預言者としてのエレミヤの召し【エレミヤ書】#1

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この記事のテーマ

旧約聖書のどの預言者よりも、私たちはエレミヤの人生について知っています。エレミヤ書の伝記的情報は、預言者としての彼の働きをよりよく理解するうえで役立ちます。彼は歴史に大きな影響を及ぼしていたので、イエスの在世当時でさえ、預言者として尊敬されていました。

その一方で、人間的な基準から判断すると、この預言者の働きはほんのわずかな成功しか収めませんでした。数十年にわたる熱心な警告と嘆願にもかかわらず、大部分の人が、彼の与えた主からのメッセージに耳を傾けなかったからです。

しかし人々の反対にもかかわらず、彼は揺るぎませんでした。彼は自分の力ではなく、主の力によって、「城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁」(エレ1:18、新改訳)として立ちました。エレミヤの人生における運命は、いろいろな意味で不幸なものでした。彼の召しは、苦しみ、悲しみ、拒絶、そして投獄さえも彼にもたらしました。しかもなお悪いことに、これらの厄介事の多くは、彼がまさに助けようとし、正しい方向を指し示そうとしていた人々からもたらされました。このように、エレミヤは彼自身の体験で、数百年後にイエス御自身が同じ土地で直面なさることを前もって示したのでした。

預言者たち

預言者たちは、神の律法の断固たる擁護者として召され、契約と十戒の立場を堅持しました(エレ11:2~6)。ミカ3:8は、預言者の働きの一つを要約しています。それは、「ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すこと」(口語訳)でした。そして言うまでもなく、罪という概念は、律法から離れては意味を成しません(ロマ7:7参照)。

神の裁きは不可避ではありませんが、人々が悪の道から立ち帰らなければ、それは下されます(イザ1:19、エレ7:5~7、エゼ18:23参照)。しかし、変わることは容易ではありません。特に、人々が悪事を働くことに慣れてしまっている場合はそうです。かつてはゾッとさせられた悪事に人が慣れてしまうのを見たことのない人がいるでしょうか。預言者たちのメッセージは人々に、彼らの悪事がいかに悪いものであり、それから離れない結果がどのようなものであるかを理解させることでした。そして言うまでもなく、そのメッセージは預言者自身のものではなく、主から与えられたものでした。

預言者たちは、神の言葉がどのように自分たちに告げられたのか、自分たちがどのようにそれを聞いたのかを語りません。神が直接彼らに語られたこともあったでしょうし、聖霊が夢や幻、おそらくは「静かにささやく声」(王上19:12)によって彼らに接触されたこともあったでしょう。どのような形でメッセージを受けたにせよ、預言者たちには、神の御旨を一般の民に伝えるだけでなく、必要とあれば、王や皇帝や将軍たちの前でもそれを伝えるという使命がありました。

この務めには大きな責任が伴いました。もし彼らが真実を語るなら、権力者たちは彼らを殺すかもしれません。しかし、もし彼らが真実を突きつけなければ、神の裁きが自分たちにも下されます。預言者になるというのは重大な召しであり、私たちが聖書からわかる限りにおいて、この召しを受けた者たちは、それを真剣に受け止めました。

私たちは、彼らがそうしてくれたことをうれしく思います。なぜなら、彼らのメッセージが聖書に収められ、私たちに受け継がれてきたからです。その意味で、彼らの言葉は今日でもなお語り続けています。そして、エレミヤの時代と同様、今でも問われていることは同じです。つまり、私たちが耳を傾けるかどうかです。

エレミヤの家庭背景

問1

列王記上1章と2:26を読んでください。アビアタルが故郷のアナトトへ追放されることに至った背景は、どのようなものでしたか。

王位を強固にしたソロモンは、王位継承を巡るアドニヤとの確執の中で、アビアタルを祭司職から外し、彼を(エルサレムの北東5キロほどの所にあったと思われる)故郷のアナトトに追い返しました。エレミヤの父親であるヒルキヤは、このアナトトに住む祭司一族の一員でした。エレミヤの一家はアビアタルの末裔かもしれない、と推測する者もいます。いずれにしても、私たちはエレミヤ1:1から、この預言者が高貴な血筋であったことがわかります。それゆえ、わたしたちはここで、預言者の歴史を通してずっと、主があらゆる種類の人(羊飼い、ラビ、漁師、祭司など)を預言者の働きに召してこられたことがわかります。

「エレミヤはレビ族の祭司の1人であったので、幼少の時から聖職のために訓練を受けていた。そうした幸福な準備の期間に、彼は生まれた時から『万国の預言者』として立てられていたことを夢想だにしなかった。そして神の召しが与えられた時に、彼は自分の無価値さに圧倒された。彼は叫んだ、『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』(エレミヤ1:5、6)」(『希望への光』540、541ページ、『国と指導者』下巻29ページ)。

祭司は、国民の道徳的、霊的指導者でなければなりませんでした。彼らには、国民の霊的生活のほとんどあらゆる面に影響を及ぼす重要な役割が与えられてきたからです。この務めに忠実な者もいれば、私たちが想像もできないような方法でこの務めを悪用したり、冒したりする者もいました。じきにエレミヤ書の中で読むことになりますが、エレミヤはこのような不忠実な祭司たち、つまり託された責任や召しに値しないことがわかった祭司たちを非難するための強烈な言葉を持っていました。

預言者としてのエレミヤの召し

問2

エレミヤ1:1~5を読んでください。エレミヤの召しについて、この箇所はどのようなことを述べていますか。

旧約聖書のほかの預言者(や新約聖書のパウロ[ガラ1:1、ロマ1:1参照])と同様、エレミヤは、だれが自分を召したのかということに関して曖昧ではありません。この箇所で、というよりもエレミヤ書全体においてエレミヤが明確であったのは、彼が語っているのは彼に臨んだ「主の言葉」である、という点です。強烈な反対や骨折り、苦しみ、試練にもかかわらず、彼が前進するのを可能にさせたのは、間違いなく、この強い確信でした。

エレミヤが召されたのはヨシヤ王の治世の第13年、つまり紀元前626年か627年に遡ります。この預言者が生まれた正確な年や、彼が働きを始めた正確な年齢はわかりません。しかし、これから見ていくように、彼は心の中で、与えられたこの務めをするのに自分は若すぎる、子どもだ、と思いました。

問3

エレミヤ1:4、5を読んでください。これらの言葉から、エレミヤはどのような確信と慰めを得たでしょうか。

神は、エレミヤが生まれる前から彼を預言者として選び、この役割のために聖別されました。「わたしはあなたを聖別し(た)」という言葉は、さまざまなものの中で特に「神聖化される」「聖くなる」「聖化する」ことを意味する動詞に由来します。この動詞には聖なる宗教的な意味が明らかに含まれており、聖所の奉仕にも結びついています。実際、「聖所」に相当する言葉は、同じ語根の言葉に由来します。それに含まれる概念は、何かが、またはだれかが「聖なる目的のために区別される」というものです。これこそが、エレミヤの誕生前から、神が彼のために計画されたことです。先の聖句は、先在説や予定説を教えているのではありません。そうではなく、神の予知を教えています。

気乗りしない預言者たち

この務めのために神によって選ばれていたのだ、と主が請け合ったにもかかわらず、この若者は怖がり、乗り気ではありませんでした。おそらく、当時のひどい霊的状態や、やらねばならないことがわかっていたので、エレミヤはこの働きを望まなかったのでしょう。

問4

エレミヤ1:6とイザヤ6:5、出エジプト記4:10~15を比較してください。これらの出来事には、どのような共通点がありますか。

理由がどうであれ、これらの人たちはみな、[与えられた]務めを果たせないと感じました。おそらく、預言者の働きにとってそれが必要条件だったのでしょう。つまり、こういう極めて重要な務めをするには、自分は無力で、無価値だという感覚です。「創造主の代弁者だって!?」と、少なくとも最初に彼らがひるんだのも無理はありません。

召しを受けたあとのエレミヤの最初の返事にも注目してください。彼はモーセと同じように、自分はうまく話せません、とすぐに答えています。イザヤも返事の中で、彼の口や唇に言及しています。いずれの場合にも、彼らの召しがどのような内容であろうと、話すことや伝えることが伴うであろうことを、3人は知っていたのです。彼らはやがて神からメッセージを受け取り、それを人々に伝える責任を負うことになります。ホームページを作ったり、メールを送ったりできる今日と違い、彼らはたいてい顔と顔を合わせて伝えなければならなかったでしょう。敵意を抱く指導者や乱暴な人々の前に立って、叱責や警告の厳しい言葉を言わなければならない状況を想像してみてください。間もなく預言者になるこれらの人たちが気乗りしなかったのも、無理はありません。

問5

エレミヤ1:7~10を読んでください。エレミヤに対する神の返事は、どのようなものでしたか。神が私たちを召してさせようとしておられることが何であれ、この返事の中には、私たちのための何らかの希望と約束が、なぜ含まれているのですか。

アーモンドの枝

預言者は神の証人であり、彼の仕事は自分自身のためでなく、神のためだけに語ることです。エレミヤは国家の問題に対する解決方法を見いだすためや、民を従わせる偉大な人物やカリスマ的指導者になるために召されたのではありません。エレミヤが持っていた唯一の使命は、神の言葉を民とその指導者たちに伝えることでした。ここで重視されるのは、人間や人間の能力ではありません。神の主権と力だけが重視されるのです。預言者は人々を主に振り向かせなければなりませんでした。主のうちにのみ、彼らのあらゆる問題の解決があったからです。言うまでもなく、そのことは今日の私たちにとっても何ら変わりません。

問6

エレミヤの最初の幻は、何に関するものでしたか(エレ1:11~19)。

たいていの聖書は、11節のヘブライ語の表現を「アーモンドの枝」と訳しています。しかしこのような訳では、ここでのヘブライ語の言葉遊びを見逃すことになります。「アーモンド」と訳されている言葉は、主が御自分の言葉を成し遂げようと「見張っている」とおっしゃっている12節に登場する「見張る」という動詞と同じ語根なのです。

エレミヤ書全体の中心的メッセージは11節と12節に見いだせる、と言うことができます。神の言葉は成し遂げられるでしょう。いつの日かすべての人が、神のおっしゃったとおりに物事が起きるのを目にします。神は恵みと赦しを提供してこられましたが、だれであれ無理に従わせたり、いやしたりはなさいません。もし神の民が神の言葉に応答しないなら、イスラエルに対する神の言葉がエレミヤ書の中で成就したように、神の裁きと罰の言葉は確実に成し遂げられるのです。

おわかりのように、ここにおける神の言葉は、単に人々のためのものではありませんでした。主は直接エレミヤ本人に語りかけ、彼が直面するであろう反対に備えるように警告しておられたのです。どんなことが起きようとも、エレミヤは、「わたしがあなたと共にい(る)」という神からの確証を得ることができました。これから見ていくように、彼はその確証を必要とするようになります。私たちもみな、それを必要としているのではないでしょうか。

問7

マタイ28:20を読んでください。この聖句の中に、現代に生きる私たちのためのどんな確証を見いだすことができますか。

さらなる研究

マルティン・ルターはエレミヤ書の注釈の導入部分で、この預言者について次のように記しています。「エレミヤは、嘆かわしい困難な時代を生きた悲しみの預言者だった。そのうえ、彼の預言者としての奉仕は、怒りっぽく頑迷な人々との闘いであったため、極めて難しかった。一見したところ、彼はあまり成功を収めなかったように見える。なぜなら彼は、敵がますます邪悪になっていくのを体験したからである。彼らはこの預言者を何度も殺そうとした。圧力をかけ、何度かむちで打った。しかし、彼は生き延びて、祖国が荒廃し、同胞が捕囚の身となるのを自分の目で見るのである」

「エレミヤは40年の間、真理と義の証人として国民の前に立たなければならなかった。彼は未曽有の背教の時代にあって、その生活と品性において、唯一の真の神の礼拝を実証しなければならなかった。恐るべきエルサレムの包囲の時に、彼は主の代弁者とならなければならなかった。

彼はダビデの家の没落と、ソロモンが建てた美しい神殿の破壊とを預言しなければならなかった。そして彼は、恐れず発言して投獄された時にも、なお、地位の高い人々の罪に対して、はっきり語らなければならなかった。彼は人々から軽べつされ、憎まれ、拒否されて、ついには、切迫した破滅について彼自身の預言が文字通り成就するのを見、運命の都の破壊に伴った悲哀と不幸とを共に味わわなければならなかった」(『希望への光』541ページ、『国と指導者』下巻30ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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