中心思想:ヨナ書はとりわけ、神が私たち以上に喜んで人をお赦しになる方であることを啓示しています。
この記事のテーマ
やや変わった神の使命者ヨナの物語は、聖書の中でも最もよく知られているものの一つです。預言者は来るべき滅びについてニネベに警告するために神によって遣わされました。これらヘブライ人でない民が自分たちの罪を悔い改め、また神も彼らをお赦しになるだろうと、ヨナはうすうす感じていました。ヨナは真の預言者だったので、神がニネベを滅ぼさないで、救おうとしておられることを知っていました。彼が最初、逃亡しようとしたのは、たぶんそのためです。しかしながら、彼は自分を超えた力によって、心を入れ替え、神の命令に従いました。
ヨナの伝道に応えて、ニネベの町全体はメッセージを受け入れ、不幸にもイスラエルとユダに見られなかったような方法で、悔い改めました。一方で、ヨナはいくつか重要な教訓を学ぶことになりました。
この物語は、神が御自分の偏狭で頑迷な預言者に恵みと憐れみ、赦しの本質について忍耐強く教えておられたことを示しています。
不従順な預言者(ヨナ書1章)
ヨナとその家族的な背景については、あまりよくわかっていません。列王記下14:25によれば、彼はイスラエル北部に住んでいて、紀元前8世紀頃に働きました。この聖句によれば、ヨナはイスラエル王国の領土の拡張を預言しました。
ニネベはチグリス川のそばにあった重要な国アッシリアの三大都市の一つでした。神はすべての国民の主であって、すべての民は神に対して責任を負うので(アモ1~2章)、神は差し迫った滅びについてニネベの人々に警告するために御自分の僕ヨナを遣わされたのでした。ヨナ書1:2で「呼びかけよ」と訳されている神の命令は「説教せよ」と訳すこともできます。
アッシリア人の残忍さは有名でした。1世紀ほど後に、預言者ナホムはニネベについて、「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち……」と言っています(ナホ3:1)。ヨナはそのような人々に神のメッセージを伝えるために遣わされたのでした。とりわけヨナの行動に影響を及ぼしたのは、嫌われ者のアッシリア人に対する恐れであったかもしれません。ニネベに向かって東に行きなさいと神から言われたとき、預言者はそれを拒み、タルシシュに向かって船で西に逃れました。
初めのうちは、万事がヨナにとって順調に進んでいるように見えました。しかし、主は船に向かって大風を送られます。だれも神から隠れることができないという教訓を御自分の僕に教えるためでした。
ヨナが神から逃れたのは、神の御心に従いたくなかったからです。今日も、人々はいろいろな理由で神から逃れようとします。個人的に神を知らないためにそうする人もいれば、神と神の御言葉そのものを否定するためにそうする人もいます。動機はさまざまですが、多くの場合、人々は自分の生き方について罪の意識を持ちたくないためにそうするのです。結局のところ、もし弁明すべき高い権威が存在しなければ、人は好きなことをすればよいのです。クリスチャンの中にも、自分の好きでないことや、生まれながらの利己的で罪深い性質に反することをするように求められたときに、神を避けようとする人たちがいます。
不承不承の証人
ヨナ書1章で、主はヨナの逃亡を阻止するために、船が沈むほどの激しい暴風を送られます。船乗りたちはそれぞれ自分の神に助けを求めて叫びます。暴風があまりにも激しかったので、だれかが神々を怒らせたに違いないと考えたのです。このような怒りの原因を知るために、彼らはくじ引きによって、誰から進んで自分の素性を明かすかを決めようとしました。くじ引きをするために、各自は自分の名を特定できる石や木片を持ってきます。それらの印を箱に入れて、印の一つが出るまで振ります。くじはヨナに当たります。ヨナは自分の罪を告白し、船乗りたちに自分を海に投げ込むように要求します。
この物語が際立っているのは、ヨナが消極的に描かれている一方で、ヘブライ人でない船乗りたちが積極的に行動しているからです。彼らは多くの神々を拝んでいましたが、心からの敬意をもって主に祈っています。彼らはまた主の僕ヨナに対して親切です。そのことは、彼らが何とかして船を陸に漕ぎ戻そうとしていることからも明らかです。最後に、彼らはヨナを海に投げ込むことに同意します。すると、嵐は静まり、船乗りたちは主に犠牲をささげ、主を賛美します。
問1
9節で、ヨナは自分の畏れる主をどのように描写していますか。主についての彼の描写はどんな点で重要ですか。黙14:7、イザ42:5、黙10:6参照
海と陸の創造者としての神に対するヨナの信仰告白は、彼が神の臨在から逃れようとしても無益であることを強調しています。船乗りたちがヨナを海に投げ込むとすぐに嵐が静まったことは、創造者なる主が海を支配される方であることを示しています。このことのゆえに、船乗りたちはなお一層、主を礼拝するようになります。創造主に対する彼らの新たな畏れと敬神の念がいつまで続いたかは明らかにされていません。しかしながら、彼らがこの経験を通して神について何かを学んだことは確かです。
ヨナの賛歌
ヨナが海に投げ込まれたとき、神の命令によって巨大な魚が彼を呑み込みました。ヨナは、死ぬこと以外にニネベに対する使命を逃れる道はないと考えたに違いありません。しかし、その巨大な魚(「鯨」とは書かれていない)が預言者を救う手段となりました。ヨナとは異なり、この生き物は直ちに、従順に神の命令に従いました(ヨナ2:1、2:11、口語訳1:17、2:10)。
ここで、神の摂理が驚くべき方法で働いています。一部に、この物語をあざ笑う人たちがいますが、イエスはその真実性について証言し、さらにはそれを御自身の死と肉体の復活に関連づけておられます(マタ12:40)。
問2
ヨナの賛歌とも呼ばれているヨナ書2章を読んでください。彼はそこで何と言っていますか。彼はどんなことを学びましたか。私たちはこの章からどんな霊的原則を学ぶことができますか。
ヨナの賛歌は、恐ろしい海の深みから救ってくださった神をほめたたえています。ヨナ書の中で詩的な部分はここだけです。その中で、ヨナは深みに沈みながら、死に直面したときに助けを求めてささげた祈りを思い起こしています。自分が本当に救われたことに気づいたとき、彼は神に感謝をささげました。この賛歌は、ヨナが聖書に記されている賛美と感謝の詩編に精通していたことを示しています。
ヨナの誓いには、感謝のいけにえが含まれているように思われます。自分が死に値する者であったのに、神が格別な憐れみを示してくださったことに、彼は感謝しています。不従順であったにもかかわらず、ヨナはなお自分自身を神に忠実な者と考えています。彼が偶像礼拝に屈しなかったからです。どれほど品性に欠陥があろうとも、彼は自分の召しに忠実であろうと心に決めています。
使命に従う
このような奇跡的な救出の後で、説教するために再びニネベに行くように神から命じられたとき、ヨナは直ちに従いました。ヨナはその宣言の中で(ヨナ3:1~4)、神によるソドムとゴモラの滅亡を思い起こさせる言葉を用いています(創19章)。しかし、ヘブライ語原文では、ヨナの宣言にある「滅びる」を意味する言葉(創19:21、29、ヨナ3:4参照)はまた、「向きを変える」あるいは「変える」という意味を持っています(出7:17、20、サム上10:6)。ヨナが神のメッセージを伝えたことは無駄にはなりませんでした。
預言者としてのヨナの最大の業績は、ニネベの町が悔い改めたことでした。ヨナ書の中のヘブライ人以外の人たちについて言えば、ニネベの人々は船乗りたちについで神に立ち帰った2番目の集団となりました。すべては欠点だらけの神の使者〔ヨナ〕との相互作用によるものでした。その結果は驚くべきものでした。神の前に身を低くするために、ニネベの人々は粗布をまとい、頭に灰をかぶり、断食しました。これらはすべて悲しみと悔い改めを表す外面的な徴でした。
問3
マタイ12:39~41、歴代誌下36:15~17を読んでください。これらの聖句は悔い改めの重要性について何を教えていますか。
強大なアッシリアの王が灰をかぶって神の前にへりくだっている驚くべき光景は、多くのイスラエルの高慢な支配者や民、少なくとも悔い改めを求める預言者の嘆願を執拗に拒んだ者たちにとっては厳しい譴責です。ユダヤ人は毎年、自分たちの罪に対する神の赦しを記念する贖罪日の最高点においてこの書を朗読しますが、それは、ヨナ書が神の恵みと赦しを強調しているからです。
「私たちの神は憐れみの神である。神は忍耐と優しい憐れみをもって御自分の律法の違反者を扱われる。しかし、人々が聖書に啓示された神の律法に親しむ多くの機会を与えられている現代にあって、宇宙の大いなる支配者は暴力や犯罪の支配する邪悪な都市を見て、少しも満足されない。もしこれらの都市の人々が、ニネベの住民のように悔い改めるなら、ヨナのメッセージのようなさらに多くのメッセージが伝えられることであろう」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』10月18日、1906年、英文)。
赦されても、赦さない
問4
ヨナ書4章を読んでください。ヨナはどんな重要な教訓を学ぶ必要がありましたか。ここに、彼自身の偽善がどのように暴露されていますか。
ヨナ書4章は預言者ヨナについていくつか驚くべきことを啓示しています。彼は神の恵みと赦しを証しするよりも、死ぬことを願っていたように思われます。先には、死から救われたことを喜んでいたのに(ヨナ2:7~10)、生きている今、彼は死ぬことを願っています(4:2、3)。
ヨナとは対照的に、神は聖書の中で、「悪人が死ぬのを喜ばない」方として描かれています(エゼ33:11)。ヨナと、彼の同国人の多くはイスラエルに対する神の特別な憐れみを喜びましたが、彼らの敵に対しては神の怒りのみを願い求めました。そのような心のかたくなさがヨナ書のメッセージによって厳しく叱責されています。
問5
ヨナの過ちからどんな教訓を学ぶことができますか。偏見はどんな意味でクリスチャンとしての私たちの証しを危うくしますか。
ヨナ書はまさに「反面教師」的な性格を持った書です。ヨナは反逆的な精神と誤った優先順位を持った預言者でした。彼は復讐に対する願望を抑えることができませんでした。彼は小心で、気の短い人間でした。神がニネベの住民に示された恵みを喜ばないで、自分の利己的で罪深い高慢に屈して憤慨しました。
神の最後の言葉が御自分の限りない恵みを肯定する言葉、生命を肯定する言葉であったのとは対照的に、ヨナの最後の言葉は死を願う言葉です(ヨナ4:8、9)。
ヨナ書は完結していません。その結びの聖句は、著者が答えていない一つの重要な質問を読者に提示しています。ニネベにおける奇跡的な心の変化は、最終的にヨナの心を劇的に変える結果になるのでしょうか。
さらなる研究
次の引用文を読み、それらがヨナ書のメッセージをより深く理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。
「神の子らは、必要なときにはいつでも助けを求めて神に嘆願する貴重な特権を与えられている。その場所がいかに不適切に思われようとも、それは問題ではなく、神の憐れみの耳は彼らの叫びに対して開かれている。その場所がいかに荒れ果て、暗くても、それは祈る神の子らによって真の神殿に変えられる」(『SDA聖書注解』第4巻1003ページ、英文)。
「ヨナは、困惑し、面目を失い、ニネベを救われた神のみこころを理解することができなかったが、それでも、神があの大きな町に警告を発するように彼に命じられた任務は果たしたのである。預言された事件は起こらなかったけれども、警告の使命は、やはり神から出たものであった。そして、それは、神が計画なさった目的を果たしたのである。神の恵みの栄光が異教徒の間にあらわされた」(『希望への光』494ページ、『国と指導者』上巻241ページ、一部改訳)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。