嵐の中から【ヨブ記】#11 

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ヨブ記の登場人物の違いが何であれ、彼らには一つの共通点がありました。それは、各自が神について、つまり神に対する彼らの理解について、言いたいことをたくさん持っていたという点です。そしてすでに触れたように、彼らが言ったことの多くに私たちは同意できます。結局のところ、だれが次の〔ヨブやビルダドの〕言葉に反論できるでしょうか。「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを」(ヨブ12:7~10)。あるいは、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(同8:3)といった言葉はどうでしょう。

ヨブ記の主題はヨブの苦しみですが、議論のおもな焦点は神です。しかし最初の2章を除けば、物語が進む中で、神は背景にお隠れになったままでした。

しかし、すべてが変わろうとしています。ヨブ記における多くの議論と論争の焦点である神御自身が、今や御自分のために話されます。

嵐の中から

ヨブ記38:1を読んでください。突然、しかも思いがけず、主が今やヨブ記の中に登場されます。その登場は、ヨブ記2:6で、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と主がサタンに言われて以降、初めてのことです。

神のこの突然の登場に、読者は何の心の準備もできていません。ヨブ記37章はエリフの話で終わっており、気がつけば、「主(が)嵐の中からヨブに答えて仰せになった」(ヨブ38:1)からです。あたかもほかの人たちは無関係であるかのように、一瞬にして神とヨブだけです。少なくとも今は……。

「嵐」と訳されているヘブライ語は、「つむじ風」「暴風」などを意味し、神が人間の前に登場されることと関連づけて用いられてきました(イザ29:6、ゼカ9:14参照)。この言葉は、エリヤが天に上げられる場面でも用いられています。「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た」(王下2:1)。

この「神の顕現」(神が視覚的に人間の前に姿をあらわすこと)について、物理的なことは何も述べられていませんが、神がヨブに「静かにささやく声」(王上19:12)で話しかけておられないことは明らかです。そうではなく、主は御自身を、ヨブの注意を確実に引くような非常に効果的な形であらわされました。

言うまでもなく、神が罪深い人間の前に御自身をあらわされたのは、これが唯一の機会だったというわけではありません。聖書は、人間に対する神の親密さを繰り返し示しています。

次の聖句は、神がどれほど私たちに近づきうるのかということについての真理を教えています(創15:1~6、32:24~32、ヨハ1:29)。

聖書は偉大で重要な真理——私たちの神は、この世を創造してから私たちを放置された神、遠く離れた神ではないという真理——を教えています。それどころか、私たちの神は、私たちと親しく交わられる神です。私たちの悲しみ、悩みが何であれ、あるいは、私たちがこの人生で何に直面していようと、私たちは、神が近くにおられ、私たちが神を信頼できるという確信を持てます。

神の質問

ヨブにとって長い沈黙と思われたに違いない時間のあと、神は遂に彼に語りかけられます。しかし、神が最初に言われたことは、ヨブが聞きたかったことではなかったかもしれません。神がヨブにお尋ねになった最初の質問は、どのようなものでしたか(ヨブ38:2)。

聖書の至る所で、神は人間に質問をしておられます。それは、神がその答えをご存じでないからではありません。そうではなく、神がお尋ねになるのは、良い教師がしばしば質問をするように、私たちが自分の状況について考え、自分自身を見つめ、問題に取り組み、適正な結論を出すうえで、そうすることが効果的な方法だからです。ですから、神がお尋ねになる質問は、神がご存じでない何かを神に教えるためのものではありません。むしろ、人間がよりよい理解のために必要なことを学べるように、それらの質問はしばしば問われます。神の質問は、人間に真理を伝える助けとなる修辞的技法です。

問1

神からの次の質問を読んでください。これらの質問をお尋ねになった神の目的は、何であったと思いますか。神は何を言おうとしておられたのですか。創世記3:11、創世記4:9、列王記上19:9、使徒言行録9:4、マタイ16:13

ヨブは神について言いたいことがたくさんありましたが、主はヨブに、実際のところ、彼が創造主について知らないこと、理解できないことがたくさんあるという事実を知ってほしい、と明らかに望まれました。ヨブに対する神の最初の質問は、多くの点で、友人たちがヨブに語った言葉のいくつかと似ています(ヨブ8:1、2、11:1~3、15:1~3参照)。

創造主としての主

ヨブ記38:4~41を読んでください。神はヨブのために質問をされました。もしヨブが、なぜこういった災難が自分の身に降りかかったのかということに関する詳しい説明を期待していたなら、彼はそれを得ることができませんでした。彼がその代わりに受けたのは、主の創造力と、ヨブのはかなさと無知を対比した一連の〔答えを必要としない〕修辞疑問でした。

「わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか」(ヨブ38:4)と、主は問いを始めました。大地、海、光、闇の起源など、創世記の最も初期の場面のあと、神はヨブに、「そのときお前は既に生まれていて/人生の日数も多いと言うのなら/これらのことを知っているはずだ」(同38:21)と問われました。

次に主は、大地の創造だけでなく、気候や天体の神秘も含んだ一連の修辞疑問を用いて、天地創造の不思議な業や神秘を指摘なさいました。「すばるの鎖を引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか」(ヨブ38:31)。

更に主は、ヨブの目を再び地球へ、人間の知恵から生まれるあらゆるものへ(同38:36)、また(同39章全体を通じて、さらに詳しく扱われている主題)野生動物の命へ(同38:39~41)向け直されます。ヨブ記が今日書かれたとしたなら、主は、「だれが陽子や中性子の中のクォーク*を結合させるのか」「私がプランク質量**を初めて量ったとき、お前はどこにいたのか」「重力が時空をゆがめるのは、お前の知恵によるのか」などとお尋ねになったかもしれません。

こういったあらゆる質問に対する答えは、「もちろん、いいえ」です。ヨブは、これらの出来事が起きたいずれの場所にもいませんでしたし、主が言及されたいずれの現象についても、ほとんど知識がありませんでした。神の真意は、ヨブのあらゆる知恵と知識をもってしても、またヨブが、その場にいたほかの人たちと比べて、神について「正しく」(ヨブ42:7)語ったとしても、彼の知っていることはごくわずかであることを彼らに示すことでした。そしてヨブの知識の乏しさは、彼が被造世界についていかに無知であるかということによって最もよく明らかにされたのでした。

もしヨブが被造物についてごくわずかしか知らないのなら、彼は創造主についてどれほど理解できるでしょうか。創造主と被造物、神と人間との、なんと説得力のある対比でしょう。神は御自分をヨブと対比なさいましたが、(イエスを除いて)そのほかのいかなる人間も対比されるには十分でありませんでした。神と比較したら、一体私たちは何者でしょうか。それにもかかわらず、この神が私たちを救い、神との永遠の交わりという希望を与えるために成し遂げられたことに、目を向けてください。

*物質の基礎単位であると考えられている理論上の粒子。

**量子重力理論における基本的な質量。

賢者の知恵

今日の私たちの観点からすれば、神がヨブに問われた質問を考えてみて、数千年前に生きていたヨブのような人が、被造世界についていかにわずかしか理解できなかったかを実感することは容易です。例えば、(今や私たちのほとんどが当然だと思っている)天空の太陽の動きが地球の自転の結果であることを人類(少なくとも、その一部)がよくやく理解したのは、西暦1500年代になってからのことでした。

おもに現代科学のおかげで、私たちは、聖書の時代の人々がとうてい理解できなかった自然界に関する知識を持ちつつ今を生きています。しかし、私たちが獲得したこのようなすべての知識をもってしても、人間は自然界とその起源について非常に限られたことしか、いまだに理解できません。

問2

ヨブ記38章と39章で神がヨブにお尋ねになった質問を読み直してください。現代人はこれらの質問に、どれくらいよりよい答えを返せるでしょうか。

隠されていた現実の様相を科学が明らかにしてきたことは、疑いの余地がありません。しかし、私たちが学ぶべきことは、依然としてたくさん残っています。科学は、いろいろな意味で、神の被造物のすばらしさや神秘を取り除くどころか、一層それを魅力あるものとし、これまでの世代が知らなかった自然界の深遠さや複雑さを明らかにしてきました。

「『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表されたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属』する(申命記29:29)。神が、どんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻32ページ)。

塵と灰の上での悔い改め

ヨブ記40:1~4、42:1~6を読んでください。神が御自分をあらわされ示されたことによって、ヨブは圧倒されました。実際、ヨブ記42:3で、「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは」と彼は言っていますが、それは神の最初の質問の繰り返しにすぎません。今やヨブは答えがわかったのです。彼が本当にわからないと語っていたのは、彼自身だったのだ、と。

彼がヨブ記42:5で言っていることにも注目してください。ヨブは神について聞いていただけでしたが、今や神を見た(つまり、神についてよくわかるようになった)ので、自分自身をあるがままに見ています。それゆえ、彼は自分を嫌悪し、塵と灰の上で悔い改めるという反応を示したのです。

イザヤ6:1~5、ルカ5:1~8を読んでください。ここに描かれている反応は、ヨブの反応と似ています。いずれの場合にも見られるものは、聖書の極めて重要な真理、つまり人間の罪深さのあらわれです。ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてい」(ヨブ1:1)ました。そして、ヨブを神に逆わせようとするサタンの非常に巧妙な試みにもかかわらず、彼はずっと神に忠実であり続けました。私たちがここに見いだすのは、主を固く信じる者です。

それにもかかわらず、なぜでしょうか。イザヤやペトロと同様、神の聖さと力を垣間見ることは、ヨブが彼自身を罪深く小さいと感じ、縮み上がるのに十分でした。それは、私たちがみな、本質的に神と対立してしまう堕落した存在、罪によって傷ついた存在だからです。それゆえ、結局のところ、だれも自分自身を救えませんし、だれも神の前に好意を得るに値する十分な良い業を行うことができません。ですから、私たちはみな——ヨブのように無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けている「最も善良な」人でさえ——、恵みを必要とし、救い主を必要とし、私たちが自力でできないことを私たちのためにしてくれるだれかを必要としています。ありがたいことに、私たちはそれらすべてを、それ以上のものを、イエスのうちに持っています。

さらなる研究

「神は、科学と芸術の両方面において、世界にあふれる光をお注ぎになった。しかし、科学者と自称する人々がこうした問題を、単に人間的観点だけによって処理しようとするならば、必ず誤った結論を下すに決まっている。もし、われわれの説が、聖書の事実と矛盾しないならば、神の言葉の啓示を越えて推論しても害はないであろう。しかし、神の言葉をさしおいて、科学的原則によって神の創造のわざを説明しようとする者は、未知の大海を海図も羅針盤もなくただようようなものである。もし、神の言葉の指導なしに研究するならば、どんな偉大な頭脳の持ち主でも、科学と啓示の関係を追及するのにとまどうことであろう。創造主と神のわざは、彼らの理解力をはるかに超えていて、彼らは、それを自然の法則によって説明することはできない。それで、彼らは、聖書の歴史は信頼できないと考える。旧新約聖書の記事の信頼性を疑う者は、さらに一歩進んで、神の存在を疑うようになる。こうして、彼らは、いかりを失った船のように、不信の暗礁にのり上げる」(『希望への光』24、25ページ、『人類のあけぼの』上巻32、33ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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