【レビ記】清めと家庭【18、20章解説】#10

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救い主は私の必要を知っておられる

性的能力は結婚にとって神聖なものです。なぜなら、結婚は神が定めた結合だからです。性道徳についてのレビ記の教えは神の原則にもとづくものです。「健全」、「正常」ということは清めに不可欠なものです。それらは神の計画に従うことによって可能となります。したがって、救い主の本来の計画から性的に逸脱することは罪です。なぜなら、それは神の理想に混乱と破滅を生じさせるからです。救い主の計画に従って生きることは真の幸福をもたらします。

神の原則は私を守る

この世の価値観はたえず変動します。そこには絶対的で、不動の原則というものがありません。多くの人にとっての「原則」はその日を気ままに生きることです。彼らの目的は「一番」になることであり、「快楽」を求めることです。道徳の領域においてはとくにそうです。神の抑制する恵みがないなら、私たち人間は内面的な堕落におちいることでしょう。エジプトとカナンにおけるイスラエルがそうであったように、低級な道徳による堕落は現代のクリスチャンにとって脅威です。神は霊感を受けたレビ記の指針によって、周辺の堕落したカナン人の不道徳からご自分の民を守ろうとされました。神はイスラエルの道徳と霊的高潔さを守ろうとされました。

レビ記18章には7回、神の聖なる民はカナン人の不道徳な行いや習わしをまねることによって自らを汚してはならないと教えられています(3、24、26、27、29、30節参照)。主は6回、「わたしはあなたがたの神、主である」と再っておられます(2、4、5、6、21、30節参照)。これには、「聖にして、道徳的に純潔でありなさい。わたしが聖なる者であるからである」という含みがあります。

この言葉はその他にイスラエルにとって、また私たちにとって、重要な意味を持っていました。つまり、私たちのすべての行為は神の前で吟味されるということです。神の目は私たちに注がれています(詩篇139:1~12参照)。

レビ記の教えは結婚についての神の計画を理解することによってもっとはっきりわかってきます。今回はまず、創世記の研究から始めましょう。

神の創造された能力(創世記1:26~28)

質問1

人間は神と、また動物とどこが異なりますか。人間にはどんな能力が与えられていますか。この能力が正当な意味を持つのはどんな範囲においてですか。創世記1:26~28、2:22~24

人間は新しい、別個のものとして創造されました。彼らは性的存在として造られました。創造主は彼らに生殖の能力、つまり地を自分たちと同じ人間で満たす能力を与えられました。動物や下等生物は本能によって繁殆しますが、神は人間にその生殖能力を神の原則と理性に従わせ、人間の性的営みが結婚という愛の関係のなかでなされることを望んでおられます。

質問2 

人間の性的能力は生殖以外のどんな目的を持っていますか。箴言5:18~20(コリント第I  7:3~5比較)

夫婦愛の最初の表現として、アダムはその妻エバを「知った」と書かれています(創世記4:1)。このヘブル語は体験によって得られた親密な知識を強調しています。結婚制度は二人の人間の心と心、精神と精神、からだとからだ、意志と意志を一つに結びつける目的を持っています。それは二人の結合をより高尚にし、深く、決して切れることのない、助け合いの関係へと導いてくれます。使徒パウロは、ある人々にとっては独身でいるほうがより幸せであると言っています(コリント第I 7:32~40参照)。たとえそうであっても、「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない」(ヘブル13:4)のです。

高められた関係          

「結婚関係を、神のきよいいましめによって保護された神の聖なる制度の一つと見なす者は、理性の命令に従う。イエスはどんな階級の人にも独身を強制されなかった。イエスは結婚の神聖な関係をなくすためではなく、それを高め、本来の神聖さに回復するためにこられた。キリストは、きよらかな、無我の愛が支配する家族関係をよろこびをもってごらんになる」(『アドベンチスト・ホーム』124ページ)。

「神は、最初の結婚をとり結ばれた。だから、結婚式の制定者は、宇宙の創造主である。『結婚を重んずべきである』(ヘブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の一つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める」(『人類のあけぼの』上巻21ページ)。

質問3

詩篇記者は天の理想を反映する、どんな家庭生活の光景を描写していますか。詩編128:1~6

人間の幸福は創造主のみこころに従うことからきます。信頼で結ばれた結婚は、聖書のなかで、神がご自分とご自分の民とのあいだに求められる関係を描写しています。神の計画と調和した結婚生活は地上に小天国をもたらします。

罪によってゆがめられた能力(レビ記18、20章)

エジプトとカナンの民はその多神教の影響によって、創造主が人間のために制定された結婚の原則を広く破っていました。家庭の神聖さ、完全さはしばしば、異常で不自然な行為によってそこなわれていました。

質問4

神はイスラエルに対して、エジプト人やカナン人の不道徳な行為をまねることの危険性について何と警告されましたか。レビ記18:1~18、24~30、20:11、12、14、17、19~23

ハムラビ法典(紀元前1727年頃)とヒッタイト法(紀元前13世紀頃)はともに、近親相姦を禁止しています。しかし、モーセの規定(紀元前15世紀半ば)には、より広範囲の、徹底した指針が収められています。それは12の条文からなり、15の禁止行為(レビ記18:1~18、申命記22:30)、罰則(レビ記20章)、それにいくつかの呪い(申命記27:20、22、23)が盛り込まれています。血縁関係であれ、非血縁関係であれ、二親等以内の親戚との性交・結婚は禁じられていました。結婚を許される最も近い親戚は実のいとこでした。ほかの二つの法典と同じように、モーセの律法にもいくつかの省略がありました。慣習がそれらを補いました。イギリスの判例法と同じく、モーセの律法が定められたとき、その律法の原則・精神が同じような状況に対して適用されました。

質問5 

結婚の神聖さを犯すもう一つの不道徳は何でしたか。十戒のどの条頃が家庭をこの罪から守るために定められていますか。レビ記18:20、出エジプト記20:14、17

結婚における不誠実

「この戒め〔第7条〕は、両性のあいだのあらゆる不道徳な関係を禁じている。この違反行為は悪しき思いの結果であるから、それはまた精神的な汚れと情欲をいだいて相手を見ることを禁じている。姦通は夫の側あるいは妻の側の結婚関係に対する裏切りである。……姦通は最も厳粛な誓いを破ること、最も聖なる信頼を裏切ることである。それは人生のあらゆる関係のなかで最も神聖で拘束力のある関係を破ることである」(テイラー・バンチ『十戒』121、122ページ)。

質問6 

お金のためにからだを売ることについて、主は何と言っておられますか。レビ記19:29(レビ記21:9比較)

質問7 

主はさらに、どんな性的倒錯を厳しく禁じておられますか。レビ記18:22、23、20:13、15、16

神はこのように、ご自分の民に道徳的純潔に関する指針を与えておられます。私たちはこれらの指針のなかで、感情の誘惑に屈するとき、罪が聖なる肉体的能力をゆがめてしまうことを教えられます。そのような罪は神の聖潔さを汚すものです。それらは聖なる民に対する神の理想を砕き、彼らの人格・家庭・家族の健全さを破壊してしまいます。

「同性愛は旧約聖書のなかで一様に、『憎むべきこと』として非難されている。それに対する刑罰は死であった(レビ記20:13)。それは性的関係の自然な秩序を侵し、種の生殖よりも倒錯した欲望を満たした」(R K・ハリソン『レビ記』192ページ)。

これらの聖句を読むと、神が最高の思いと行為だけを受け人れられることがわかります。私の人生はこの高い標準に従っているでしょうか。もしそうでないなら、どこを改めるべきでしょうか。

聖霊に支配された能力(コリント第I 6:13~20)

旧約聖書と同じく新約聖書も、固体的能力が結婚関係にとって神聖なものであることを教えています。

質問8

人間のからだについての新約聖書のどんな考え方が、肉の罪に対するクリスチャンの抵抗力を強め、道徳的に清い生活を送る力を与えてくれますか。コリント第I 6:18~20

古代の聖所のように、創造とあがないによる神の聖なる民は聖霊によって、神の宮、神の住まいとなります。彼らは聖霊の臨在と支配によって、罪に抵抗し、神のみこころに調和した生活を送る力が与えられます。クリスチャンは神の計画に従ってその肉体的能力を用いることによって、創造主の栄光をあらわします。

自発的な僕

「『自分自身のものではない』。これは不品行の罪に対する6番目の論拠である。……人間は自分自身のものではない。彼には、自分の生まれ変わっていない肉体の欲望・刺激のままに自分の能力を用いる権利はない。彼は創造とあがないによって神のものである。彼は肉の欲を満たすためにではなく、神の御名の栄光のために、神の命じられるままに知的、肉体的、霊的に生きる義務を負っている。回心した人間は、じつにイエス・キリストの自発的な僕であって、……主人を喜ばすためにだけ生きる」(『SDA聖書注解』第6巻703ページ)。

質問9 

あらゆる不道徳は人間から何を奪いますか。コリント第I  6:9、10、15(ローマ1:26、27比較)

罪の支配が続くかぎり、肉欲は逸脱した、不道徳なかたちで現れます。現代の文明社会はほとんど道徳的な歯止めを持たなくなっています。現代は洪水前の時代、ソドムの時代とよく似ています。

しかしクリスチャンは、主と同じように同胞に接しなければなりません。イエスはゆるしの心をもって取税人、蕊謡者、遊女に近づき、神の理想とする純潔と平和に導こうとされました。イエスの恵みは救いの恵みでしたが、信者の罪を容認するものではありませんでした。彼はこう言われたのです。「神はあなたを愛しておられます。神はあなたの悔い改めを受け入れ、あなたをただでゆるしてくださいます。行きなさい。二度と罪を犯さないように」(ヨハネ8:11参照-ルカ7:47~50比較)。

同性愛者はしばしば、自分たちの性的習慣が自然なものであると主張します。彼らはクリスチャンに、同性愛が異性間の結婚と同じく正常な行為であることを認めさせようとします。

質問10

このような考え方に対して、主は何と言われますか。神はこ自分の計画に従わない子らの生き方を変えられますか。コリント第1 6:9、11(ガラテヤ5:16~25比較)

神がこのような厳しい言葉を語られるのは、ご自分の子らから真の幸福を奪うためではありません。罪深い習慣は人生を台無しにします。罪はいつでも破滅をもたらします。神は愛をもって次のように勧告しておられます。「悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ばす。……わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:30、32)。

現代の多くの学者は、同性愛は習得された習慣であるといっています。確かに人は遺伝や事故によって正常な結婚生活を営むことができなくなる場合もあります。しかし、そのような障害であっても、不純な生活を送るための言い訳にはなりません。聖書は次のように述べています。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(コリント第I 6:11)。アルコール中毒者は、キリストの再臨のとき不滅のからだを受けるまでは、飲酒の傾向から解放されることがないかもしれません。しかし、神の恵みによって、彼は今、まじめに生きることができます。同性愛者もその根深い傾向から逃れることができないと感じるかもしれません。しかし、神の恵みによって、彼も道徳的にきよい生活を送ることができます。

質問11

近親相姦、姦通、同性愛、売春といった古代人の不自然な罪は、現代社会においても至るところに見られます。クリスチャンでさえ、それらの誘惑に屈することがあります。これらのことは私たちに何を教えていますか。ルカ17:27~30

罪から離れよ

「世界は、急速に威亡にひんしていた。間もなく、神の刑罰が下り罪と罪人とは焼き尽くされなければならない。……それは、罪人から断固として離れて、命がけで出て来ることであった。ノアのときも、ロトのときも同じであった。エルサレムの滅亡前の弟子たちも同じであった。そして、最後の時代にも同様である。人々の間にはびこっている罪悪から離れることを神の民に命じる神の警告の声が、ふたたび聞こえるのである」(『人類のあけぼの』上巻174、175ページ)。

質問12

イエスは性的存在として造られた人間に対する神の理想について何と言われましたか。人間は独身でも幸福で有用な人生を送ることができますか。マタイ19:3~6、コリント第I 7:6~9

イエスは一夫一婦制の結婚についての神の理想を再確認しておられます。性的能力は結婚にとって神聖なものであり、聖なる結婚関係においてのみ機能するように神によって定められています。この世に罪が入ってきたとき、人間関係は大きく変化しました。すべての人が結婚できるとは限りません。しかしこのことは決して、独身者に乱交を許すものではありません。性的欲求は神の恵みによって純化することができます。彼らは価値あるものに心を向けることによって、農かで生きがいのある人生を送ることができます。既婚者と同じく、クリスチャンの独身者は、内住する聖霊の導きのもとで生活する特権が与えられています。

質問13

在世中、イエスは結婚制度をどのように尊ばれましたか。ヨハネ2:1~11

「旧約聖書にも新約聖書にも、結婚関係はキリストとその民との間に存在するやさしく聖なる結合をあらわすのに用いられている。婚宴のよろこぴは、キリストがご自分の花嫁を天父の家につれてゆかれ、あがなわれた者とあがない主とが、小羊の婚宴の席にすわるその日のよろこびをキリストの心に思わせた。キリストはこう言われる、『花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる』。『あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、…   あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、…   主はあなたを喜ばれ』る。『彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』(イザヤ書62:5、4、ゼパニヤ書3:17)」(『各時代の希望』上巻176ページ)。

まとめ

神の聖潔は結婚生活にも及ぶものです。「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない」(ヘブル13:4)。真の愛は、「不作法をしない」(コリント第I 13:5)。性的能力は神聖なものなので、それを誤って用いることは神のみ心を傷つけ、混乱、不幸、そして神のさばきを招きます。一方、神の計画に従うなら、クリスチャンの家庭は地上の小天国となります。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

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