第14課 教会

目次

教会とは

教会は、イエス・キリストを救い主として信じ告白する者の共同体です。教会をあらわす新約聖書の言葉(ギリシャ語)は、「エクレシア」です。これは「召し出された者」という意味を持っています。旧約聖書では、神の民の群れである「会衆」を意味しました。教会は神によって召し出された者たちの集まりであり、神によって召し集められて共に生きる共同体です。本質的な意味において、教会とは、建物や組織(ハード)ではなく、キリストと出会った人たちの共同体(ソフト)なのです。

神の真理の証人

教会は、この世の中にあって神の救いの出来事の証人、すなわち神の真理の証人なのです。いつの時代にあっても「神の民」が神の真理の証人として召し出されていました。キリスト教会のルーツは、旧約聖書に求めることができます。旧約時代にあっては、イスラエルの民がその役割を与えられていました。

イスラエルの父アブラハムに向かって神は「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12章2-3節)と約束されました。

モーセに連れられてエジプトを出たイスラエルの民に向かって、神は「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19章5-6節)と仰せられました。

パレスチナという、ヨーロッパ・アジア・アフリカの主要大陸が結ばれている主要な世界的文明の中心地に、神はイスラエル(ユダヤ人)を神の民として召しだされました。世界は、イスラエルを通して真の神や救いの計画について学ぶはずでした。聖書は「では、ユダヤ人の優れた点は何か。・・・それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」(ローマ3章1-2節)と述べています。

イスラエルは神の民として、神の祝福の源となるはずでした。諸国民は、イスラエルから祝福を得るはずでした。しかし、イスラエルの民は、神の証人としての責務をまっとうできませんでした。その歴史において、何度も神以外のもの(異教の偶像)を拝み、神に反逆しました。その結果、神から与えられた尊い使命を果たすことができず、挙句の果てには、神の御子キリストさえも拒否し十字架にかけて殺してしまったのです。

キリストの十字架と復活は、イスラエルの民に与えられた使命の終結を意味しました。その代わりに、神は、キリスト教会を真のイスラエル、真の神の民として召しだされました。真の教会は、キリストを信仰によって受け入れるすべての人々によって受け継がれていきました。

使徒パウロは教会を「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20章28節)と表現しました。パウロはコリントの教会にこう語りかけています。

「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」(1コリント1章2節)

私たちが信仰へと導かれるとき、私たちは「神の真理の証人」という神の民の歴史へとつながっていきます。

聖書と歴史を通してご自分を現しておられる神が、私たちを、キリストを主とする信仰者の共同体へと召し出してくださったからなのです。それは、私たちの功績や能力によるのではなく、ただ神のお恵みによります。

使徒パウロはこう書いています。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(1コリント1章26-31節)。

国は異なり時代は違っていても、クリスチャンは、すべての差異を越えてキリストの教会である信仰者の共同体、同じ信仰者の生活へと呼び出されているのです。

教会の存在目的

1.神を礼拝するため

教会は神を礼拝する共同体であり、礼拝が教会生活の中心となります。神を礼拝するということは、神に自分の全存在を捧げ、その自分を神に受け入れていただくことです。クリスチャンの生活において、礼拝は最も重要な位置を占めます。クリスチャンは、個人の生活においても、またクリスチャンが集まるすべてのところにおいても、神を礼拝し、神のみ言葉を聞き、神を讃美し、神に祈るのです。

聖書においてパウロはこう勧めています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12章1-2節)

私たちは、礼拝を通して、献身するということ、すなわち「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」を学びます。究極的な意味において神を礼拝するということは、自分の全生活、すなわち全存在をもって神の栄光をあらわすことです。宗教改革者カルヴァンは、教理問答において「人間の存在目的は何ですか、神の栄光を現すことです」と述べています。クリスチャンにとって、神を礼拝すること、すなわち神に栄光を帰し神をたたえることこそが究極的な喜びになります。

クリスチャンにとって、全存在は神のために捧げられるべきものであり、生きることそのものは、神のためにあります。自分自身の全存在をもって「神の栄光をあらわす」ことが、クリスチャンの喜びとなるのです。

クリスチャンにとって、安息日が特別な日であると同時に、安息日の礼拝は重要な意味を持っています。クリスチャンは、どんな犠牲を払っても、一定の時(安息日)に一定の場所(教会)に集います。それは礼拝が、一週間の社会的義務から解放されて、信仰の同胞と共に神の恵みをたたえる、救いの喜びにあふれる時だからです。詩編記者が「人々がわたしにむかって『われらは主の家に行こう』と言ったとき、わたしは喜んだ」(詩編122編1節)と言っているように、主の家である神の教会に出席することは喜びをもたらしてくれます。

礼拝は単なる儀式ではありません。礼拝の時間は、神と人間との間の「出会いの時」であり、礼拝に参加する者にとって新しいことが起こる時です。礼拝では、聖書が朗読され、神への祈りと讃美がささげられます。またその日の説教の主題となる聖書のみ言葉が朗読されます。神のみ言葉に耳を傾け祈りと讃美によって、自分の心と生活を吟味し悔い改めの祈りをなし、神の赦しと神の導きを祈るのです。そのようにして、会衆の心は説教に備えられるのです。

プロテスタント教会では、礼拝の中で聖書のみ言葉が語られることを重んじてきました。礼拝の中心には、神のみ言葉があります。礼拝で説教を聴くということは、私たちが、「この時、この場所」において、「神のみ言葉」により、「生ける神」に出会うことです。会衆は聖霊の導きによって説教者の言葉を神のみ言葉として受け入れます。

教会は、終末における神の国到来を望みつつ、この世を旅する神の民の集まりです。クリスチャンは、時と場所を越えて天国への巡礼をする民なのです。週ごとの安息日はその「巡礼の旅の一里塚」なのです。

2.福音宣教のため

神学者エミール・ブルンナーは「火が燃えることによって存在するように、教会は宣教することによって存在する」と述べています。教会というものは、それ自体が目的ではなく、福音宣教という神の働きを遂行する機関なのです。

教会は、教会内でのみ言葉の宣教と共に、教会外に対して宣教する責任を持っています。み言葉の宣教とは、私たちが良き知らせである福音を分かち合うことです。キリストは、この世から去られるとき、弟子たちに向かって「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と仰せられました。

このキリストのご命令に従って出て行った弟子たちと、キリストご自身が共に働かれました。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16章19-20節)

キリストに従う者たちは、キリストの言葉に従って、福音宣教に召されています。そしてその中心的な役割を担うために教会が存在しています。宣教をお命じになったキリストは、いつも共にいて助けてくださることを弟子たちにはっきりと保障されました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章18-19節)

使徒パウロはこの福音宣教のために、命を賭けました。パウロは、エルサレムへの途上で教会の長老たちを呼び寄せてこう話しました。

「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、『霊』に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録20章18-24節)

彼の言葉通り、彼はエルサレムで逮捕され、ローマに連れて行かれ、そこで殉教の死を遂げました。死を前にして彼はこう言い残しています。

「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(2テモテ4章6-8節)

3.信徒の交わりのため

教会での交わりの中で、クリスチャンの信仰は成長します。教会は、キリストを信じる者が、共に神のみ言葉を学び、共に祈り、共に讃美し、共に重荷を負う共同体です。パウロはこう書いています。

「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ3章18-21節)

福音に生きる信仰者の交わりは、キリストにあって喜びに満ちたものとなります。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1ヨハネ1章3-4節)

教会は愛に生きる共同体です。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(1ヨハネ4章7節)

4.世に遣わされるため神と人とに仕えるため

クリスチャンは、この世から召し出されて教会へと集められます。また同時に、クリスチャンは教会から社会の中へと、キリストの愛の実践者として派遣されていきます。

クリスチャンは、この世への奉仕、すなわち人々への神の愛の働きに携わるように招かれています。福音宣教とは、「福音(良き知らせ)の分かち合い」であり、私たちは神の福音を受け入れる時、おのずから隣人への愛の奉仕へと召し出されていくのです。キリストは、キリストに従う者たちを「地の塩・世の光」であると言われました。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章13-16節)

マザーテレサは、インドの貧しさと飢えのために苦しんでいる人々、一片のパンやひとかけらの愛も受けることなく死んでいく人々、そのような人々のために、身を挺してあふれる愛を注ぎ込みました。彼女のモットーは、「何か素晴らしいことを神様のために(Something Beautiful for God)」でした。彼女はこう言っています。

「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が与えなかったからです。神の愛の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などの痛ましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気が付かなかったからなのです。」

キリストは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)と仰せられました。現代においてもキリストは色々な姿と形をとって、私たちの所においでになります。私たちは、そのキリストにどう係わるのかが問われているのです。

バプテスマ:教会員になるということ

キリストは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28章19-20節)と命じられました。

バプテスマは、悔い改めてキリストの弟子になるということの公式表明です。バプテスマにあたって自分の信仰を告白することによって、公に自分はキリストに従う者であることを宣言します。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10章9-10節)

バプテスマを受けることは、キリストに従いクリスチャンとして信仰の道を歩み始めるということです。またバプテスマを受けるもう一つの意味は、信仰を告白することによってクリスチャン共同体の交わりに加わり、教会員となることでもあります。

作家の加賀乙彦氏は「洗礼を受けて知った喜び」について、ご自分の経験を次のように書いています。

「長い間、私は聖書を読んできて、キリスト教に引きつけられてきた。しかし自分が洗礼を受けることはためらっていた。…しかし、ついにその決心をしてしまった。

私を深く考えこませたのは、ある日講演会でご一緒した『神の痛みの神学』の北森嘉蔵氏の一言であった。『日本人は山ばっかり眺めていて、ちっとも登り始めんのです。しかし信仰は登り始めること、つまり行為なんです』。

ちょうど、自分の聖書の読み方に限界を感じていた私は、はっとしたのであった。聖書を繰り返して読みながら、あるところまでで私の理解が止ってしまう感じ、文章に隠された意味が見いだせずに読みすごしてしまう感じに私は戸惑っていた。私は聖書を優れた文学として親しんでいたのだが、その程度の親しみ方では、結局『山ばかり眺めている』にすぎないと思い知らされるのだった。

私にもう一つ響いたのは、ある時遠藤周作氏から言われた『君はキリスト教を無免許運転しているね』という言葉であった。むろん雑談の間の冗談ではあったのだが、それは無免許運転であるために、どこか遠慮がちで煮え切らず、おそるおそるしか進めない私の気持ちをうまく言い当てていた。・・・・

(洗礼を受けた)その瞬間から何かが変ったのである。今まで聖書という文学の登場人物の一人であったイエスが、福音の喜びをもたらしてくれる存在として身近に追ってきた。この気持ちはうまく言えないが、イエスは十全な愛に充ち、つきせぬ歓喜を私に与えてくれたのだ。十字架が愛の表現であり復活がその愛の証しであることが、ひしひしと伝わってきたのだ。聖書の読み方がすっかり変ってしまった。・・・読んでいく渇く人が水を与えられた様な喜びがおこってきたのだ。福音書がこんなに楽しい文章だとは、今までついぞ知らなかった。おそらく、わずかな一歩なのである。イエスが、『われに従え』とか『なんぢの信仰、なんぢを救えり』と簡単に言うとき、このわずかな一歩を踏み出すことによって、大きな喜びが与えられることを教えていたのだ。わずかな一歩は無限に大きな一歩でもあった。……

よく誤解されるように、洗礼を受けるとは深い信仰に達して悟りすますことではない。ただ、山野麓にたどりつき、登り始めたに過ぎない。道は曲がりくねって、時に困難であろう。しかし、山を眺めているのみで、いつまでも頂上に到達できない以前の私と違って、たとえわずかずつでも私は上へ上へと登ることができるのだ。それが洗礼によって得られる喜びの意味である。」

教会員になるためにはバプテスマ(洗礼)を受けます。今日の多くのキリスト教会では、浸礼(水に浸すこと)ではなく滴礼(水滴を降りかけること)が行われています。しかし、バプテスマ(洗礼)の動詞バプタイズはギリシャ語のバプティゾーという言葉から派生しており、人を水の中に沈めるまたは浸すという意味です。

キリストは洗礼者ヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けられました。新約聖書は「イエスは、洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた」(マタイ3章16節)と記録しています。また、使徒フィリポについて、聖書は「フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」(使徒言行録8章38節)と記しています。

全身が水に浸されて全く覆われるとき、私たちは、象徴的にキリストとともに十字架で死にます。告白された罪が洗い流され、古い自分はキリストと主に葬り去られます。そして水から上がる時、キリストの新しい命を受けて復活するのです。これは受洗者が、キリストと共に罪に死ぬこと、またキリストの救いによって新しい存在として生まれ変わることを示しています。私たちは、バプテスマ(浸礼)によりキリストの死と復活にあずかるのです。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章3-4節)。

信仰とは個人の問題であり心の中で信じるものなので、バプテスマは救いには関係ないと主張する人がいますが、それは聖書的な教えではありません。バプテスマはたましいの救いの体験を公式に表明する大切な行為です。

洗足式・聖餐式

バプテスマ式と並んで、聖餐式は、キリスト教会、特にプロテスタント教会にとって重要な意味を持ってきました。バプテスマ式は新しく教会に加わる人への儀式ですが、聖餐式は主として教会員への儀式です。

バプテスマは、教会生活を続けている間は、一回限りのもので繰り返し行われるものではありません。それに対し、聖餐式は、繰り返し参加することができます。私たちはバプテスマによって救いにあずかったのですが、それで、完全無欠になっているのではありません。日々の生活の中で、罪の誘惑に陥り、罪を犯してしまいます。しかし、キリストの十字架の贖いによって罪は赦されます。全身を沈めるバプテスマにおいて、罪人として死に、キリストの命によって新しく生きることが象徴されていますが、聖餐式によって私たちは繰り返しバプテスマが表している意味を体験することができます。

聖餐式の前には、まず洗足式に参加することになります。

1.洗足式

キリストは、十字架にかかられる前、弟子たちに洗足式の手本を示されました。それは、弟子たちとの最後の晩餐の時でした。

「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13章3-5節)

これは、十字架の死に至るまで従順であられたキリストの模範であり、清めの象徴でした。キリストは、模範を示されたばかりではなく、キリストの弟子たちも、それを実行するように教えられました。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(ヨハネ13章14-17節)

キリストは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハネ13章10節)と言われました。バプテスマを受けることによって、私たちはキリストの血によって清められました。しかし、クリスチャンとして歩みながらも、つい私たちは誘惑に負け罪を犯してしまいます。私たちは、いつもキリストの恵みによって清めていただかなければならないのです。洗足式は私たちが常にキリストの清めを必要としていることを思い起こさせてくれます。

また私たちは、お互いの足を洗い合うことによって、主にある兄弟姉妹としてお互いに仕え合い、愛し愛される経験にあずかります。これにより、「愛をもって互いにつかえなさい」(ガラテヤ5章13節)とのみ言葉が、教会の兄弟姉妹の交わりの中に成就されるのです。

2.聖餐式

洗足式は、自己吟味、罪の告白、罪の赦し、和解の機会を提供しています。それに対し、聖餐式は、神の赦しと救いに対する感謝と喜びの時です。洗足式に参加することによって、私たちの心はふたたび洗われ、祈りと感謝のうちに主の晩餐の恵みを受ける準備をするのです。ふさわしくないままで聖餐式に臨むことのないように、と聖書は警告しています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。」(1コリント11章17-18節)

聖餐式では、十字架上で裂かれたキリストの体と流された血を象徴する「パンと杯」を受けます。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11章23-26節)

パンを食べ、杯を飲むというのは、キリストのいのちを受け取ることです。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6章53-56節)

キリストにある兄弟姉妹と共にパンを裂き杯を飲むことにより、私たちは、キリストの恵みを分かち合います。聖餐式において、私たちは、神に対しまた人に対して最も深い交わりに招き入れられるのです。

「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(1コリント10章16-17節)

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11章26節)と言われているように、キリストの十字架と共に制定された聖餐式は、キリストの再臨に至る時まで、私たちにキリストの尊い贖罪の犠牲を告げ知らせてくれるのです。私たちは再臨の主を待望しつつ「主が来られるときまで」この「聖餐式」の恵みに与るのです。

教会制度:キリストの体としての教会

「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4章11-16節)

キリストの体である教会が形成されるとき、そこに教会組織が生まれ、さらに教会の規律が生まれてきます。そして、教会には、聖書の指針に従いながら、その歴史の中で生まれ形作られた伝統や慣例があります。それが教会という制度となり、教会生活の規律を形作っています。そこには私たちの信仰の先輩者たちの知恵が凝集されています。

それらには、教会の行政や教会役員の選出に係わるもの、礼拝、祈祷会などの毎週教会で行われる行事、バプテスマ、洗足式・聖餐式などの儀式、結婚式や葬式など信者の社会生活にかかわるものがあります。教会制度とその規律とは、教会の法則であり、信仰が具体的な形となったものです。それらを常に聖書を照らして吟味しながら、自己革新を続けていくのが真の教会の姿なのです。

教会に対するキリストの約束

教会とは、イエスキリストを救い主として信じ告白する者の共同体であり、「全世界にキリストの福音を宣べ伝えよ」とのキリストのご命令を遂行する責務を負わされた機関です。再臨の日まで、キリストは、いつも教会と共にいてくださると約束しておられます。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章18-20節)

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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