あなたの怒るのは良いことであろうか。
4:3それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 4:4主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。 4:5そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。ヨナ4:1―5(口語訳)
4節の言葉は、「あなたに怒る資格はあるのか」とも訳すことができ、ヨナの問題を鋭く指摘しています。ヨナ自身、神のあわれみによって救われたことを忘れていたのです(ヨナ1:17)。
小屋を建てる
この恩知らずで自分勝手なヨナが事の顛末を見届けるために、ニネベの近くに小屋を建てることを、神は許されます。
さて、年に一度、小屋をつくって仮庵の祭りを祝う習慣がイスラエル人にはありました。
これは出エジプトの後の荒野における放浪を記念するもので、神に導かれていることを感謝する祭りでした(レビ23:43)。
この祭りによってイスラエル人の歴史が、究極的には罪の赦しである贖いの上に立っているという事実を、彼らは確認するのでした。
小屋を建てたときに、仮庵の祭りを思い出し、霊的にも肉体的にも死んでいったところから救われた嵐の経験をふり返る機会がヨナにはありましたが、怒りのあまり忘れていってしまいます。
そして、彼は「町のなりゆきを見きわめようと」するのです(ヨナ4:5)。
とがめない神
神はこのヨナの行動をとがめません。むしろ続く6節からを見てみると、神はヨナに対して神の判断の正当性を理解させようと働きかけるのです。
このような神の行動はソドムとゴモラを滅ぼすときにも見られました(創世記18:17-21)。神はアブラハムにソドムとゴモラを滅ぼすことを告げ、その判断が正しいかどうかを明らかにするために調査されます(創世記18:21)。
このような段階を踏まずに滅ぼすこともできましたが、あえて神はこの段階を踏まれるのです。その理由はアブラハムとの関係でした。
もし、アブラハムに告げずに実行していたならば、神への不信が彼を襲ったことでしょう。それを防ぐために、神はアブラハムのところへ行くのです。
このヨナの話でも、同じ動きが見られます。ヨナの神への不信を消し去るために、ヨナが納得できるまで、神の判断の正当性を考えられるように、ヨナがニネベに留まることを許されました。
まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。アモス3:7(口語訳)
神はわたしたちに説明責任を果たしてくださるお方なのです。ここに、神の愛があらわれているのです。