この記事のテーマ
私たちは前回、少なくともできる限り、わが身をヨブの立場に置くことの重要性を強調しました。ある意味において、それはさほど難しいことではなかったに違いありません。なぜなら、私たちはみな、同じような立場に置かれたことがあるからです。言い換えれば、ある程度まで、私たちはだれもが、しばしば納得のいかない、まったく公平に思えない苦しみにいつの間にか陥ってきたからです。
このような視点は残りの課においてもずっと保つべきですが、その一方で、ヨブの物語に出てくるほかの人たち、ヨブと一緒に嘆き悲しむためにやって来た人たちの視点を探る必要もあります。そして、それもまたさほど難しくないはずです。私たちの中に、ほかの人の苦しみを目にしたことのない人がいるでしょうか。苦痛や喪失の中にいる人を慰めようとしたことのない人がいるでしょうか。私たちの心をも切りつける悲しみを抱えた人に語りかける適切な言葉を見つけようとすることがどういうことかを知らない人がいるでしょうか。
実際、ヨブ記の大部分は、ヨブとこのような人たちとの対話で占められています。彼らはみな、しばしば合点がいかないように思えること——愛情深く、力強く、思いやりのある神によって創造されたこの世界で、人間の苦しみや悲劇が果てしなく続くこと——の意味を理解しようとしています。
重大な疑問
ヨブ記において動きのある部分は、ほとんどが最初の2章の中だけです。そこでは天と地球の間のベールが取り払われ、さもなければ私たちには隠されたままである現実の全体像が垣間見られます。現代の望遠鏡がどれほど遠くまで宇宙を見通せるとしても、数千年前に(たぶん今日のサウジアラビアにある)荒れ野で書かれたこの書の中で示されたことを私たちに見せることはまだできません。ヨブ記はまた、超自然の世界、つまり神と天使たちの世界が、自然の世界、つまり地球とそこに住む私たちと、いかに密接につながっているかも示しています。
最初の2章のあと、ヨブ記の大部分は、テレビ業界で「トーキング・ヘッズ」と呼ばれるもの(カメラに向かって話し続ける人たち)、つまり対話で構成されています。ここでの「トーキング・ヘッズ」は、ヨブと、人生の重大な問題(神学、苦悩、哲学、信仰、生、死)を話し合うためにやって来た男性たちです。
ヨブの身に起こったことを考えるなら、当然でしょう。生活のありふれた出来事、日々をただ生きることにとらわれ、何が重大で重要な問題であるかを忘れてしまうことは簡単です。私たち自身の災難であれ、だれかの災難であれ、災難ほど私たちを霊的無気力から揺すり起こし、重要な疑問を私たちに問いかけるものはほかにありません。
詩編119編65~72節を読んでください。この詩編記者は、自分を苦しめる試練によって生じた良い面を見ることができました。ときとして試練は、私たちを主に連れ戻したり、初めて主のもとへ導いたりする点において、確かに不幸中の幸いになりえます。人生が危機的状況に至り、そのときになって神に立ち帰ったり、初めて神に服従したりしたという人たちの物語を聞いたことのない人がいるでしょうか。いかに恐ろしく、悲劇的であっても、試練はときとして、私たちが長い時間をかけて理解できる良いことのために用いられることがあります。が、偶然で無意味に思えることもあります。
罪のない人がいつ滅びたのか
問1
ヨブ記2:11~13を読んでください。ヨブの友人たちが彼の状況をどう見ているかに関して、この箇所は何と述べていますか。
ヨブの身に起こったことを聞いて、この人たちは「相談し」(ヨブ2:11)ました。つまり、彼らは計画を立て、友に会うため一緒にやって来ました。先の聖句は、目にしたことに彼らが驚き、ヨブとともに「悲嘆のプロセス」に入ったことを伝えています。
先の聖句によれば、彼らは黙って座り、一言も発しませんでした。結局のところ、ヨブのような立場にある人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか。しかし、ヨブが最初に口を開いて不平を口にするや否や、この友人たちには言うべきことがたくさん出てきました。
ヨブ記4:1~11を読んでください。ここでのエリファズは、たぶん悲嘆カウンセリングに関する良書の導入部分で取り上げることができるでしょう。その最初の章は、「嘆き悲しんでいる人に言うべきでないこと」といったタイトルになるかもしれません。明らかにこの友人たちはヨブに同情していましたが、その同情は限定的なものでした。エリファズにとっては、神学的正しさのほうが基本的な慰めよりも重要だったようです。ヨブが体験していたようなことを体験している人のところにやって来て、要するに、「あなたは自業自得に違いない。なぜなら神は正しく、神に逆らう者だけがこのように苦しむのだから」などと言う人を想像するのは困難です。
たとえ、ヨブの場合がそうだと思った人がいたとして、それをヨブに告げることは、どんな役に立ったでしょうか。スピード違反の運転手が事故を起こし、彼の家族を全員失ったとしましょう。悲しみの中にいる彼のところへすぐに行って、「あなたがスピード違反をしたことで、神はあなたを罰しておられるのだ」と言う人を想像できますか。エリファズの言葉の問題点は、その疑わしい神学だけではありません。より大きな問題は、ヨブと、ヨブが体験していることに対するエリファズの無神経さです。
人と造り主
最初の数行に関して、エリファズが分別や同情心の賞を何か獲得することはまずないでしょう。要するに彼が言っていたのは、次のようなことでした。「物事がうまくいっているときに、ヨブが人々の光や慰めになることは簡単だ。しかし、今や災いがヨブの身に降りかかり、彼は『おびえている』(ヨブ4:5、新改訳)。だが、彼はおびえるべきではない。神は正しい方なのだから、私たちを襲う災いは当然の報いなのだ」
ヨブ記4:12~21を読んでください。イスラエルの民があらわれる前にもかかわらず、この友人たちがいかに真の神の御性質や御品性を理解していたのかということを含め、ここには考察すべき興味深いことがたくさんあります。確かにヨブ記全体が、族長たちやのちのイスラエルの人々以外の人たちも主について多少知っていたことを示しています。それどころか、エリファズはここで神の御品性を擁護しようとしています。
エリファズが「夜の幻」(ヨブ4:13)の中で聞いたことは、いろいろな意味で非常に健全な神学でした(詩編103:14、イザ64:7、ロマ3:19、20参照)。私たち人間は塵であり、はかないものであり、しみのように簡単につぶされます。そして言うまでもなく、いずれの人間が神より正しくありえるでしょうか。
一方で、エリファズの言葉は古臭く、的外れです。ヨブに関する問題は、ヨブが神よりも正しいかどうかではありませんでした。ヨブの不平は、そういうことではありませんでした。ヨブが語ったことの大部分は、彼がいかに惨めであり、いかに苦しんでいるかということについてであって、彼が神より正しいということではありませんでした。
しかしエリファズは、ヨブが言ったことをすべてこういった意味に読み取ったようです。結局のところ、もし神が正しい方なら、災いは悪人だけを襲うのであり、従ってヨブは、彼が今体験していることに見合う何かをしたに違いない。それゆえ、ヨブの不平は不当だ、といいます。エリファズは神を擁護したいと思い、ヨブに意見し始めます。エリファズは、自分が持っていると思っていた神について蓄えた知識だけでなく、それ以外のもの——彼の見解を支持する超自然的な啓示のようなもの——も持っていました。しかし唯一の問題は、彼の取った見解が的外れであったということです。
愚か者が根を張る
エリファズはヨブ記5章で彼の主張を続けます。それは、彼が前の章で言ったこととほとんど同じで、災いは悪人にだけ起こるというものです。その主張をヨブがどう感じたか、想像してみてください。彼は、そんな主張は正しいはずがなく、自分は現状のようになるいわれがないことを知っていました。
しかし、ここには問題が一つありました。エリファズがここで言っていることのすべてが間違っているわけではない、ということです。それどころか、このような考えの多くが聖書のほかの箇所で繰り返されています。
問2次の聖句は、ヨブ記5章であらわされている心情を、どのように反映していますか。詩編37:10、箴言26:2、ルカ1:52、Iコリント3:19、詩編34:7〔口語訳34:6〕、ヘブライ12:5、ホセア6:1、詩編33:19
判断を急ぐ
エリファズがヨブに語ったことの多くは、間違っていませんでした。彼は多くの正しい主張、のちに聖書の中で述べられた主張をしました。それにもかかわらず、ヨブに対する彼の返事にはひどくまずい点がありました。その問題とは、彼が言った内容ではなくて、それを言った状況でした(来週の研究を参照)。
私たちの世界は複雑な場所です。一つの状況を見て、それに当てはまると思う決まり文句や聖句をいくつか引用することは簡単です。しかしそれらはしばしば当てはまりません。私たちの身に起こることはいかに自ら招いているかについて、エレン・G・ホワイトは次のように述べています。「聖書に、行為は人格のあらわれであると教えられているが、これほどはっきりした真理はない。人生の経験の大部分は、われわれ自身の思想や行為が実を結んだものである」(『教育』164ページ)。
これは、意味深い重要な真理です。あなたは、ヨブのような状況にある人のところへ行って、その人にエレン・G・ホワイトの先の言葉を読み聞かせる善意の人というものを想像できるでしょうか。その善意の人は、次の勧告に従ったほうがどれほど良かったことでしょう。「多くの人は、キリストの優しい、偉大な愛を少しも表さずに、神の正義を示していると思っている。厳格、過酷に取り扱っている相手が、誘惑に苦しんでいることもよくある。サタンは、こういう人と戦っているのであって、荒々しい不親切な言葉によって彼らは失望し、誘惑する悪魔の力に負けて、その捕虜となってしまう」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』151ページ)。
実はエリファズや、ヨブを含むほかの人たちが考えていたことよりもはるかに多くのことが、ここでは起きていました。それゆえ、エリファズが判断を急いだことは、彼の神学がすべて正しかったのに、彼の行動は正しいとは言えませんでした。私たちがだれかを、とりわけ罪を犯したと思われる人を扱うとき、次の聖句を念頭にとどめておく必要があります(マタ7:1、2、ロマ2:1~3、Iコリ4:5)。
ヨブは全人類の象徴として存在しています。なぜなら、私たちはみな大争闘に巻き込まれており、その中で苦しんでいるからです。そして私たちはみな、ある時点で、小言ではなく、思いやりと同情を必要とします。確かに、意見されるべき時と場所もあります。しかし、ある人が人生を台なしにし、子どもを亡くし、体中を皮膚病で覆われ、山のような灰の上に座っているときは、ふさわしい時ではありません。
さらなる研究
すでに触れたように、エリファズはヨブに対する同情心を持っていなかったわけではありません。ただ彼の同情心が、神の御品性を擁護することよりも重要でなかっただけのことです。結局のところ、ヨブはひどく苦しんでおり、神は正しい方なのだから、ヨブは自分の身に起きていることに見合うことをしたに違いない、というわけです。神が正義であるというのはそういうことだと、エリファズは結論づけました。それゆえ、ヨブが不平を言うのは間違っているのでした。
言うまでもなく、神は正しい方です。しかし、だからと言って、この堕落した世界で起きるあらゆる状況の中に神の正義があらわされるのを私たちが目にするとは限りません。事実、そうではありません。正義と裁きはもたらされるでしょうが、必ずしもそれは今ではありません(黙20:12)。信仰によって生きるということの一部は、この世において欠けている正義がいつの日か啓示され、明らかにされると、神を信じることです。
私たちがエリファズに見るものは、イエスに対する一部の律法学者やファリサイ派の人々の態度の中にもあらわれています。この人たちは、「忠実」で信心深くありたいという願いにとらわれ、主が安息日になさったいやし(マタイ12章参照)に対する彼らの怒りのほうが、その病人がいやされ、苦しみから解放されたという喜びに勝ってしまいました。
次の聖句のキリストの言葉が、どれだけ特定のことに関するものであろうと、その原則は、神を愛し、神に熱い思いを抱いている私たちが常に覚えておく必要のあるものです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」(マタ23:23)。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。