象徴的な行動【エレミヤ書】#6

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聖書を学ぶ者ならだれもが、聖書には象徴(概念や考えをそれ以外のものであらわしたもの)があふれていることを知っています。例えば、地上の聖所の奉仕は、その全体が救済計画の象徴的な預言でした。「ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である。贖罪の計画を知ることによって、その真理を理解することができる」(『希望への光』1235ページ、『キリストの実物教訓』111ページ)。地上の聖所の象徴的な意味や預言書(例えば、ダニエル2章、7章、8章や黙示録)の象徴、あるいはさまざまなほかの方法によって、主は真理を伝えるために象徴を用いてこられました。一方、イエス御自身は深い真理を説明するために、たとえ話や実物教訓とともに象徴を使われました。

エレミヤ書も象徴や比喩に富んでいます。私たちは今回、このような象徴のいくつかに目を向け、それらが何であるのか、何を意味するのか、それらからどんな教訓を得るべきか、といったことを研究します。

象徴の中の真理

聖書は極めて象徴に富んでいます。あらゆる種類の象徴にあふれていて、たいていの場合、それらはそのもの自身よりずっと重要な真理をあらわしています。

問1

創世記4:3~7を読んでください。彼らの二つの献げ物は何を象徴していますか。

私たちは聖書のごく初めにおいて、独力で天国に上ろうとする試み(カインの献げ物)と、救いは恵みによってのみ、十字架につけられた救い主の功績によってのみ私たちに与えられるという認識(アベルの献げ物)との違いを目にすることができます。

問2

民数記21:4~9を読んでください。旗竿の先に掲げられた青銅の蛇が象徴していたものは、何でしたか(ヨハ12:32も参照)。

「イスラエルの人々は、上げられたへびを見ることによって救われた。こうしてながめたことは、信仰を意味していた。彼らは神の言葉を信じ、神が彼らの回復のためにお備えになった方法に信頼したから、生きたのである」(『希望への光』223ページ、『人類のあけぼの』下巻34ページ)。

旧約聖書全体を通じて、地上の聖所の奉仕は、救済計画を最も詳しく象徴的にあらわすものとしての役割を果たしました。イスラエルの人々があらゆる儀式の意味をどれくらい理解していたのかは、数千年にわたって問われ続けてきましたが、間違いなく、多くの人があらゆる真理の中でも最も重要な真理、すなわち身代わりの贖罪(彼らの罪が赦されるには、身代わりの者が死ななければならないという考え[Iコリ5:7])を理解していたでしょう。

実際のところ、私たちは聖所の奉仕を通して、イエスの死の象徴だけでなく、天における大祭司としての彼の働きの象徴、再臨前審判の象徴、終末時代における罪の最終的な処分の象徴などを与えられてきました。

陶工の粘土

問3

次の聖句やそこに含まれる象徴から、どんな重要な真理が得られますか。①エレミヤ18:1~10、②イザヤ29:16、③イザヤ45:9、④イザヤ64:7(口語訳64:8)、⑤ローマ9:18~21、(創2:7参照)。

エレミヤは絶えず拒絶と迫害に直面したために、きっと投げ出したいと思ったのです。そのような民のために骨を折り、戦う価値があるのでしょうか。折に触れて彼は、「価値などない!」と確かに感じていました。

しかし、彼は陶工の手を見たときに、主が人間という粘土を用いていかに働かれるのかというたとえ、つまり象徴を、間違いなく教えられました。陶工と粘土のたとえの中にどのような真理がほかに見いだされようと、これは神の究極的な主権を教えています。すなわち、エレミヤの目からは状況がいかに絶望的に見えたとしても、陶工と粘土の象徴は彼に、民が下す誤った決定、意図的ですらある誤った決定にもかかわらず、究極的には主がこの世を支配しておられることを示しました。主は力と権威の絶対的な源であり、現状がどうであれ、最終的に主が勝利されます。

エレミヤから何世紀もあとに、パウロはこの旧約聖書のたとえをローマ9章の中で取り上げ、基本的にそれがエレミヤに教えようとしたのと同じ教訓を教えるために用いています。実際のところ、パウロはローマ9:21においてエレミヤ18:6に直接言及しているのかもしれません。人間の自由意志と自由選択の現実や、頻繁に生じるその自由意志を悪用した悲惨な結果にもかかわらず、私たちは最終的に、愛情深く、自己犠牲的な神の絶対的な主権に望みを置けるのだ、と安んじることができます。その神の愛は、十字架で明らかにされました。悪は勝利しません。神と神の愛が勝利します。なんという希望を私たちは持っていることでしょう!

民の退廃

「それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである」(エレ19:4)。

この聖句の中に、ユダを襲った悪事の例がいくつか挙げられています。主を捨てること、「他の神々」に香をたくこと、無実の人の血を流すことに加えて、彼らは「このところを異教の地」にもしました。ここでのヘブライ語の動詞は、「異質なものにすること」「奇妙なものにすること」、あるいは「汚すこと」を意味します。「このところ」が神殿なのか、エルサレムなのか、この聖句には記されていません。しかし重要な点は、この国が主にとって聖く、特別なものに(出19:5、6参照)、つまり周囲の国々とは異なる、独特なものになるべきであったということです。しかし、そのようにはなりませんでした。彼らは、自分たちをこの世に対する証人としたであろう特性や独自性を失いました。彼らはみんなと同じようになってしまいました。

「また彼らはバアルのために高き所を築き、火をもって自分の子どもたちを焼き、燔祭としてバアルにささげた。これはわたしの命じたことではなく、定めたことでもなく、また思いもしなかったことである」(エレ19:5、口語訳)。

古代世界では人身御供という概念は知られていましたが、それは、その習慣をイスラエルの人々に禁じておられた主が忌み嫌われるものでした(申18:10)。「思いもしなかった」と訳されている句は、ヘブライ語だと「心に思い浮かびもしなかった」とも読めます。これは、そのような習慣が神の御意志とはいかにかけ離れた異質なものであるかを示す慣用的な表現でした。もし罪によって鈍感になった、堕落した存在である私たちがそれを忌まわしいと思うのであれば、私たちの聖なる神にとってそれがどのようなものであったのか、想像してみてください!

それにもかかわらず、長い時間をかけて、堕落と文化の力が神の民を圧倒し、彼らはこの恐ろしい儀式に落ち込んでしまいました。私たちが支配的な文化によってどれほど容易に目をくらまされ、もし主につながり、主の御言葉と調和しているなら決して容認しないし、それどころか恐ろしいと思うような習慣(ヘブ5:14参照)に同意したり、参加さえしてしまうことについて、それは大切な教訓でしょう。

壺を砕く

昨日触れたように、民は深刻な背教に陥っていました。彼らはメッセージを受け取っていませんでした。そこで神はエレミヤを用いて、理想的には、彼らを差し迫った危機に気づかせるのに役立つ効果的な象徴的行為をさせました。

エレミヤ19章を読んでください。エレミヤは陶工の家に再び行かねばなりませんでした。しかし今回、主はエレミヤに、彼が行おうとしていることをしっかり見てもらうための証人を必ず連れて行くことを望まれました。その証人は、ユダの長老や祭司たちでした(エレ19:1)。彼らは指導者として、国に起こることに責任があったので、エレミヤが象徴的行為の力を通して伝えようとしていたメッセージを受け取る必要がありました。エレミヤが壺を砕くことになっていた「陶片の門」(同19:2)は、陶工たちが働いていた場所の近くで、門のすぐ外は、彼らが壊れた壺のかけらを捨てる場所だったのかもしれません。それゆえ、この象徴的行為はさらに効果的なものになりました。

砕かれた陶器の壺は、何の役に立つでしょうか。壺にひびが入っただけなら、当初の目的ではないにしても、何かの役に立つかもしれません。しかし、エレミヤは単に壺にひびを入れようとしていたのではありません。そうではなく、壺を砕いて、基本的に役に立たなくしようとしていました。その行為を見、あとに続いた言葉を聞くまでの間に、人々がその警告を理解できなかったとは思えません。もちろん、警告を理解することとそれに基づいて行動することとは、まったく別の話です。

さらに恐ろしいのは、その行為の明らかな最終的結果です。だれが砕かれた壺を修復できるでしょうか。主はこの民に未来への希望をお与えになりましたが、差し当たって彼らが方向転換をしなければ、ユダの国民は、彼らも子孫も破滅します。彼らが嫌悪すべきことや罪深い行為によって汚してきたすべての場所は、じきに彼らの死体によって汚れるでしょう。彼らの堕落の深さは、その堕落が自らの頭上に招いた罰の厳しさによって、最もよく理解されうるのかもしれません。

麻の帯

問4

エレミヤ13:1~11を読んでください。エレミヤが行うように命じられた象徴的行為は、どのようなものでしたか。それが教えようとしていたのは、どんな重要な教訓でしたか。

この象徴的行為は、これまで解釈者たちに解釈上の難しさをもたらしてきました。なぜなら、ユーフラテス川(これはユダヤ人の一般的な解釈であって、唯一の解釈ではありません)はエルサレムから何百キロも離れていたからです。エズラはそこへ行くのに、片道だけでも4か月かかっています(エズ7:9)。このメッセージをよりよく理解させるために、神はエレミヤに2往復させました。それゆえ学者たちの中には、地理的にほかの場所のことだろうと主張する者たちもいます。その一方で、エレミヤが旅をしなければならなかった長い距離は、イスラエルの子らがどれほど遠くへ連れ去られるのかを彼に示すのに役立ったであろうと主張する者たちもいます。さらに、それほどの長旅から戻る経験をしたので、エレミヤは70年の捕囚から戻った喜びを理解することができました。

いずれにせよ、召しがあったときには汚れておらず、腐ってもいなかったこの帯は、イスラエルの家とユダの家の双方を象徴しています。その帯を締めているのは、神御自身です。このことは何よりも、神御自身がどれほど密接に御自分の民と結びついておられるのかを示しています。聖書注解者の中には、この帯が祭司の衣服と同じ布である麻によってできているという事実に大きな意味を見る者たちもいます(レビ16:4)。詰まるところ、ユダは祭司の国になるはずだったからです(出19:6)。

帯が腐ったように、この民の傲慢も砕かれました。帯が男の腰にしっかり巻きついているように、この民はかつて主にしっかり巻き(すがり)つき、主の称賛と栄光の源でした。しかし、彼らは周辺の文化と接触することによって汚れ、そこなわれてしまいました。

問5

エレミヤ13:11を読み、申命記4:5~8と対比してください。これらの聖句はともに、この国に起こったことをどのように示していますか。これらの聖句は私たちにもどんなことを教えていますか。

さらなる研究

陶工と粘土のたとえは、とりわけローマ9章で明らかなように、私たちが神の行為をいかに理解しようとするのか、という重要な疑問を提起します。実際のところ、言うまでもなく、私たちはしばしば理解できません。それは意外なことではないのではありませんか。イザヤ55:8を読んでください。私たち人間は、何事であれ知っていることに極めて限りがあり、ましてや神の道はわかりません。

人間の知識の限界というこの点は、「自己言及の問題」と呼ばれてきたものによって明らかにされます。次の文を見てください。「セビリアの理髪師は、自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」。では、セビリアの理髪師は自分でひげを剃りますか。もしも彼が自分のひげを剃るとすると、「自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」という論理から、彼は自分のひげを剃ることができません。しかし、もしも彼が自分でひげを剃らないとすると、「自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」という同じ論理から、彼は自分自身でひげを剃る必要があります。その答えは、論理の限界を示す説明しがたい矛盾を生み出します。それゆえ、もし「セビリアの理髪師がだれのひげを剃るのか」といったこの世界の出来事についての議論でさえこれほど混乱するのであれば、この世界に関わられる神の行動の性質や程度といった深遠なことについては、難解な問題がどれほど多いことでしょう。

「どうして罪というものが起こったのか、なぜ罪があるのかということは、多くの人々の心を苦しめる問題である。人々は、悪の働き、その恐るべき結果である不幸と悲しみを見て、いったいなぜ限りない知恵と力と愛であられる神の主権の下にこうしたすべてのことが存在するのかと疑問をいだく。人間の説明できない神秘がここにある。人々は、半信半疑でいるために、神のみ言葉の中にはっきりあらわされていて救いに不可欠な真理を、悟ることができないのである」(『希望への光』1835ページ、『各時代の大争闘』下巻227ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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