聖にして義なる神【ヨエル書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:神はしばしば危機を用いて、御自分の民が神に依存していること、また霊的再生と変革を必要としていることを彼らに悟らせられます。

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この記事のテーマ

南王国ユダを荒廃させていた大規模ないなごの災害と厳しい干ばつの中に、預言者ヨエル—アモスやホセアと同時代の人—は、「大いなる恐るべき」裁きの日の前兆を見ます(ヨエ3:4)。そのような激しく、大規模な危機に直面して、ヨエルはユダのすべての民に対して罪を捨て、神に立ち帰るように求めます。彼はいなごを主の軍勢として描写し、その来襲の中に不忠実なイスラエルに対する神の裁きを見ます。

将来における神の裁きはいなごの災害をはるかに凌ぐものとなると、ヨエルは預言しています。しかし、その同じ裁きは主に忠実で、主の教えに従う者たちにこの上ない祝福をもたらします。いかに厳しいものであれ、裁きは主の導きに喜んで従う者たちにとっては救いと贖いに導くものとなります。

国家的災難

問1

ヨエル書1:1~12を読んでください。ユダの地に何が起きていましたか。

農業社会に住んでいた預言者は、穀物や果物の収穫が失われることを嘆くように、農夫たちに呼びかけています。環境の破壊は何年にもわたって国の経済を無力にします。植物や日陰、森林が消失することに加え、表土が侵食される恐れがあります。パレスチナの果樹の中には、実がなるまでに20年もかかるものがあります。事実、農業を荒廃させ、樹木を伐採することは、侵略軍が征服した民を罰するためにとった典型的な戦術でした。それによって、すぐには回復できないようにしたのです。

問2

申命記28:38を読んでください。これはユダに起きていたことを理解する上でどんな助けになりますか。

ヨエルはいなごについて四つの異なった用語を用いることによって(ヨエ1:4)、災害の激しさと広さを表現しています。いなごによる荒廃は、干ばつによってさらに悪化しました。農夫が期待する穀物はすべて枯れ、彼らは希望を失います。食べるものも、売るものもなくなったからです。植え替える種すらありません。これほどひどい災害は先祖の時代にもなかったことであり、将来の世代までも語り草となるものでした。同様の災害がこれまでになかったという事実は、状況の深刻さを物語っています。

預言者はまた、ぶどうや穀物、オリーブ油といったイスラエルの主要産物の消失を宣言しています(申14:23、18:4)。小麦と大麦はパレスチナで最も重要な穀物です。聖書の中では、ぶどうといちじくの木は約束の地において神の豊かな祝福のうちに平和に暮らすことの象徴です(王上5:5—口語訳4:25、ミカ4:4、ゼカ3:10)。自分のぶどうといちじくの木の下に座ることは、平和と繁栄についての田園詩的な象徴とされています。今、これらすべてが自分たちの罪のゆえに臨んだ神の裁きによって脅かされていました。

収穫は喜びのときでした(詩編4:8—口語訳4:7、イザ9:3)。イスラエルの地は神からの贈り物でしたが、今も神のものでした。イスラエルはこの地の忠実な管理者となるように期待されていました。とりわけ、彼らは神を礼拝し、神に従うように期待されていました。そもそも彼らにこの地を与えられたのが神だからです。

角笛を吹け! 

自然災害が臨むとき、人はさまざまな疑問を口にします。「神はなぜこのようなことを許されたのか」「死んだ人がいるのに、生きている人がいるのはなぜか」「このことから学ぶべき教訓はあるか」。いなごの災害は人を神の普遍的な計画についての深い洞察に導くと、ヨエルは考えたはずです。預言者は第1章において、神の霊感のもとで、国家的な危機をイスラエルの霊的状況と関連づけています。いなごは主への献げ物としてささげるものを何一つ残しませんでした。出エジプト記29:40と民数記28:5~8に記された教えによれば、穀物の献げ物と飲み物の献げ物は日ごとに神殿でささげられるものの一部でした。献げ物を切らすことは厳しいことでしたが、それは民の悲しむべき状態についての警告となるのでした。献げ物をささげる機会を失うことは、神とイスラエルの契約を破ることを象徴しました。しかし、ほかの多くの預言者とは異なり、ヨエルは民の失敗を分析することにあまり時間を割いていません。むしろ、彼はイスラエルの天来の医師[神]によって処方された癒しの方に、より深い関心を示しています。

問3

ヨエル書1:13~20を読んでください。ヨエルは人々に何と言っていますか。状況が異なるとはいえ、ここで語られていることはどんな意味で、旧・新約聖書全体を通して見られる訴えですか。

預言者は霊的指導者たちに対して、全国民に祈りと断食の日を呼びかけるように求めています。人々が深く心を探り、罪を捨て、神に立ち帰るためです。それによって、彼らは神の愛と正義に対する新たな信頼をもって出てきます。最終的に、この悲惨な状況は信じる者たちを彼らの主とのより深い関係へと導くのです。

聖書全体を通じて、神は自然の主、自然を創造された方、自然を支えられる方、また自然を御自分の目的のために用いられる方として描かれています。この自然災害の中にあって、人々は自分たちの衣を裂く代わりに、自分たちの心を裂き、神の恵みと憐れみの前に自分自身をさらけ出すべきであると、預言者ヨエルは教えています。

神の霊の贈り物

問4

使徒言行録2:1~21とヨエル書3:1、2(口語訳2:28、29)を読んでください。ペトロはヨエルの預言をどのように解釈していますか。

使徒ペトロは五旬祭の日、主が聖霊の注ぎに関してヨエルを通してお与えになった約束を実現されたのであると宣言しています。聖霊の注ぎにともなって、しかも人類の歴史に対する神の超自然的な介入の目に見える徴として、神は自然界、つまり地上と空に特別な現象を生じさせられます。

「神の大いなる日の光景と直接関連して、主は、預言者ヨエルによって神の霊の特別なあらわれを約束しておられる。『その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る』(ヨエル書2:28/口語訳)。この預言は、ペンテコステの日に聖霊がくだったことによって、部分的な成就をみた。しかしそれは、福音の最後の働きに伴う神の恵みのあらわれにおいて、完全に成就するのである」(『希望への光』1593ページ、『各時代の大争闘』上巻序6、7ページ)。

ヨエル書の直接的な文脈によれば、大いなる神の霊の注ぎの後に、悔い改めが起こります。これには驚くべき再生が伴います。滅びに代わって、神の祝福の贈り物が与えられます。神によって被造物は回復され、国民は圧政者から解放されると、主は御自分の民に約束しておられます。

特別な働きのために選ばれた者たちの頭に神によって油が注がれたのと同じように、聖霊は神の民に注がれます。聖霊はまた、それを受ける者たちに注がれる力の贈り物です。それによって、彼らは神のために特別な働きをすることができます(出31:2~5、士師6:34)。このときだけは、聖霊の現れは広範囲に見られます。歴史上の、この特別な時点においては、救いは神を求めるすべての人に与えられます。年齢、性別、社会的地位にかかわらず、神の霊はすべての忠実な者たちに注がれます。それは、主のすべての民が預言者となり、主が彼らの上に御自分の霊を授けられるようにというモーセの切なる願いが成就するときです(民11:29)。

主の御名を布告する

「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(ヨエ3:4、5)。

太陽が闇に、月が血に変わるという表現は、自然現象としてではなく、来るべき主の日についての超自然的な徴と理解すべきです。聖書の時代においては、多くの異教の国民が天体を神々として拝んでいました。それは、イスラエル人がモーセを通して厳しく禁じられていたことでした(申4:19)。この意味で、ヨエルの預言は、主が裁きを携えて来られるときに、諸国民の偶像が消えうせることを予告しています。さらに、ヨエル書4:15には、星々がその力を失い、もはや光を発することがなくなると記されています。主の栄光の輝きがすべてのものに勝るからです。

問5

キリストの来臨は悔い改めない者たちにとっては恐怖ですが、正しい者たちは主をどのように歓迎しますか。決定的な違いは何ですか。イザ25:9、ヨエ3:5(口語訳2:32)、使徒2:21、ロマ10:13

聖書においては、「主の御名を呼ぶ」という表現は、単に自分自身を主に従う者と呼び、主の約束を求めることだけを意味するのではありません。それはまた、神の御名を布告すること、つまり主についての、また主が世界のためになさったことについての証人となることをも意味します。アブラハムはカナンの地で祭壇を築き、神の御名を呼びました(創12:8)。神はシナイ山上で、モーセに対して御自分の慈愛と恵みを宣言されました(出33:19、34:5)。詩編作者は忠実な者たちに対して、神に感謝をささげ、神の御業を諸国民に知らせることによって神の御名を呼ぶように求めています(詩編105:1)。同じ言葉が預言者イザヤによって書かれた救いの歌の中にも見られます(イザ12:4)。

したがって、主の御名を布告するとは、神がなおも世界を支配しておられるという喜ばしい知らせを伝える者となること、またあらゆるものを神の御業と品性という視点から見るように世の人々に呼びかけることを意味します。それはまた、すべての人に提供されている神の惜しみない救いの賜物をすべての人に知らせることを意味します。

悩みの時の逃れ場(ヨエル書4章)

聖書の預言者たちは来るべき神の裁きを獅子のうなり声、すべての人を震え上がらせる音にたとえています(ヨエ4:16—口語訳3:16、アモ1:2、3:8)。聖書においては、シオンはエルサレムにあった神の地上の御座を意味しています。この場所から、神は敵を罰し、同時に御自分の勝利を忍耐強く待つ神の民を擁護されます。神が被造物を更新されるとき、彼らは神の勝利にあずかります。

ある人たちにとっては、聖書に描かれている神の最後の裁きを理解することは困難です。悪や罪が非常に現実的なもので、その力が強力であることを心にとめる必要があります。それは神に逆らい、あらゆる生命を滅ぼそうとしています。神は悪の敵です。ヨエルの言葉は私たちに自分の生き方を点検するように勧めています。私たちが神の側に立つことによって、裁きの日に守られるためです。

問6

マタイ10:28~31を読んでください。災難に遭ったときにも、私たちがイエスにおいて与えられているものを理解する上で、これらの聖句はどんな助けになりますか。

主は忍耐強く信仰を持ち続ける者たちをお支えになります。主は地上に荒廃をもたらされることがあるかもしれません(ヨエ4:1~15—口語訳3:1~15)。しかし、主の民は主の絶対的な裁きの行為を恐れるべきではありません。なぜなら、主は彼らを守ると約束しておられるからです(16節)。主は彼らに約束の言葉を与えておられます。主の絶対的で、恵み深い行為は、主が忠実な契約の神であることを示しています。主は、正しい者たちが恥を受けるのを決してお許しになりません(ヨエ2:27)。

ヨエル書は造り変えられた世界の幻をもって終わっています。そこには一本の川があって、永遠の神が赦された民と共におられる新エルサレムの中央を流れています(ヨエ4:18~21—口語訳3:18~21)。

この預言の言葉は、聖霊によって歩むように、誠実にクリスチャンの生活を送るように、そしてまだキリストの御名を呼んだことのないすべての人々に伝道するように、私たちに訴えています。この言葉に従うとき、キリストが、忠実な者たちの心にお住みになる聖霊によって、私たちと共におられるという神の約束が私たちのうちに成就します。

さらなる研究

ヨエルという預言者の名前は聖書の時代に一般的なもので、「主は神」という意味です。この名前はヨエル書の全体的な主題にふさわしいものです。神だけが完全に聖にして、義なる方であって、その御業は地上において絶対的なものです。諸国民の歴史と同様、神の民の歴史は神の御手のうちにあります。同じことがすべての人の人生についても言えます。

「永遠に関する恐るべき問題は、空想的でただ言葉と形式だけの宗教以上のものを要求している。この宗教においては、真理が除外されているのである。神はリバイバルと改革を求めておられる。講壇からは、聖書、そして聖書のみの言葉が語られなければならない。しかし聖書の力は奪い去られているので、その結果は霊的生活の低下となってあらわれている。今日の多くの説教は、良心を覚醒させて魂に生命を与える、神の力に欠けている。聴衆は『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』と言うことができない(ルカ24:32)。生ける神を叫び求め、神の臨在を熱望している者がたくさんいる。彼らの心に神の言葉を語ろう。これまでただ伝説と人間の説と、格言だけを聞いていた人々に、魂を新たにして、永遠の生命に至らせることができるおかたの声を聞かせよう」(『希望への光』618ページ、『国と指導者』下巻226、227ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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