主の日【ゼファニヤ書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:裁きが臨もうとしています。しかし、真剣に求める者たちには、恵みと憐れみが与えられます。

目次

この記事のテーマ

もし預言書が年代順に置かれるなら、ゼファニヤ書はイザヤ書とエレミヤ書の中間に置かれるでしょう。

ゼファニヤの説教はユダヤ社会に見られる絶望的な堕落を譴責するものでした。神の愛がなおも御自分の民に謙虚さと忠誠を求めているという事実にもとづいて、彼は悔い改めの必要性を訴えました。彼のメッセージには、二つの意味が含まれていました。(1)切迫した世界的な裁きの脅威があるが、これは神御自身の民をも含むものである。(2)しかし、諸国民の中から救われた者たちには、イスラエルの残りの者たちと共に神に仕え、神の祝福にあずかるという約束が与えられている。今回の研究では、ゼファニヤのメッセージが堕落した世界に神の希望のメッセージを伝える者たちにも関係があることについて学びます。

闇の日

ゼファニヤのメッセージの焦点は「主の日」にあります(ゼファ1:7)。聖書の預言者にとって、主の日とは、神が救いと裁きのために人間の問題に介入される特別な時期をさしています。古代イスラエルの大部分の人々は、主がこの日、イスラエルを救い、高められるが、敵対する諸国民は永遠に滅ぼされると信じていました。ところが、彼らが驚いたことに、預言者は主の日が神の民にとっても運命の日となると宣言しました(ゼファ1:1~5参照)。なぜなら、彼らが神に対して罪を犯したからです(ゼファ1:17)。

問1

ゼファニヤ書1:14~18を、ヨエル書2:1~11、アモス書5:18~20と比較してください。これらの聖句から、「主の日」についてどんなことがわかりますか。

ゼファニヤは来るべき裁きを、大洪水の日にすべての生き物が滅ぼされたことにたとえています(創6~8章)。ゼファニヤ書1:2、3にある「死の目録」はなぜか神の最初の天地創造と逆の順序になっています。人間、地の獣、空中の生き物、水中の生き物(創1:20~27比較)。

人はお金によって裁きを免れることができないと、預言者は警告しています(ゼファ1:18)。銀も金も彼らを主の怒りから守ることができません。エルサレムの自己満足に陥った人々は、主が幸いも災いも下されないと主張しました。彼らは、主が何かをなさるような方ではないと考えていました(ゼファ1:12)。しかし、神の裁きは、神が御自分の忠実な民の将来のために積極的に働かれる方であることを啓示しています。

ゼファニヤは、神の裁きが懲罰的であると同時に、矯正的であることを明らかにしています。主は御自分を求める者たちを守ると約束しておられます(ゼファ2:3)。主の日は世の終わり以上のものです。それは永遠に続く神の支配の始まりです。

地の謙虚な人々

ゼファニヤ書2:1~3で、預言者は悔い改めるように勧告しています。滅びは差し迫っていましたが、もし悔い改めるなら、民はもうしばらく災いから守られるのでした。悔い改めることを拒む悪人たちは裁きの日に、もみ殻のように焼き尽くされます。詩編1:4でも、悪人たちはもみ殻にたとえられていて、彼らは最後には滅ぼされます。

ゼファニヤは「主を求めよ」という言葉によって、神の前に謙虚な者たちに自分の信仰を堅持するように勧めています。主を求めることは義と謙虚を求めることと同じであると、預言者は教えています。この悔い改めの態度は来るべき裁きを免れる上で欠かせないものです。

問2

ゼファニヤは悔い改めた人々を「地の謙虚な人々」と呼んでいます(ゼファ2:3、英語新国際訳)。次の聖句は、「地の貧しい人々」とも訳されるこの表現にどんな光を投げかけていますか。マタ5:3、詩編76:10(口語訳76:9)、イザ11:4、アモ8:4

謙虚な者とは、神に忠実な人、神によって導かれ、教えられる人のことです。詩編作者は次のように言っています。「主は恵み深く、正しい方。それゆえに、罪人に道を教えてくださいます。主は謙虚な者たちを正しいことに導き、彼らにその道を教えてくださいます」(詩編25:8、9、新国際訳)。謙虚な者たちは神と義と謙虚を求めることによって来るべき裁きに備えるように勧告されています。

忠実で謙虚な者たちが生き残る可能性が、「あるいは」という言葉によって表されています。生き残るか否かを決めるのは神の恵みのみです。この恵みは決して当然のものと受けとめてはならないものです。差し迫った滅びの中にあっても、憐れみ深い神のうちに将来の希望を抱くことができます。主は御自分に信頼する者たちを守ると約束しておられます(ヨエ4:16—口語訳3:16、ナホ1:7)。このような信頼は自己依存、不誠実、欺瞞と相容れないものです。

堕落した都

中国の諺に、「燭の真下が最も暗い」というのがあります。この諺はゼファニヤの時代のエルサレムの霊的状態にあてはまりました。預言者はユダの周辺諸国、たとえば西のペリシテ、東のモアブおよびアンモン、南のクシュ、東のアッシリアに対して神の裁きを宣言したばかりでした(ゼファ2章参照)。しかし、そこで終わってはいません。彼はなおも続けて、地上における神御自身の都であるエルサレムに住む者たちの罪を暴露しています。

問3

ゼファニヤ書3:1~5を読んでください。だれが、どんな理由で断罪されていますか。豊かな光と真理を与えられていながら、神の民がこれほど堕落したのはなぜだと思いますか。私たちも同じ過ちに陥らないようにするためには、どんなことに留意したらよいですか。

ユダの首都エルサレムがゼファニヤの関心の中心に置かれています。彼はエルサレムの道徳的堕落に関連して、その指導者たちを告発しています。この堕落は、直接的には、指導者たちが自分に与えられた役割と責任を果たさなかったことから来ています(エレ18:18、エゼ22:23~30比較)。役人によってなされる堕落した法廷は「ほえたける獅子」に、また裁判官たちは「夕暮れの狼」にたとえられています。神殿も同じようなものです。なぜなら、祭司は神の言葉を教えず、預言者は真理を語らないからです。

「ヨシヤの治世に主の言葉がゼパニヤに臨み、背信が続くならばどのような結果を招くかを明示し、真の教会の注目を輝かしい将来の展望に向けさせた。ユダに切迫した刑罰についての彼の預言は、キリストの再臨の時に悔い改めない世界に下る刑罰について、同様に適用することができる」(『希望への光』535ページ、『国と指導者』下巻9ページ)。

神の最大の喜び

「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにしお前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(ゼファ3:17)。

ゼファニヤ書の結びの部分で(ゼファ3:9~20)、主題は怒りから回復に変わります。裁きを超えたところに、神の最終的な目標があります。懲罰を受けるときに、諸国民は共に主を求め、真心から主に仕えるようになります。民の唇は清められます。すべての者が主に仕えることによって、主を礼拝し、賛美するようになるためです。少数の、しかし謙虚で忠実な残りの者たちはユダで生き残り、高慢な指導者に取って代わるようになります。

重要なのは、神が御自分の民と共に住み、過去の過ちを正されるということです。彼らはもはや恐れの中で生きる必要がありません。主が御自分の民と共にいて、彼らの中に住まわれるからです。主は彼らの解放者、救い主となられます。「彼らは養われて憩い彼らを脅かす者はない」(ゼファ3:13)。

普通なら、そのような祝福を与えられた神の民が神のゆえに喜び楽しむものですが、預言者は、神が彼らのゆえに喜び楽しまれると言っています。御自分の民に対する神の愛と喜びが非常に大きいので、神は彼らのゆえに歓呼されるのです。

問4

預言者イザヤは、贖われた神の民のための神の喜びをどのように描写していますか。イザ62:5、65:19

大いなる王、大いなる勇士は御自分の民を守り、擁護されます。彼は御自分の勝利の功績、つまり十字架において私たちのために勝ち取った功績のすべてを彼らにお与えになります。彼は謙虚な者たちを高め、屈辱と苦しみと孤立を、栄誉と祝福、また御自分の臨在の経験に変えられます。足の不自由な者や追いやられていた者は高められます。これはイエス・キリストによって布告されたメッセージの中心にあるテーマです。

不法に対する神の答え

ナホム書1~3章を読んでください。この聖句は神の品性について教えています。それらは終末の諸事件を理解する上で助けになります。

ナホムの預言は、ニネベによって代表されるこの世の諸王国に対する神の言葉です。預言者は当時の世界を眺めたとき、神の御手がアッシリア帝国に対して働いているのを見ました。首都ニネベは間もなく滅ぼされ、再び立ち上がることがないと、彼は宣言しています。ナホムは絶対的な確信をもって語っています。なぜなら、彼は神の品性を知っていたからであり、また預言の賜物を通して(ナホ1:1)、起こるべきことを主によって示されていたからです。主は罪ある者を罰せずにはおられません(ナホ1:3、出34:6、7)。

アッシリア人は多くの国民から略奪し、権力に対して飽くことのない欲望を持っていました。彼らの残忍さは有名でした。神の「かみそり」として(イザ7:20)、徹底的に隣国から奪い取りました。今度は、そのかみそりが破壊されるときでした。神の裁きの手段となった彼らも、裁きを免れることはありません。ニネベはもはや存在しませんが、預言者の証しは生き続けています。神の正義は遅いように見えても、何ものもそれを止めることができません。

先の研究でも学んだように、ニネベはナホムの時代の何年も前にヨナの説教を聞いて悔い改め、神によって滅ぼされるのを免れていました。しかし、その悔い改めは長く続かず、民はもとの古い生き方に逆戻りしていました。ニネベの圧制下で苦しんだ多くの国はニネベ滅亡の知らせを聞いて歓喜したことでしょう。アッシリアの力がその神々と共に滅ぼされたという喜ばしい知らせを伝えるために、一人の使者が来ることになっていました(イザ52:7)。神の民は再び平和のうちに礼拝するようになるのでした(ナホ2:1—口語訳1:15)。

主の怒りは大いなるものです。しかし、主の憐れみはそれ以上のものです。あふれるばかりの主の慈愛を待ち望む者たちを、主は守られます。神は御自分に信頼する者たちを守られるが、みなぎる洪水をもって御自分の仇を闇に追いやられると、ナホムは教えています(ナホ1:8)。それらすべてのことの背後に、神がおられました。なぜなら、ニネベに対する裁きの日の到来を決定されたのは神だからです。

神は恐るべき力を持っておられると、預言者は言っています。すべての被造物は神の前に震えます。神は永遠に罪を許容されることがありません。同時に、神は御自分に信頼する者たちの救い主です。中立の立場はありません。一方の側でなければ、他方の側です。イエスは言われました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し……ている」(マタ12:30)。

さらなる研究

「無限の神は、今もなお誤ることのない正確さをもって諸国の記録をとっておられる。神のあわれみが差しのべられて、悔い改めの招きが与えられている間、この帳簿は開かれている。しかし、数字が神のお定めになった一定の数に達するときに、神の怒りのわざが始まる。帳簿は閉じられる。神の忍耐は終わる。もはや、あわれみの声は彼らのために訴えなくなるのである」(『希望への光』526ページ、『国と指導者』上巻331ページ)。

「世界は堕落しなかった諸世界と天の宇宙の前で、全地の裁き主、自らが断罪し、十字架につけた方に対して説明をしなければならない。それは何という清算の日であろうか!それは神の大いなる報復の日である。そのとき、キリストはピラトの法廷に立たれない。そのとき、ピラトやヘロデ、またキリストをあざけり、苦しめ、拒否し、十字架につけた者たちはみな、小羊の怒りを感じることがどのような意味を持つかを理解する。彼らの行為はその真の性格のままに彼らの前に現れる」(エレン・G・ホワイト『牧師へのあかし』132ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次