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アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。エステル3:7(口語訳)
くじを投げる
迫害の計画を決めるときに、彼らはくじを投げて決めていきます。
くじ引きが行われた記録は聖書の中で何か所か登場しますが、現代において、くじで神の意志を確かめ、物事を決めることについては注意が必要です。
また、聖書の時代においても、人間の手が介入する手段において、物事を決めていくことは日常的には行われていませんでした。
聖書全体を見ても、一から物事を決めるときに、人間の手が介入する曖昧な手段を用いて、物事を決めたケースはほとんどないのです。
主はでたらめなやり方で働かれることはない。最も熱心な祈りをもって、主を求めなさい。彼は思いに印象を与え、語る言葉を与え、話し方を導いてくださる。……私はくじ引きに信頼しない。我々は聖書の中に、教会のすべての義務に関し、「主はこう言われる」と明確に書かれた言葉を持っている。……多くの祈りをもってあなたの聖書を読みなさい。
エレン・ホワイト、Letter 37,1900年
曖昧なしるし
わたしたちは、神のみ心を求めるときに曖昧なしるしに意味を持たせようとするときがあります。
しかし、神のみ心を求めるとは、熱心な祈りと聖書の言葉にもとづくものなのです。熱心に祈り、聖書を学んでいくときに、「これがみ心ではないかと考えられます」という確信が生まれてくるのです。
くじを投げていなくても、わたしたちはくじを投げるのと同じように、不安定で不確定なものを根拠にしていることがあります。もしかすると、わたしたちは安易に「これがみ心です」と言ってしまっているのかもしれません。
感じとか気分は人が主に導かれている確実な証拠ではない。サタンは嫌疑をかけられていなければ、気分や感じを与える。これらは安全な道案内ではない。すべての人は信仰の証拠を徹底的に知るべきである。
エレン・ホワイト、Testimonies, vol.1、413ページ