

この記事はこんな人におすすめ!
・最後の晩餐の物語を知りたい人
・イエスの十字架や復活の意味を深く知りたい人
・「贖罪」や「贖い」といったキリスト教の教えを学びたい人
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十字架やイエスの復活、最後の晩餐の解説を通じて、贖いの意味と聖書の教えをこの記事では見ていきます!
十字架とは何か?
古代ローマの恐るべき磔刑|十字架刑とは?
十字架刑は、古代において最も恥辱的で残虐な処刑方法でした。この刑罰は、当初は反乱した奴隷に限って用いられ、その後、重罪人にも適用されるようになりました。
受刑者は裸にされ――当時のユダヤ人にとっては最も恥ずべきこと――、男性は公衆に向けて、女性は後ろ向きにかけられました。その際に、短い梁に縄で縛られて固定されることもありましたが、手足を釘で打ち付けられて固定されることもありました。
自らの体重によって、受刑者の身体は下へとずり落ちていき、やがて呼吸が苦しくなるため、身体を自力で支えなければいけませんでした。
十字架には足を支える台がありましたが、これは早く死んでしまうのを防ぐためで、やがて体力が尽きて、最終的には窒息死もしくは脱水症状で命を落とすことになります。
その間、筋肉のけいれん、飢餓、脱水、窒息、出血多量、また傷におびき寄せられた虫や鳥に食われるといったことに苦しめられることになります。
受刑者は、早くて数時間、長ければ数日間も生き延びることがありました。


イエスが受けた鞭打ち刑とは?
聖書によると、イエスは十字架刑に処せられる前に、鞭打ちを受けたとあります。この死刑囚を処刑する前に、鞭打ちをする習慣は、ローマ帝国から来たものです。
ユダヤの法律の中では、この鞭打ちの数を39回と定めます。これは彼らが40回目が致命傷になることを恐れたためでした。また、ユダヤ人たちが使用した鞭は、3本あるいは4本のシンプルな鞭でしたが、ローマ帝国はさらに残忍な鞭を使用しました。
ローマ帝国が使用した鞭には、鉛玉あるいは羊の歯が植え付けてあって、打つごとに皮膚が引き裂かれていきました。


キリストの十字架刑はなぜ起きたのか?歴史と宗教の背景
キリストは紀元前4年にベツレヘムで誕生したと考えられ、30歳になる紀元27年に宣教活動を開始。宣教活動中にさまざまな教えを説き、奇跡を行い、十二弟子を任命したりしました。
また、戒律主義的になっていた当時のユダヤ教の指導者を痛烈に批判します。この姿勢に加え、民衆からの人気があったために、指導者たちはキリストを妬むようになりました。
最後には、十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダに裏切られ、不当な裁判にかけられ、無実でありながら、十字架で処刑されてしまいます。
なぜ、キリストは宗教指導者たちに憎まれたのか?
権威への挑戦
キリストは宗教指導者たちの偽善を公然と非難し、神殿での商売を排除するなど、彼らの宗教的・経済的権威を直接揺るがす行動をとりました。これにより、彼らは彼を危険視するようになりました。
モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。ところが、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。
ヨハネによる福音書7章19節
民衆の人気
キリストは権威ある教えと数々の奇跡によって多くの人々から信頼と期待を集めました。その人気は宗教指導者たちの影響力を脅かし、彼らの嫉妬と反発を招きました。
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうしてよいか分からなかった。民衆が皆、イエスの話に熱心に聞き入っていたからである。
ルカによる福音書19章48 節
自らを「神」と主張した
キリストは自らを「神」と称し、「罪の赦し」を宣言されました。これは宗教指導者たちにとって、神への冒涜にあたるとされ、死刑の口実となりました。
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。……ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
ヨハネによる福音書10章31,33節


ピラトの判断と政治的背景|ユダヤ教とローマ帝国の緊張関係
福音書の記録では、キリストの裁判の裁判を取り仕切った総督ピラトは、無罪を確信していました。
しかし、民衆の声に押され、ピラトは十字架にかけることを決断してしまうのでした。
ピラトは三度目に言った。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。だから、懲らしめたうえで、釈放することにしよう。」
ルカによる福音書23章22ー23節
ところが、人々は、イエスを十字架につけるように大声で叫んでやまなかった。そしてついに、その声がまさった。
この判断は、ピラトの政治的な立場に起因するものであったと考えられています。
ピラトはその任期の初めに祭司階級やエルサレムの住民をひどく怒らせており、これ以上の問題を避けたいと考えていた可能性があります。事実、数年後、彼のさらなる行動が苦情を引き起こし、ユダヤから召還されることとなりました。
最後の晩餐からゴルゴタの十字架へ
【図解】キリストの受難の物語
キリストは過越の祭を前に、子ろばに乗ってエルサレムに入城します(マタイによる福音書21章1ー11節)。
多くの群衆が「ホサナ、ダビデの子に!」と叫び、道に衣や木の枝を敷いて歓喜しました。


夕べになるとキリストは十二弟子とともに、過ぎ越しの祭りの食事をされます。これが有名な「最後の晩餐」です。
食事の中でキリストは、自らの体と血を象徴するパンとぶどう酒を与え、十字架の意味を伝え、聖餐式を制定しました(マタイによる福音書26章26ー28節)。また、この席で一人の弟子が裏切ることを予告し、ユダが退席します(ヨハネによる福音書13章21ー30節)。
過ぎ越しの祭り・聖餐式とは?
過ぎ越しの祭りは、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した出来事を記念するものです。小羊の血によって死の災いが「過ぎ越された」ことに由来します。
この過ぎ越しの祭りに置き換わった儀式が、聖餐式です。
聖餐式はキリストを信じる信仰の表明であり、キリストの十字架を記念して行われ、賛美歌やお祈りをし、クラッカーのようなパンを食べ、ぶどうジュースを飲む儀式です。
最後の晩餐後、キリストは弟子たちと共にオリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園へ行き、激しい苦悶の祈りをささげます(ルカによる福音書22章39ー46節)。
やがて、そこにユダが兵士を伴って現れ、キリストに口づけをして裏切りの合図とします。これにより、キリストはその場で逮捕されます(ルカによる福音書22章47ー53節)。


逮捕されたキリストはまず大祭司カイアファのもとへ連行され、偽証に基づいて神を冒瀆したとされ、死刑が決定されます(マタイによる福音書26章57ー68節)。その後、総督ピラトのもとに送られ、民衆の要求によりバラバが釈放され、キリストは十字架刑を宣告されます(マタイによる福音書27章11ー26節)。
ほとんどの弟子たちは、キリストの逮捕時に逃げ出していきましたが、一部の弟子たちは裁判に立ち会うために戻ってきました。
その中の一人であるペトロは、周囲にいた人々に「この人もキリストの弟子である」と言われたために、三度「そんな人は知らない」と否定し、キリストを裏切ってしまいました。
知られざるバラバの名前
当時のユダヤでは、過越祭(すぎこしのまつり)というユダヤ人の大切な祝祭の時期に、ローマの総督が特別に囚人を一人、民衆の希望に従って釈放するという慣例がありました。
そのときローマの総督ピラトは、「キリスト(救い主)」と呼ばれていたイエスか、それとも「バラバ」という囚人か、どちらを釈放すべきかを人々に尋ねました。
おそらくこのバラバは、政治的な動機から反乱やテロ行為を行っていた人物ではないかと考えられています。
この「バラバ」は、最新の日本語訳である聖書協会共同訳では、「バラバ・イエス」と書かれています。「イエス」という名前はありふれた名前で、この時に人々の前には二人のイエスがいたのでした。
罪からの救いをもたらす救い主であるイエスと、政治的な救いをもたらすと主張していたイエスのどちらが良いのか。そのように、総督は人々に問いかけ、人々はバラバの解放を望んだのでした。


キリストはゴルゴタ(されこうべの場所)へ連行され、十字架につけられます。
最後にはキリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取りました(マタイによる福音書27章45ー50節)。
死後、キリストの遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られます。しかし三日目の朝、墓は空になっており、キリストは復活されたと天使が語るのです(マタイによる福音書28章1ー7節)。
そして、このキリストの復活はキリスト教の信仰の中心となるのでした。
最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。……キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります。
ゴルゴタの丘はどこにあった?
ゴルゴタは「どくろ」を意味し、イエスが十字架につけられた場所とされていますが、正確な位置は今も明らかになっていません。
福音書によると、その場所は目立つ場所(マルコによる福音書15章40節、ルカによる福音書23章49節)であり、町の城壁の外(ヨハネによる福音書19章20節、ヘブライ人への手紙13章11ー13節)、そして園の近く(ヨハネによる福音書19章41節)にあったことがわかります。
伝統的には、現在の聖墳墓教会の場所がその地とされていますが、決定的な証拠は見つかっていません。
一方で、ダマスカス門の北東約230メートルにある「ゴードンのカルバリ」と呼ばれる岩山は、頭蓋骨のような形をしており、近くにはローマ時代の墓「墓の園」があることから、有力な候補の一つとされています。
イエス・キリストの復活は事実なのか?
歴史に実在したイエス・キリストとは?
イエス・キリストは本当に実在した人物なのでしょうか?
有名な古代ローマの歴史家コルネリウス・タキトゥスの主著『年代記』には、ローマの大火の責任を皇帝ネロがクリスチャンに負わせたことが記録されており、その中でキリスト(クリストゥス)への言及があります。
ネロは、この風評をもみけそうとして、身代りの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌わしい行為で世人から恨み憎まれ、『クリストゥス信奉者』と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この禍悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされる都においてすら、猖獗をきわめていたのである。
このタキトゥスの記録では、キリストの存在、ピラトによる死刑宣告、そしてキリストの死がティベリウスの治世(紀元14―37在位)の間であったことが明らかにされています。
この文献は、聖書以外のイエス・キリストが実在した記録です。ローマ帝国がキリスト教の影響力を恐れ、救い主であるキリストの復活とそのメッセージを迷信であると否定していたことがここからわかります。
またイエスの弟子たちが活動していたのと同じ時代に生きた、古代ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフス(紀元37〜100年)は、次のように述べています。
さて、このころイエスという賢者がいた。彼は素晴らしい行為を成す人で、喜んで真理を受け入れる人々の教師であった。彼は多くのユダヤ人と異邦人を引き寄せた。我々の指導者たちの示唆に基づいてピラトが十字架刑を彼に宣告したとき、彼をはじめから愛していた人たちは彼を捨てなかった。そして彼の名をもって名付けられたキリスト教徒は、今日も現存している。
この部分は「フラウィウス証言」と呼ばれています。一部に後からキリスト教徒によって書き加えられた可能性があると言われていますが、ここではヨセフス本人の記述と考えられている部分のみを紹介しました。


復活を信じる理由――弟子たちの証言と歴史資料
小プリニウスは、コルネリウス・タキトゥスと同時代に生きた有名な古代ローマの歴史家です。
紀元111年秋頃に小プリニウスは、当時のローマ皇帝トラヤヌスに送った公的な書簡の中で、クリスチャンに対する裁判について助言を求めています。彼はクリスチャンへの取り調べを次のように報告し、その教えの広まりを警戒しています。
彼らはもし自分たちに犯した罪か過ちがあるとすれば、次のようなことが全てであったと断言しました。自分たちは、定例日にいつも、夜明け前に集合し、クリストゥスに対し、あたかも神の如く皆で聖歌を交誦し、自分らをこの神との制約で縛っていました。………拈くれて常軌を逸した俗信であるという以外に、何も見つけられなかったのです。……そして、町のみならず、村や農耕地にまで、この俗信の伝染病が拡がっています
ローマ帝国がキリスト教の影響力を恐れ、救い主であるキリストの復活とそのメッセージを迷信であると否定しようとしていたことがわかります。
同じくユダヤの指導者たちもキリストの復活を否定しようとしました。マタイによる福音書28章12―15節では、弟子たちが死体を盗んだと吹聴したことが、「今日に至るまでユダヤ人の間に広まってる」と記されています。
これは後世のラビ文献にも記されているものですが、興味深いことに空の墓が事実であることを前提に話が進んでいるのです。
当時、弟子たちが死体を持ち出さないように、墓は警備されていて、警備の失敗は死につながりました。一説には100名が配備されたとされています。
墓荒らしも重罪で死刑になる可能性もあったため、命がけです。福音書は赤裸々に、キリストが捕えられる時に、弟子たちが逃げ出したことを記録しています。そんな彼らはキリストの死後、失意の底へと突き落とされます。
そのような弟子たちが墓荒らしという大胆な行動を本当に起こせたのでしょうか。
キリストの実在、十字架での死の記録、空になった墓の事実。これらから浮かび上がるのは、復活の可能性です。
懐疑的な歴史学者でさえ、原始キリスト教にとって、……イエスの死からの復活は、歴史上の現実の出来事であり、信仰のまさに基礎であって、信者の創造的な空想から生じた神話めいた考えではないことに同意しています。


現代を生きる私たちにとっての十字架の意味
キリストの十字架での犠牲は、罪を犯したわたしたちと神を和解させるものです。
これを「福音」と言い、別の表現では「贖罪」とも言います。
グットニュースという意味がある、「福音」はキリストによって神と人の関係が和解し、回復することを意味し、そのためにキリストは死なれました。
このことを「贖罪」と言い、英語の「at-one-ment(贖罪)」は「一致してる関係(和解)」を意味する言葉です。
1526年、ティンダルが新約聖書を英訳していた時には、まだ「和解」を意味する言葉がなかったために発案されました。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
ローマの信徒への手紙5章10節
著者|高橋 徹
1996年、横浜生まれ。三育学院カレッジ神学科卒業後、セブンスデー・アドベンチスト教団メディアセンターに勤務。
- セブンスデー・アドベンチスト教団牧師
- 光風台三育小学校チャプレン・聖書科講師、三育学院中等教育学校聖書科講師
- 著書『天界のリベリオン』
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参考文献
Siegfried H. Horn, The Seventh-Day Adventist Bible Dictionary (Review and Herald Publishing Association, 1979).
Francis D. Nichol, ed., The Seventh-Day Adventist Bible Commentary, vol. 5 (Review and Herald Publishing Association, 1980).
Craig S. Keener, The IVP Bible Background Commentary: New Testament, Second Edition (Downers Grove, IL: IVP Academic: An Imprint of InterVarsity Press, 2014).
Habermas, G. R. (1996). The historical Jesus: ancient evidence for the life of Christ. Joplin, MO: College Press Publishing Company.
ダニエル=ロプス『イエス時代の日常生活Ⅱ』山本書店、39ー40ページ
ロン・E・Mクルーゼ(ミラー・ジョエル訳)『神学博士が伝えたい神のことば。』福音社
プリニウス(國原吉之助訳)『プリニウス書簡集』講談社
エレン・ホワイト『各時代の希望 下巻』「第80章 ヨセフの墓の中に」福音社