人への優しさを失った時代
数年前でしたが、我が家で取っている新聞に、明治の初めに日本に来た外国人たちの日本印象記とでもいったものが連載されていました。彼らの目に映った日本人は、礼儀正しく、思いやりや細やかな人情を持った世界でも稀有な人たちでした。
その中である人は、家で働く雇い人の子どもたちが、行儀良くままごと遊びをしたり、祭りで物乞いに小遣いの中から施す姿を見て、「雇い人の子まで、まるで我が国の淑女のようなマナーを持っている」と驚いていました。
そうした美徳を何と早く、私たちは忘れ去りつつあるのでしょう。現代の日本には、自分の感情だけを大切にして、それ以外のすべてに関心を持たない人が増えてきたように思います。
オウム裁判の判決が出ました。なぜ、学歴も教養もある大勢の人たちが教祖の言うままに、大量殺人へと走ったのでしょう。「『ポアとは救済することだ』と教えられた」と弟子たちは言っています。しかし彼らの言う救済とは、ただ自分勝手な思い込みに過ぎず、満員電車の中でサリンをまくなどのことだったのです。
西宮で起きた小学生殺傷事件をはじめ、多発する小学生連れ去り事件も、同じように自己中心的な人間が起こしたものです。彼らは人の思いに目を向けることなく、ただ自分の思いだけを、それも刹那的な自分の欲望を優先させました。だから彼らは、罪を犯したことによってその欲望が満たされたので、平然として反省の色を見せなかったのではないでしょうか。
反省とは、他者の思いに気がつき、自分の与えた痛みを省みるところから始まります。しかしキリスト教会では、反省という代わりに悔い改めという言葉を用います。それは悔いるだけでなく、心を入れかえることまで含まれるからです。
悔い改める力
「キリスト教は悔い改めを求める宗教」とある人が言っていました。確かにペトロも人々に「悔い改めなさい」(使徒言行録2章38節)と語っています。
でもキリスト教で言う悔い改めは、人から強制されるものではなく、自然に心の中に生まれてくるものです。
かつてある方が次のように話してくれました。「決して他人とのトラブルを起こさない自分は、善良な人間だと思っていました。でもクリスチャンになってから、自分の中には親切な心すら持っていないことに気がつきました」
聖書を通してイエスを知っていく時、私たちは次第に人の心の痛みや、今まで気がつかなかった自分の欠点がわかってきます。さらに、自分の行為や言葉が、どれほど愛の神のみ心を悲しませたかにも気がついてきます。
旧約聖書には、イスラエルの王、ダビデの罪について書かれたところがあります。彼は家臣の美しい妻に心奪われ、彼女を自分の後宮に入れるため、その夫を危険な戦場に送り出して戦死させるよう仕向けました。現代の私たちから見ればあきれた暴挙ですが、当時の権力者たちが過激な手段で、気に入った女性を自分のものにするのはよくあったようです。
しかし、ダビデの行動は神の怒りを買い、預言者を通して叱責が与えられました。自分の犯した罪に気がついたダビデは、神の前に悔いくずおれます。詩編には、その時彼が歌った詩があります。
「あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編5、9、12節)
ダビデは、王なら誰でもしていることだとは言いませんでした。ただ、王座を降りて神の前に心から悔い改めたのでした。
新しい心
私たちの心が神に向かう時、自らの心の中にある醜い部分が見えてくるようになります。そればかりでなく、そうした自分から、さらにより良い自分になりたいと願うようになります。それは、私たちの心の奥深いところに呼びかける神のみ声の働きかけなのだと思います。その声に耳を傾けダビデのように祈るとき、新しい自分が誕生するのです。
Tさんは高校時代からぐれ始め、家を出て勝手きままな生活を続けていました。あるとき、仲間同士のけんかで、心にも体にも深い傷を負ってしまいました。初めて外出できるようになった日、なぜかクリスチャンである母親が通っている教会に足が向いていました。その日の牧師の説教は、イエスが十字架上で語られた言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)を中心に語られました。
この言葉は、彼の心に深くしみこんでいきました。やがて彼は、小さな町工場で汗水流して働くことを選び、熱心に聖書の学びをするようになりました。初め、彼の両親は息子の改心に懐疑的でした。でも、洗礼を受けた日、彼は両親と抱き合って喜びの涙を流したのです。
今、Tさんは熱心なクリスチャンであり、2人の子の優しいお父さんです。
「主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)
イエスは、私たちの罪の身代りとして、十字架にかかってくださいました。それは、私たちの罪を赦すだけでなく、新しい心を与えてくださるためでもあったのです。今日多くの人たちが、イエスの声に耳を傾けることを通して、その心が変えられていっています。Tさんと同じように――
聖書の言葉
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
わたしたちも互いに愛し合うべきです。ヨハネの手紙1・4章11節
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