希望の兆し【ヨブ記】#9 

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イギリスの随筆家ウィリアム・ハズリットは、こう書きました。「人間は、笑い、泣く、唯一の動物である。なぜなら人間は、物事の現状と物事のあるべき状態との違いに衝撃を受ける唯一の動物だからだ」

物事は確かに、あるべき状態にありません。しかし、再臨の約束を抱きつつ生きるクリスチャンには、希望があります。物事がどうなるかという大いなる希望です(IIペト3:13)。それは、現在の罪で曇った心ではほとんど想像できない(Iコリ13:12)ほどすばらしいものでしょう。これは、世俗の心がその狭量と偏狭の中で遠い昔に失ってしまった希望です。

私たちは今回、ヨブ記における苦しみの問題を研究し続けながら、ヨブが、身に降りかかった不公平で、理にかなわず、不当な悲劇のただ中にもあっても、希望の言葉を口にすることができたことを知るでしょう。その希望とは何だったのでしょうか。そしてその希望は、私たちも望みを置くことのできるどんなことを告げていますか。

偽りをもってうわべを繕う者

「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ/唇を閉じれば聡明だと思われる」(箴17:28)。

人間ヨブについて言いたいことを言うとしても、彼が悲しみの中で何もせずにただ座り、友人たちが投げつけてくることを静かに聞こうとしていた、とは言えません。それどころか、ヨブ記の大半は、真実と誤りの入り混じった言葉に対する彼の反撃で構成されています。すでに触れたように、この友人たちは気配りや同情をあまり示しませんでした。彼らは、ヨブに起こったことを正当化しながら神を擁護する主張をし、要するに、ヨブは自業自得であるか、もっとひどい目に遭っても仕方がないのだ、と言っていました。このような考え方はどれ一つ取ってもまったくひどいものでしたが、この3人(やほかの人たち)は全員ひどすぎたので、ヨブは言い返しました。

ヨブ記13:1~14を読んでください。ヨブ記2章で読んだように、この友人たちは、やって来てヨブを初めて見たとき、7日間、彼に何も話しかけませんでした。最終的に彼らの口から出てきた言葉を考えると、話しかけないことが最善の接し方だったのかもしれません。ヨブが考えたのは、まさにそういうことでした。

この友人たちは単に不正を語っているだけでなく、神について不正を語っている、とヨブが言っていることにも注目してください(ヨブ記の終わりに起こったことを踏まえると、これは興味深い点です〔ヨブ42:7参照〕)。確かに、間違ったことを何か言うよりは、黙っているほうが賢明でしょう(私たちの中に、それがいかに正しいかを体験したことのない人がいるでしょうか)。しかし、神について間違ったことを言うことのほうがはるかに悪いようです。言うまでもなく、皮肉なことにこの友人たちは、起こったことに関するヨブのひどい不平不満から神とその御品性を自分たちが擁護している、と実際に考えていました。ヨブは、こういったもろもろの出来事がなぜ彼を襲ったのかは理解できぬままでしたが、この友人たちの言っていることが彼らを「偽りをもってうわべを繕う者」(ヨブ13:4、口語訳)にしていることは、よくわかっていました。

神が私を殺したとしても

このシリーズの研究を始めたとき、私たちはまずヨブ記の結末を扱い、ヨブにとって事態が最終的にどう好転したのかを見ました。ひどい苦しみの中にあっても、ヨブが希望を持っていたのを、私たちは目にしました。実際、私たちは今に生き、この書全体と聖書の結末を知っているので、ヨブが想像しえた以上のずっと多くの希望を持っていることがわかります。

しかしヨブは、子どもたちが死んで、財産が奪われ、健康が損なわれたとき、事態がどう展開するのかを知りませんでした。彼が知っていたのは、人生が急に暗転してしまったということだけでした。

でもヨブは、生まれてこなければよかった、母親の胎から墓へ運ばれていればよかったと嘆きつつも、依然として希望を表しており、その希望はヨブを今ひどく不公正に扱っていると思っている同じ神の中にありました。

ヨブ記13:15を読んでください。「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望(む)」(新改訳)。なんと力強い信仰のあかしでしょう。

あらゆることが起こったので、ヨブは、最後のもの、彼の身に起こっていなかった死が恐らくやって来るだろうこと、しかも神がそれをもたらされるかもしれないことを知っていました。しかし、たとえそうなったとしても、ヨブは主をとにかく信頼しつつ死んだことでしょう。

「キリストの恵みの豊さを常に覚えておく必要がある。彼の愛が与える教訓を蓄えましょう。『たとえ神が私を殺しても、私は神を信頼する』と宣言できるよう、あなたの信仰をヨブの信仰のようにしましょう。天の御父の約束をしっかりつかみ、神がこれまでにあなたや神の僕たちをどう扱われたかを思い出しなさい。『神を愛する者たち……には、万事が益となるように共に働く』からです」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1910年10月20日号)。

人間的な観点からすれば、ヨブには何かを期待する理由がありませんでした。しかし実際のところ、ヨブは人間的な観点から見ていたのではありませんでした。もし人間的に見ていたなら、彼はどんな希望を持つことができたでしょうか。そうではなく、ヨブがこのような驚くべき信仰と希望のあかしをしたとき、彼は神を信頼することにおいてそうしたのです。

希望の兆し

「このわたしをこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか」(ヨブ13:16)。なんと興味深い聖句が昨日読んだ聖句のすぐあとに続いていることでしょう。たとえヨブが死なねばならないとしても、たとえ神が彼の命を奪われたとしても、ヨブは神の救いを信じているといいます。見方によっては、それは奇妙な対比であり、別の見方をすれば、完全につじつまが合っています。結局のところ、救いは死からの解放以外の何でしょうか。死は、少なくとも救われた者たちにとって、永遠の命へ復活する前の短い休息の時、一瞬の眠り以外の何でしょうか。永遠の命へ復活するというこの希望は、数千年間にわたって、すべての神の民の最大の希望ではないでしょうか。それは、ヨブの希望でもありました。

問1

Iコリント15:11~20を読んでください。ここで私たちに提示されている希望は何ですか。この希望がなければ、なぜ私たちにはまったく希望がないのですか。

さらにヨブは、先の力強い救いのあかしのあと、「神を無視する者なら/御前に出るはずはないではないか」と言っています。「神を無視する者」に相当するヘブライ語の「ハーネフ」の語根は、「冒」とか「不信心」を意味し、とても否定的な意味合いを持つ言葉です。ヨブは、彼の救いが神と神に対する忠実な服従に徹した生き方の中にしか見いだされないことを知っていました。それゆえ、悪い人や不信心な人、つまり「ハーネフ」には希望がありませんでした。たぶんヨブは、彼が「救いの確証」として理解することを表明していました。ヨブは罪のためのいけにえを忠実にささげましたが、彼がその意味をどの程度理解していたのかはわかりません。キリストの十字架以前、忠実に主に従うヨブのような者たちの大部分は、間違いなく、十字架以降に生きている私たちが理解しえるようには、救済について十分に理解できませんでした。それにもかかわらず、ヨブは、彼の救いが主の中にしか見いだされないこと、いけにえがその救いの見いだされる方法を表現したものであることは、十分にわかっていました。

この世が始まる前の希望

ヨブが体験したようなことを体験した人で、一体だれがこのような力強い希望の言葉を口にできるでしょうか。ヨブの言葉は、彼の信仰と服従の生活が本物であったことの永遠の証拠です。

ヨブが希望を持っていたのは、彼が希望の神に仕えていたからでした。聖書には、エデンにおけるアダムとエバの堕落から(創3章)、終末時代におけるバビロンの崩壊に至るまで(黙14:8)、人間の罪深さに関するさまざまな物語が収められていますが、それでも聖書は希望にあふれた書物です。この世が与えることのできないものに対する光景であふれています。

「世はキリストにまかされ、キリストを通して、神からのすべての祝福が堕落した人類に与えられた。キリストは受肉の後と同じように、受肉の前にもあがない主であられた。罪が生じると同時に、救い主がおられた」(『希望への光』771、772ページ、『各時代の希望』上巻257、258ページ)。私たちの希望の大いなる源である方以外に、一体だれが救い主でしょうか。

次の聖句は、今日の研究におけるエレン・G・ホワイトの言葉の中にあらわされているすばらしい希望を支持しています(エフェ1:4、テト1:2、IIテモ1:8、9、Iペト1:18~20)。これらの聖句は、神がその予知力によって、人間が罪に堕ちるであろうことを天地創造の前から知っておられたという驚くべき真理を教えています。原語のギリシア語だとIIテモテ1:9は、私たちは「永遠の昔に」キリスト・イエスにおいて与えられた恵みによって呼び出されたとあります。

これは、「わたしたちの行い」に対して与えられた恵みではなく(私たちが存在していないときに、「わたしたちの行い」でありえるでしょうか)、イエスによって与えられた恵みです。私たちが存在する前だというのに、神は永遠の命という希望を人類に与える計画を立てられました。その希望は、私たちがそれを必要としてから生じたのではありません。そうではなく、私たちがそれを必要としたときにはすでにあり、私たちのために準備されていました。

私たちクリスチャンには、期待するもの、望みを置くものがたくさんあります。私たちは神によって創造された世界に存在しており、その神は、私たちを愛しておられる神(ヨハ3:16)、私たちを贖われた神(テト2:14)、私たちの祈りを聞かれる神(マタ6:6)、私たちのために執り成しをなさる神(ヘブ7:25)、私たちを決して置き去りにしないと約束しておられる神(ヘブ13:5)、私たちのしかばねを死から立ち上がらせ(イザ26:19)、一緒に永遠に生きる命を私たちに与えると約束しておられる神です(ヨハ14:2、3)。

希望の例

問2

次の聖句を読んでください。それぞれの聖句は、どんな希望を明らかにしていますか。創世記3:15、創世記22:8、レビ記17:11、ヨハネ1:29、ガラテヤ2:16、フィリピ1:6、Iコリント10:13、ダニエル7:22、ダニエル12:1、2、マタイ24:27、ダニエル2:44

さらなる研究

最初から最後まで、聖書はすばらしい希望の言葉であふれています。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ16:33)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)。「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(詩編103:12)。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8:38、39)。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(創9:16)。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」(Iヨハ3:1)。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)。

これらの聖句は、私たちの神がどのような方であり、どのようなものを私たちに与えられるかということについて、御言葉の中に明らかにされていることのほんの一部です。もし希望が聖書に明らかにされていることに基づかないとしたら、私たちにはその希望に対するどんな根拠があるでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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