
消すことのできない罪悪感
ひと昔前、日本においてマスターベーションは望ましくないものと否定されてきました。
しかし、近年は食事によって食欲を満たし、睡眠によって睡眠欲を満たすように、性欲を満たす適切な方法としてマスターベーションを受け入れるように変化しています[1]。
ところが、マスターベーションの頻度と罪悪感を調べた調査では、週に1回以上している男性の41%が罪悪感を感じているのが明らかになりました[2]。
つまり、どれだけ肯定的な理由をつけようとも、感じている罪悪感を消し去ることができていないのです。
今、このページにたどり着いたあなたも同じかもしれません。

ポルノを見るときに何が起こっているのか
性的快楽には大きく分けて、「タブー破り型」と「積み重ね型」があります。
社会的に、また倫理的にタブーとされているルールを破ったり、隠されているものをのぞき見たりすることは、それ自体が大きな快楽となっていくのです。これが「タブー破り型」です。
ポルノはこの「タブー破り型」の快楽を提供していきます。加えて、クーリッジ効果によってより依存が深まるとも言われているのです。
クーリッジ効果とは「相手が変わることで不応期(交尾終了後、ふたたび交尾可能になるまでの時間)が短縮される」ことです[3]。
さらにドーパミンが強制的に出るため、だんだんとドーパミンの出が悪くなり、さらに強い刺激でないと興奮しづらくなってしまいます[4]。
「タブー破り型」の快楽の欠点は、長続きしないことです。タブーを破った瞬間の快楽は強烈ですが、時間が経つにつれて、得られる快楽は低下の一途をたどります[5]。
つまり、ポルノが与えてくれる快楽は強烈ですが、飲んでも飲んでも喉が渇いている状態とも言えるでしょう。
そうして、相手を変え、刺激を強くして、満たそうとしていきますが、最終的に得られる快楽は低下していくのです。

同じような状態に陥っていた女性が福音書の中にも登場します。
彼女は、5人の男性と結婚関係にありましたが、すべて上手くいかず、6人目の男性と関係を持っているときに、キリストに出会うのです。
キリストは彼女に井戸の水を指して、彼女が手にしようとしているものが飲んでもまた乾く水のようだと言いました。
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。ヨハネ4:13ー14(口語訳)
そして、彼女はそれを聞くと、キリストに乾くことのない水を求めていきます(ヨハネ4:6ー26)。
「タブー破り型」の快楽は、まさにいつまでも乾く水です。では、その対極にある「積み重ね型」の快楽はどうでしょうか。
満たされるセックス?
2つ目のタイプは、「積み重ね型」の快楽です。
これは、特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽です。
初対面の見知らぬ相手といきなりセックスするよりも、一定の期間交際を続けている、相互的な信頼関係を築いた相手とセックスをする方が、心身共に満たされるのは、この「積み重ね型」の快楽を享受できるからです[6]。
「タブー破り型」の快楽が、それが画面越しであったとしても相手を変えていき、違う言い方をするなら相手を消費して達成されるものだとすると、「積み重ね型」の快楽は特定の1人の相手と関係を育んで得られるものです。
興味深いことに聖書はセックスのことを「知る」とか「慰め」と表現しています。
「知る」という表現も「慰め」という表現も、いずれも本質的にはどちらも「深いコミュニケーション」を指しています(創世記4:1、サムエル下(2サムエル)12:24、創世記24:67)。
聖書はセックスを単なる欲求の消化のためのものとは考えていません。そこには「深い関係のコミュニケーション」があるのです[7]。そして、これは一般的にも認められていることでもあります。
セックスの目的は、お互いが身体的・精神的に気持ちよくなることを通して、相手を性的に認め合い、信頼関係を深め合うことにあります。一言で言えば、「絆をつくること」です[8]。
聖書の中の人々はスーパーマン?

さて、聖書の中の人々はこの問題を気にしていないかのように、わたしたちの目には映ります。
聖書の中の人々はスーパーマンなのでしょうか。すべての人々が誘惑に雄々しく戦って勝っていったのでしょうか。
この問題を考えるときに、聖書の時代と現代では、状況があまりにも異なり過ぎることを念頭に置く必要があります。
200年前、思春期は17ー18歳にようやく訪れ、ほとんどの青年は20歳には結婚をしていました[9]。
古代イスラエルは早婚で、多くのラビは男性なら18歳、女性なら12歳半が結婚の適齢であると考えていたのです。
最も寛容な教師でも、24歳までに結婚を勧めていて、最も厳格な教師は「20歳になってまだ結婚しない人を呪いたもう」とさえ断言していました[10]。
つまり、思春期になってから、結婚し、セックスを体験するまでの期間が短かったのです。だからこそ、この問題に対する解決として結婚が、パウロの口から出てくることは自然なこととも言えるのかもしれません。
不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。1コリント7:2(口語訳)
これはもしかすると、今のわたしたちの価値観ではすぐに受け入れられない提案かもしれません。
結婚はそんな理由でするものではないとか、そもそもそんな簡単に結婚できないとか、さまざまな思いが湧いてきそうです。
そんなわたしたちに追い討ちをかけるように、パウロは次のような提案もしています。
もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。1コリント7:36(口語訳)
この聖句には2つの読み方が原語的にあり、「女性が適齢であれば」と「男性の性欲が強ければ」という2つのニュアンスを含んでいると考えられています[11]。
いずれにしても、パウロが元パリサイ派の厳格な律法学者であったことを考えると、今の高校生くらいの男性に対しても、結婚をすすめたとしても全く違和感はありません。
つまり「聖書的に言えば」、性欲を抑えられないのですがどうすればいいですか、という質問に対する答えは「結婚」になるのです。

いずれにしても、聖書の時代と現代の状況の違いは頭に入れておく必要があります。
思春期がきて、すぐに結婚をしていた時代では、性欲の問題だけでなく、生理の問題も大きく異なっていました。
思春期が遅く、子どもを多くもうけていた影響で現代の5分の1の回数であったと言われているのです[12]。
ところが、現在は思春期に達する年齢が低くなり、下がり続けています。そして、思春期に達してから、一般的に結婚するまでの期間があまりにも長いのです。
つまり、昔より生理は日常的なものに、そして性欲は抗えない長い戦いになったのです。
ポルノがやめられない人はクリスチャン失格なのか
ここまでで、ポルノがわたしたちを満たさないということを確認することができました。でも、心の中で「そうは言っても……」と思う人も多いのではないでしょうか。
現代においては結婚という方法はもはや解決策ではなく、むしろそれ自体が達成できるかも怪しいものに見えています。
だからこそ、心の中の「そうは言っても……」はより大きくなっていきます。
この記事で伝えたいことは、ただ単にポルノを見てはいけないということではありません。
しかし、それは「姦淫してはいけない」という聖書の教えを否定するわけでもありません(マタイ5:27-28)。
ただ、「……してはいけない」という言葉でわたしたちの問題が解決するならば、この記事には辿りつかず、「そうは言っても……」という思いは出てこないでしょう。
興味深いことにアメリカのある調査で、宗教による抑圧は性的衝動には歯が立たないことが明らかになっています。
それどころか、むしろ衝動を強めているのではないかという意見さえも出るほどでした[13]。
アメリカの保守的な地域に住んで、性に関して固い意見を持つ人々の方がポルノを視聴し、性的なコンテンツに対する興味が強いことが確認されたのです[14]。
教会の内外問わず、「……してはいけない」という伝え方に疑問が生まれてきています[15]。
「……してはいけない」という言葉では結局、ポルノから逃げることはできず、さらには性に対する否定的なイメージだけを与えるだけだったのです[16]。
ポルノから自由になるには
この問題の根本的な問題は次のように言えるのかもしれません。
「わたしたちはセックスに救いを見出そうとし、すべてを超越する快楽の、涸れることのない泉を、個人や社会に提供してくれるものと考え」てしまうのです[17]。
先ほど見た、ヨハネによる福音書4章に登場するサマリアの女性は、まさにこの間違った泉を手に入れようとして、もがいていたのかもしれません。
この女性にキリストは「……してはいけない」とは言いませんでした。そのかわりに次のように言います。
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。ヨハネ4:13ー14(口語訳)
枯れることのない泉は性的快楽ではなく、キリストが与える永遠の命に至る水なのだと、ここでキリストは断言しました。

ポルノ依存の根底には「さびしさ」や「満たされない気持ち」が隠れていると言われていて、何よりも重要なのが「やめる」だけでなく、「他のもので満たす」ことであるとされています[18]。
そして、その満たすものを与えられるのはわたしだけだ、とキリストは言われているのです。
「永遠の命に至る水」と同じような表現がされているものが、聖書の中に登場している聖句があります。
また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。2テモテ3:15(口語訳)
わたしたちの心を本当に満たすのは、聖書を通してキリストと交流すること、交わることなのです。
興味深いことに聖書は、わたしたちと神との関係を結婚にたとえて表現しています。その中には性的な場面を連想する言葉も使われているのです。
そもそも、セックスとは夫婦間の「深いコミュニケーション」であって、罪が入る前は何も恥じることではなかったことを考えると不思議なことではありません。
9:23知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。9:24誇る者はこれを誇とせよ。……わたしを……知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。エレミヤ9:23,24(口語訳)
聖書はセックスのことを「知る」と表現していますが、エレミヤ書9章24節に出てくる「知る」も原語のヘブライ語を見てみると、別の場所でセックスを示す言葉が使われているのです。
また、ここに出てくる「誇り」は原語を見てみると、「ハレルヤと叫ぶ」という意味があります[19]。
本来は、神に向けられる思いが違うところに向いていることを、ここで神は警告されています。
神との間にゆるされる「深い絆」は、愛する異性とのみに限定されて、人と人との間でも育むようにと、神は計画されました(創世記2:18,24)。
だからこそ、わたしたちはこの満たされない思いを神に持っていく必要があるのです。
これは、この依存症から離脱させるための自助グループの原型である、アルコホーリクス・アノニマスによっても言われています。
祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた[20]。
アルコホーリクス・アノニマスの提唱する依存脱却のための12のステップは、日本においても広く採用されています。
その11番目を見ると、言葉を濁してはいるものの、聖書を通して神と交わることが依存脱却のためのステップの一つであることが示唆されているのです。

19世紀に活躍したエレン・ホワイトも、次のように述べています。
青年の皆さん。刺激的な読書の影響について自分の経験を考えてみてください。
みなさんは、そうした読み物を読んだ後で、聖書を開いて、生命のみ言葉を興味を持って読むことができますか。神の本は面白くないものだと思いはしませんか。……
熱心に何度も聖書を研究すればするほど、それはますます美しいものに思われ、軽い読み物に対する興味がだんだん減ってきます[21]。
ここで彼女が警告している「読書」には、特にポルノが含まれていました[22]。
悪習慣を攻撃するのではなく、より良いものを提示することによって予防することを、エレン・ホワイトは繰り返し伝えていきます[23]。
わたしたちはマインドセットを変える必要があるのです。「……してはいけない」では、ポルノから逃れることはできません。恋愛に対する熱情も、空虚な感情も埋められないのです。
わたしたちは聖書を通してキリストと時間を過ごす必要があります。枯れることのない水を飲む必要があるのです。
その交流を今日から始めましょう。たとえ、ポルノを見てしまった後だとしても、キリストと交わりましょう。どんな状態になっていたとしても、それ以外に解決はないからです。

参考文献
[1] 松本俊彦、岩室紳也、古川潤哉編『こころの科学』「中高生からのライフ&セックスサバイバルガイド」日本評論社、2016年、No.1360-1376
[2] ロバート・T・マイケル、ジョン・H・ガニョン、エドワード・O・ローマン、ジーナ・コラータ(近藤隆文 訳)『セックス・イン・アメリカ』日本放送出版協会、1996年、194頁。
[3] リチャード・スティーヴンズ(藤井留美訳)『悪癖の科学 その隠れた効用をめぐる実験』紀伊國屋書店、2016年、34頁。
[4] ゆうきゆう『マンガで分かる心療内科 依存症編(ネット・スマホ・ゲーム・ギャンブル・ポルノ)』少年画報社、2016、67頁。
[5] 坂爪真吾『男子の貞操』筑摩書房、2014年、26頁。
[6] 坂爪真吾『男子の貞操』筑摩書房、2014年、28頁。
[7] 町田健一、富永国比古『愛するってどういうこと? 新しい性教育ガイド』福音社、2005年、41頁。
[8] 坂爪真吾『男子の貞操』筑摩書房、2014年、149頁。
[9] アーチボルド・D・ハート「クリスチャン男性の性欲との闘い」『牧羊 2003年秋季号』セブンスデー・アドベンチスト教団83,84頁。
[10] ダニエル=ロプス『イエス時代の日常生活Ⅰ』山本書店、198頁
[11] Schreiner, T. R. (2018). 1 Corinthians: An Introduction and Commentary. (E. J. Schnabel, Ed.) (Vol. 7, pp. 159–160). London: Inter-Varsity Press.
[12] https://toyokeizai.net/articles/-/427086 2022年10月27日閲覧
[13] アダム・オルター『僕らはそれに抵抗できない』ダイヤモンド社,2019年,Kindle版No.4567/5581
[14] アダム・オルター『僕らはそれに抵抗できない』ダイヤモンド社,2019年,Kindle版No.4581/5581
[15] 百瀬文晃、井上英治『女性と男性―キリスト教の性・教育・結婚の理解―』中央出版社、1993年、228頁。
日本性教育協会『「若者の性」白書 ~第8回 青少年の性行動全国調査報告~』小学館、2019年
[16] 日本性教育協会『「若者の性」白書 ~第8回 青少年の性行動全国調査報告~』小学館、2019年
[17] ロバート・T・マイケル、ジョン・H・ガニョン、エドワード・O・ローマン、ジーナ・コラータ(近藤隆文 訳)『セックス・イン・アメリカ』日本放送出版協会、1996年、15-16頁。
[18] ゆうきゆう『マンガで分かる心療内科 依存症編(ネット・スマホ・ゲーム・ギャンブル・ポルノ)』少年画報社、2016、112―114頁。
[19] Koehler, L., Baumgartner, W., Richardson, M. E. J., & Stamm, J. J. (1994–2000). The Hebrew and Aramaic lexicon of the Old Testament (electronic ed., p. 249). Leiden: E.J. Brill.
[20] AA(アルコホーリクス・アノニマス)HP https://aajapan.org 2022年10月27日
[21] エレンホワイト『青年への使命』88章 読書の選択
[22] エレンホワイト 『今日の光 マラナタ2』福音社、2017年、5月15日
[23] Steed, E. H. J. (2013). Temperance. In D. Fortin, J. Moon, M. W. Campbell, & G. R. Knight (Eds.), The Ellen G. White Encyclopedia(2nd Edition, p. 1210). Hagerstown, MD: Review and Herald Publishing Association.