第8課 特別な出会いの場所

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聖所

紀元前15世紀頃、エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民は、シナイ山頂でモーセを通し、十戒を与えられました。それと同時に、「聖所」を造るようにとの命令も受けたのです。

聖所は奥行15メートル、幅5メートル弱の大きさで、荒野を旅する彼らが持ち運べるよう天幕で造られていたため、幕屋とも呼ばれていました。後に民がカナンの地(現在のパレスチナ)に定住して、聖所が石造りになってからは、神殿とか宮というようになりました。

聖所は2つに仕切られています。手前の部屋は聖所と呼ばれ、そこには燭台や香を焚く壇、パンを供えた机がありました。奥の部屋は至聖所と呼ばれ、そこには十戒を納めたみごとな箱があり、年に1度、大祭司(祭司の長)だけ入ることが許されました。

聖所は、祭りや供物を通して神を鎮めるところではなく、神が人と会うための場所でした。神は「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける」(出エジプト記29章42節下句)と言っておられます。

罪の赦されるところ

しかし、心に罪を持ったままの人間が、聖なる神にお会いすることは不可能でした。私たちの目が輝く太陽を見続けていられないように、人は聖なる神の前に、このままでは立てないのです。神の御前に出るためには、罪が取り除かれること、つまり罪の赦しが必要でした。

聖所の前にある祭壇では罪の赦しを願う人が、自分の小羊などを献げました(貧しい人は鳩や穀物を献げることもできました)。小羊の死は、赦しを願った人に、小羊が自分の罪の「身代り」になったこと、そしてそのことによって罪が赦された事実を、深く印象付けたことでしょう。小羊の血によって、自分は今、神の前に出られるようになったのだと。

この小羊は、十字架の上で私たちの罪を背負って死なれるイエス・キリストを表していました。すなわちイエスが亡くなるその遥か昔から、神は、私たちの罪を取り除くために、「身代り」として死なれる方がおられることを、聖所の儀式を通して教えてこられたのでした。

「世の罪を取り除く神の小羊」。イエスはそう聖書で呼ばれています。

とりなしを受けるところ

聖所には祭司と呼ばれる人が働いていました。祭司は人々に神の教えを伝える働きもしていましたが、1番大切な役目は、人を神に「とりなす」働きでした。「とりなし」とは、何かによって隔てられてしまった両者の間に立って、和解させることです。祭司は、神と罪のため隔てられている人との間に立って、仲介者としての働きをしました。身代りの羊が献げられる時、祭司はその儀式を司って小羊の血を祭壇の前に注ぎ、その人のために「とりなし」をしたのです。

そして、この祭司の働きも、イエス・キリストを表していました。イエスは今、天の父なる神のそばで、私たちのために「とりなし」の働きをしておられます。私たちの祈りは、イエスの「とりなし」によって、神の許に届くのです。だから私たちは祈りの最後に「主イエスの御名を通してお祈りします」と言うのです。

時の聖所

イスラエルにあった聖所は、紀元70年ローマ軍によって滅ぼされました。しかし、私たちクリスチャンにとって、今なお生き続けている「聖所」があります。それは「時の聖所」と呼ばれている十戒の第4条――「安息日」のことです。地上の聖所が神と交わる場所であるなら、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20章8節)と言われている安息日は、神とお会いする時なのです。

そのため教会では、礼拝をしています。私たち日本人は何か願い事がある時、お参りをする習慣があります。病気の回復、旅の安全、入試、商売繁盛、家内安全など様々なことを願います。けれど、礼拝に来る人たちは、特に何かの願い事があるから来るわけではありません。

私は、初めて同時通訳を通して牧師の説教を聞いたアメリカ人の青年が言った言葉を忘れることができません。「今日やっと牧師さんの話がわかりました。ありがとう」。彼は説教が理解できなくても、礼拝に来ていたのです。

そうです。礼拝とは、何かの願い事がなくても、年老いて耳が不自由になっても、感謝の思いを持って神を拝し、交わるために集うことなのです。

熱心なクリスチャンであるKさんは、安息日に教会へ来ると、まず深々と頭を垂れ祈られます。5人家族のKさんのお家では、事情があって一家の生活はみなKさん1人の肩にかかっていました。朝早くから夜遅くまで畑の世話から家事そして仕事と、Kさんは身を粉にして働いていました。長い祈りの訳を聞いた時、こう答えてくれました。

「週の半ばになると、疲れてもう明日は起きられないと思うことがよくあるのです。ですから週末になるとうれしくて、うれしくて。教会に来ると第1に、『ああ、神様、支えてくださってありがとうございました』と言わずにおられないのです」

安息日の礼拝―それは感謝と喜びを献げ物にして、神とお会いするため、「時の聖所」にぬかずく時です。

神が安息日として定めてくださったのは、週の第7日目、現在の金曜日の夕方から土曜日の夕方にあたります。

聖書の言葉
わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。ローマの信徒への手紙5章11節

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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