霊的姦淫【ホセア書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:御自分の民に対する神の愛は霊的姦淫と神の裁きの中にあっても、決して揺らぐことがありません。

目次

この記事のテーマ

預言者ホセアは、イスラエルの歴史における最も繁栄した時代の終わり、イスラエルが紀元前722年にアッシリアに滅ぼされる直前に仕えました。当時、神の選民はもはや主だけでなく、カナン人の神バアルにも仕えていました。

小預言書の初めに置かれているホセア書は、この背信の時代における預言的宣言の中心的な問題について扱っています。霊的姦淫にかかわらず、神はなおもイスラエルを愛されるのでしょうか。彼らの罪と来るべき裁きにかかわらず、神はなおも彼らに対して目的を持っておられるのでしょうか。

ホセアの個人的な物語と預言とは、その書の中で不可分に結びついています。預言者が自分の不実な妻を赦し、喜んで受け入れようとしたように、神は喜んで御自分の民を受け入れてくださいます。

私たちはホセアの経験と、強情なイスラエルに対する主の扱いから、何を学ぶことができるでしょうか。

奇妙な命令

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」(ホセア書1:2、3)。

長年にわたって、聖書学者たちはこの命令の性質について議論し、次のように問いかけてきました。「ゴメルは売春婦だったのか、それとも単に不忠実な妻だったのか。彼女はホセアと結婚する前から不道徳だったのか、それとも結婚後に不忠実になったのか」

はっきりしたことはわかりません。しかしながら、次のことは確かです。主がホセアに、また彼を通して語られたとき、人々の関心をホセアの物語から、イスラエルに対する神の愛の物語に向けようとされました。ゴメルはイスラエル人だったので、預言者ホセアに対する彼女の結婚の物語は、イスラエルに対する神の契約の物語と一つに融合しています。

ホセアの物語と、神のイスラエルに対する経験との間には、いくつか重要な共通点があります。人間的な見方をすれば、ゴメルはホセアに対して不義を犯していました。霊的な見方をすれば、イスラエルは神に対して不義を犯していました。ゴメルの不道徳が夫の心を傷つけたように、イスラエルの偶像崇拝は神の御心を悲しませました。ホセアは、絶望と破綻した結婚生活に耐えることを求められました。彼は公的な怒りと不名誉を受けたに違いありません。しかし、ゴメルの不実を経験すればするほど、イスラエルに対する神の苦しみと欲求不満についての彼の理解は深まりました。

問1

神はしばしば、説教以上のことをするようにほかの預言者たちに求めておられます。次の聖句を読み、預言者の行為が御自分の民に対する神の扱いをどのように象徴しているか説明してください。イザ20:1~6、エレ27:1~7、エゼ4:1~6

霊的姦淫

ホセアの妻ゴメルが彼に対して姦淫を犯したとき、ホセアは裏切りと屈辱、不名誉の苦しみを味わいました。彼の苦しみを見た隣人や友人に、ホセアは言葉と行為を通して神のメッセージを伝えました。神の妻であるイスラエルも、ちょうどゴメルと同じでした。選民イスラエルは霊的姦淫を犯していたのでした。

預言者エレミヤは神の不忠実な民を、神からあらゆるものを与えられているにもかかわらず、多くの愛人と共に生活した「売春婦」にたとえています(エレ3:1、新国際訳)。同様に、預言者エゼキエルは偶像礼拝に陥ったイスラエルを、本当の夫から離れた「淫行の妻」と呼んでいます(エゼ16:32)。それゆえに、偶像礼拝は聖書の中で霊的姦淫と見なされているのです。

問2

ホセア書2:8~13を読んでください。ここに、どんな警告が与えられていますか。私たちセブンスデー・アドベンチストはどんな意味で、原則においてこれと同じことを行っている危険がありますか。

「穀物、新しい酒、オリーブ油」という表現は申命記の中でも(申7:12~14)、イスラエルの民がモーセを通して与えられた神の約束に従って豊かに与えられていたイスラエルの主要な産物を表すために用いられています。ホセアの時代には、イスラエルの民は、神への感謝を忘れ、周辺諸国と迎合していたために、神によって与えられたこれらの賜物を偽りの偶像にささげていました。これは、私たちに与えられた賜物を本来意図されていないことのためではなく、主の奉仕のために用いるべきことについての強い警告です(マタ6:24)。

「神は、御自分の祝福に対する私たちの忘恩と感謝のなさをどのように見なされるだろうか。誰かが私たちの贈り物を軽視したり、誤用したりするのを見ると、私たちの心と手はその人に対して閉ざされるだろう。しかし、日ごとに、年ごとに神の憐れみ深い賜物を受けている者たちは、神の賜物を誤用し、キリストがその命をささげられた魂を無視している。神が、御自分の目的を支えるために、また御国を建設するためにお貸しになった資金が家や土地のために投資され、高慢と放縦のために浪費され、与え主である神が忘れられている」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』12月7日、1886年、英文)。

回復の約束

問3

ホセア書2章を読んでください。神がここで御自分の民に与えておられる基本的なメッセージは何ですか。この章に、福音がどのように啓示されていますか。

ホセアのメッセージは、受ける価値のない民に対する神の不動の愛という深い真理を提示しています。ホセア書2章はイスラエルの背信についての主の長い講話を含んでいて、それが御自分の民に対する神の不動の愛と対比されています。刑罰の後に、夫は妻を荒れ野の旅に導き、そこで二人は再婚します。

こうして、この章は裁きを超えた将来の描写をもって終わります。そのとき、神はイスラエルに以前のように御自分を愛するように求められます(ホセ2:12~15)。野の獣はもはや妻のぶどうやいちじくの木を食い荒らすことがなくなり、新しい契約の伴侶となります(ホセ2:18)。加えて、すべての子らに新しい名が与えられます。それは、神が喜んで御自分の民の過去の罪を癒し、赦してくださることを表しています。

問4

神は無償で私たちの罪をお赦しになります。赦しはどれほどの代価を神に要求しますか。この教訓はホセアにどれほどの個人的代価を要求しましたか。ホセ3:1、2

イスラエルにおいて男子として成長したホセアは、族長の社会にあって特権的な地位を享受することになっていました。しかし、この特権には大きな責任が伴っていました。古代イスラエルの男子にとって、父親の異なる子どもを自分の子として受け入れることはもちろん、不忠実な妻を赦し、再び受け入れることは大変なことだったでしょう。自分の妻と子どもを守り、社会的な反対に耐えることは、人生の経験の中でも最も困難な経験の一つだったはずです。

それでも、ホセアは彼女を「買い取り」ました。ある意味で、神も人間のために同じことをしてくださったのです。しかし、その代価は十字架上のイエスの死でした。したがって、イエスの十字架をながめることによってのみ、神が罪によって生じた滅びから私たちを「買い取る」ためにどれほどの代価をお払いになったかをよりはっきりと理解することができます。

イスラエルに対する告発

ホセア書4:1~3は、神について、イスラエルを告発し、訴える(ヘブライ語、“リブ”)方として描いています。選民が神の前に有罪とされたのは、契約条件に従って生きなかったためでした。真理と憐れみ、神についての知識が、神に対するイスラエルの独特の関係の特質となるべきものでした。ホセア書2:20~22[口語訳2:18~20]によれば、これらは神が契約の更新において御自分の民に与えられる贈り物です。

しかしながら、罪のために、イスラエルの生活にはこれらの恵みの贈り物が欠けていました。ホセアがあげている数々の罪は、イスラエルを無秩序の瀬戸際に追いやりました。宗教指導者、祭司、預言者もイスラエルの堕落した生き方に対して責任を負っていて、その責任を問われました。彼らの責任は重大でした。もし彼らが虐待と対峙せず、不法行為を断罪しなかったなら、彼ら自身、神によって断罪されるのでした。

旧約聖書においては、偶像礼拝は最も重大な罪と考えられていました。なぜなら、それは民族と個人の生活における主なる神の役割を否定したからです。乾燥した気候のために、イスラエルの地に雨が降るかどうかは死活問題でした。イスラエル人は、命を与える雨のような祝福がバアルから来ると信じるようになっていました。そこで、彼らは外国の神々のために神殿を建て、不道徳を礼拝の中に取り入れ始めていました。

同時に、社会的な不法が国に蔓延していました。イスラエルの裕福な人々はアッシリアに貢ぎ物を納めるために農民から搾取しました。多くの人が詐欺や不法行為を行いました(ホセ12:7、8)。平和と繁栄に満ちた時代が政治的、社会的混乱に満ちた時代に変わったのはそのためです。国家は全面的な混乱状態に陥る瀬戸際にありました。

「神に仕えると公言する哀れな金持ちは憐れむべき存在である。彼らは神を知っていると言いながら、その実、神を否定している。そのような者たちの闇はどれほど深いことであろうか!彼らは真理を信じると公言するが、その業は自分の言葉と一致していない。富を愛する心が人を利己的で、苛酷で、横暴にしている。富は力である。富を愛する心は、しばしば人のうちにある高尚で崇高な性質を堕落させ、麻痺させるだろう」(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』第2巻682ページ、英文)。

悔い改めの訴え

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)。

ヘブライ語の“ホセア”という名前は「主は救われる」という意味で、“ヨシュア”、“イザヤ”、さらには“イエス”という名前と関連があります。預言者は民に、罪を拒み、主なる神のうちに避難するように呼びかけています。神が彼らの創造主であり、贖い主だからです。神の裁きの目的は、罪人の命と力が立ち帰るべき方である神から来ることを彼らに思い起こさせることにありました。このように、裁きについての警告と宣言の中にあってさえ、ホセア書は人間の悔い改めと神の赦しの主題について語っています。

預言者は「知ることを拒んだ」ために罪のうちに滅びようとしている民に(ホセ4:6)、神を深く知り、神の永遠の原則に従って生きるように勧告しています。民を反逆に導き、最終的に裁きをもたらす結果になったのは、彼らが、神を知ることに欠如したからでした。

対照的に、彼らは信仰と服従によって自ら主を知ることができるのでした。この知識は密接で、親密なものです。結婚が繰り返し主の求められる関係の象徴とされているのはそのためです。

クリスチャンの生活がおもに生ける神との関係から成り立っている理由もここにあります。主が、人々に御自身を知り、彼らのための主の御心に従うように求められるのはそのためです。

罪の問題は神と人間との間に恐るべき分離をもたらしました。しかし、十字架上のイエスの死によって、各人が主と親しく歩む道が開かれました。それどころか、私たちは自らのために主を知ることができます。

問5

神について知ることと、神を知ることとの間には、どんな違いがありますか。この違いは私たちの毎日の生き方にどのように現れてきますか。もし誰かから、「どうしたら神を知ることができますか」と尋ねられたなら、あなたは何と答えますか。次の聖句は「神を知る」ことの重要性について何を教えていますか。出33:12、13、エレ9:23、ダニ11:32、Iヨハ2:4

さらなる研究

「ホセアは、自分の個人的な運命が神の悲哀の反映であり、自分の悲しみが神の悲しみの反響である事実を、時の経過とともに認めるに至った。神の悲哀に対する同情の行為としての、この同じ苦しみの中にあって、預言者[ホセア]は神の命令によって結んだ結婚の意味を悟ったことであろう。……

イスラエルの聖なる配偶者[神]が経験されたことを自分自身の生活において実践することによって、預言者は神の立場に同情することができた。結婚は象徴や礼典というよりも、むしろ教訓であり、例話であった」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』56ページ、2001年、英文)。

「約束の地において、イスラエルが神に忠誠をつくしたときに与えられた祝福が、悔い改めて、地上の神の教会に加わるすべての者に回復されるという神の計画を、ホセアは象徴的言葉によって十部族に語ったのである。主は、ご自分がイスラエルにあわれみを示すことを望んでいることを述べて、次のように言われた。『わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう』(ホセア書2:14、15)」(『希望への光』503ページ、『国と指導者』上巻265ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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