとされたのでした。

清められた汚れ

汚れは、水、血、火という異なった三つのものによって象徴的に清められました。これらはみな、来るべきメシヤによって与えられる神の清めの恵みを指し示していました。

質問6

イザヤは幻を通してどんな経験をしましたか。それは彼にどんな影響を及ぼしましたか。燃える炭が口に触れるとは何を意味していますか。イザヤはとのようにして汚れから清められましたか。イザヤ書6:1~7(マタイ12:34比較)

キリストのすぐれた完全さは私たちの罪深い汚れをきわだたせるものです。「彼〔イザヤ〕が御使いたちの歌を聞いているうちに、……主の栄光、無限の力、すぐれた威光が彼の幻の前を通り過ぎ、その魂を印象づけた。神の品性を啓示するこの比類なき輝きの中でイザヤ自身の内面の汚れが強烈に示された。彼の言葉そのものが汚れたもののように思えた……。弱く、欠陥だらけの人間性が神の完全な生活・輝き・栄光と対比されたとき、彼は自らの無力さ、価値のなさを感じたのであった」(『SDA聖書注解』第4巻1140ページ、エレン・G・ホワイト注)。

「キリストを見る者たちはみな、このようになる。……クリスチャン経験において一歩進むごとに、われわれの悔い改めは深まる。われわれはキリストによる以外に満足はないことを知り、使徒パウロの告白をわれわれもするのである。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことをわたしは知っている』。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである』(ローマ7:18、ガラテヤ6:14)」(『患難から栄光へ』下巻264、265ページ)。

質問7 

祭司がらい病の疑いのある者を調べ決定を下すということのうちにどんな重要な真理が示されていますか。レビ記第13章第14章を読んでください。次にそれらの聖句をヨハネ5:22、ペテ口第I 4:5と比較してください。

モーセは36回以上、らい病かどうかを調べて決定を下すことのできるのは祭司だけであると述べています。イエスは私たちの祭司であり、父なる神から「さばきのことはすべて」ゆだねられた唯一のおかたです(ヨハネ5:22、使徒行伝17:31)。その生活(「肉」)、行為(「衣服」)、家族(「家」)に「らい病」のきざしが見られる人々をさばく権威が与えられている人はイエス以外だれもいません。

質問8

清められたらい病人は聖所に近づくことができなかったので、律法は祭司に何をするよう要求していましたか。レビ記14:2、3

質問9

らい病人が清い者とされるときに、神は彼に何を求められましたか。それらは何を予表していましたか。レビ記14:4、5、10(マタイ10:29~31、詩篇51:7、ヨハネ1:29、36比較)

質問10

祭司がらい病人と「宿営の外に出て行く」行為は私たちの大祭司イエスについてどんなことを教えていますか。レビ記14:3(レビ記16:27、ヘブル13:11、12比較)

質問11

祭司が小鳥を殺して、その血を水に注ぐ行為は何を示していたと思いますか。レビ記14:7

イエスは犠牲でした

「殺した小鳥の血にひたし、それから喜ばしい生命に解き放たれる生きている小鳥のすばらしい象徴は、私たちにとってあがないの象徴である。それは死といのちの融合を示すものであり、あがないの主のゆるしの血の、よみがえりと生命への結合という隠れた宝を真理の探求者に示すものである。小鳥は流れ水の上で殺された。この流れ水はつねに流れ、つねに清める効力を持ったキリストの血の象徴であった。このキリストは世の初めからほふられた小羊であり、ユダとエルサレムのために開かれた泉であった。人々はこの泉で洗われ、すべての罪の汚れから清められるのであった。私たちもキリストのあがないの血に遠慮なくあずかるべきである。これは罪深い人間に与えられた最も尊い特権であり、最大の祝福である。それなのに、この大いなる賜物がほとんど活用されていない。流れは深く、広く、絶えることがない。聖潔を求めるすべての人か平安と安息、聖霊の生気に満ちた力、そしてキリストとの聖潔と幸福と平安に満ちた生活、尊い交わりにあずかることができる。そのとき初めて、私たちはヨハネと共に、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』と言うことができる」(『SDA聖書注解』第1巻1111ページ、エレン・G・ホワイト注)。

質問12

結局、私たち罪人を罪の汚れから清めるものは何ですか。ィエス・キリストを私たちの救い主また主として受け入れるとき、私たちのうちにどんな根本的な変化が起こりますか。コリント第II 5:17

変化は再創造を必要とする

「失われた罪人を『新しく、造られた者』に変えるためには、最初に生命を生み出したのと同じ創造力が必要である。……それは、通常の人間の経験とは全く別の、超自然的な働きである。この新しい性質は、一部の人たちが考えているように人が生まれつきもっている道徳的力の産物ではない」(『SDA聖書注解』第6巻868、869ページ)。

旧約聖書には、いやされたらい病人がレビ制度の清めの儀式に参加できたという例が一つも記されていません。福音書はそのような人々に対するキリストのあわれみを描写しています。キリストはモーセの教えに従って、いやされたらい病人がふたたび社会に復帰することができるように、彼らを祭司のもとに送り返しておられます(マタイ8:1~4参照)。

罪人は神の完全な品性を見るとき、罪が自分のうえにもたらした汚れも見ることになります。罪人は、自分のそばに立って、喜んで受け入れる者を清め、いやそうとしておられる完全なおかたイエスをながめるべきです。

まとめ

レビ記は、罪の性質を内面の汚れとして描いています。このことは私たちに、自分の大きな必要をより深く実感させてくれます。なぜなら、私たちは自分の汚れた状態から清いものを引き出すことができないからです。このことを理解するとき、私たちはキリストに導かれます。キリストの血だけが私たちの汚れを清め、内面から新しい心と新しいいのちを造り出してくれます。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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