契約【エレミヤ書】#11

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聖書は「契約」という言葉を複数形で記していますが(ロマ9:4、ガラ4:24)、基本的な契約は一つしかありません。それは、信仰によって求める罪人に神が救いを与えられるという恵みの契約です。複数形の「契約」という考え方は、さまざまな時代や状況の中にいる人々の必要に応えるため、神が本質的な契約による約束をさまざまな形で言い換えてこられたことから生じています。

しかし、アダムの契約(創3:15)であれ、アブラハムの契約(出20:2、ガラ3:6~9)であれ、シナイの契約(出20:2)であれ、ダビデの契約(エゼ37:24~27)であれ、新しい契約(エレ31:31~33)であれ、その考え方は同じです。神が与えてくださる救いは、身に余る不相応な賜物であり、この賜物に対する人間の応答(ある意味で、人間がこの取引で果たすべきこと)は、誠実と服従です。

新しい契約という言葉は、捕囚からのイスラエルの帰還と神が彼らにお与えになる祝福との関連で、エレミヤ書の中に初めて出てきます。災難や困難のさなかにあっても、主は御自分のわがままな民に希望と回復を与えようとしておられるのです。

全人類との神の契約

私たちは、今日の世界がどれほど悪いかを知っています。言い換えれば、私たちはこの世の中にあらゆる悪を見ますが、神は依然として私たちに我慢しておられるのです。それゆえ、主が全世界を洪水で滅ぼされるには、状況がものすごく悪かったに違いないと、想像せざるをえません。「神は、生活の規準として、律法を人々にお与えになったが、人々は、律法を犯し、そのためにありとあらゆる罪が生じた。人々は公然と、しかも大胆に悪を行った。正義は地にふみにじられ、圧迫される者の叫び声は天に達した」(『希望への光』47ページ、『人類のあけぼの』上巻89ページ)。

創世記9:1~17を読んでください。神と人類との間で、契約が結ばれました。それは被造物に対する神の恵みを反映しています。

神がノアに表明された契約は、聖書の契約の中で最も普遍的なものです。それは全人類に関係しており、動物や自然も含まれていました(創9:12)。しかも、この契約は一方的な取り決めでした。主は、この契約を結ぶ相手に要求や条件を何も課されなかったのです。単純に、神はこの世界を二度と水によって滅ぼすことはなさらない。それだけです。ほかの契約と違い、この契約にはまったく条件が付けられていません。

そして神は、目に見えるしるしで、つまり地球が洪水によって二度と滅ぼされないというこの約束を象徴する虹というしるしで、御自分の契約に印を押されました。ですから、私たちが虹を見るたびに、その場所で虹を見ているという単なる事実が、この大昔の契約を裏づけています(そもそも、もし人類が世界的な洪水によって一掃されていたなら、私たちはここで虹を見ていないでしょう!)。この地上で絶え間なく続く罪や悪の中にあって、時折私たちは、全世界に対する神の恵みのしるしである虹の美しさによって祝福されます。なぜなら、ただそれが美しいという理由からだけでなく、それが神からのメッセージ(この悲惨な惑星に対する神の愛のメッセージ)でもあることを知っているという理由によって、私たちはそれを見上げ、希望を得ることができるからです。

アブラハムとの契約

問1

創世記12:1~3、15:1~5、17:1~14を読んでください。これらの聖句は、神がアブラハムと結ばれた契約を通してなさろうとしておられたことについて、どのようなことを教えていますか。

アブラハムの恵みの契約は、救済史の全過程において基本となるものです。それゆえパウロは、この契約がイエス御自身において成就されたとき、これを用いて救済計画を説明しました。

問2

ガラテヤ3:6~9、15~18を読んでください。アブラハムと結ばれた契約を、パウロはいかにイエスや信仰による救いと結びつけていますか。

アブラハムの大勢の子孫ではなく、特定の1人、つまりイエスを指している「その子孫」(ガラ3:16)を通して、神はこの世界全体を祝福なさいます。イエスを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるすべての者は、アブラハムの神が自分たちの神でもあることに気づきます。当時でさえ、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(同3:6、口語訳)のです。アブラハムは、十字架のあの強盗と同じく、行いによって救われたのではありません。救いをもたらすのは常に、そして唯一、神の救済の恵みだけです。アブラハムは、彼が果たすべき契約による約束の分担を果たし、その忠実さは、救いの約束を握りしめた彼の信仰を明らかにしました。彼の行いが彼を義としたのではなく、その行いは、彼がすでに義とされていたことを示していました。それがこの契約の核心であり、信仰生活においてそれがいかにあらわされるかの中心です(ロマ4:1~3参照)。

シナイでの契約

問3

その契約はシナイ山において、イスラエルと神との間で、どのように結ばれましたか(出24章参照)。

モーセと何十人かの指導者たちがシナイ山に登りました。その指導者たちの中には、祭司を代表するアロンと彼の2人の息子たち、そして民を代表する70人の長老が含まれていました。モーセに同行した人たちは遠く離れた所で止まらなければならず、神の出現される場所に登ることを許されたのはモーセだけでした。

その後、モーセは戻って来て、契約を民全体と一緒に確認しました。神がお語りになったことをモーセが宣言すると、民はそれに、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」(出24:3)という言葉で応じました。

言うまでもなく、聖書に記された歴史が示し、私たち自身の体験がしばしば証明しているように、服従します、と口で言うことは容易です。しかし、約束したことを実行できるようにする神の力を用いるために、私たちが信仰を働かせ、服従することは、まったく別物なのです。

ヘブライ4:2を読んでください。この聖句はイスラエルの失敗について説明しています。信仰によってのみ、信仰によって与えられる約束をつかみ取ることによってのみ、私たちは忠実であることができます。その忠実さは、神の律法に対する忠誠によってあらわされるものです。律法に忠実であることは、私たちの時代においてと同様、モーセの時代においても永遠に続く契約に反していませんでした。律法や契約に関する一般的な誤解は、たいていパウロの書簡が原因で、それは、彼が書いていた状況、つまりユダヤ教徒化しようとする相手に対処していたという状況を考慮に入れないことから生じています。彼らは、律法とそれに従うことを信仰の中心にしたいと願っていました。それに対してパウロは、キリストと彼の義を中心的要素にしたいと思いました。

新しい契約(その1)

問4

エレミヤ31:31~34を読んでください。これらの聖句は、当時の状況においてと同時に、今日の私たちの状況において、どのような意味がありますか。

エレミヤは、民がまだ直面していなかった最大の危機のさなかにこれらの言葉を語りました。その危機とは、迫りくるバビロンの侵略であり、その侵略がなされたとき、彼らはほぼ確実に絶滅の危機に瀕しました。しかし、ほかの箇所においてと同様ここでもまた、主は彼らに希望をお与えになりました。これですべてが終わってしまうわけではなく、彼らには主の前で繁栄するチャンスがもう一度与えられるという約束です。

そういうわけで、聖書の中に見いだされる「新しい契約」の約束は、バビロン捕囚からのイスラエルの最終的帰還と、その帰還に際して神が彼らにお与えになる祝福とに関係しています。シナイで結ばれた契約を破ったことが彼らに捕囚をもたらしたように(エレ31:32)、この契約を結び直すことによって、彼らと、彼らの未来に対する希望とは保たれます。シナイの契約と同様、新しい契約も関係的なものであり、そこには同じ律法、つまり十戒が含まれます。ただし、今回は石の板にではなく、それがずっと続くように民の心に記されます。

「石の板に刻まれたのと同じ律法が、聖霊によって心の板に書かれるのである。自分自身の義を確立させようと努力するかわりに、われわれは、キリストの義を受け入れる。キリストの血がわれわれの罪を贖うのである。キリストの服従が、われわれに代わって受け入れられる。こうして、聖霊によって新しくされた心は、『御霊の実』を結ぶのである。キリストの恵みによって、われわれは心に書かれた神の律法に従って生きるのである。キリストのみ霊を持っているから、彼が歩かれたように歩くのである」(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻442、443ページ)。

新しい契約の下で、彼らの罪は赦され、彼らは自ら主を知り、彼らのうちに働かれる聖霊の力によって神の律法に従います。古い契約は影であり、象徴であり、新しい契約が実体でした。そして、救いは常に信仰—「御霊の実」を明らかにする信仰—によりました。

新しい契約(その2)

新しい契約に関するエレミヤの預言には、二つの意味が含まれていました。この預言は第一に、イスラエルが神に立ち帰り、神が彼らを祖国へ連れ戻されることに言及し、第二に、その死によって契約を批准し、人類と神との関係を変えられるメシアなるイエスの働きに言及しています。私たちが救済計画の全貌を知ることができるのは新しい契約においてであり、救済計画はそれ以前、影と予型において示されていたにすぎませんでした(ヘブ10:1)。

問5

ルカ22:20とIコリント11:24~26を読んでください。これらの聖句は、エレミヤの預言といかにつながっていますか。

旧約聖書においては、キリストの裂かれた体と流された血は、いけにえとなった過越の小羊によって表されていました。新約聖書においては、ぶどうジュースが、十字架で流されたイエスの血を象徴するものとして表されました。イエスの働きは、新約聖書とともに始まったのではありません。それは旧約聖書をも含んでおり、私たちは聖餐式において、イエスが救済史を通してずっとなさってこられたことを結びつけるつながりを見ることができます。

つまりパンとジュースは、救済史の最も短い要約です。それらは象徴にすぎませんが、私たちはこの象徴を通して、神が私たちのためになさった信じがたい働きを理解するのです。

聖餐式はキリストの死だけでなく、キリストの再臨をも指し示しています。再臨がなければ、キリストの死はほとんど無意味です。詰まるところ、私たちが墓から復活するときである再臨がないのなら(Iテサ4:16、Iコリ15:12~18)、キリストの初臨は何の役に立つでしょうか。イエスは、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26:29)とおっしゃったときに、このつながりを明らかになさいました。疑いの余地なく、キリストの初臨が分かちがたく再臨と結びつけられています。初臨はその最終的成就を再臨の中にのみ見るのです。

さらなる研究

すでに触れたように、虹は地球を二度と水によって滅ぼさないという神の契約上の約束のしるしであると、聖書は教えています。確かに科学のおかげで、現代の私たちは、日光が水滴の中で屈折して反射し、光をさまざまな角度に分散させるときに虹が生じることを知っています。光は雨粒の内部に一点から入り、その粒の背面の別の点で反射し、私たちが目にする色を作りながら、粒の別の点から出て行きます。詩人のジョン・キーツは、科学が「虹をばらばらにしてしまう」ことを恐れました。しかし、たとえ私たちが、光子の内部やクォークの暗部に至るまで虹に関してあらゆることを解析し、測定し、予想し、数値化できたとしても、そのことは、この契約による約束のしるしを生み出すために神が用いられた自然の法則を私たちがよりよく理解できるということ以外に、何を証明するのでしょうか。科学はいつの日か、虹がいかにして作られるのかを(小数点以下25桁に至るまで)すべて説明できるようになるかもしれませんが、虹がなぜ作られるのかを説明することは決してできません。

しかし、私たちはなぜかを知っています。日光と霧が互いに正しい関係にあるとき、霧は光を屈折と反射によってさまざまな角度に分散させ、それがいくつもの電磁波の周波帯を生み出し、私たちの目に届くと虹のイメージを私たちの心に刻むように、神が私たちの世界を創造されたからです。そして、神がそうされたのは(科学が決して説明できないその「理由」は)、地球を二度と水で滅ぼさないという契約による約束を私たちに思い出させるためです。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年4期『エレミヤ書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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